13.コトノハヒトツ

 時間は、少し、さかのぼる。


 時刻は恐らく、大陸共通時間にして二十一時といったところ。

 すっかり霧も晴れ、星と月が瞬く夜空の下。オウイク王城の背後を守る堅固で巨大な岩山の、その頂上付近で、神零は『彼ら』の到着を待っていた。

 岩山の名はエアグゥインターレ。

 古代語で神々の盾を意味し、まだこの世界が――この世界の人間たちが雑多な争いに血道をあげていた乱世の頃からオウイクの守護を司ってきた、鋭く強固な護り手だ。

「……まぁ、下準備としては、こんなものだろう」

 山は、人間がくだるには鋭すぎるが、オークなど人間の何倍もの体機能を持つ存在にとっては不可能なことでもない。時に垂直の壁であっても上り下りしてしまう、非常識な連中なのだ。

 それはつまり、オークたちが、戦いの間に神零の横をすり抜けて山をくだり、シェンダール軍と必死の戦いを続けているオウイク軍を背後から襲う可能性をも示唆していた。

 ましてや神零はたったひとり、それに対してオークたちは五千もの大軍なのだから、そのままでは急流の中に身を投じるようなものだ。何百体ものオークを取りこぼし、オウイク軍に甚大な被害を与えてしまうだろう。

 そこで神零は、オウイクの王城を眼下に臨める崖、岩山の頂点付近から突き出たような状態になっているそこのきわにゴレムを四体配置し、ゴレムの手が届かないふちの部分には、オークたちにとって触れるだけでも危険な猛毒となる薬草で作ったオイルを、幅十五カイト(三メートル)に渡ってたっぷりと塗りつけた。

 十五カイトを跳躍し直接崖下を目指す猛者に備えて(何せ連中は呆れるほど丈夫だ)、崖下数メートルにも《術》で霧状にしたオイルを撒き散らしておいたから、万が一崖下に落下して無事だった連中もその毒からは逃れられまい。

 オイルはそもそも章輝の采配によってオウイクに蓄えられていた、人間にとっては珍しくもないハーブを拝借したもので、ここへあちこちからかき集めてきた様々な鉱石や薬草や薬品などを加えて、更にある種の方向性を持たせた精素の石を使ってその効果を数倍に高め、闇の一族の脅威にさらされ続ける地域に住まう人々が先を争って求めるであろう毒とした代物だ。

 人体には何の影響もないが、オークやトロルなどの闇の一族がそのオイルに触れると、毒は彼らの分厚い皮膚を食い破るようにして内部へ浸透し、ごくごく少量であっても、一時間もしないうちに、その身体を死に至らしめてしまうのだ。

 オイルにはオークの大嫌いな青火草で匂いをつけてあるから、猪突猛進を地で行く彼らにも、そこに何かよくないものがあるという警戒心を植え付けることは出来るだろう。

 ――これでオークたちは、おいそれと崖くだりには挑めなくなった。

 エアグゥインターレは決して高くはないが広大で、辺りに転がる岩のひとつひとつ、風や雨に削られて出来た岩棚も非常に大振りだ。神零が戦いの場になると踏んで準備をしたその岩棚も、オークや普通の人間が五百ばかり整列できそうな広さだった。

 それ以上入れないということは、オークたちを五百体ずつ岩棚へと誘い込み、各個に撃破していけばいいということだ。脇にこぼれ、遠回りをして王城を目指すオークを見越して、崖の下にも特別に強い念をこめた六体のゴレムを配置してある。

 無論、もちろんのこと、言葉で、口に出して言うほど容易いことでもないが、少なくとも神零は万全を期していた。

「――――じきに、来るな」

 ざわざわと精素が震え、着々と近づいてくる、闇の一族の濃厚な気配を教えてくれる。彼らはひどく楽しげで、破壊と殺戮への欲求と、そして新鮮なヒトの肉を喰らう喜びを発散していた。

 どろどろと地の底から響くような不吉な音は、彼らが敵の意気地を削ぐために鳴らす、戦太鼓の連なりだ。

 ――大平原では、もうとっくに戦いが始まっているようだった。

 大気が、大地が、精素が、神零の非常識なほど研ぎ澄まされたすべての感覚に、平原が人の血と狂気、苦痛と慟哭に染められていることを伝えてくる。広い広い大平原が、濃厚な……逃れようのない死で覆われていることが判る。

 神零の隣で、神零が下準備をする様子をおとなしく眺めていた星鹿毛馬がブルルッと鼻を鳴らした。

 光沢のあるつややかな茶色に白い星毛の散った、力強く美しい馬だ。

 神零は淡く笑み、その鼻面を撫でてやる。

「心配するな、お前の主もお前の国も、決して今日をかぎりにはしないから」

 迦楠や鬼彌のことが心配でないわけはない。

 彼らは生粋の戦士だが、その力は決して無尽蔵ではない。

 斬られれば血を流し、それがひどければ死んでしまう。

 しかし、心配のあまり己の本分を忘れるほど、彼らを信じていないわけでもなかった。

 彼らは強靭で誇り高く、力に満ちている。

 世界はきっと、神零が望むように、彼らに力を貸すだろう。

 きっと彼らは生き延びるだろう。

「ハレスエイダ、姫君の護り手よ。私は、約束は守る」

 星鹿毛馬は、まだ体調の万全でない神零を気遣って、王女章輝が遣わしたものだった。

 優美な姿をした見事な駿馬は、神零を軽々と背に乗せると、彼の他にはカモシカくらいしか無理だろうと思われる急な岩山を駆け上がり、神零にずいぶん楽をさせてくれた。

「まるで、遠い昔を思い出すかのようだ」

 まだ人間に“目覚め”が訪れていなかったほどの昔、同じ名をした同じ姿の駿馬と出会ったことをかすかに思い出す。

 あの頃の神零はどうしようもないひよこで、護りたいものの半分も護れてはいなかった。

 未熟さのゆえに、なすすべもなくたくさんのものを喪わせた。

 それらの無念、苦悩、悲嘆は、幾つものひびとなって、神零の魂の中に刻み込まれている。

 だからこそ、神零は常に戦い続ける道を選んだのだ。同じ苦しみを何度も味わうことになろうとも、後悔をしないために。

 あれから気の遠くなるような時間が経ち、気づいてみれば一万数千年が流れた。決して完成はされずとも、完成など出来ずとも、あの日よりも少しばかりはましになったはず。

「ならば私は、私の持てるすべての力でオウイクを生かそう。あの、半人半霊の女がそう願ったように」

 つぶやくように言い、神零は腰のエルサイヴァを確かめた。

 それから、甘えるように――労るように神零の額や髪や手を舐める、星鹿毛馬の首筋をそっと叩く。

「さあ……疾く帰れ、姫君の護り手よ。風のように、かの姫のもとへ駆けて帰れ。そしてその名に恥じぬ働きを見せてくれ」

 ハレスエイダがブルルッと鼻を鳴らした。神零を気遣うように。

 神零はかすかに笑って、星鹿毛馬の美しい身体をそっと押す。

「心配ない。私は焔なる闇、神々の友、エルフの光、竜を抱く者。その名にかけて、勝利してみせよう」

 ――――いのちに変えて。

 その言葉は飲み込んで、再度ハレスエイダの背を叩くと、星鹿毛馬は親愛の情を込めて神零の首筋に鼻面をすり寄せた。生き物の体温、存在としての温もりに微笑が漏れる。

 一分ほどそうしていただろうか、何かを振り切るように神零から離れたハレスエイダが高らかにいなないた。いさおしのような、戦いの始めを謳う角笛のような、鋭く凛々しいいななきだった。

「ああ。――――武運を」

 神零の、静かで低い、祝福とも別離とも取れぬ言葉とともにぱっと身を翻し、星鹿毛馬が走り去ってゆく。

 鼻も感覚も鋭い馬だ、山を下りる途中で闇の一族と鉢合わせをするということはあるまい。

 神零はそれを黙って見送り、そのつややかな茶色をした身体が、岩山の向こう側に消えるまで待ってから、小さく、かすかに溜め息をついた。両手を組み、その場にひざまずいて天を見上げる。

「いと貴き星の姫よ、いと強き星守りの旗手よ。私を愛し、守り、その恩寵を垂れる貴き御祖よ」

 自然、その口からこぼれるのは、この世界で己が生きることを赦し、また愛の何たるかを教えてくれた、貴く美しい養い親たちへの祈りだ。

 神零はきっと、彼女たちがいなかったら――彼女たちに拾われなかったら、自分自身への激しい劣等感と、永遠の餓えと渇きに苛まれながら、孤独の夜辺を歩き続けていただろう。

 神零が築いてきた長い長い時間と、その間に得られた物事のすべては、彼女たちのお陰だった。

「あなたがたの愛と誠と恩寵に感謝いたします。私にたくさんのものを赦してくださったこと、たくさんのものを与えてくださったことを。私に、世界がどれだけ、すべてのものを愛しているか知らしめてくださったことを」

 祈りは、感謝であるのと同時に詫び言でもあった。

 ――神零はもう、この時に及んで、自分自身には執着していなかった。

 自分が生きるために戦うわけではなかった。

 もしもそれを耳にしたら、あの美しい星姫と優しい星守りの王は、顔をしかめて怒ったあと、哀しげに貴い夜色の目を伏せるだろう。死ぬことにだけ価値を赦されていた、神零の深い深い根本を、溜め息とともに嘆くのだろう。

「どうか、哀しまないでください。ほんの少しだけ、馬鹿な養い子がいたことを、心の片隅に留めていてくだされば、私はもうそれだけでいい」

 どぉん、と戦太鼓が鳴った。

 ――――いつ果てるとも知れぬオークの大軍が、押し合いへしあいをしながら、神零が想像した通りに、岩棚へと向かって進軍してくるのが見えた。

 武骨で汚らしい甲冑をまとい、手には分厚い刃を持った剣や槍や斧を持っている。指揮官的役割にあるのか、馬の代わりに魔狼と呼ばれるワーグを駆っているものもいた。

 ワーグは魔狼と表現されつつも、狼の優美さや洗練された動作など欠片も存在しない、猪と鬣犬(タテガミイヌ、ハイエナのこと)と猿を掛け合わせたような不細工な獣だが、非常に脚が速く、耐久力に優れているためオークたちは好んで乗騎に使いたがる。

 ヒトの肉が大好物の凶暴な生き物でもあるため、“立つ者”にとっては危険極まりない存在だった。

 ざわざわどろどろぎゃあぎゃあぎしぎしと、耳障りな騒がしい音を立てながら、第一陣とでもいうべき最初の三百体前後が岩棚へと入る。――――神零の狩場とも知らずに。

『ひとりか。張り合いがないというより、愚かすぎて笑えるぞ』

 屈強なワーグに乗った大柄なオーク、群れの先頭にいたそいつが、岩棚の半ばに佇む神零に嘲りの言葉を向ける。

 頭の上に、王冠か兜よろしく、干からびた人間の首が乗っているのは悪趣味の一言に尽きた。

 人間たちと一戦交えようというのなら、彼らの意気地を削ぐのには確かに有効かもしれないが。

 十カイト強の身長を有する、オークの1.5倍の体躯と、大陸共通語を堪能に話すところから、普通のオークたちより優れた力と知能とを持つ大オーク(もしくは王オークとも言う)であると知れた。

 数はオークの百分の一以下だが、その強さと統率力とを持って、常にオーク社会に君臨し続ける種族で、普通の人間には、十人二十人が束になってかかっても敵わない相手だ。

 その大オークが、五千の大軍の中にどれだけいるのかは知らないが、神零に動揺や焦りはなかった。

 ただ静かに、事実を言っただけだ。

「ひとりで十分だからこそここにいる」

『抜かしたな! その大語、我らの腹に収まって悔いるがいい!』

 乱杭歯を剥き出して吠えた大オークが、腰から武骨な剣を引き抜く。

 それをうっすら笑って見遣り、神零もまた腰から剣を抜いた。

 月と星だけが頼りの暗闇の中に、神剣エルサイヴァのまぶしい赤がきらめく。闇の一族への激しい敵意と戦意とを放って。

 ざわざわざわざわっ!

 それを目にしたオークたちがざわめいた。

 思わず一歩退いたものもいる。

 後方の連中には見えていないものの、残虐だが小心なオークたちは群れの感情に敏感だ。先頭で何かあったことに気づいたのか、波のように押し寄せていたオークたちの一角が目に見えて揺らぐ。

 先頭の大オークが唸った。

『神剣エルサイヴァ……貴様が、《焔なる闇》か!』

 神零は凶悪に笑ってみせる。

 激しい殺意と厳しい戦意とをこめて。

「そうとも。私はシヴァーティリー、自由にして孤独なる永遠の放浪者、神々の友、エルフの光、竜を抱く者だ。これで、どうして私がたったひとりでここにいるか判っただろう」

 大オークの乗ったワーグが、神零の放つ殺気に押されて一歩退いた。

「退くのならば追うまい、逃げる者をも追いすがって殺し尽くすほど私は暇ではない。だが、向かってくるのならば、」

 深紅の瞳が烈火のごとき熱と輝きを帯びる。

 ざわざわざわざわ。

 オークたちの波が揺らぐ。

「――……一体残らず滅ぼしてやる。かの半人半霊の女が味わった苦しみを、余すところなく貴様らに返してやろう、我が名にかけて」

 声は静かだったが、何故か岩山の向こう側まで届いた。

 そこに含まれた本気と揺るぎない力とを本能で感じ取ってか、群れに激しい動揺が走った。

 恐らく、後方の連中の中には、わけが判らないままに逃げ出したものもいるだろう。オークとは、基本的に、強い相手にはとことん弱い生き物だ。

「私は霧の国を守るために遣わされた。貴様らを殲滅するためではない」

 知っているものは知っているだろう、神零が人間のための戦士であるということを。

 それと同時に、やはり知っているものは知っているだろう、神零が闇の一族を滅ぶべき害悪だとは思っていないことを。

 怒り狂った神零に殲滅されるのは、戦いを挑み、悪行を働き、神零がもっとも愛する『普通の』人々の営みを脅かしたものだけだ。それは、同属であるヒトであってもオークであっても変わりがないのだ。

 神零がヴァンディスオートの山奥に住まう三本角のオウガの一族と、その身内であるオークたちに絶対的な庇護を与えていることは、オークたちの間でも噂になっているはずだった。

 手間が省けるという意識と同等に、無益な殺戮はしたくないという意識が、神零にそれを言わせたのだった。

 先頭の大オークが唸る。

 彼とて、遥かな昔からその名を語られ続ける神零=エル=シヴァーティリーと正面切って戦いたいとは思わないだろう。

 その名は、その怒りは、その剣閃は、すなわち逃れようのない死を意味するのだから。

 だが神零は、決して楽観も期待もしていなかった。

 何故なら彼らは、

『……いかにかの焔といえども、五千を超える我らに効し得るものか』

 数という最大の武器で武装していた。

『霧の国を落とせば、この国は我らのものになる。青の国の王は、我らが人間どもを奴隷とし、この国の支配者となることを約束した。今更その美味い夢を諦める馬鹿がいるか? たかが、ひとりを目の前にして』

 自分に言い聞かせるように、士気を高めるように大オークが言い、武骨な剣を天へ振り上げて雄叫びを上げた。

 それにつられた後方のオークたちが、わけも判らないまま雄叫びに唱和し、鬨の声を上げる。

 大オークが神零を見据え、剣の切っ先を突きつけた。

『貴様こそ、命を惜しいと思うのならば退くがいい。同胞への温情に免じて、今すぐ退けば命は取らぬ』

「……やはり、そうなるか」

 神零は小さな息を吐き、エルサイヴァを無造作に構えた。

 大オークが眼つきを険しくし、侮蔑とも嘲笑とも、焦燥とも畏怖とも取れぬ表情を浮かべる。

『愚かな』

「貴様らが、な」

 神零の言葉は静かだった。

 ――――それが、戦いの合図になった。

『殺せ!』

 大オークの号令が暗い夜気を引き裂き、震わせる。

 その声の力強さに引きずられるように、大オークと同じく剣を天に掲げ、ぎらぎらとした殺意に目を煮えたぎらせたオークたちが突進してくる。

 神零はそれらを、静かな眼差しで見つめていた。


 ――――こうして、一対五千の圧倒的に不利な戦いは始まった。

 それでも、退けない理由を携えて。


 *


 ヴァンディスオートの一本角のベルセルク、ガルドール・ロータスは、仲間である戦士たち、数人のベルセルクと数十の獣人たちとともに、エアグゥインターレの険しい山道を駆け抜けていた。

 大きな石の塊を飛び越え、木々の間を縫って、休むことなく走り続ける。

 大平原で三時間戦ったあとの山登りは、決して軟弱ではないガルドールにも重い疲労をもたらしたが、今ここで弱音を吐いて足の力を弱めるわけにも行かないことを彼は理解していた。

「ガルドール」

 隣へ並んだ狼人が声をかけてくる。

「なんだ、シャラフィン」

「あの人は」

「あん?」

「あの、《焔なる闇》は、大丈夫だろうか」

「……どうかな」

 ガルドールは自分たちの目的地でもある頂上付近へ目を向け、小さく首を横に振った。

 大陸共通時間で二十一時を超えただろうか、岩山とそこにそびえ立つ頑健な木々のみという視界は暗く、常人であればたとえ松明たいまつやランプがあったとしてもその道行きは危うかっただろうが、生憎彼らは鬼に属するものであり、獣に属するものだった。朝であれ夜であれ、たいした違いがあるわけではなかった。

 この国の名の由来ともなった深い濃い霧はすでにすっかり消え失せ、ただ、きりりと冷たい夜の空には、地上の争いや死になど何の頓着もなく、何の痛痒でもないというように白銀の光を振り撒きながら、まぶしい黄金の月が輝いている。

 ガルドールはそれを苦笑とともに見上げ、己と己の率いる一隊の一部が戦線を離脱することを赦した、王女章輝の眼差しを思い出していた。

 あれは、彼を気遣うのと同等に、あの伝説の傭兵を救えと――手助けしろと命じる目だった。

 ガルドールの百倍以上生きているという、非常識というのも馬鹿馬鹿しいほど長寿な傭兵が、自分ひとりで五千のオークを殲滅すると言い放ったときの衝撃を覚えている。

 不可能だと、そんな大語に霧の国の命運を預けるわけには行かないと、誰ひとりとして口にしなかったのは、圧倒的に人員が足りないのと同じく、神零=エル=シヴァーティリーがこれまでに築き上げてきた、壮絶にして凄惨な戦功を誰もが知っていたからだ。

 きっと、あの美麗にすぎる傭兵は、やるといえばやり遂げるのだろう。

 明日には、五千のオークの屍で、エアグゥインターレのいただきを埋めてみせるのだろう。

 だが、ガルドールは、どうしても納得し切れなかった。

「なあ、ガルドール」

 狼人のシャラフィン、オウイク特殊部隊の中では特にガルドールと親密な青年獣人が、夏の空のように真っ青な目をガルドールに向ける。

「ん」

「今更だが、本当に、我々の手助けなど、要るのか?」

「……判らねぇけど、なんか、うん、なんでかな、放っておけねぇ気がして。なあシャラフィン、最後に判れたとき、あいつ、笑ってたんだ」

「それだけ自信があったということじゃないのか」

「判んねぇ。でも、なんか、その時オレは、ああこいつ死ぬ気なんだって、そう思っちまったんだよ」

「――――そうか」

「ベルセルクは死に近い分、そういう勘は鋭いからな。せっかく縁あって出会えたんだ、こんなとこで、たったひとりで死なせるなんて、オレは嫌だ」

「そうだな……」

「誰もが死なずにすみゃあいい。戦場で散ることは、オレたちベルセルクにとっちゃ至上の喜びだが、そんでも今は、別に進んで死のうとも思わねぇ。ここは、いい国だからな」

「ああ」

「それと同じくらい、あいつも生きりゃいいと思う」

「ああ……姫も、民も、国も、この国を愛するすべてのものが生きればいい。ましてやあの人はオウイクの民じゃない、たとえこの国が今日を限りに滅ぶのだとしても、あの人までがそれにならわねばならないという法はない」

「そうだ、オレもそう思う。だから……悪ぃ、付き合ってくれ。オレひとりじゃ、どう頑張ったってきっとどうにもならねぇ」

「仕方ないな。隊長殿に従うよ」

 おどけた仕草でシャラフィンが肩をすくめると、その周囲を走っていたほかの獣人やベルセルクたちがかすかに笑った。

 獅人、虎人、熊人、鹿人、三本角、二本角、五本角。

 多種多様な姿をした同胞の、やはり多種多様な顔には、理解とも共感とも取れぬ感情が揺れている。

「その代わりあとで【讃涯亭】の黄金エールを奢れよ、隊長!」

「おれは鶏の丸ごと照り焼きだな」

「じゃあ俺は牛バラ骨付き肉」

「あと、季節のチーズを山盛りでつけてもらおう」

「となると最上物の赤葡萄酒も要るだろう」

 口々に、そんな他愛ない要求をして、獣人たちベルセルクたちが屈託なく笑う。

 ガルドールも笑って肩をすくめた。

「仕方ねぇ、そこに十年物のネルヴィオン(シェリー酒のこと)とサティハリ(焼酎のこと)もつけるとするか」

 さすが隊長! と豪快に笑う仲間たちに、ガルドールは胸中で感謝の言葉を紡ぐ。

 ――たかだか百人の彼らが行ったところで、待ち受ける五千の大軍をどうにかできるとは思わない。

 そう、彼らもまた、死ぬために山道を駆けていた。

 他愛ない、笑いまじりの約束を交わしながらも、それが必ず訪れる未来だとは思っていなかった。誰もが、これを限りと……今宵を最期と、きっとこれが最後の戦いになるだろうと心に断じていた。

 そしてそれを、悔いてはいなかった。

 彼らは、伝説の傭兵の負った重荷を少しでも分かち合うため、そしてあの苛烈で誇り高い傭兵を、この時に失わせないために、オウイクの民として、オウイクを護る戦士のひとりとして、たったひとりの孤独な戦いへ割り込みに行くのだ。

 勝ち目のない、激流へ身を投じるかのごときその中へ。

「――急ぐぜ、もう始まってるかも知れねぇ」

「了解だ、隊長殿」

「んじゃまァ、美味い飯のためにもちぃっと気張るかねェ」

「美味い酒と、綺麗な朝日のためにもな」

「おう、違いねぇ」

 屈託なく……何の気負いもなく笑うと、次の瞬間には表情を引き締めた戦士たちが足に力をこめる。

 ガルドールはそれを頼もしく、少し哀しく見遣りながら、彼らと同じように速度を速めた。

 のんびりしては、いられない。


 *


 どおん、どどおぉん、と、戦太鼓が鳴った。

 オークたちが武骨で不細工な剣を空に掲げ、足で地面を踏み鳴らす。

 槍を持ったものは、その石突きで硬い岩肌を打ちつけた。

 どんどんという足踏みの音と、ガツンガツンという打擲ちょうちゃく音が、徐々に徐々に一体化してゆき、やがて地鳴りとなって周囲を揺らがせ、震わせる。


 ――バーガヤ、バーガヤ、バーガヤ!


 大音量で唱和される言葉は、暗黒語と呼ばれる、彼らの共通言語だ。


 ――バーガヤ・ダ・ルードラ!


 殺せ、殺せ、殺せ。

 焔を殺せ!

 その大合唱とともに、オークたちが突っ込んでくる。

 神零はうっすらと笑った。

「……そうとも、灼き尽くされる前に、な」

 神剣エルサイヴァがぎらりと輝く。

 持ち手の戦意と怒りを体現するかのように。

 不吉なまでに赤く、まぶしくきらめいたそれは、次の瞬間、第一陣の先頭に立って突っ込んできたオークの首を、高々と宙へ刎ね上げていた。

 首を失った骸は、赤黒い血が周囲を濡らすよりも早く、まったくもって唐突に、エルサイヴァの刀身を思わせる真紅の炎に包まれ、まるで松明のように燃え上がった。

 油でもかけたかのような激しい火に巻き込まれ、オークが二体、絶叫とともに真紅に包まれる。火は情け容赦なく、不可解なほどの勢いで憐れな獲物を焼き尽くし、黒い消し炭へと変えてしまった。

 神零はそれをごく当然のこととして受け止め、特に気にすることなく次の攻撃へと移る。


 ――バーガヤ・ダ・ルードラ!


 オークたちの唱和する野太い声が、エアグゥインターレに轟々と響き渡る。

 だが……神零に焦りはない。

 恐怖も、迷いもない。

 その白い、凄絶な美貌を彩るのは、静謐だが強靭な決意だけだ。


 ――アルド・ゲア! アルド・ゲア! アルド・ゲア!


 剣を振れ、剣を振れ、剣を振れ。

 鼓舞を目的とした、己を高め敵対者を萎縮させるための大合唱が、どうどうと地を響かせる。

 オークの軍勢にぐるりと囲まれてあれをやられると、人間の集落などではしばしば大きなパニックが起きる。

 人間たちのパニックこそが彼らの目論見であり、彼らの腹へまるごと収まることとなってしまう大きな原因なのだが、それを理解していてもなお、肚に力をこめてその場に踏みとどまれる人間は、決して多くはない。

 それほど威力のある鼓舞だったが、しかし神零は構わず、なんの頓着もない自然な動きで、なおも唱和を続けるオークの群れにすっと踏み込むと、真紅の神剣を揮って左右にいたオークの首を滑稽なほどリズミカルに刎ね飛ばし、返した刃でオークの身体を斜めに斬り下ろした。

 ゲッ、と、首を折られた鶏のような声で鳴いたオークの、断たれた上半身が地面へ滑り落ちると同時に、その骸からまた、首を刎ねられた骸同様、真紅の炎が激烈な勢いを伴って噴き上がり、周囲に密集したオークたちを巻き込んで壮絶に燃え上がった。

 神威の炎に身を焦がされたオークたちが、甲高い、耳障りな絶叫とともに地面を転がりまわる。

 火に巻き込まれ、パニックを起こしてのたうちまわるオークにぶつかられたりしがみつかれたりした所為で、他のオークにも更に火が燃え移り、燃え広がって、辺りは昼間のごとき明るさだった。

 混乱するオークたちの怒号と悲鳴を意識の片隅に聞きながら、神零は淡々と――神技を思わせる熟練の手つきでエルサイヴァを揮い、同じような骸を次々とこしらえていった。

 一体を斃すのに必要な時間は数十秒に過ぎなかった。

 ものの数分で、数十体のオークが死骸となり、それに倍するオークが神威の火に灼かれて戦闘不能となる。

 神剣エルサイヴァは神零を溺愛する義兄の渾身の作品だけに、剣の放つ神代の熱は、闇の一族を決して逃がしはしないのだ。

牙凪くなぎ兄上には、感謝しなくては、な……」

 神族の真名という稀有なそれを、愛情以外の含まれない口調でつぶやきながら、神零はざっと周囲を見渡した。

 エアグゥインターレの岩棚を黒々と埋める、醜悪で禍々しい、原初の闇たちの姿が目に入る。岩棚へ入りきれず、岩山の背後で押し合いをしているオークたちの姿も。

 彼らは確かに、神零の示してみせた神代の戦技とエルサイヴァの威力に驚愕し、恐怖していたが、数を頼む姿勢に変わりはないのか、その包囲網を徐々に狭めてきていた。

 そう、斃れたオークは百にも満たない。

 斃れれば斃れただけ、次のオークが、同胞の骸を踏み越えて現れる。

 まるでそれは、終わりのない、徒労のみの単純作業のようだった。

 しかし、神零のなすべきことに変わりはない。殲滅しなくてはならないのは、五千のオークと数十のトロルだ。

 このペースでは、どう考えても夜明けまでに終わらないし、決して万全ではない今の身体で、戦いを長引かせることは得策ではない。

 神零がいかに規格外の、非常識と呼ばれる類いに位置する体力及び体機能の持ち主であれ、徐々に蓄積されてゆく疲労は、神零から明晰な判断力と迅速な行動力とを奪って行くだろう。

 そして戦いの時間を長引かせるということは、すなわち、この戦場を離脱したオーク、神零が取りこぼした連中に、別ルートでの霧の国攻略を許すことにもつながる。

「……仕方ない、少々、自分をいじめるとするか……」

 雨垂れのようにぽつりぽつりと言葉を落とし、近場にいたオークをエルサイヴァで斬り倒してから、神零は腰に下げた小さな皮袋から、小指の先くらいの『石』を取り出した。

 きらきらと、自ら光を放つ小さなその石は、内部に世界の根源そのもののエネルギーをはらんでいる。

 名を、精素の石という。

 世界を構成する根本の力を閉じ込めた神秘の石だ。

 ――無論、それを正しく使いこなせるものはそう多くないし、その力を神零以上に巧く引き出せるものもいないだろうが。

 精素の石は、それほど旧い時代の産物だし、神零がそのエネルギーを巧みに行使できるのは、貴い存在たちから受けた絶大なる贔屓の結果なのだ。

「あまり、美味いものでもないが」

 独白し、ほんの一瞬それへ視線を落とすと、神零は『石』を無造作に口元へ持っていった。

 そのまま、躊躇いもなく『石』を口に入れ、噛み砕く。見かけや手触りによらず、それほど硬いものでもない。

 がりっ、という音と同時に、『石』は綿飴よりもするりと溶けて強靭な風となり、神零の身体に、清冽にして壮絶なるエネルギーを吹き込んだ。

 身体が軽く、熱くなり、それと同時に大きな負荷がかかったのが判る。

 石に内包されていた高濃度の、純粋なエネルギーが、そっくりそのまま身体へ流れ込んでいるのだ。負担がかからないはずがない。

 しかしこれは、《術》によって身体を壊されてしまう神零が、唯一、何度も何度も繰り返し《術》を使用することの出来る方法だった。

 ――もちろん、肉体を著しく傷つける、という点において何ら変わるところはないのだが、少なくとも、神零がこの精素の石のお陰で、五千もの大軍とたったひとりで戦おうなどという無謀を実行することが出来たのも事実だ。

 神零は身体の中を吹き荒れる高濃度のエネルギーにほんの一瞬瞑目し、これだけの力の奔流に、自分の身体がどの程度まで耐えられるかをざっと計算したあと、

「……集え、火の刃」

 咒文でもなんでもない、ただの言葉をぽつりと落とした。

 そもそも《術》を発動させるための魔穣源語を必要とはしない神零だが、精素の石というエネルギーの結晶を得たことで、その行使は更に容易くなっている。

 それはただの言葉だったが、神零の身体の中で発散の方向性を待ち侘びているエネルギーには道標そのものだった。

 言葉と同時に、神零の周囲から朱色に燃え立つ刃が顕現し、ゴウと音を立てて――まるで振り下ろされる断罪の鎌さながらに――オークたちに向かって殺到した。

 範囲は、半径にしておよそ1シアス(十メートル)。

 その周辺にいた憐れなオークたちは、何が起きたのか理解するより早く、火に焼かれ、刃に斬り裂かれてぐずぐずと崩れ落ちていった。

 あっさりと百体近いオークを葬り去った神零は、憎むべき『力』の顕現にオークたちがどよめくのを尻目に、神剣を片手に群れへと踏み込んでいた。

 右手には、また、精素の石がある。

 それを口に放り込みながら、エルサイヴァを揮って左右のオークを斬り倒し、太い棍棒を抱えたトロルの眼前まで来ると、その太い腕から肩へ軽やかに駆け上がり、トロルが『害虫』を振り落とそうと暴れ出すよりも早く、その特大の脳天をエルサイヴァで貫いた。

 後頭部に刺し込まれた真紅の刃は、頭蓋などなんの障害でもないというように、硬くて分厚いそれをやすやすと貫き、巨大な口からその切っ先を現すや、何の穢れもなく夜闇にきらめいた。

 血糊に汚れてすらいない刃だった。

 ぐぐっ、ごぶっ、と、トロルの喉が奇妙な音を立て、その巨体がびくりと痙攣する。操り人形を彷彿とさせるぎこちない動きでびくびく震えた大きな手が、丸太のような棍棒を取り落とした。

「――立て、大地の怒り」

 まだ倒れず――倒れることができず、地面に踏みとどまったままぐらぐら揺れているトロルの肩でバランスを取りながら、精素の石を噛み砕いた神零がそう命じると、エアグゥインターレの堅固な岩肌が、海辺の波打ち際のように蠢いた。

 ざわざわと大地がざわめく。

 そのあと一瞬の沈黙があって、オークたちがそれを訝しむよりも早く、驚くほど唐突に、鋭い槍へと姿を変えた岩が地面から生えた。

 槍は太く長く数多く、非情なまでに鋭かった。

 範囲はやはり、半径にして1シアス。

 運悪く範囲内にいたオーク、先刻と同じ百体前後が、逃れることもできず串刺しとなる。岩の槍に意志でもあったかのように、そのほとんどが、狙い過たず股間から脳天までを一息に貫かれ、息絶えていた。

 酸鼻だがどこか滑稽ですらある光景だった。

 ほんの数瞬で岩の槍は消え、何事もなかったかのようにただの岩肌へと戻る。無慈悲な力に貫かれ、殺戮されたオークの死骸、死後の痙攣に震えるそれが、支えるものを失って地面へばたばたと倒れていった。

 百体近いオークの骸が、倒れても――命を失ってもなお、一様にびくびくと手足を痙攣させる様は、驚くほど非現実的で寒々しかった。

 それと同時に、トロルの死骸もまた――これも同じく岩の槍にあちこちを貫かれていた――、どどうと地響きを立てて岩肌へと倒れる。

 そのトロルの骸が完全に倒れるよりも早く、軽やかにその肩を蹴って地面に降り立った神零は、右手で精素の石をつかみながら左手のエルサイヴァを揮い、手近な場所にいたオークへ斬りかかった。

 自分が狙われていることに気づいたオークは、何とかその斬撃を防ごうと剣を掲げていたが、エルサイヴァはその剣ごと、オークの身につけていた兜や鎧ごと、憐れな犠牲者を真っ二つにした。

 武骨で不細工ではあれ彼らの武具は強靭だ、彼らに狙われ、命を脅かされたとしても、蓄えの少ない貧しい村や町では、まずその武具を打ち破る装備が用立てられないという非情な現実に直面するのだ。

 しかしそれが、この場面ではなにひとつとして役目を果たしていない。鉄や鋼が、まるで紙のようにやすやすと斬り裂かれ、打ち砕かれてゆく。

 無論それは、神零の腕力とエルサイヴァの切れ味双方が合わさって初めてできる芸当だった。

 否、神剣エルサイヴァは、神零の心の在りように反応して強くなるのだ。神零の心が折れぬ限り、神剣エルサイヴァもまた決して折れはしない。

「……どの辺りまでなら、行ける?」

 脳裏に力の方向性を思い描きながらつぶやく。

 それから、精素の石を三つ、いちどきに口に含む。

 ――あまり大きな《術》は使えなかった。

 たとえば、ここにいるオークの群れ、五千弱の軍勢を一撃で殲滅させるようなものは。

 神零がその類いの《術》を知らないわけではない。

 小さな国のひとつやふたつを簡単に壊滅させるような《術》の知識も、それを行使する力も、もちろん神零にはある。

 ただ、

「エアグゥインターレの護りは必要だ……これからも」

 強大な《術》は、強大すぎる力は、闇の一族を完膚なきまでに叩き潰し、滅ぼし尽くすと同時に、このエアグゥインターレを、霧の国の背後を守る堅固な岩山をも破壊してしまうだろう。

 神零には、そういう意味での力加減は、できない。

 《術》を小出しにする方が身体への負担は大きいが、霧の国の今後を考えれば、今の方法を続けるべきだろう。

 そしてそれは、決して不可能ではなかった。

 ――――神零自身が、己が身を鑑みさえしなければ。

「少し、威力を上げてみるか……」

 つぶやき、石を噛み砕く。

 ぱりり、と、稲妻のような……颶風でもあるようなものが身体を走り、肚の底に、熱く重いものが満ちた。

 高濃度のエネルギーを循環させ、練り上げながら、脳裏にその方向性を思い描く。

「食い荒らせ、風の牙」

 言葉とともに、神零から何かを引き剥がすようにして『力』が出てゆく。


 ――ゴウッ。


 それは顕現した瞬間、何体もの目に見えぬ獣となって、オークの群れに襲いかかり、美味くもないその肉を次々に食い破っていった。

 力の及ぶ範囲は、半径にしておよそ3シアス。

 ばりばり、ぶちぶちという、甲冑や肉を引き裂く生々しい音がそこかしこで聞こえ、不可視の獣に身を食い千切られたオークたちの、身の毛もよだつ断末魔の悲鳴が辺りを震わせる。

 神零はわずかに顔をしかめて小さな咳をした。

 口の中を、血の味がかすめる。

 そろそろか、と、淡々と思う。

 《術》が肉体を傷つけてゆくという点において、精素の石のあるなしは関係なかった。ただ、使える回数が多いか少ないかだけの問題だった。

「……」

 無論、ここで終われるはずがない。

 オークたちは明らかに怯みつつも、大オークの怒号の成果もあって、その包囲網を解こうとはしていなかった。

「――後悔は、しない」

 つぶやき、ほんの一瞬瞑目して、神零はエルサイヴァを握り直す。

 右手には、精素の石を握り締めて。


 *


 恐怖の悲鳴を上げながら、必死の形相で逃げてくるオークたちの数は、少しずつではあったが確実に増えていた。

「……この先、だな」

 簡素だが非常に質のよい長剣で、はちあわせたオークを斬り倒し、ガルドールはエアグゥインターレの上方を見上げる。

 狼人のシャラフィンがうなずいた。

「感じるか、ガルドール」

「何をだ?」

「『力』が渦巻いている」

「――――ああ。よくは判らねぇけど、濃密な『力』だ」

「これは……かの、焔が?」

「だろうな」

「……何だろう」

「ん?」

「恐ろしく静謐で、我々など不要かと思うほどの『力』なのに、何だろう、この、胸を締め上げられるような、切羽詰った感覚は」

「死の感覚だ。死が迫っている感覚だ」

「……誰に?」

「それを言わせてくれるなよ、オレに」

 ガルドールがそう言ったとき、頂き付近で、どおん、という鈍い音がした。

 また、あの濃厚な『力』の感覚が彼を行き過ぎる。

 強大なのに、紛れもなく死を感じさせる力の波だった。

 表情を引き締めたシャラフィンが小さくつぶやく。

「急ごう」

「……ああ」

 ガルドールたちを追撃隊とでも思ったのだろう、自暴自棄の叫びを上げて、オークが十二体、こちらへと向かってくる。

 事実、ガルドールたちは、逃げてきたオークのほとんどを、可能な限り殲滅していた。月の照らす美しい夜の中、激しい剣戟の音と、甲冑や肉を裂く生々しい死の感触があちこちに交差する。

 無論ガルドール側には百人もの、しかも普通の人間より優れた体機能を持つ熟練の戦士たちがいるのだ、この程度なら彼らの有利さに疑いようはないが、必死な分、オークたちの剣には鬼気迫るものがある。

 獣人の何人かは、すでに傷を追っていた。

「急がねぇと不味いとは思うが、やっぱ、倒しといた方が得策だよな、こいつらに関しては」

「ああ」

「取りこぼしが、章輝たちの方へ行かねぇともかぎらねぇから」

「そう思う」

 エアグゥインターレの頂きに集うオークは五千強と聞いた。トロルも何十体か来ていると聞いている。

 ぱらぱらと逃げて来る闇の軍勢を、戦場目指して走りつつ、ガルドールたちはすでに百体ばかり倒していたが、それでも五千のうちの百など、たったひとりで戦うあの傭兵にとって、大した助けにはなっていないだろう。

「行こうぜ」

 最後の一体を斬り伏せ、どろどろとした殺意のわだかまる、エアグゥインターレの上方へ目を向けると、ガルドールは仲間たちを促した。

 しかし、その視界、闇夜などものともしない優秀なそれに、また、喚きながら山道を駆け下りてくる――いや、それは転がり落ちて来る、とでも言うべきだろう――オークの集団が目に入る。

「ったく」

 ガルドールは、鋭く舌打ちをして、また長剣を構えた。溜め息や苦笑とともに、仲間たちがそれにならう。

 ――果たすべき約束を果たす、命に変えても。

 その誓いは、その誓いに縛られているのは、なにもかの傭兵だけではないのだ。


 *


 ――戦いが始まってから、どれだけの時間が経っただろうか。

 精素の石を十噛んだ辺りで耳が聞こえなくなった。

 恐ろしく静謐な世界の中、自分の呼吸だけが『音』として感じられる。

 石を十五噛んだところで鼻が利かなくなり、二十で何度か血を吐いた。

 細胞レベルでバラバラになってゆくような痛みに全身が支配され、剣を揮うごとに身体が軋んだ。

 轟々と吠えたトロルが棍棒を振り下ろし、エルサイヴァでそれを受けたところの隙を狙って矢を射かけられた。致命傷は免れたものの、完全には避けきれず、右肩に三本ばかり矢が生えた。

 トロルを斬り倒してから肩の矢を無造作に引き抜き、こみあげた血塊に口元を押さえた瞬間、魔狼に乗った大オークが、神零の横を駆け抜け様、その背を武骨な剣で一撫でしていった。わずかに身体をひねったお陰でそれほど深い傷にはならなかったが、黒革の防具には大きな切れ込みが入り、背中からは決して少なくなく出血していた。

 ――しかし、もう、その程度の傷など、痛みと認識することすらできなかった。

「叩き潰せ、大地の暴虐」

 何度も血を吐き、咳き込んだ所為で、神零の声はすっかりかすれていた。

 かすれていたが、それでなすべきことが変わるわけでも、放たれる力に変化が起きるわけでもない。

 神零の言葉が方向性を指し示して見せるや、肉体を引き裂きながら解き放たれたエネルギーによって大地が轟々と唸り、蠢いて、神零の周囲3シアス前後の岩肌が、唐突にぱっくりと口を開けた。獲物を待ち受ける、食虫植物さながらに。

 あまりの唐突さに回避できなかったオーク、大オークもトロルも含めた百体あまりが岩の『口』にはまる。しかしその深さは1ジット(2.6メートル)強、落下したところで致命傷にはなりえない。

 だが、無論、それがこの《術》のすべてでは、ない。

 足や腰を打ったらしいオークたちが、口々に罵り言葉を撒き散らしながら身体を起こし、もとの岩場に這い上がろうと『口』の縁に手をかけた瞬間、開けたのと同等の唐突さでその『口』が閉じた。

 中に落ちた闇の軍勢もろともに。

 聞き苦しい悲鳴と、ぐちゃ、ぶちゅ、という、生身の身体が挽肉になる、生々しく寒々しい音がしたが、それは完全に聴力を失っている神零の耳には届かなかった。

 ――これで、噛んだ石は二十三になった。

 身体の痛みは、常人なら正気を保てないだろうほどだったが、それでも神零は怯まず、石をまた口に入れた。

 痛みを堪えて地面を蹴り、大きく跳躍しながらエルサイヴァを揮い、残り数体となったトロルを、脳天から股間まで幹竹割りにしてみせる。横半分に真っ二つになったトロルの骸が激しく燃え上がり、周囲のオークたちを巻き込んで更に燃え広がった。

 辺りはまるで昼間のように明るかった。

「あと……どのくらい、だ」

 聴覚と嗅覚が失われ、痛覚が麻痺しかけている今、頼れるのは視覚と、一万年を越える戦いの記憶の中で培われてきた経験、そして戦闘種としての本能だけだった。

 ――感覚からいって、二千は倒したと思う。

 トロルも最初の三分の一程度まで減った。

 指導者たる大オークも、半分は始末した。

 だが……それでは、まだ、足りない。

 残った精素の石は十二。

 エアグゥインターレをこのまま保ちつつ、広範囲の殲滅用攻撃を行使しようと思うなら、どんなにぎりぎりまで力を絞っても、残り二千まで減らさなくては不可能だ。

 それ以上の数を《術》で一息に殲滅しようとすれば、まず間違いなくエアグゥインターレをも破壊してしまう。大きな力が大きな破壊を呼ぶのは当然のことだ。

 ――そして、二千のオークを一気に滅ぼすための《術》なら、精素の石は六つは必要だ。

 だとすれば、神零は、残り六つの精素の石で、千あまりのオークを倒さなくてはならない。

 それは倒せればいいなどという願望のかたちではなく、倒さなくてはならないという断定形でしかなかった。ひとつの国家と、その民の命がかかっている今、一切の妥協は許されないのだった。

 神零は咳き込みつつも、未だ神技のと言うしかない程度には見事な、熟練の足さばきで、陣形をなしてこちらへ向かってくるオークの群れへと突っ込み、エルサイヴァを揮ってはオークたちを確実に仕留めて行った。

 それでもやはり、徐々に動きが鈍ってきているのは事実で、背後から射かけられた矢を避けた瞬間を狙って繰り出された槍に、左太腿を真ん中から貫かれる。

「――ッ」

 すぐにエルサイヴァを揮い、数体のオークを真っ二つにしつつ槍の柄を斬り飛ばしてその場を離れたが、脚にめり込んだ槍先を引き抜くと、さすがに冗談では済まされない量の血が流れた。

 だが、神零に、自分を回復させる《術》を紡ぐだけの余裕はない。

 そのつもりもない。

 人間ならば間違いなく身動き出来ない量の血を流しながらも、神零の行動によどみはない。精素の石のエネルギーによって、ひどく傷つきながらも、肉体は通常の状態を維持していた。

 ――高濃度のエネルギーに昂揚させられた肉体が、そう錯覚させられていた、と言っても間違いではない。

 口の中の石を噛み砕く。数は、ふたつ。

 身体の中を、獰猛なエネルギーが駆け抜け、早く解き放てと催促する。

「赤く舞え、大炎の花」

 神零がそう命じると、その周囲3シアスに大輪の薔薇を思わせる炎の花が咲き乱れ、花吹雪となって優美に――幽玄に夜空を舞った。その花弁は、オークに触れると同時に小規模な爆発を起こし、オークたちの絶叫をかき消しながら、辺りを赤々と――煌々と照らし出した。

 その光景の最中に、神零は、自分の目の奥が、ブツリ、という音を立てたのを確かに聞いた。

 それを最後に、視界が暗転する。

 もはや風景は漆黒一色だった。

 目の奥が、熱い。

 神零は密やかに苦笑する。

 感覚はひどく曖昧だった。

 ただ、思考だけが鮮やかに冴えていた。

 背後から、巨大な鉈が振り下ろされる。残り数体となったトロルのものだ。

 見えもせず、聞こえもしない状態だったが、神零は流れるような動きでそれを避け、気配を呼んだというよりは半分以上反射的に、トロルの背後へ回り込むと、

「ふ……ッ!」

 気合い一閃、神剣エルサイヴァを横薙ぎにして、トロルの腰を半ばまで切断し転倒させた。

 どどう、という、トロルが地面に倒れる地響きだけが、頑丈なブーツを通じて感じられる。

 感覚のほとんどを失ってなお、静謐な暗黒のみの世界にあってなお、神零は自分が無数の敵意殺意に囲まれていることを感じていた。今の神零は、気配ではなく殺意にのみ反応し、反射的に攻撃していた。

 実際には、もうすでに、気配を読むことすら難しくなってきていたのだ。

 静かな、たったひとりの世界で、無数のと言って差し支えない殺意と向き合いながら、神零はまったく別の意識に囚われていた。

 腕は、身体は、こちらを警戒しつつも向こう見ずに突っ込んでくるオークを斬り伏せ、積み上がり燃え上がる骸の数を増やしていたが、思考は――記憶は、まったく別のものを観ていた。

 過去に友と呼んだオウガも、半人半霊の女も、こうやって、闇の中でたったひとり、死地を舞ったのだろう。

 果たすべき約束は今も生きている。

 その約束のため、誓いのために、命をかけると決めたのだ。

 ――――死なせるために出会ったのではなかった。

 なすすべもなく失いたくて、出会ったわけでは断じてなかった。

 たったひとり、永遠の夜辺を歩く孤独な放浪者。

 同族も、同属も持たず、ただひたすらに、世界の行く末を見届ける者。

 一瞬に均しいわずかな時間を、それでもともに生きられたことが、神零にとってどれほどの救いとなっただろう。

 ディラルタやクラウディアだけではない。

 後悔はそこだけに留まらない。

 何人もの愛しい人々を、もっとずっと傍にいて欲しいと切望した人々を、失うまいと思った人を、まるでたなごころをすり抜ける清流のように喪ってきたのだ。

 何人も何人も、決して穏やかではない最期とともに。

清日さやか遠紗えんしゃ、ベニ、叡琉すぐる溢輝いつき、ファラ、イオナ、燈慧とえ緋拓ひたき、ルヴィト、プレス、穂磨ほとぎ擁誇ようこ和華わか、ユーニア、廉明れんめい偲彩さあや須昴すごう、エンファ、奏灯かなで刀雪とゆ。――――――――――刀綺とき

 ツ、と頬を伝った熱いものが、涙だったのか血だったのか、神零にはもう判らなかった。

 ただ、悲嘆に倍する覚悟で思う。

 大平原で戦う、愛しいこどもたちを思う。

 それは、たったひとつの願い。

 祈りに満ちたコトノハ。

 映るものは暗黒のみの視界でその方角を見上げ、つぶやく。

「―――――生きろ。どうか――――生きてくれ」

 そして、また、精素の石を噛み砕く。

 引き裂かれ、麻痺した身体で剣を振る。

 ――祈りを、願いを、真実とするために。


 *


 山間の岩棚、その戦場を目にして、ガルドールは絶句した。

「こんな……」

 仲間たちもまた、同じように絶句していた。

 そこは、オウイク王城の真後ろに位置する崖だった。

 断崖絶壁で、完全に垂直だが、人間とはまったく異なる、優れた体機能を持つオークたちなら、容易く昇り降りしてしまうだろう。だからこそ、闇の軍勢はここからの侵攻を選んだのだ。

 もっとも、崖の縁には、数体の石神巨兵が配置され、周囲にはオークの大嫌いな青火草の匂いが充満していた。オークたちへの注意喚起に使われるハーブの匂いがすると言うことは、崖の向こうにも何か仕込んであると考えるべきだろう。

 事実、オークたちは、崖くだりに挑戦する気はないようだった。

 しかし、ガルドールたちが絶句したのはそのことに対してではない。

「早く、行かねぇと」

 言いつつも足は動かず、漏らした声は、どこかかすれて上ずっていた。

 ――戦場は燃えていた。

 比喩でなく、煌々と。

 火は、たったひとりで戦う傭兵が、赤くきらめく剣を揮うたびに、犠牲となったオークたちの身体から噴き上がるのだった。

 五千を超えると言われていた闇の軍勢は、いまや数をその半分にまで減らしていた。

 岩棚に折り重なるオークの骸の半数は、芯まで焼け焦げた燃えかすのようになっていたし、残り半数の中には、一体どんな死に方をしたのかすら判らない骸もあった。

 数十体と報告されていたトロルの姿はすでになかった。

「なんで、こんな……ことが」

 出来るのか。

 それは最後までかたちにならず、畏怖を含んだ震えとともに、ガルドールの胸の奥に消える。

 まるで、巨大な風の渦を目にしているようだった。

 中心にいるのは、あの、深紅の眼をした傭兵だ。

 ガルドールの、ベルセルクの、獣人たちの、昼夜関係なくよく利く目には、三十シアス(三百メートル)以上離れていても、その渦が――その渦の中心がありありと見て取れた。

 戦場は、無慈悲で悲惨な死の坩堝だった。

 そしてそれは、たったひとりの傭兵によってなされたことなのだ。

「……ッ」

 ガルドールは生唾を飲み込んだ。

 身体が自然と震えて出していた。

 そう、今、彼は確かに恐怖していた。

 何に、なのかは、彼自身にもよく判らない。

 戦場に散ることを至上の幸福とするベルセルクにあるまじき感情だと、種としての誇りが囁くが、そんな矜持など、いまのこの瞬間には何の意味もなさなかった。

 かの傭兵を助けるために、手伝うためにここに来たはずの、ほかのベルセルク、獣人たちも同じようなものだった。

 あの渦の中へ踏み込めば、恐らく、生きて出ることはかなわないだろう。

 今まで、それをこそ至福と思って生きてきたのに、そのためにこそ生きてきたはずなのに、ガルドールはあの戦場へ踏み込むことが恐ろしくてたまらなかった。

 生まれて初めて、ガルドールは死を恐怖していた。

 ――否、ガルドールには、あの傭兵こそが、何よりも恐ろしかった。

 今のガルドールにとって、あの傭兵こそが死だった。

 恐怖に足が竦むという、常日頃の彼ならば鼻で笑い飛ばしただろう感覚を、生まれて五十年にして、初めて彼は経験し、その重苦しさを思い知っていた。

 ゴウッ、と、風が渦巻いた。

 渦の中心で、何か強大な力が解き放たれたのが判る。

 オークたちは大幅に数を減らしつつも、まるで羽蟻のように、途切れることも怯むこともなく――そこへ、自暴自棄という感情が含まれているにしても、だ――、ガルドールをこんなにも恐怖させ躊躇させる根源へと殺到していたが、その力が放たれた瞬間、半径十シアス前後に群がっていたオークたちの、不細工な甲冑でよろわれた身体が、純白の炎に包まれ、燃え上がった。

 聞き苦しい絶叫が、周囲を震わせる。

 炎に包まれたオークたち、およそ百体の彼らが、助けを求めて右往左往し、地面を転がりまわり、無傷なオークにしがみつき、その身の炎を隣へ隣へと移して、被害を拡大させてゆく。

 深紅の目の傭兵、神代の力を宿した殺戮者は、その中心に、まるで彫像のように佇んでいた。

 ガルドールの目に、それは、その静謐さは、世界に神混大戦をもたらすという闇の神よりも恐ろしく映った。

 ――変化が訪れたのは、その数秒後だ。

 何の感情もない、白々とした――むしろ蒼白と言っていい――美貌が、唐突に苦痛の色彩を含んで歪んだ。

 そう、ガルドールが思った次の瞬間、傭兵は、激しく咳き込んで血を吐き、その場に膝をついた。更に何度か激しい咳をして、再度少なくない量の血を吐き、肩を大きく上下させる。

 炎に包まれた周囲が、恐慌状態に陥っていたからよかったようなものの、そうでなければ串刺しにされているところだ。

 数十秒で呼吸を整え、なんとか立ち上がった傭兵の姿に、何故かわけもなく安堵したガルドールは、真っ白な炎に照らし出されたその顔の、その頬の汚れを目にして瞠目した。

 隣で、同じく異様な戦場の空気に飲まれていた狼人のシャラフィンが、我に返ったかのように身じろぎする。

 彼もまた、同じことに気づいたらしかった。

 それに気づいた仲間は、少なくなかった。

「……ガルドール。あの人は……」

「ああ」

「泣いている……のか……?」

「――……ああ」

 頬を汚すそれは、確かに血の色をしていた。

 しかし同時に、涙のかたちをしていた。

 それが、頬を伝った跡だった。

 そしてそこに、ガルドールは、紛れもない死の気配を感じ取っていた。

 ――ざわり、と、ベルセルクたち獣人たちがざわめく。

 ガルドールは表情を引き締めた。

「そうだ……」

 ぽつり、とつぶやきが漏れる。

「何を呆けてるんだ、俺は」

 右の頬を、思い切り叩く。

 彼らの愛する霧の国、滅ぶべき定めを負ったこの地のために、その運命を覆すべく、何の責務があるわけでもないのにたったひとりで、血にまみれて戦ってくれる傭兵に、お門違いの恐怖を抱き、足を鈍らせた、そのことへの激しい羞恥が湧き上がる。

 それは、死の恐怖や、神代の力への畏怖を凌駕し払拭するほどの強さを持っていた。

 何故あの傭兵が泣いているのかは判らない。

 本当にあれが涙なのかどうかも判らない。

 それでも、この獰悪で絶望的な戦場で、たったひとり、孤独に死なせることが、双方にとって十全なわけがない。

 ここでなんの力にもなれずあの傭兵を死なせてしまったら、きっとガルドールは、仲間たちは、この先一生、安らぐことは出来ないだろう。世界はそんな彼らを見棄てるだろう。

 そして、彼らの魂は、ここで死んでしまうだろう。

 ガルドールは剣の柄をきつく握り締めた。

 慣れた感覚が、ガルドールの戦意を高めてゆく。

「――――行こう」

 そう、恐れるべきは死ではなかった。

 萎縮し腐敗した魂を抱いて、後悔したまま生きることだった。

 それを生とは、もう呼べなかった。

 ベルセルクの、戦士の生とは、そんなものではなかった。

 決意と戦意を身にたぎらせたガルドールの、低く重い宣言に、同じような表情で仲間たちが頷く。

 未だ黒々と群れをなす、自分たちの数十倍の大軍へ向かって駆け出しながら、ガルドールはそれを誇らしく思った。

 ここでともに戦えた、そのことを何よりも貴く思った。

 ――たとえこれが、最期の戦いなのだとしても。


 *


 静謐な真っ暗闇の中、神零は、たったひとりで、無数の敵意と向き合っていた。

 ――精素の石は、もう六つしか残っていなかった。

 だとすれば、最後の殲滅の力を揮うためには、あと、残り数百体を、《術》に頼らず殲滅しなくてはならない。

 オークたちは次々と――易々と同胞を死体に変えてゆく神零に、確かに恐怖していたが、神零が手負いでありひとりであることと、半数以上が討たれた以上後がないこともよく理解していて、破れかぶれの馬鹿力で、途切れることなく襲いかかって来た。

 もはや本当に痛みなのかどうかも判らない、身体と思考を苛む閃光のような感覚に飲まれたままで戦うことが、どれだけ苦しく困難かを、神零は身を持って体験していた。

 身体のあちこちから血が噴き出すのが判る。

 過去への懊悩に流した涙すら血だった。

 迫る殺意のみが、神零に剣を振らせ、そして生き長らえさせていた。

(だが……それも、もう……)

 徐々に冷えてゆく身体を感じる。

 指先は痺れ、凍りついたかのように感覚がなかった。

 それでもなお剣を取り落とすことなく、揮えていることが奇跡だった。

 自分が立っている場所がどこなのか、自分が戦っている時代がいつなのか、何故自分が戦っているのか、一体誰のために戦っているのか、そんなことすら曖昧になっている。


 ――ほんっと馬鹿だよな、おまえ。


 と、誰かが呆れたようにつぶやいた、気がした。

 それが、その、ひどく懐かしく、激しい悲嘆とそれに倍する友愛とを沸きあがらせるその声が、一体誰のものだったかと考えるよりも早く、神零の手は半ば無意識に動き、肉薄するオークの首を斬り飛ばし、その隣にいたオークの身体を、甲冑ごと斜めに斬り下ろしていた。

 身動きをするたびに全身が軋み、身体のあちこちに空いた幾つもの穴から血を噴きこぼすのが判る。

 もはやそれに頓着する意識などなかった。

 生きて帰るために剣を振るのでは、なかった。

 しかし、そんな中、神零は、戦場を取り巻く空気が、ほんの少し変わったことに気づいていた。

 敵意以外の気配を読めない今の神零に、それが一体何なのかは判らない。

 ガルドール率いるベルセルク・獣人の混合部隊が、後方から斬り込んできているための変化だとは判っていない。

 それでも、その空気に含まれた、清冽ななにものかをほんのわずかに感じ取り、神零の心と身体は少しだけ軽くなる。

(――……これなら、まだ……戦える)

 無造作に剣を振り、オークの身体を両断する。

 後方からの突撃によって、闇の軍勢は明らかに乱れた。

 神零には、もちろん、見えていない。

 渦の中心へ走り込んで来たガルドールが、背後から神零を狙っていたオークを斬り倒し、更にその隣へと撃ちかかったことも、狼人のシャラフィンが、声を嗄らして士気を高めていた大オークの一体と斬り結び、それを倒したことも、百人近い獣人たちが、壮絶な決意の表情で、途切れることを知らないオークたちへと向かっていったことも。

 そして彼らが、怒涛のようなオークの群れのただ中で、次々に命を落として行ったことも。

 ――斃れた彼らの表情が、それでも、どこか満足げだったことも。

 見えないまま、判らないまま、神零はただひたすらに剣を揮っていた。

 それが贖罪のためだったのか、二度と後悔しないためだったのか、それともただ単に、本当は、心の奥底で死を望んでいただけなのか、そんなことはもうどうでもよかった。

 今の神零を衝き動かすのは、果たすべき責務をなすのだという、愚かなまでの決意だけだった。

 その決意がどこから来たものなのかすら、なにゆえの決意なのかすら、すでに神零の思考からは消え去っていたが、その決意さえあれば……その決意だけが、今の神零に剣を揮わせ、そして死へと駆り立てるのだ。


 ――馬鹿だよな、おまえ。


 また、あの声が聞こえた。

 胸をかきむしられるような、泣き出したいような、そんな感覚に囚われる。


 ――なんでそんなに馬鹿なんだろうね、神零は。


 今度は別の声だ。

 呆れの中に、隠しきれない友愛をにじませた声。

 脳裏に翻るのは、月光の銀。

 美しく凛冽な、白銀の光だ。


 ――人間なんかのために、神零が死ぬ必要はないのに。

 ――でも、だからこそ、おまえなんだろうな。


 溜め息と苦笑と、親愛の情のこもった声。

 蒼玉と蛋白石の目が、笑みをかたちづくった、ような、気がする。

 三本角のオウガが申し訳なさそうに笑った、ような、気もする。

 漆黒ではなく純白の、美しく彩な、やわらかな絹のドレスに身を包んだ、理知的な美貌の女が、困ったように――けれど、どこか嬉しそうに微笑んだ、ような、気もした。

 たくさんの人々が、いつか、どこかで出会った大切な人たちが、――今はもう会えない人たちが、笑って手を振った、ようにも、思う。


 ――いつでも、愛しているよ。

 ――そんなあなたを、いつでも愛してる。


 それが誰の声だったのかは、判らない。

 見知らぬ誰かのもののようでもあったし、今までに出会ってきたすべての人々の声が含まれているようでもあった。

 神零の唇に、笑みが浮かぶ。

(――……ああ)

 閃いた剣が、オークの首を刎ね飛ばす。

 頃合いだ、と、意識が囁いた。

 小さな袋へ潜り込んだ指が、今ばかりは熱を取り戻した指が、袋の底に残った石の欠片を探り当てる。

 覚悟など、とうの昔に出来ていた。

 石の欠片を口元へ運び、この獰悪な場には相応しくなく、邪気のない微笑をこぼしながら、胸中に囁く。

 祈りのように、強く。

(――――…………私も、愛しているよ)

 この世界を、ヒトを、いのちの営みのすべてを。

 それらのために己が喪われようとも、決して後悔はしない。

 それでこその己なのだと、思うだけだ。

 そして、そのために死ねる己を、幸運だと思うだけだ。

(だから――……どうか。哀しまないでくれ)

 つぶやいて、精素の石を噛み砕く。

 身体を吹き荒れる、強大なエネルギーを感じる。

 どうしようもなく破壊されてゆく、自分自身とともに。


 *


「……ッ、と……!」

 もう何体目になるかも判らない相手、オークの首を刎ね飛ばしたガルドールは、ぐらりとかしいだその身体が、自分に向かって倒れかかって来たのを数歩退いて避けた。

 ――きりがないというしかなかった。

 先刻、《術》によって一気に百体以上を殺戮した傭兵、神零=エル=シヴァーティリーは、しかしもはやそれと同じような神威を紡ぐ余力はないのか、全身から血を噴きこぼした壮絶な姿のまま……何故立っていられるのか不思議なほどの深い傷を負ったまま、それでもよどみなく剣を揮っていた。

 それでこその最強の称号、それでこその名かと思いはするが、ガルドールは、あまりにも悲痛で見ていられなかった。

 もっとも、表情ひとつないシヴァーティリーに、何故悲痛という感覚を抱いたのかすら、彼には判らなかったが。

 そしてガルドールもまた傷を負っていた。

 必死な分、オークたちの剣は重く、的確だった。

 この戦場へ踏み込んで一時間もしないうちに、ガルドールは二の腕と肩口に剣を受け、右太腿に矢を一本喰らっていた。

 無論、ガルドールはベルセルクという種族の特徴上、痛みの感覚には強いし、今の彼が抱いているのは、その程度のことで萎縮するような、覚悟と戦意ではなかったが、彼の動きが多少鈍くなったのも事実だった。

 ――このときすでに、仲間の半分は命を落としていた。

 たとえこの場に、一騎当千の名をほしいままにするシヴァーティリーがいるのだとしても、百に満たないガルドールたちと、二千五百は残ったオークたちとでは、あまりにも数が違いすぎる。

 ベルセルクとして、獣人としての、多少突出した武の腕前でどうこう出来るような問題ではなかった。

 自分よりいくらか年上の若いベルセルクが、いつも冗談を言っては部隊を笑わせていた陽気な虎人の男が、気のいい熊人の男が、シャラフィンの遠縁に当たる狼人の青年が、何体ものオークを倒したあと、それに倍するオークたちに囲まれて、燃え盛る炎にぎらぎら輝く剣によって、次々とその身を地面に横たえてゆくのをガルドールは目の当たりにした。

 その死に顔が、穏やかな充足とともにあったことだけが救いだった。

 ガルドールもまた、その最期のために剣を揮っていた。

 暇乞いをしたときの、章輝=エレン=ラオニーナの顔が脳裏に浮かぶ。

 王女は、生きて帰れとは、言わなかった。

 それを言うことこそが残酷な仕打ちだと、理解している目だった。

(別に、死にたいわけじゃ、ねぇ)

 ベルセルクにあるまじきその意識を、おかしなことだとも思わずに、ガルドールは独白する。

(でも)

 自分のいのちが、自分が揮った剣が、自分の流した血が、この、旧く煩わしい、貧しく小さな、しかしかけがえなく美しい国を守る力のひとつになるのだとしたら。

 自分たちの無事を祈り、この国の存続を祈る、優しく平凡な、たくさんの人々の、明るい明日を創れるのだとしたら。

(――だったら、何を迷うことがあるってんだ?)

 狼人のシャラフィンが、オークたちに囲まれていた。

 足と肩に、矢が突き刺さっているのが見える。

 彼は、脇腹と背と頬に、決して浅くない裂傷を負っていた。

 どうせ逝くべきところは同じなのだと思いつつ、二十年もの時間、苦楽をともにしてきた親友をそのままにしてはおけず、そちらへ向かおうとしたガルドールの目の前に、鉛色の目を憎悪の火に燃え立たせた、最後の大オークが立ちはだかった。

 ガルドールは眉をひそめて吐き捨てる。

「退けよ」

 大オークが、ごぼごぼと嫌な音を立てて笑った。

 不細工で凶悪な剣が掲げられる。

 ガルドールは舌打ちをして剣を構え直した。

 そして地面を蹴る。

「お前らがっ!」

 怒りの矛先は、自然、闇の軍勢へと向いた。

 がぢぢっ、と、噛み合った剣が鳴く。

「分不相応な夢なんかに踊らされなければ、哀しむ人はもっと少なくて済んだのに!」

 全身全霊の力を剣に込めながら怒鳴る。

 大オークが暗黒語でなにごとかを言った。

 嘲るような口調に、ガルドールの眉根が厳しく寄る。

 しかし、怒りが、彼の剣を鈍らせるようなことは、ない。

 暗く淀んだその怒りに倍する祈りが、願いが、彼を満たしているからだ。

 霧の国に、あの慕わしい故郷に――慕わしい人々に生き延びてほしい、霧の国の歴史をここで終わらせないでほしいという渇望が、この先ずっとあの優しい営みに続いていてほしいという思いが、彼を衝き動かすからだ。

 喪ったものは確かに大きく、もはや戻らぬものも多すぎる。

 恐らく、霧の国はもう、以前のようには戻れないだろう。

 今よりもなお小さく、貧しくなり、いずれはどこかの国に飲み込まれてしまうのだろう。

 それでも、それは今ではなかった。

 まだ、霧の国は生きている。

 章輝も、香重も、国民たちも、まだ生きているのだ。

「だから……だったら、せめて!」

 強い意志を力に変えて、ガルドールは大オークを追い詰める。

 鋼と鋼がぶつかりあう金属音が、周囲に舞い踊った。

 何合かのやり取りのあと、

「う……お、おおおッ!!」

 轟と吼えたガルドールが、渾身の力を込めて揮った剣は、大オークの手にしたそれをしたたかに打ち据えた。

 がつっ、という重い手応えとともに、大オークが呻き、剣を取り落とす。

 その隙を逃すはずがなかった。

 あまりの衝撃に痺れたのか、手を押さえてよろめく大オークへ追いすがり、その分厚い胸へと剣を突き立てる。ベルセルクの怪力は、鋼の胸当てなど物ともせず、刃はやすやすの中へ潜り込んだ。

 ぐぶっ、という、肉を裂く手応えがあって、身体を串刺しにされた大オークがびくりと痙攣する。

 それが致命傷となったことを確認し、剣を抜こうとすると、その刃を大オークが掴んだ。

 なにを、と訝るよりも早く、背中に鋭い衝撃が走る。

「う、あ……ッ!?」

 大オークが、死相の浮かんだ顔でにやりと笑った、のが、見えた。

 二度目の衝撃は、背と腹に来た。

 見下ろすと、背後から突き入れられた剣が、腹へと抜けていた。

 耳障りな声で笑った別のオークが、笑いながら剣を引き抜き、身体から異物が出てゆく感覚に呻くガルドールになどお構いなしで立ち去ってゆく。

 それは、痛みというより熱だった。

 熱い塊が、喉をこみあげる。

(……ああ)

 胸中に苦笑する。

 よろり、と、後ろによろめくと、事切れた大オークの身体もまたぐらりと傾いた。

 ガルドールは、死した大オークの身体が、自分の倍はありそうなその巨体が、自分を押し潰そうとでもするかのようにのしかかるのをなすすべもなく見ながら、ゆっくりとその場に倒れた。

 不思議と、痛くはなかった。重くも、苦しくもなかった。

 恐怖も、なかった。

 ただ、全身から抜け出てゆく、熱い何かの存在を感じているだけのことだった。それを少しだけ、寒いと思っているだけだった。

 ふと見遣ると、全身を血で染めたシャラフィンが、ガルドールと同じように、ゆっくりと地面に倒れるところだった。やはり同じように、オークの骸が、その身体に折り重なるように倒れてゆく。

 周囲を見渡すと、もはや、立っている仲間はいなかった。

 オークはその数を大幅に減らしていたが、まだ、群れというのが相応しく、無傷なものも少なくなかった。

(……呆気ない、もんだな……)

 大オークの骸に視界をふさがれながら、なんとか顔を動かして空を見上げると、黄金の満月が、白銀の光を垂れる姿が目に入った。

 それは、ひどく無慈悲で無関心で、そして――……美しかった。

(でも、後悔は、してない、から……)

 視界が、徐々に暗くなってゆく。

 寒さはもう、感じなかった。

 ――――高い高い天空に、月とは違う位置に、目映く輝く光を見た。

 そう思った瞬間、ガルドールの意識は、暗黒に飲み込まれた。

(――……生きてくれ。俺の、分まで)

 それが彼の、最後の思考だった。


 *


「――――白く在れ、神なる光」

 発動の言葉は端的で、迷いもよどみもなかった。

 その言葉が紡がれた瞬間、深い闇を宿した夜の空がさっと色を変えた。

 まぶしい白銀と、鮮やかな黄金とが、空を染め上げる。

 周囲は白い光に染まった。

 残り二千を切ったオークたち、神零の思惑通りの数まで減ったオークたちが、そのあまりのまぶしさにパニックを起こし、右往左往する姿など、神零の目には映らない。

 唐突に、強い風が吹いた。

 こめかみの位置に下がる細い三つ編みが、颶風に吹き散らかされて激しくはためく。

 ――空が震えている。

 オークたちは、なにごとかと、何が起きるのかと、戦いも忘れて空を見上げていた。《術》への知識の薄い彼らにとって、発動前に起きる現象は不可解なものでしかないが、見えも聞こえもしていない神零が、それらを気にすることはなかった。

 ただ、静かに、冷徹に、告げただけだ。

「さあ……撃ち砕け。――――この身ごと、千々に」

 言葉とともに、全身を引き裂き、強大な力が出てゆく。

 空が激しく瞬いた。

 ――――そして、それが、降った。

 天の高きより、黒い雲を裂いて降下した白光、壮絶な神威を含んだそれが、雨のように――雨よりも激しく、エアグゥインターレへ降り注ぐ。

 光は、生き残った二千のオークを――『狩り場』へ入れず、後方で押し合いへし合いしている連中も含めて――貫き、焼き尽くし、粉々に撃ち砕いた。

 オークたちの恐怖と絶望の絶叫は、やはり、神零の耳には届かなかった。

 神零はただ、白い光のただ中に、彫像のごとくに立ち尽くしているだけだった。

 呼吸は荒く、ひどい頭痛がした。

 吐き気と眩暈と悪寒とが交互に襲いかかって来る。

 純白の、高濃度のエネルギーを含んだ光の中で、激しく脈打つ心臓を持て余していた神零は、破壊の光に照らされた自分の身体、その奥底の、何とも表現出来ない致命的な部分が、そのとき、ぶつり、と、大きな音を立てて切れたのを、確かに聞いた。

 疲弊しきった身体から、どうしようもなく――なすすべもなく、何か大切なものが抜け出てゆくのを、感じる。

(――……そうか)

 神零は苦笑した。

 ぐらり、と、身体が傾いだ。

 熱い何かが、身体中を濡らしている。

(これが、最期か。……私の)

 恐怖はない。

 後悔もない。

 苦痛も疲労も、苦い懊悩も、もはや、遠かった。

 ただ、愛しいこどもたちが、生き延びるようにと願うだけだ。

 哀しまないで欲しいと、祈るだけだ。

 思考が、視界が、白く染められる。

 暗黒一色だったはずの視界に、まぶしい光が満ちた。

 まるで、神威の光が、意識まで浸食したかのように。

 肉体に近づく死を感じる。

 細胞のひとつひとつが死んでゆくのが判る。

 それでも、神零の心は、穏やかに凪いでいた。

 春の日の昼下がりに、新緑の芽吹いた大樹の下でした午睡を思い出す。

 神零はひとつ欠伸をした。


 ――あーあ。


 聞こえた声は、あの。


 ――来るなっつっても、来ちまうんだもんな。


 困ったような、呆れたような、


 ――でも、頑張ったよ、おまえ。


 深い深い、友愛の含まれた声。

 誰よりも愛した、懐かしい人間の。


(――……ああ)


 神零は微笑んだ。

 黒鋼の髪に蒼玉の目をした、白皙の美丈夫の姿が見える。

 彼は、白エルフの血を思わせる繊細優美な美貌に、闊達で晴れやかな笑みを乗せて、神零へ手を差し伸べていた。

 神零の笑みが深くなる。

(――――…………刀綺)

 そっと、宝物を抱くように名を呼ぶと、男は笑って頷いた。

(迎えに、来てくれた、のか。この、最期の時に)

 彼の背後では、たくさんの人々が、笑っている。

 そのどれもが、懐かしい、いとおしい、たくさんの痛みと記憶とともにある顔だった。

(そうか……)

 神零は無邪気に笑み崩れ、彼に向かって手を伸ばした。

(なら……そうだな)

 白い光が、エアグゥインターレを吹き抜ける。

 それもすでに、神零からは遠かった。

(…………こんなのも、悪くない、終わり方だ…………)

 指先が、男の手を取る。

 その力強い身体を引き寄せ、確かめるように抱き締めたその瞬間。

 ――――神零の意識は、純白の光の中で、途切れた。


 それでも、確かに、神零は幸せだった。

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ウロボロスの末裔 霧の古都にて 犬井ハク @inuhaku

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