羽根が生えたら
瀬夏ジュン
羽根が生えたら
「メッツェン!」
メッツェン、メッツェン……。
器械台の上をナメまわすあたしの眼は、きっと血走っている。
……こ、これだ。つかみ取る。
差し出された手のひらに載せる。
「ちがう! これはメイヨーだ! バカ!」
やっちゃった。
「手術には流れってもんがあるんだ! 途切れちまうだろ!」
「すみません!」
思わず顔を伏せる。
そのあと、視線を上げて見る先は。
こわい術者の先生なんかじゃない。
その前に立つ、助手の、あのひと。
「この器械出しナースは、まだ駆け出しです。問題ないですよ、先生。既にこんなに進んでるんですから。さすがですよ」
あのひとの目が笑う。
マスクの上からでも、あたしにはわかる。頬の盛り上がりが。くちびるの動きが。
強い無影灯の光が
その青しか、あたしは見えない。
夢のなかのよう。
「器械の名前って、おもしろいんだよ。意外な由来がある」
はじめて食事に誘ってくれた夜、あのひとは、いった。
「メッツェンっていうハサミもさ、メッチェンっていう言葉から来てるんだよ」
「メッチェンって、なんですか?」
「ドイツ語で、娘さん。似てるだろう? メッツェンの細身なところ」
あの道具は、柄が長くて、尖った刃には微妙に丸みがあって。
なおかつ、優秀な切れ味。
いわれてみれば、スマートな外人女性っぽい。
「あとね、
「はい」
「あれはね、ほんとうはザッセン博士の名前なんだ。アドルフ・ザッセン」
「へえ、日本語じゃなかったんですね」
「それからね」
あのひとはなぜか、もうすこしで爆笑というくらいに、端正な顔を崩していた。
「ノーボンってやつもね、みんな
「ストップです」
あたしは手のひらで、さえぎった。
「先生、それはウソでしょ」
「バレた?」
「顔が白状してました。どこまでがホントですか」
「ぜんぶ、ウソ」
ぜんぶウソでも、あたしはよかった。
奥さんよりもカワイイといったのがウソでも、全然かまわなかった。
「あ、まずい……」
術者の先生の様子がおかしい。
「……きゅ、吸引!」
あたしは急いで吸引カテーテルを渡す。
器械台から乗り出して、術野の奥をのぞき込むと。
血の池。
どこかが切れたんだ。
モスキートペアン! コッヘル! 開創器!
求めに応じて、次々に出す。
けれど、出血は止まらない。らちがあかない。
術者の先生は額に汗。眼に入って、さかんにまばたきしている。
「ぼくがここ、押さえておきますから、奥を剥離して確認しましょう、先生」
あたしは、もうメッツェンを手にしている。
それを受け取ったあのひとは、術者に差し出す。
直後、術野を向いたまま、あたしのほうに腕を伸ばす。
器械台の上にのる、あのひとの手と、あたしの手。
ひそかに、指がからまる。
「先生の子どもがほしい」
そういった時のあのひとは、やっぱり冷静だった。
なにもいわずに、いつものように笑みで返した。
形のいい頬が、きれいな球形を盛り上げた。
大好きな笑顔。
それは、なんといったらいいか。
「先生って、ふしぎ」
キスのあとに、いってみる。
「悟っているような、納得しているような」
「そんなことないよ。実際は逆。世の中は、間違いだらけだと思ってるよ」
「みんな頭わるい、ってこと?」
「そうじゃなくて。常識なんて、あんまり意味がないってこと。つまりね……」
いたずらっぽく口角を上げる。
「つまり、虚無主義みたいなものかなあ」
「はあ?」
「真理なんてない、絶対の価値なんてない、っていう考え。たとえばね、イモムシはチョウになるのが正しいと思うよね」
「はい」
「でもね、そんなことはないんだ」
「ええー?」
「幼虫のままだって、いいじゃない。成虫にならなくても、いいんだ」
「よくないです。かっこわるい。イモムシはチョウになりたいですよ」
「チョウチョが気持ち悪くて受けつけない、っていうひとも、けっこういるよ。イモムシにだって、そう思うヤツがいるかもしれない。チョウになることが絶対だとは決めつけられない」
「それが虚無主義ですか? へんなの。先生とは、ぜんぜん関係ないと思うけど」
「関係あるよ。好き合ったふたりの間には、当然の結果が生じるべきと、みんな思っている。でも、それだけが正しいとは限らない」
あたしは気がついた。
「子どものこと。いってみただけです。困らせようと思っただけです」
次のキスは、激しかった。
「ありがとうございました」
オペは予定時間ぴったりに終わった。
形成外科仕込みの、あのひとの丁寧な縫合で、創は閉じられている。
術者の先生は「いやー、まいった!」などと吠えながら、でも上機嫌。
黄色くまぶしい無影灯は、もはや消えて、まぼろしのよう。
「おつかれさま。ありがとう」
あのひとは、術衣を脱ぎながら横を過ぎようとする。
あたしは、ささやく。
「虚無主義って、いいましたよね」
いとしいひとは、立ち止まる。
あたしは続ける。
「ちょっと勉強しました。あたしはたぶん、実存主義です」
「どうして?」
「自分が死ぬことを自覚しているから」
メッツェンを胸に置く、あたし。
あのひとは、ちょっとだけ驚いているはず。
マスクの裏のくちびるを、少しのあいだ、ひらいたままにしているはずだ。
「心配しないでください。先生のほうが、先に死にます」
血液を拭き取られて、美しく光る刃先。
ゆっくり、ゆっくり、閉じる。
立ちすくむ、あのひと。
虚無主義に仕返し。
「だって先生、あたしよりずっと年上なんですから。それに……」
そう。
先生は、幼虫。
大人になりたくない子ども。
でも、あたしは違う。
「心配しないでください。イモムシはチョウになります。どこかへ飛んでいきます」
しあわせを求めて、ひらひらと。
それまで見守ってください、あたしを。
快楽と懺悔と涙の夢が、いっぱいにつまったサナギを。
羽根が生えたら 瀬夏ジュン @repurcussions4life
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