12.血色の慈悲

 どうどうと轟きながら近づいてくる威圧的な地鳴りは、数えきれないほどの人間が立てる足音だ。それらの気配は確かに人間のものだったが、凄絶な血臭と狂気とをはらんでいて、彼らがすでに正気を保っていないことを如実に語っていた。

 主都を護る堅牢な石壁を背に、徐々に近づいてくる黒い点が近づくにつれてゆっくりと人のかたちを鮮明に現してゆくのを見遣って、明るい月に照らし出された中央平原に組まれた陣形の先頭で鬼彌がこっそりと息を吐く。

「……しかし、こうして観ると、凄まじいものだな……」

 嘆息した鬼彌の声には、強靭な意志と同じくらいの位置で、隠し切れない緊張が含まれていて、迦楠はそうだね、と返して彼の顔を見つめた。かすかに笑った灰青の双眸が迦楠を見つめ返し、それだけで迦楠を落ち着かせる。

「鬼彌は怖いと思う?」

「そうだな……己の死や痛みを恐れはしないが、失われる命を惜しいと思うし、なすすべもない私自身を歯痒くも思う。結局のところ、出来ることをやるしかないのだと判ってはいても、な」

 迦楠の問いに、どこまでも一本気な調子で鬼彌が返し、何かを確かめるように腰の剣に触れた。

 迦楠はうっすらと微笑み、鬼彌と同じような祈りを込めた仕草で、手にした大弓を撫でる。

 それはイール樹の特別な若木から作られたもので、《術》の師匠である天無=フェイ=サラスゥオーラが、迦楠が第一位の《術》をすべて覚えた祝いにと贈ってくれたものだ。

 淡い銀色をした見目のよいこれも、すでに二千五百年のつきあいになるが、まだまだ現役で揺るぎない。

 持ち手に施された流麗な彫刻、さすがに磨り減ってもともと何を模して彫られたのか判らなくなってきているそれを指先でなぞりながら、迦楠は鬼彌の秀麗な顔を見上げ、

「鬼彌」

「うん?」

「わたしが君を護るから、心配しなくていいよ」

「迦楠?」

「絶対に死なせたりしないからね、安心して」

「……ああ」

 迦楠の言葉に鬼彌が微笑し、うなずく。

「それは、心強いな。……そうだな、一緒に生き残ろう」

「うん、でも、」

「――でも?」

「もしもわたしが殺意に呑まれて狂ったら、そのときは鬼彌が殺してね」

「……迦楠」

「何となく、判るよ。わたしの奥の方で、もうひとりのわたしが喜んでる。たくさんたくさん殺してやろうって、今からわくわくしてるのが判る。でも、わたしには、それを止める手立ても、止めるつもりもないんだ」

 彼の奥で今か今かと出番を待ちかねている、彼の本質とでも言うべきその混沌とした部分は、迦楠にとっては決して切り離せないものだし、その業もまた自分自身に他ならないのだ。

 その、表に出てくれば屍の山を築かずにはいられない、いのちの喪われることを楽しまずにはいられない、不吉と血の代名詞のような黒い迦楠は、殺意をふりまく青の国の兵隊たちを死で覆い、きっと霧の国を生かすための力になるだろう。

 けれど迦楠は、およそ二千九百年に及ぶ生で、これほど大きないくさに関わったことはなかった。これほどたくさんの狂気と殺意、死の匂いにさらされたことはなかった。自分の危うさを多少なりと理解している迦楠には、このいくさが終わる頃、正常でいられるという自信はない。

 狂った自分はきっと、霧の国の人々にも滅びを撒くだろう。ラオニーナやアーディネイ、ガルドール、霧の国のために剣を取った人々にも牙を剥くだろう、悦楽のままに。もしかしたら、鬼彌にすら刃を向けるかもしれない。

 それは、今の迦楠には耐えがたいことだった。

 それならいっそ、誰よりも大切な人間の手にかかった方が幸せだ。

 だからこその迦楠の言だったが、しばし瞑目した鬼彌は、すぐに何かを吹っ切るように頭を振って迦楠を見つめ、

「判った、そのときには私がすべての始末をつけよう」

 そう、きっぱりと言った。

 迦楠は微笑してうなずく。

 鬼彌がとてもやさしいことを、迦楠を傷つけたくないと心底思っていることを彼は知っているが、あくまでも出来ないと言われるよりも、何倍も心の休まる言葉だった。鬼彌ならきっと、狂った迦楠をとめてくれるだろう、ならばもう、いかなる心配もせずに、迦楠は戦いに専念できる。

「うん、ありがとう。鬼彌がそう言ってくれるなら、わたしは霧の国のための戦いをまっとうできる」

 にっこりと笑った迦楠に、鬼彌はどこか哀しげな灰青の双眸を向け、

「だが、」

 と、言を継いだ。

 首を傾げた迦楠が先を促すと、

「最悪の結末など退けてみせる。迦楠の心は私が護る、だから、何も心配は要らない。明日の朝日をいっしょに見よう、約束だ」

 そう言って、己の剣の柄を、迦楠の大弓に触れさせた。

 どこまでも希望を失わないその言葉に、迦楠の心は明るくなる。彼の奥にいる、黒い迦楠の心までがふわりと軽くなる。

 己の業を鮮やかに癒す、鬼彌という人間の存在に、迦楠は感謝し決意を強めるのだ。

 迦楠は深くうなずいて、己の大弓を、鬼彌の剣に触れさせた。

「うん、そうだね、鬼彌が護ってくれるなら、きっと大丈夫だ。心の中で、いつでも君の名前を呼んでいるよ、わたしも、もうひとりのわたしも。朝日をいっしょに見ようねって」

 迦楠の言に鬼彌は微笑し、うなずいた。迦楠ももう一度うなずき返す。

 そして、迦楠は鬼彌と肩を並べて、平原を埋め尽くすごとくに立つシェンダールの歩兵たちが、ゆっくりと陣形を整えてゆくのを、ずいぶんと軽くなった心で見つめる。

 向こうにも何人か術師がいるのだろう、月に照らされているとはいえ夜闇に覆われた空に、明りをもたらす《術》が次々と放たれる。

 精素の動きからしてそれほどの力量ではないようだが、中位の術師がひとりいるだけで千人の兵士にも匹敵するという現状から鑑みれば、《術》による力比べは極力避けるべきだろう。犠牲者が少ないに越したことはないのだ。

 迦楠はこうべを巡らせて、最古のと称されるエルフ王の子息たるひとりを探し、やや後方にその姿を認めると名を呼んだ。

「キル」

 三つ子の中ではもっとも《術》に秀でたエルフの若者は、どうやら迦楠と同じことを考えていたらしく、淡い緑の双眸を彼に向けてうなずいた。足早に迦楠の隣へ来ると端的に言う。

「我々も話をしていたんですが、《術》を封じるんですね?」

「うん、そう。術師がいると戦いが混乱するからね、早めにかたをつけた方がいいかなって。まぁ、こっちも使いにくくなるけど、一定以上の力があれば絶対に使えないっていうほどでもないから。君たちなら大丈夫だよね、お師匠の子どもだし」

「……我々とあの父ではあまりに力量が違いすぎます。どれほど修練を積み、《術》を磨いたとしても、彼に勝てるとは到底思えませんから。そんな体たらくなので、買い被ってもらっても困りますが、それほど失望させるようなこともないでしょう」

「あのお師匠は本当に非常識だもんね、わたしだって彼には勝てない。――うん、じゃあ封じるよ。あんまり派手に《術》を使って精素がぐちゃぐちゃになるのも不味いしね、ただでさえ人間たちの狂気に惑わされて風の精素たちが乱れ始めてるのに」

「そうですね、ここを不毛の地にしたいというなら別ですが、生き残るための戦いならばあまり過度に使うのはよくない」

 キルディンがそう言うのへうなずいて、迦楠は思考の奥に《術》の構成を組み立て始めた。星と月と太陽、《術》を操る上でもっとも大切な三つを観念の内に思い描きながら指を動かして印を切り、必要な要素を編み上げてゆく。

 ひとりでに迦楠の口からは魔穣源語と呼ばれる咒文がこぼれだし、背後には月の黄金にスミレ色の光の散った、不可視の巨陣が浮かび上がる。千歳級の竜よりもなお大きなサイズのそれに、周囲からどよめきが上がった。

 迦楠たちとは少し離れた位置、陣の中央に立つラオニーナやアーディネイまでが、畏怖と驚きをたたえた目で迦楠を観ている。

 《術》というものは、万能の――何もかもを可能にするような、神のごとき便利な力ではなく、ややこしい組み立てと様々な制約を持ったある種の道具でしかないのだが、それを目にする機会の少ない人々にはそう思えるのだろう。すがりたくなる気持ちも、迦楠には判る。人間たちが寄せる、畏怖と祈りにも似た視線を、痛いほどに感じる。

 術師の力量を測る指標ともなる咒陣だが、迦楠ほどの大きなものを紡ぎ得るものは、彼の知るかぎりではふたりか三人しかいない。もともと、なろうと思えば術師の最高峰である大賢者にでもなれるものを、面倒臭がって申請に行かない所為でずっと慧師のままなのだ。

 そんな迦楠の紡ぐ咒陣が、他者を驚かせるほどに巨大なのは決しておかしなことではないし、人々の視線も間違いではない。

 しかし、

(ごめんね、でも、《術》は世界の均衡を崩すんだ。だから、みんなが期待するような、大きな力は使えないよ……)

 強力な《術》は、迦楠の精神を暗黒に引きずり込むだけでなく、精素を大量に消費するせいで、世界の根源的なバランスを崩してしまう。そして、迦楠は術師として優秀すぎるので、《術》を使えば本来以上の規模を持った破壊の力を揮うことが出来るが、それはつまり、本来以上の規模の精素を望むと望まざるとに関わらずかき集めて消費してしまうということなのだ。

 精素の欠乏した土地は、いのちやことわりの均衡が崩れるために災害が起きやすく、生き物が暮らしていくに適さない場所へと変わってしまう。おまけに、元通りの状態に戻るまで百年も二百年もかかるのだ。術師の適性を持つ者が少ないのは、精素の欠乏による災厄を防ぐために、世界そのものがその数を管理しているためかもしれない、とは養い親たる神零の言だが、迦楠はそれを真理と感じる。

 だから迦楠には、今のうちに、《術》による被害と荒廃が最小限であるよう最善の手を尽くすしか出来ない。これが例えば迦楠の《術》の師匠であるエルフ王であったならば、数万年という生の経験を使ってもっといい手を使うことができるのかもしれないが、ハイ・エルフの中ではもっとも若い部類に入る迦楠では、――精神に闇と歪みを抱える迦楠では、その程度が精一杯なのだ。

(だから、わたしは、《術》の理不尽な力が皆を傷つけないようにしよう。あとのことはきっと、鬼彌やラオニーナたちがなんとかするだろうから)

 心の中につぶやくと、術師にしか理解出来ないであろう奇妙な昂揚感とともに最後の印を切り、迦楠は力を解き放った。

 背後の咒陣が光を放ち、欠片となって霧散する。霧散した光の粒は空へ舞い上がり、複雑な文様を描きながらシェンダール軍を包み込んだ。

 視認出来たのは空を舞う光の粒程度のものだったので、すでに狂気に溺れた一般兵たちは《術》が発動されたことすら判っていない様子だったが、高性能なエルフ耳には、咒陣の組み立てを完全に無効化され《術》を封じられた術師たちの漏らす狼狽した声が聞こえてくる。

 もはや、彼らに《術》が使えたという事実を示すのは、空に打ち上げられた明りだけである。

 《術》の余波として舞った光の粒により、迦楠や三つ子たちの咒陣構成式も無効化されるようになってしまったが、そもそもエルフという生き物は《術》など使えなくとも非常識に強い。

 おまけに三つ子は鬼神とも呼ばれる稀代のエルフ王の子息であるから、《術》が使えないからといってどうにかなるほどやわでもないだろう。

「――お見事です」

 微笑を含んだ声でキルディンが言い、迦楠もそっとうなずいて微笑を返した。隣では、鬼彌が不思議そうに空を見上げている。《術》に関してはあまり詳しくない彼だから、何が行われたかは察せられても、どんな種類の《術》が使われたかまでは理解出来ないだろう。

「補助系の《術》は特にお師匠が力を入れて教えてくれたからね」

「補助-封式系第三位【縛―精―紋(エーラァ・ディイオ・リージェ)】。この場面においては最良と言うしかない《術》です。これであちらの術師の力は無効化されましたね、もっとも私たちの《術》も普段の十分の一以下になってしまいましたが」

「わたしは半分ってとこかな、どっちにしてもあまり使う気はないけどね、霧の国はこれから生きていかなきゃ行けないんだから。……あとは皆がどれだけ頑張れるか、だ」

 迦楠がそう言って手の弓と背の矢筒を確かめたとき、鬼彌がかすかに合図を寄越し、シェンダール軍の整列が完全に終わったことを彼に知らせた。最前列に立つ、鈍い金の甲冑を身につけた壮年の男が総大将だろう。

 金髪に藍眼をした彼は、人品賎しからぬ顔立ちの、どこか高貴な雰囲気をまとった美丈夫だったが、

「あの、目……!」

 彼の目は、それを観た迦楠、徐々に戦いを喜ぶ黒い意志に侵食され始めているはずの彼の背にさえ冷たい何かを走らせるほどの、濃厚な狂気に染まっていた。それは、たとえこのいくさが彼らの勝利に終わり、彼らが故国に戻ったところで正常に戻り得るかどうかも判らぬような、彼の根本的な部分を侵していた。

 野の獣よりも優秀な感覚を駆使して他の兵士たちを探ってみても、皆が皆まったく同じ目をしていた。十万を軽く超える兵士たちの皆が、である。

「同属の血に狂ったか。……浅ましい、ことだ……」

 隣では、眦を厳しくした鬼彌が小さく吐き捨て、ラスナ=ニルの柄をきつく握り締めていた。

 ラオニーナにもそれが判るのだろう、彼女は幾分緊張した――しかし凛と厳しい、美しくすらある面持ちで、腰から剣を引き抜いた。よどみのない、決意と覚悟に満ちた動作だった。

 隣に控えるアーディネイや将軍アルフレッダ、近衛騎士団長のアルルヒンメがそれに倣って剣を抜くと、背後の兵士たちが次々と同じ動作を繰り返してゆく。弓手兵たちが矢をつがえ、槍兵が柄をしごき、騎士たちは構えた盾の具合を確かめる。

 国のために戦うと誓った彼らの顔は、当然ながらどれもがひどく緊張していたが、それでも眼差しに秘められた強い意志は――戦いへの覚悟と勝利への決意は、迦楠の唇に笑みを浮かばせた。

 胸の奥に、猛々しく吼えるもうひとりの己を感じつつ、それと同じ位置で祈りの言葉を繰り返す。この国が終焉など迎えずに済むように、この国の人々が生きて明日の朝日を目にすることが出来るようにと。

 世界の根源に愛され、その恩寵を受けるエルフの強い祈りに精素たちがさんざめき、辺りの空気をやわらかくする。迦楠は目を細めた。

 と、一歩踏み出したラオニーナが大きく息を吸い、総大将たる男に向かって声を発する。それは厳しく力強く、男とか女とかいう枠組みを超えてただ美しかった。

「シェンダールの武人もののふたちよ! 長旅ご足労だった……と言いたいところだが、我が国は不粋な侵略者たちを絶対に歓迎しない! ましてや、咎なき民を害した諸兄らを許すわけにも行かぬ! だが、我らは諸兄らとは違い人殺しは好かぬ、諸兄らの心に人間としての善意や慙愧の念が欠片でも存在するというのならばく去れ、逃げるものまで追いはせぬ!」

 広々とした夜の平原にラオニーナの声が響き渡る。それは為政者として王として民を統べ国の頂点に立つに相応しい、威風堂々たる物言いだった。口上を耳にした国民たちが表情を更に引き締め、背筋をピンと伸ばすのが判る。

 無論ラオニーナとて、それでシェンダール軍が退くとは思ってはいなかっただろう。

 罪のない、か弱い人々まで情け容赦なく手にかけた彼らが、――同属の血に狂った彼らが、口上のひとつやふたつで悔い改め、おとなしく故国へ帰ってくれるはずはない。

 しかしラオニーナも、ほんの少しは『人間』としての反応を彼らに期待していたはずだった。旧い時代のいくさのように、国と国の誇りと信念がぶつかり合うような、人間的な何かを期待していたはずだった。――迦楠もまたそうだった。

 だが、以前はきっと理知的な光を宿していただろう藍色の目を、およそ人間にあるまじき動きできょろりと動かした総大将が、

「我々ハ、お前たちヲ攻め滅ボせと仰せツカった」

 発音の狂った、耳障りに甲高く愉悦に満ちた声でそう言った時点で、ラオニーナの表情が硬く強張った。迦楠の背を、彼の目を見たとき以上に冷たい何かが滑り落ちてゆく。

 そこに『人間』としての彼を感じることは出来なかった。

 それは、彼の中の、情けや理性や知性と言った、人間が人間として他者とともに在るために根本的に必要不可欠な存在が完全に死んだことを示すものだった。

「何故、そうなる前に、手を止めることが出来なかった……」

 総大将の声に同じものを感じたらしい鬼彌が、どこか痛みを堪える風情で小さくつぶやく。どうしようもないことだと理解しつつ、迦楠もうなずかずにはいられなかった。

「王様の命令だから、聞かないわけには行かなかったのかな……」

「――あれは中央軍将軍ハドールだ、現シェンダール王ドゥーハンの実弟だ。私は彼とまみえたことがある、偉大な戦功を挙げた武人でありながら、彼は優しい男だった。命の貴さを知る、愚直で優しい男だった。その彼が、どうして、こんな。彼は武人である前に人間でありたいと言っていた。同属の血のためにああまで狂うほど愚かな男ではなかったはずだ。一体、青の王国に何があったというんだ……!?」

 過去の青の王国を知る人物の、悲痛な色彩を伴った疑念の言葉に、迦楠は眉をひそめた。

 人間という生き物の変わり易さ、その心の移ろいやすさは、彼らが不自由で弱い肉の殻に縛られている所為だが、それでも、一度こうと決めたらてこでも動かないような意固地さ、信念の強さは、きょうだいたるエルフやドワーフに何ら引けを取らないはずなのだ。ましてや彼、ハドールという名の総大将は、鬼彌がそうと認める程度には頑健で優れた人間であったのだという。

 それが、いくら王命といえども、己の魂の許さぬ領域に、ああまで深く踏み込んでしまうものなのだろうか。

「――何かがあったということですか、青の王国に」

「うん……そうだね。本当に、何があったんだろう。青の王国は今、どうなってしまっているんだろう……」

 ハドールから目を離せずにいる鬼彌の隣で、迦楠とキルディンは密やかに言葉を交わす。鬼彌と同じく、ハドールに視線を固定したままで。

 そのハドールが、攻撃開始の指示を出さんと右手を掲げたそのとき、不意に戦場には不似合いな足音がした。ひどく慌ただしく、そして足音を消そうなどという気遣いもない、戦いの場にあるまじき騒がしさだった。

 それと同時に、

「お待ちください、使者殿!」

「どうか、どうかお待ちを!」

「我らには戦うつもりなどないのです、降伏いたします! これはちょっとした手違いなのです、どうぞ剣をお納めください!」

 息を切らし、声を上ずらせながら、樽のように肥満した巨漢から針金のような痩身まで、全部で十二人の老人たちが、転がるようにと称するのが相応しいだろう足運びでハドールの元へ駆け寄る。

 止めようとする間もなかった。むしろ、誰もが呆気に取られていた。

 高位官僚であることを示す衣装に身を包んだ老人たちは、ハドールの軍靴に恭順のキスでもしそうな勢いで土下座をし、そして彼の漆黒のマントにすがりついた。

 ハドールは表情も変えない。口も利かない。

 しかし、老人たちは必死に言い募る。

「わしらは戦いませぬ、これこの通り、降伏いたします! ですからどうか、命ばかりはお助けください!」

「死にとうないのです、死ぬのは嫌なのです。どうか、どうかこの老いぼれを憐れと思し召して、天寿をまっとうさせてくだされ」

「どうか、使者殿! 他の皆も説得いたします、必ず貴国の軍門に降らせてみせます。ですから、どうか!」

 この肌寒い中、汗を垂らして哀願する老人たちを、迦楠はどうとも表現出来ない気持ちで見つめていた。

 ラオニーナの隣に侍るアーディネイが小さく舌打ちをし、

「くそ、もう少し厳重に閉じ込めておくべきだったか……」

 と、呟くのが聴こえた。

 ――――死を恐怖する気持ちはよく判る。

 特に、彼ら人間は、あまりにもあっさりと命を失ってしまう。

 あまりにも唐突に、理不尽に襲いかかるそれを、恐怖し何とかして逃れたいと願うことは当然だとも思う。

 しかし。

「何で奴らに、それが通じるものか……!」

 鬼彌の、搾り出すような声が証明するとおり、情けの通じる相手と通じない相手は、歴然として存在するのだ。同属の血に狂った彼らが、更なる惨劇を求める彼らが、どうして獲物でしかない敵国の、老人たちの言葉を聞き入れるだろうか。

 老人たちはなおもハドールの足元にひれ伏し、憐れっぽい声で哀願の言葉を紡いでいたが、

「汝らハ、死にタクはないト申すのカ」

 不意にハドールが問うたので、一縷の望みがあると思ったのだろう、幼児をあやす玩具のように滑稽な動きで、何度も何度も首を縦に振った。

 音韻の狂った、感情の壊れたその声音は、迦楠の心に不吉を囁くに十分すぎたが、己が助かることに必死な老人たちは気づきもしないのだろう。老人たちは何度もうなずき、上ずった声で慈悲を乞うていた。

 ――――だが、結局のところ、老人たちの必死の懇願が身を結ぶことはなかった。否、最初から、その行為そのものが無駄だった。

 彼らは、霧の国を滅ぼすために来たのだ。

「我が君ハ、人間を滅ボせと仰セダ。滅ビによッテのみ、人間は救ワレるノだと。我ラは主命ヲ受諾し、成し遂げルまデ。――――ひとりタリとして、例外ハ、ナい」

 きょろり、と、爬虫類じみた動きで眼球をまわしたハドールが、唇の端を吊り上げる。そこでようやく、致命的に何かがおかしいことに気づいたのだろう、老人たちの表情が恐怖と絶望に染まる。

 ハドールの手が老人たちを指し示した。兵士たちが、老人たちを完全に包囲する。

「お助けを、お助けを使者殿!」

「どうかお慈悲を……どうかっ!!」

 何人かは逃げ出そうと腰を上げかけ、何人かは再度哀願の言葉を口にしようとした。しかし、それらが成就することはなかった。

「殺セ」

 淡々と狂った声がそう命じると同時に、四方八方から槍が突き出され、老人たちを無慈悲に貫いた。槍は何度も何度も、血塗れでのたうちまわる老人たちの全身に突き入れられた。

 悲痛な断末魔の絶叫と、喜悦の哄笑が交錯する。

 ハドールは……兵士たちは笑っていた。

 無残な血塗れの肉塊となった老人たち、元は霧の国の為政者であった存在が息絶えてもなお、楽しくてたまらないといった風情で笑っていた。完全に狂った、もはや元には戻りようのない声で。

 迦楠は眉を厳しくして弓に矢をつがえた。

 それと同時に、ハドールの視線が霧の国の兵士たちへ向く。彼はまた唇を吊り上げ、肩を震わせて笑った。

 そして、

「ひトり残ラズ殺セ、我らガ王ノ御たメに!」

 飢えた獣を解き放つごとくに、そう、高らかに言い放った。

 喜悦に満ちた鬨の声が上がり、第一陣の波のような突撃が開始される。

 そうして、戦いは始まった。


 *


 迦楠は怒涛のごとくに押し寄せる兵士たちをさっと見遣り、霧の国の人々を観てから、弓手兵たちがするのと同じように弓を引き絞った。そして、躊躇いなく矢を放つ。

 俗に十人力と呼ばれる、弓の中ではもっとも強い力を有したそれから解き放たれた矢は、風よりも鳥よりも早く夜の空を裂いて飛び、青の王国の狂える兵士、張り付いた笑みを浮かべてこちらへ突撃してくる男の首筋を狙い過たず貫いた。

 男が仰け反り、高性能なエルフ耳に、彼の「ぎっ」という昆虫じみた断末魔が届く。

 しかし、矢の勢いはそれだけでは死なず、首を完全に貫通した鋼の矢尻は、男の背後にいたもうひとりの兵士の胸に、死した彼の骸を縫い付けてようやく止まった。

 またしても昆虫か爬虫類を思わせる呻き声とともに、胸を骸つきの矢で貫かれた男が倒れる。

 迦楠はそれには頓着せず、次々に新しい矢をつがえては射た。人間とは段違いに優れたエルフの腕力と集中力は、鎧から露出したわずかな隙間をついては、ひとりないしふたりの人間を串刺しにし、あっという間に死に至らしめた。

 霧の国の陣から、雨のように矢が降り注ぐ。

 狩りが日常的な山野の国だけに、本来兵士ではない人々であってもその腕は確かだ。青の王国の兵士たちは、まるで熟れすぎた果実が地面に落ちるかのような唐突さで、あとからあとから倒れていった。

 倒れてはいったが、兵士たちの数に限りはなく、兵士たちに動揺はなく、彼らはただただ狂った喜悦とともに、同胞の骸を踏み越え、踏み砕いて、あっという間に霧の国の陣へと肉薄する。

 弓矢を使うという選択肢が青の王国にはないのか、――否、矢などでは楽しくないとでも思っているのだろう、向こう側から矢が飛んでくることはなかった。

 しかしそれは、間違いなく、霧の国にとって幸運なことだった。

「弓手兵、退がれ! 長槍兵第一隊、前へ!」

 指揮官ラオニーナの、女性にしては低いのに、とても澄んでよく響く声が、凛と……一分の揺るぎもなく指示を下す。各隊の隊長がその指示を復唱し、兵士たちにその命を伝えた。

 その合図とともに、一心不乱に矢を射ていた弓士たちが、己の弓筒を手に、さっと背後へ退く。そして、組み上げられたやぐらに登ると、弓を手に更に身構えた。矢にも限りがあるので、今度は剣を持って戦う人々の補助に回るのだ。

 数は少ないものの、少ないなりにアーディネイが訓練した結果なのだろう、ほとんどが正規兵で構成された長槍部隊は、よどみのない動きで最前列へと整列し、十カイト(二メートル)ほどもある槍を肉薄する兵士たちに向けて身構えた。

「さあ……正念場だ、気合入れろ!」

 鋼の甲冑に身を包んだアーディネイが轟と吠える。

 長槍兵たちから、それに応ずる鬨の声が上がった。オウイク兵たちの顔には、緊張に優る覚悟がある。なすべきことをなすのだという決意と、国と民への愛と、矜持とがある。


「ひゃは、は、ははは……!」


 その覚悟は、輝く槍の切っ先に力を与え、狂った笑い声を響かせながら突っ込んできたシェンダール兵たちを次々に串刺しにした。

 肉を貫く鈍い音と、くぐもった呻き声と、鎧がこすれあう耳障りな音がする。

「第一隊は退がれ、第二隊、前へ出ろ!」

 大きな塊を貫いて身動きできなくなった第一隊を庇うように、第二隊の長槍が突き出される。その背後には第三隊が控え、緊張の面持ちとともに出番を待っている。

 骸を払い落とした第一隊が槍を構え直し、体勢を立て直して、第三隊の背後で次なる出番を待つ。

 それらは確かに、素晴らしく訓練がなされていた。鬼彌の義兄がどれだけの手をかけて兵士たちを鍛え上げたか、如実に判る動きだった。同数の相手との戦いなら、どことでも引けを取らないだろう。

 しかし哀しいかな、長槍兵の数は決して多くなく、その壁は分厚いとはいえなかった。それに対して、青の国の狂える兵士たちは、まるで蟻塚を叩き壊したかのように、後から後から沸いて出た。

 ――骸が引っかかって抜けなくなった槍を手に、苦闘していた兵士が、突っ込んできたシェンダール兵に身体を薙ぎ斬られた。

「ぐっ、が……っ」

 真っ赤な血がほとばしり、槍を取り落として兵士は倒れた。シェンダール兵はその身体、辛うじてではあれまだ息のある兵士を無慈悲に踏みつけ、隣の長槍兵を斬りつけて、彼が怯んで出来た空間へと突っ込んだ。

 他のシェンダール兵たちが次々とその背後へ続き、彼らは小回りの利かない長槍兵たちを蹴散らしながら、その背後で剣を握り締める、ほとんどが普通の国民で構成された一般兵たちの群へと斬り込んで行く。

 一角を斬り崩され、長槍の陣はぐらりとかしいだ。そもそも、長い槍は、懐に潜り込まれてしまうと弱い。

 ラオニーナがぎりりと歯を噛み締めた。

 もう一度体勢を立て直すしか、再び槍を役立てる手立てはない。

「長槍兵は退がれ、陣を立て直す! 騎士部隊、一般歩兵隊、構えろ! 敵は多いぞ、心しろ!」

 どこまでも澄んで強い声が、厳しく夜の平原を震わせる。

 迦楠は矢筒が空になるまで射たあと、弓を背負うと腰から二本の短剣を引き抜いた。

 あちこちで繰り広げられる激戦と、血を吸ってゆく大地に、迦楠の心はざわざわざわざわと音を立てて騒いでいた。

 ――――楽しくて楽しくてたまらない、と。

 鍛冶師シルウエンディが白竜鋼を用いて鍛えたこの短剣は、今は離れた場所で霧の国のために戦っている養い親とおそろいの品で、千年を経ても切れ味の鈍らない逸品だ。

 迦楠は可能ならば広範囲の攻撃咒文を紡ごうと、精素の様子を伺いつつ、奇声を上げて突っ込んできた兵士の首筋に短剣を叩き込んだ。

 ほとばしる真っ赤な血に、思わず微笑む。

(――――ああ)

 溜め息が漏れた。

 ゲラゲラ笑いながら、剣ではなく斧を手にした兵士が迫ってくる。


「あはは、あは、ははははは! 死ね、死ね死ね死ねっ!」


 迦楠は唇に微笑を刻んだまま、するりと彼の間合いに入り込み、

「それは、君のことだろ?」

 静かに――冷たく笑い、男の胸へと短剣を潜り込ませた。普通の、革や鉄の鎧など、白竜鋼の前には紙も同然だ。

 胸に致命的な一撃を受け、びくん、と震えた男の身体が、がくがく痙攣しながらゆっくりと地面へ崩れ落ちる。短剣を引き抜くと、熱い赤い血潮が、冷え切った空気の中、湯気を立ててこぼれ落ちた。

「さあ……」

 視界の隅に鬼彌が映る。

 流麗な甲冑に身を包んだ彼は、月光に煌く美しい剣を揮って、虫のように群がるシェンダール兵たちを軽々と斬り捨てていた。人間の男としてもっとも円熟した、強さと老練さの双方を併せ持った戦い方は、誰よりも抜きん出て優れていた。

 兵士を斬り伏せ、時には拳や脚に物を言わせながら、近くで戦う一般兵を護ってもいる。一般兵たちは、鬼彌がいるだけでその士気を高められ、また安心して戦えるようだった。

 鬼彌。

 生かすために戦う、誇り高い人間の戦士。

 彼を思うと、迦楠の幼い心には光が入る。

 生かすことと、生きること。

 黒い迦楠は、殺戮のための本能は、その本能のただ中にあって、しかし白い迦楠が望んだことをしっかりと理解し、掴んでいた。

「たくさん殺そう。たくさん、たくさん殺そう。そして、霧の国を、鬼彌を、生かそう」

 つぶやき、迦楠は短剣を握り締めた。

 そして、次なる獲物へと向かう。

 ――月は、彼らの戦いなどまるで無関心な様子で輝いている。


 *


「本当なら」

 剣を握り直した深涛=セレン=キルディンは、敵味方入り乱れた戦場には似つかわしくないほど静かな声でつぶやく。

 突き崩された第一陣をもろともに殲滅せんばかりの勢いで、シェンダールの第二陣が突撃してきて十数分、平原には更なる血の臭いと、激しい剣戟の響きとが満ちていた。

「うん?」

 三つ子の真ん中の言葉に、兄たる深祥=サーラ=ルウネが、深涛とまったく同じ顔を疑問の色にして首をかしげた。彼の剣は、オウイクの民の血に酔って我を失った、シェンダール兵の血と臓物に濡れている。

 その横の深蕾=ゾーナ=ファラソーンは、黙ったままで、無造作に己の剣を拭っていた。この末っ子は、顔はそっくりだが、どんな時でも陽気でおしゃべりな長兄の深祥と冷静で毒舌家の次兄深涛とは違い、必要最低限の言葉しか口にしない。

 長兄深祥はすでに百人あまりを斬っていたが、ドワーフの名工に鍛えられた彼の剣は、いまだ刃こぼれひとつしていない。

 そしてそれを握る深祥もまた、勇猛をもって知られるラファイール国王、エルフの中のエルフと呼ばれる人物の血をもっとも強く受け継いだと言われる子息だけあって、エルフの強靭さを余すところなく発揮していた。息ひとつ上がっていない。

 無論、それは深蕾とて同じことだし、少し離れた場所で金の髪を翻して戦う迦楠=アリス=イライファネラなど、そもそも疲労を感じるのかどうかすら疑わしい。

 エルフと人間では、最初から勝負にもならないのだ。

 彼らの周囲には複数のオウイク兵たちがいて、いつ果てるとも知らぬ大軍に蒼白な顔色の……しかし悲壮なまでの決意を伴った表情を見せているが、その中には拭い去れない疲労が含まれていた。

 戦いが始まっておよそ三時間、極度の緊張にさらされ続ければ、もろい肉体しか持たない人間はなすすべもなくその身体を衰えさせていくだけだろう。

 それだけに、三時間の激戦を何でもない様子でこなし、人一倍どころか十倍ほどの働きを見せながらまだまだ余力のあるロシュネイダやアーディネイ、ラオニーナの頑健さには驚かされるばかりだ。

 彼らの剣が無造作に揮われるたび、シェンダール兵たちの身体が冷たい地面に沈んでゆく。

「私は前衛じゃないんですけどねぇ」

 深涛の言葉に、深祥はちょっと黙ったが、突っ込んできた兵士の剣を跳ね飛ばし、返す刃でその身体を斜めに斬り下ろしてから口を開いた。

「でもおまえ、剣も使えるだろ」

「当然です、兄上には勝てませんが、私だって父上の子どもですからね。でも、出来ることなら後方で《術》の援護に徹したかったですね。まぁ、封じられてしまってはどうしようもありませんが……」

「ま、今更、ってことだ。精素の様子から言って、使おうと思って使える《術》はあと二三回ってとこか。必要ならおまえの援護は僕がしてやるから、安心して《術》を使いな。向こうさんが慌てふためくようなのをブチまけてやれ」

 楽天的なのが身上の森エルフらしい暢気さで深祥が言い、深涛は苦笑してから「はい」と頷いた。

 波のように押し寄せるシェンダール兵たちは、正気や人間味が消し飛んだ眼をしていた。人間がこんな目をできるのだということを、深涛は生まれて初めて知った。

 深涛たちはブルー・ハイと呼ばれる、ホワイト・ハイと森エルフとの混血で、基本的に森エルフの五倍程度の寿命を持つ。そのブルー・ハイの中でも千歳を超えたばかりの若いエルフなので、人間同士が起こすここまで激しい戦に関わるのもまた生まれて初めてだ。

 深涛はたかだか百年しか生きない人間が、どうしてこんなにも生き急ぐのかをいぶかしむのと同時に、人の血がどれだけ人の心を狂わせるか、その体現を目の当たりにしていた。

 それは世界の創り手たる統太母の戒めなのだろうか。それとも、彼らが殺した罪のない人間たちの嘆きが、彼らの心を蝕んでいるのだろうか。

 同属殺しが罪深いのは、エルフにとっても人間にとっても同じことなのだ。

「統太母の長子が、いまだ幼き末子を殺めるなどと、本来ならば忌むべきことなのでしょうが……しかし、罪なきオウイクの民を見殺しにもできませんしね……」

 独白し、胸中に咒陣を思い描きながら、歌うように魔穣源語を紡いでゆく。

 《術》の効力は父王の友人たるブラック・ハイによって十分の一以下にされてしまっていたが、それでも深涛は、賢者クラスの優秀な術師だった。どの《術》がもっとも相応しいか、使いどころをわきまえている。

 魔穣源語による咒陣の構築によって、深涛の背後には銀の混じった淡い緑色の光が走り、陣を描いてゆく。

 と、不意に深蕾が深涛の魔穣源語に唱和し、同じ咒文を紡ぎ始めた。それに気づいた深涛が咒文の調子を遅らせ、末弟に合わせる。まったく同じ顔のふたりの、わずかに高低の違う声が、音楽のように和音を奏でた。深蕾の背後に銀のまじった青緑の光が走り、咒陣を構築していく。

 やがて、時を同じくして完成した咒陣は、違った色合いに輝きながら宙へと飛散した。

 一瞬おいて、不意にゴウッという轟音が響き、三つ子たちの頭上を、巨大な颶風の塊が駆け抜けていく。あまりの勢いに、オウイク兵たちまでよろめいたほどだ。

 風の塊は、まるで大鳥が羽根を広げるように影響範囲を増大させながら、まだオウイク陣へは到達していないシェンダール兵たちへと襲いかかった。

 その勢いは空を引き裂くかのごとくに飛翔するリンドブルム以上で、物理的な力さえ持った風の塊に直撃され、千人以上の人間たちが、後方の人間を巻き込みながら吹き飛ぶ。つむじ風にさらわれるようなものだ。

 何人もの人間が激しい勢いで地面に叩きつけられ、また背後の仲間たちと激突し、身動きもできなくなる。衝撃のあまり絶命したものも少なくはないようだった。

 戦闘不能に陥ったものは、巻き込まれた人間を含めて三千人弱といったところか。小さな町の人口を思わせる数だが、それでも、十五万の兵士の中ではほんの一部に過ぎない。

 風衝系第四位、【鵬―翼―飛―衝―波(エヴァ・ル・イーレ・アイ・オゥラ)】、敵の撹乱を目的として使われる補助系の《術》だが、ふたり分の力が加わったことで、攻撃系の《術》と呼んでも差し支えのない程度の力を持ったのだ。

 これで《術》を封じられていなければ、その倍以上の人間たちが、完全に叩き潰される程度の無残な力の元に犠牲になったことだろう。無論それはその倍以上の精素を消費し、この国を不毛の地へと変えてしまうという危険性をも含んでいるのだが。

「……人間が脆い生き物で助かった」

 ぽつりとこぼしたのは深蕾だ。

「いかに人の血に狂っていたとしても、身動きできないほどの衝撃を受ければ、なお立ち上がって戦おうとは思わないだろう。俺は、出来ることなら、無闇に人を斬りたくはない……」

「ええ、そうですね深蕾。わたしも、出来ることなら、きょうだいなど殺めたくはありません。きっと、霧の国の誰もがそう思っていますよ」

「でも、そうするしかないってんなら、僕は躊躇わないぞ。親父殿の命は、神零を手伝ってこの国を護ることだろ」

「ええ、兄上。この国の人たちも、同じことを言うんでしょうね」

「そういうことさ。さあ行こう、弟たち。ラファイール・エルフの真髄を、人間たちの目に焼き付けに行こう」

 笑った深祥が剣の血を払い、しっかりと握り直す。

 頷いた深涛が、弟とともに兄のあとを追って一歩踏み出したとき、

「補填部隊! もういいだろう、ゴレムを起動させろ!」

 霧の国王女ラオニーナの、誇り高く澄んだ、性別を超越して美しい声が厳しく響き、陣の両脇に配された石像付近からそれに応じる声が上がった。

 ぎりぎりまで精神力の注入が行われていたその石像、旧い時代の兵士の姿をしたそれらが、ぼんやりと淡い光を放つ。光が石像を包み込み、隅々まで行き渡ると、ゆっくりと石像の手が、足が動き出した。

 轟、と、声なき声で石像が――ゴレムと呼ばれる古代の戦道具が吠える。その動きは滑らかで、人間と寸分の違いもなかった。恐らく、たくさんの人間がゴレムたちに祈りを込めた結果なのだろう。

「さあ……ゴレムたち。敵は大勢だが、お前たちの強力ごうりきの前には敵うまい。その偉大なる力を、青の王国の連中に見せつけてやれ!」

 剣を掲げたラオニーナがそう言うと、ゴレムたちは人間さながらに、握った拳を人間で言えば心臓のある辺りへ当て、恭しく一礼した。そう、騎士が主君にするように。

 その後、全部で十八体のゴレムは、『彼ら』用にと準備された巨大な石棒を手に動き出した。全長にして二十カイトほどのゴレムたちだが、石で出来た巨体に反して、その動きは決して鈍重ではない。むしろ、巨体であるがゆえに一歩一歩が大きく、普通の人間よりも素早いとすら言えた。

 またしても轟と吠えたゴレムたちは、『彼ら』に気づいてさっと退いたオウイク兵士の群れを超え、シェンダール軍へと石の足で踏み込んでゆく。

 近くにいたシェンダール兵士が、その爪先に蹴り飛ばされ、甲高い悲鳴とともに宙を舞った。彼の身体がどう、と音を立てて地に落ちるよりも早く、ゴレムの手にした石棒に薙ぎ払われたシェンダール兵士たちが、五六人まとめて吹き飛んだ。

 わあっ、という歓声が上がる。

 ゴレムたちは躊躇も逡巡もなく石棒を揮い、足を踏み降ろしたり手を振り払ったりして、次々にシェンダール兵士を宙に舞わせて行った。一息に五人六人を軽々と葬り、疲れという感覚が存在しないことを見せ付けるかのように、間髪入れず次の敵を打ちのめした。

 その活躍ぶりにオウイク兵たちは勢いづき、剣や短槍を手にシェンダール兵へと撃ちかかる。白刃のきらめきが、月光の下に踊った。

 圧倒的なゴレムの力を前にしても、シェンダール兵たちには相変わらず狂気の笑みが張り付いているだけだったし、青の国の狂える戦士たちはまだその数を半分にも減らしていなかったが、少なくとも、今のこの瞬間、希望を信じていない者はひとりもいなかっただろう。

「……どうか」

 深涛は強い祈りとともに剣を揮っていた。その希望を信じたかった。兄も弟もまた同じだろうと思う。

 霧の国に所属しているわけではない彼らは、この国と最期をともにするつもりはない。敗北が決まれば、神零に指示されたとおり、王都に残って兵士たちの無事と国の存続を願う人々を連れ、彼らをどこか遠くへと逃す責務を果たすだろう。

 彼らはエルフだ、人間同士のいくさで命を落とすつもりはないし、またその義理もない。

 けれど、ほんのわずかな間であれ、戦友として時間を共有した人間たちが、強大な悪意になすすべもなく打ち砕かれてゆく姿は観たくなかった。

「二十二柱の貴き神々よ」

 そんな思いを込めて深涛がこぼした言葉に被せるように、

「どうかこの国に一片の慈悲を垂れ給え」

 ぽつりとそうつぶやいたのは深蕾だ。彼の剣は何人斬ってもまだ白々と輝いていたし、その動きに疲労はなかった。

 ざくり、とシェンダール兵の胸に剣を突き立てた深祥が、更に言葉を重ねる。

「生き急ぐがゆえに美しい人間たちに、我らがきょうだいたちに、悪意のとばりを降ろし給うな。生きたいと願う人々にこそ、どうか存続を」

 それは、激戦の最中にあっては、彼ら以外の誰にも届かないほど静かな祈りだった。

 祈りながらも、三人は的確に――躊躇なく剣を揮い、シェンダール兵の首を足を腕を落とし、胸を腹を顔を貫いてゆく。三人は、祈りだけでは何も護れないことを、何も変わらないことを理解している。

 だからこそ、淡々と、戦いが始まった頃から何ら変わりのない動きで戦場を舞いながら、深涛は襲い来るシェンダール兵たちを次々に斬り捨てて行く。隣では、深蕾が身近なオウイク兵を守りながら戦っている。深祥はまるで一陣の風のように、シェンダール兵を翻弄し屠って行く。

 それだけが――それこそが、希望を潰えさせない唯一の方法だと、エルフの王子たちは理解している。


 *


 迦楠はそのとき、戦鬼ベルセルクのガルドールが、周囲の敵を蹴散らしながらラオニーナに何かを告げているのを視界の端に捉えていた。

 あまりに騒々しすぎて、さすがのエルフ耳にも内容は聞き取れなかったが、告げるというより懇願するような様子のそれに、ラオニーナが小さく頷くと、若いベルセルクは軽く頭を下げて身を翻した。彼の姿を目にした何人もの獣人たちがその背に続く。

 どこか別の場所を護りに行くのだろうと、あまり深くは考えずに、迦楠は迫り来るシェンダール兵の首筋を短剣で薙いだ。動脈に深い切れ込みを入れられ、兵士は絶叫とともに倒れた。噴き上がる血が、彼の身体を赤黒く染める。

「迦楠」

 うっすらと笑って短剣から血を払った迦楠は、いつの間にか傍に来ていた鬼彌が、彼を気遣うように呼んだので、ほんの一瞬だけ白い迦楠に戻って邪気のない笑みを浮かべた。

 その笑みに、鬼彌もまた安堵に似た笑みを浮かべる。

 剣の輝きは衰えることなく、返り血もほとんど受けていない、まるで神話の英雄がそのまま抜け出してきたかのような姿で、鬼彌の武骨で長い指が、迦楠の頬についた血を拭う。その人差し指に、黒貴銀の地に透明な貴石のはまった、勇壮で美しい細工の指輪を見つけ、迦楠はスミレ色の目を細める。狼と鷲が珠を競い合う意匠は、力強く躍動感にあふれていた。

 見たことのあるそれ、実は深い謂れと意味とを持つらしい指輪にほんの少しだけ触れると、じんわりとした温かい力が胸にしみこんだ。血の臭いと悪意に、徐々に黒へと染まりつつあった迦楠の意識が、白でも黒でもない中間へと戻る。意識は、視界は、白々と清浄でクリアだ。

「……それ、神零の?」

「ああ、お守りだと言われた」

「そうなんだ。……護ってくれそう?」

「そんな気がしている」

「そうか、じゃあ、平気だね」

「……ああ」

 短く言葉を交わし合い、笑顔で頷き合って、ふたりはまた別々の敵を見据える。シェンダール兵たちは躊躇なく同胞を蹴散らし、踏み潰してゆくゴレムにも怯むことなく、波のように押し寄せる。

 ――のんびりしては、いられない。

「また、あとでね」

「ああ、またあとで」

「ちょっとお腹が減ってきちゃった」

「すべて終わったら、シヴァーティリーに菓子を焼いてもらおう」

「ああ、いいねそれ。甘い生クリームがたっぷりかかったりんごのケーキが食べたいな」

「そうだな、そうしよう」

 何でもない調子で他愛ない言葉を交わし、そしてふたりはまた離れる。

 ほんの一瞬の邂逅は、しかし迦楠の心を確実に正常の側へと引き戻した。黒い迦楠は殺戮を楽しんでいたが、それと同時にオウイクと鬼彌を守るのだという強い意識に衝き動かされてもいた。

 ちらと鬼彌に目をやると、彼の剣が月光をはらんで揮われるたび、辺りには血の臭いと悲鳴が立ち上った。

 迦楠はそれをたとえようもなく美しいと胸の奥に溜め息し、それから白竜鋼の短剣を、シェンダール兵の顔面に深々と埋め、更に深々と斬り払った。ぱっと血のしぶきが飛んで、鋭利な短剣に頭蓋を断たれ、鼻から上の頭部が、脳味噌を噴きこぼし、ぐらぐらゆれながらぽろりとおちる。

 ゴレムは次から次へとシェンダール兵たちを踏み潰し、叩き潰し、オウイク兵たちは疲れをにじませながらも士気を衰えさせることなくシェンダール兵たちを迎え撃ち、狂剣に斃れながらも骸の山を築いてゆく。迦楠の身体が疲労によって力を失うことはないし、鬼彌は、エルフの王子たちは、ラオニーナは、アーディネイは、的確に指示を下し、周囲の人々を守りながら、五時間という長い時間を何でもないかのように戦い抜いている。

 誰もが希望を信じているだろうこの場にあって、しかし、何故か迦楠の心には不吉な色が射していた。

 彼は致命的に鈍いので、その不吉が一体何なのかを理解することは出来ない。ただ、狂おしいほどに、何かよくないことが迫っているような、そんな予感を抱いているだけだ。

 空の天辺へ上った月は、彼らの様子などお構いなしに、その冷ややかに美しい光を分けへだてなく与える。

「うわあっ!」

 悲鳴がして、振り返ると、今にもシェンダール兵の剣が倒れたオウイク兵の身体へと振り下ろされようとしているところだった。倒れたオウイク兵はまだ若い。怪我をしているのではなく、剣と剣のぶつかり合いの結果弾き飛ばされ、転んでしまったものであるらしい。

 ぎゅっと目をつぶった若者の身体に、シェンダール兵の無慈悲な剣が吸い込まれるよりも早く、迦楠はシェンダール兵の背後へ肉薄し、短剣でその首を薙ぎ払った。普通の鉄を紙のように斬り裂く白竜鋼の刃は、兵士の首をあっさりと切断し、吹き飛ばした。

 首をなくしてぐらぐらゆれていた身体が、どさりという重々しい音を立てて地面に倒れ込んだ。ビクビクと手足を痙攣させ、斬り落とされた首の断面からは鮮血がこぼれ落ちる。

 いつまで経っても痛みや衝撃が訪れないことに気づいたのか、恐る恐る目を開けた若者が、迦楠の姿を目にして安堵の表情を浮かべる。

「あ、ああ……ありがとう、ございます……」

「どういたしまして」

 迦楠はうっすらと笑い、若者に向けて手を差し伸べる。それどころではないのに、そのときの迦楠はそうしたかったのだ。そうするべきだと、白い迦楠がつぶやいていたのだ。

 ――――そこへ、『それ』は訪れた。

 唐突に。

 はにかんだような笑みとともに迦楠に引っ張り起こされていた、若者の顔が引き攣る。わずかに銀色めいた灰の目に、驚愕と、隠しようのない恐怖がちらついた。

 迦楠が眉をひそめるよりも早く、驚愕と恐怖に優る決意の表情を浮かべた彼は、迦楠を思い切り突き飛ばした。

「う、わ……っ」

 いかに頑丈なエルフ、頑丈な迦楠といえど、木や鉄の塊ではないので、衝撃を与えられてその場になおも留まれるわけではない。なすすべもなくよろめきながら、一体何が、と若者の姿を確認しようとした迦楠のすぐ横を、凄まじい颶風が駆け抜けて行った。

 若者が突き飛ばしてくれなかったら、間違いなくその颶風に巻き込まれていただろう。

 彼はどこに、と、若者が立っていた場所に目をやっても、そこに見覚えのある姿はなく、ただ、黒々とした小山のようななにものかが、背中の翼をはためかせながら蠢いているだけだった。

 何事かと一瞬眉をひそめた迦楠は、その小山の下から、ばきばきという何かを砕く生々しい音と、くぐもった断末魔の悲鳴が聞こえてきた時点で顔色を変えた。

 背負っていた弓を構えると、倒れたオウイク兵の矢筒から矢を引き抜き、さっとつがえると、その小山めがけて鋭く射放つ。解き放たれた矢は、至近距離だけに狙いをはずすこともなく、ヒョウと鋭い音を立てて空気を裂き、小山の真ん中に突き刺さった。

 ぎゃっ、という甲高い声がして、黒々とした小山が一瞬動きを止める。


 ぐるるる。


 唸り声とともに、小山が迦楠を振り返った。

 鷲の頭と鉤爪のある前脚、胴と後ろ脚は馬。翼は黒く、大きく、禍々しい。血を思わせる朱色の目には、迦楠への怒りが揺れている。

 普通の矢ではその身体を深く傷つけることは出来ないのだろう、獣は背に突き刺さった矢など、くすぐったい棘のひとつ程度にしか感じていないようだった。

 その巨体の下に、先ほどの若者が血塗れで倒れているのが見える。辛うじて息はあるが、獣の前脚で骨のあちこちを砕かれ、更に首筋を引き裂かれているらしく、噴き出す血の様子から一目で致命傷と判った。

 迦楠の眉根が寄る。

 ざわり、と周囲の精素がざわめいた。

「魔獣ヒポグリフ。何故、こんなところへ、こんな時に?」

 つぶやいたとき、別の場所から、先ほどの若者と同じ類いの悲鳴が次々に上がった。

 振り返るまでもなく危険なものと判る、人ならぬ強大な存在の気配に顔をしかめ、迦楠は再び弓を背負った。それらは血と肉への歓喜に咆哮し、更なる血の臭いを撒き散らし始めている。

「……飼っていた、ってことかな。だけど、血に我を忘れた人間に、魔獣が制御できるわけないよね……」

 戦場に飼い慣らした魔獣を持ち込むことは決して珍しくはない。魔獣たちは気性こそ荒いが、制御すらしっかりできれば非常に頼れる存在だ。彼らは強く、疲れを知らず、そして賢い。

 しかし、血に狂った人間が、血を求める魔獣を巧みに制御できるはずがないのだ。彼らは厳しい統率者なしには、強い意志と理知を持って己を従わせるものなしには、すぐに本来あるべき姿へと戻ってしまうのだから。

 魔獣たちを解き放ったのはシェンダール兵かもしれない。だが、魔獣たちは、同胞であるはずの彼らへも牙を向いていた。

 鷲の頭、前脚には鉤爪、鷲の翼、四肢の身体を持ったグリフィンが、獅子の頭に山羊の身体、蛇の尾を持つキマイラが、猿の頭に虎の身体、蛇の尾を持つぬえが、翼ある虎の姿をした窮奇きゅうきが、二十数頭の魔獣たちが、歓喜の咆哮を響かせながら敵も味方も関係のない殺戮を開始していた。

 シェンダール兵がグリフィンに食い殺され、オウイク兵がキマイラの前脚に叩き潰され、二頭の鵺に突撃されたゴレムが轟音とともに砕け散る。

「……馬鹿が!」

 遠くで鬼彌の、侮蔑もあらわに吐き捨てる声がする。

 迦楠は本当だね、と胸中につぶやき、冷ややかな笑みとともにヒポグリフと向き合った。獣が、ぐるる、と怒りの含まれた声で唸る。

 魔獣の中では中位に属するこの生き物は、種の発端がグリフィンと馬との交配にあるらしい。自然に出来た種ではなく、暇を持て余した精霊が気紛れにふたつの生き物を交わらせて出来たと伝えられている。

 出来たそれが馬やグリフィンと交わったが、交わって生まれたものはすべてがヒポグリフだったという。それが今に至り、ヒポグリフという種族として存在しているのだ。

 馬の血を引くゆえに、決して人に慣れぬ生き物ではないが、グリフィンの血の強さもあって、油断するとヒトなどあっという間に餌食になってしまう。

 迦楠は白竜鋼の短剣を両手に構え、ヒポグリフを見つめた。

 そこに恐怖はなかった。

 黒い迦楠にあるのは、怒りと殺意と殺戮への歓喜だ。

「うぅ、う……」

 首筋から血を噴きこぼしながら若者が呻く。

 迦楠のスミレ色の双眸に、激しい火がちらついた。

「お前は、わたしが殺すよ」

 言った迦楠が一歩踏み出した瞬間、ヒポグリフは背中の巨翼を激しくはためかせて宙に舞い上がった。地に縛りつけられてそこから離れることの出来ない迦楠を嘲笑うように。

 魔獣は、迦楠に狙いを定めると、大きな身体に似合わぬ俊敏さで突っ込んでくる。稲妻のような速度だった。

「わあ、速いね」

 しかしそれは、エルフの目にとってそれほどの脅威ではなく、迦楠は笑ってその一撃を避ける。ヒポグリフのくちばしは迦楠のすぐ横を素通りし、その背後にいたシェンダール兵の胸を貫いた。甲高い絶叫が上がる。

 朱色の目に忌々しげな色を宿したヒポグリフは、くちばしを引き抜くと鷲の前脚でシェンダール兵の身体を掴み、まだ息のあるそれを引っさげたまままた宙に舞い上がった。強靭な前脚につかまれたシェンダール兵は、がくがくと身体を震わせながら何事かを喚いている。

 高さにして十ジット強(およそ三十メートル)まで飛んだヒポグリフが、掴んでいたシェンダール兵を放り投げる。兵士は甲高い声で喚きながら、くるくるまわって地上へ落ちた。落下地点にいたシェンダール兵とオウイク兵のふたりがそれに巻き込まれ、声もなくその場に崩れ落ちる。

 あれでは、巻き込まれたものの命もないだろう。

 どうやらそれが楽しくなったらしく、ヒポグリフは迦楠を無視して次の獲物の元へ舞い降りた。シェンダール兵をつかむと翼をはためかせて飛び上がり、上空と低空を行ったり来たりした後、玩具に飽きた子供のような唐突さで、兵士の身体をぽいと放り投げる。

 シェンダール兵は見事な放物線を描いて落下し、同胞を巻き込んでそのまま動かなくなった。

 次に、運の悪いオウイク兵がその前脚に掴み上げられ、宙吊りになる。


「ああ、あ、あああ……!!」


 悲鳴を上げる仲間を助けようと、他のオウイク兵たちが剣を振り回すが、ヒポグリフはそれらを嘲るように剣の間をすり抜けて低空を飛び、憐れな獲物に絶望の悲鳴を上げさせた。

「……何だ、あいつ」

 ぼそりとつぶやいた迦楠は、死に瀕した若者の断末魔の痙攣をチラリと見遣り、それから少し離れた場所で鬼彌がキマイラと対峙しているのを見てから、再度周囲を見渡した。

 長槍兵の落とした十カイトの槍を見つけ、うっすら笑うと、短剣を腰に戻してからそれを拾い上げる。槍は3クラン(9キロ)ほどの重さがあったが、秀でた身体能力を誇るエルフの中でも特に非常識な部類に入る迦楠には、重いというのもおこがましい程度のものでしかなかった。

 人間たちをからかうように、五ジット前後の低空を飛び回るヒポグリフを見据えると、

「――――落ちろ」

 低い一声とともに重く一歩踏み出し、魔獣に向けて槍を投擲する。

 非常識な腕力を駆使して放たれた槍は、禍々しい音を立てて風を切り裂き、空気を震わせて飛んで、今まさに憐れなオウイク兵を放り投げようとしていた魔獣の、腹から首を一息に貫いた。下腹から入った長い槍の切っ先が、反対側の首から滑らかに顔をのぞかせる。


「ぎっ!」


 一声鋭く鳴いたヒポグリフは、ギャアギャアと喚きながら何度も羽ばたき、体勢を立て直そうとしたが、身体に金属の棒が入っては果たされず、徐々にその高度を落としてゆく。

 ヒポグリフは、やがて二ジットの辺りまで降下したところで、力尽きたかのようにオウイク兵を放し、ゲッゲッと呻いてから地に落ちた。九死に一生を得たオウイク兵は、幸運なことに怪我もなかったようで、その場に落ちていた剣を拾うや、瀕死のヒポグリフの首を刎ね飛ばした。

 首を失った魔獣の巨体が、ずしんという音を立てて地面に倒れこむ。

 それを見届けてから、迦楠は若者のもとへ走り寄った。

 彼の傍にしゃがみこんで見下ろすと、かすかな痙攣を繰り返す若者の顔は、すでに土気色になっていた。首筋からの血はもはやほとんど止まっている。流れ出すものが、もう尽きてしまったのだろう。

 どろりと濁った目を見開き、ごぼごぼと音を立てて、口から血の混じった泡を吐いている。

 それでもまだ、彼は生きていた。

 無駄と判って命が身体にしがみつこうとしているのか、激しい苦痛に痙攣を繰り返しながら、それでも彼は生きていた。

「……ごめんね」

 黒い迦楠は小さくつぶやく。

 ここが戦場でなければ、今の彼が黒い迦楠でなければ、若者を救う手立てはあった。『迦楠』は、大賢者にも匹敵する魔力と知識の持ち主なのだ、命がわずかにでも残っていれば、その離れ行く魂を呼び戻す《術》はあった。

 ここが平和などこかなら、そこにいたのがいつもの迦楠なら、若者を救ってやることは不可能ではなかった。

 けれど、今の迦楠には、ヒトを救う力はなかった。

「今のわたしには、治癒の《術》は使えないんだ」

 彼が黒であるがゆえに。

 彼が死の本能の体現者であるがゆえに。

「ごめんね」

 迦楠はまたつぶやいた。

 黒い意識の真ん中を、苦い感覚が這い上がる。

 今の彼は確かに黒い迦楠だった。それなのに、彼が感じている痛みは、脳髄を締め上げるような苦悩は、本来白い迦楠が感じるべきものだった。『自分たち』がこうまで混じっていることをいぶかしみつつも、こうあってしかるべきなのだと共通の意識が囁いている。

「護らなくちゃいけなかったのに、助けてもらっちゃった」

 つぶやいた迦楠の上着の裾を、唐突に若者の手が掴んだ。どこにそんな力が残っていたのかと思うほどの強さだった。

「――きみ」

 まさか身動きが出来るとは思っておらず、瞠目した迦楠の眼下で、ぶるぶる震える手で迦楠の服を握り締めた若者が、かさかさにひび割れた唇を開く。その口の端から、血泡がどろりとこぼれおちた。

「お、おね、おねが、い、で、です、う……うぅ、うつ、美しい、方。と、う……とうと、き、母、の、おさご、た、たる……方よ」

「――――うん」

 迦楠は頷き、血塗れの若者の手を取って、片方の手で額をそっと撫でた。

 もはや死相が現れ、血と涙で汚れた顔で、ほんの少しくすぐったげに笑った若者が、最後の力を振り絞るように言葉を紡ぐ。かさかさに乾いて耳障りな、しかし必死の色を宿した声だった。

「どう、か……どうか、きり、の、くにを。ひめ、さま、を……」

 若者は言いかけて咳き込み、またわずかに血を吐いた。ひゅうひゅうと喉が鳴る。この状態で、ここまで喋れたことがすでに奇跡なのだ。若者の強い意志と、祈りとを感じる。

 迦楠はその、徐々に冷たさを増してゆく気すらする手をそっと握り締め、彼の耳元に囁いた。

「護るよ。護ってあげる。約束、するよ」

「あ、ああ……あり、がと……ござぃ……ま、す……」

 若者の、濁ってしまった灰色の目に、ゆるりとした安堵と喜色が揺れる。ほろほろと、雫のように涙がこぼれた。

 迦楠はもう彼の目が見えてなどいないと気づきつつ頷き、もう一度優しく彼の額を撫でてから、最後に尋ねた。

「楽に、してほしい?」

 返ったのは、様々な思いを含んだ微笑と――小さな頷き。

 迦楠はほんの一瞬目を閉じると、腰から白々と輝く短剣を引き抜いた。刃は不釣合いなほどに冷たく美しく、月の光を反射して煌いた。

「さよなら」

 迦楠はかすかな声で言い、高く掲げた刃を、若者の胸へと叩き込む。肉を裂く手応えを、黒い彼らしくもなく、たとえようもなく重いと感じながら。

 刃が心臓を貫いた瞬間、若者の身体はビクリと跳ね、そしてゆっくりと力を失った。血塗れの手が、迦楠の手からだらりとこぼれて地に落ちる。その最期の顔が安らかだったことだけが救いだった。

「『エストレイドゥーア・マヌ・ティース・フュ・レンティエール・ニム・アヴィス(聖別されたる幸い人に祝福あれ、かの人のゆく道に光あれ)』」

 小さく小さく哀悼句を紡ぎ、ほんの少し瞑目してから、迦楠はゆっくりと立ち上がった。

 魔獣の乱入と暴走により、戦局は一層の混乱を見せ始めていた。誰もが混乱し、右往左往しているに均しい状況だ。

 静かに佇む迦楠に剣を向けてくるシェンダール兵はいなかった。声をかけてくるオウイク兵もいなかった。ゴレムはその半数が魔獣によって破壊され、弓士のための櫓のほとんどが倒壊していた。

 ラオニーナはアーディネイとともに窮奇を倒すのに必死で、三つ子たちはめいめいが鵺を相手にしていた。ルウネの、キルディンの、ファラソーンのよどみなく舞う剣が、魔獣の肉を削ってゆくのが見える。

 誰もが自分のことで必死だった。

 そんな中、裂帛の気合とともにラスナ=ニルを揮い、キマイラの首を斬り落として勝負をつけた鬼彌だけが、戦場のただ中で呆けたように立ち尽くす迦楠に気づいた。

「迦楠!」

 身近にいたシェンダール兵を薙ぎ倒しながら、迦楠の元へ走り寄ってくる。

「どうした、怪我をしたのか!?」

 いかに人間の中では突出した実力を持つとは言え、さすがに魔獣との戦いでは疲れたのか、息を弾ませ額に汗をにじませた鬼彌が、気遣うように声をかけつつ迦楠の肩を叩く。迦楠は肩に置かれたその手、武骨で大きく、温かいそれを取って、手袋の上から手の甲をそっとなぞった。

 この手が、迦楠の髪を毎朝結うのだ。器用に、美しく。せっかくの綺麗な髪だから、そのままにしておいてはもったいないと言って。優しく梳いて、優しく編むのだ。

 そう、迦楠が護るべきなのは、そういう優しいものたちなのだ。

 そういうものたちのために、きっと黒い迦楠はいるのだ。

 唐突に、しかし確信を伴って、迦楠はそのとき気づいていた。

「……迦楠?」

「――――鬼彌」

 誰よりも大事な人間の名を呼んで、迦楠は静かにその手を離した。

 訝しげに自分を見下ろす鬼彌に微笑みを向け、そして、

「もしもわたしが狂ったら、鬼彌が殺してくれるよね」

 確かめるようにそう言って、鬼彌が何か言うよりも早く、彼の脇をすり抜けて走り出す。

「迦楠!」

 鬼彌の呼び声が聞こえたが、立ち止まりはしなかった。

 走りながら、迦楠は魔穣源語を口にしていた。

 大賢者クラスの、そこに存在するだけで精素を呼び集める迦楠が紡ぐ“力ある詞(ことば)”に応え、自分の周囲へ集ってくる精素、自分に力を貸そうとする精素たちを、意識の中で力をこめて振り払う。精素たちの驚く気配が伝わってくるが、迦楠は、ここを不毛の大地にするつもりはなかったのだ。

 ――――彼には判っていた。

 このままでは、きっと、ラオニーナや鬼彌が望んだような終わり方はできないのだと。

 魔獣が出てこなければ、ゴレムが破壊されなければそうはならなかったかもしれない。人々の士気は高く、誰もがこの戦いを最期まで戦い抜く覚悟と意志に満ちていた。

 しかし、こうなってしまえば、予想外の存在に戦場がかき回され、人々が混乱し体勢を崩してしまえば、もう、次にものを言うのは圧倒的な物量でしかなかった。

 現在戦いに投入されているシェンダール兵は七万人ほど、平原の向こう側では、ほとんど無傷な八万の兵士たちが、自分たちの出番を待ち侘びているのだ。今、それにぶつかられたら、六万から大幅に数を減らしたオウイクの人々は持ちこたえられないだろう。

 その戦局を引っ繰り返すには、結局のところ《術》しかなく、《術》を封じられたこの平原にあって、戦局が変わるほどのものを紡ぎ得るものといえば迦楠しかいないのだった。

 けれど強大な《術》は、精素を激しく消費する。その結果大地の活力は削り取られ、その上で命が営みを続けてゆくことが出来なくなってしまう。

 それでは意味がなかった。

 生かすことの難しさを、黒い迦楠は初めて意識していた。

 殺すことの容易さに比べたら、なんと手間のかかることだろうか、と。

 その中で迦楠が選択したのは、自分を削ることだった。

「――――いつも、神零がやってたことだよね」

 《術》をひとつ使うだけで身体を破壊されていた養い親を思い出し、迦楠はスミレ色の目を細める。あれは結局のところ、精素を――世界の生命力を削ることを厭うがゆえに、無意識に自分の力だけで、精素の力を借りずに《術》を発動させているがゆえなのだ。

 無尽蔵とすら言われる魔力を持つ迦楠に、それが出来ないはずはない。肉体への負担など、今更知ったことではなかった。

 最後の一音を唱えると同時に、迦楠の背後には、月の黄金にスミレ色の光の散った、巨大な咒陣が浮かび上がった。竜が周囲を睥睨するような威圧感を与える、荘厳な光の陣だった。

 狂気じみた喧騒に包まれていた戦場に、ほんの一瞬の静寂が落ちる。狂ったシェンダール兵ですら、歪んではいたものの畏怖に似た光を宿して迦楠を見ていた。

 迦楠は小さく笑った。

 発動の印を切る。

「迦楠駄目だ、それは、――――!」

 鬼彌の声が聞こえた。

 彼はヒポグリフと対峙していた。先刻迦楠が倒したものよりいくらか大きい個体だった。その所為で、こちらへは来られないらしい。ヒポグリフ程度に遅れを取るほどやわではない人物だが、それを軽々とあしらってしまえるほど『人間』は強くないのだ。

 こちらを制止しようと向けられた灰青の目に、ただ純粋に迦楠を案じる悲痛な光を見出して、黒い彼の胸はほんの少し疼いた。

(――――ああ)

 溜め息が漏れる。

 先ほど漏らした、歓喜の溜め息ではなかった。嘆きとも諦観とも、安堵とも取れぬ溜め息だった。

 きっと大きな《術》は、迦楠の心を完全に壊してしまうだろう。

 迦楠はきっと、狂うのだろう。

 それでも、彼は、躊躇わなかった。

 その結果生きるものがあるのなら、彼が身を、心を砕くことで守られるものがあるのなら、それは結局運命なのだ。定められた生と死があることを、死ぬべき命と生きるべき命は厳然として別たれているのだということを、迦楠はもう千五百年も前から知っていた。

 あの、心優しい英雄の顔が――その笑顔が、ほんの一瞬、迦楠の脳裏をよぎった。

 世界を救い、人を護って死んだ、生まれて初めての『ともだち』の顔が。

「迦楠!!」

 鬼彌の呼び声を合図のようにして、巨大な咒陣が宙へ霧散する。月の黄金色の光が、スミレ色の小さな光の欠片をまとってきらきらと辺りで輝く。

 不意に――あまりに唐突に、迦楠を中心に激しい風が吹いた。迦楠からほとばしったと言うべき風は、彼の周囲二ジット(五メートル前後)の人間たちを薙ぎ倒し、吹き飛ばした。

 迦楠の唇に、うっすらと笑みが浮かぶ。

「衝撃系第一位【神―顎―衝(ル‐ゼア‐イオラ)】。潰れてしまえ、人間たち」

 淡々と冷ややかな、まるで神の物言いのごときその言葉が終わるか終わらないかの瞬間、何が起きるのかと訝る人々の上空十ジット付近で空間がゆがみ、そして、


 ――――ごっ。


 鈍い音を立てて、目に見えぬ何かが、シェンダール軍の無傷な陣へ向かって舞い降りた。

 それは、冬の寒い日に立ち上がった霜柱を子供たちが踏みつけて遊ぶような、そんな無邪気ささえ感じさせながら、その場にいたおよそ一万の兵士たちを、瞬きの間でただの肉塊へと変えた。

 空間を練って創られた衝撃波を上空から叩きつける《術》で、攻撃系の《術》の中では一二を争う規模のものだが、兵士たちは、最後まで自分に何が起きたか判らなかっただろう。

 その一撃で、平原の彼方まで続くかと思われたシェンダール軍の一角が目に見えて凹む。大量の血と肉の海を創り上げて。それはあまりにも強大な、あまりにも単純な、そしてあまりにも残虐な殺戮だった。

「脆いね」

 つぶやき、微笑んだ迦楠は、そのあとほんの少し顔をしかめた。

 胸を込み上げてくる熱い塊が何なのか、当然のように理解していた。

「ああ、やっぱり」

 それすらも楽しげに言って、激しく咳き込む。

 口元を押さえた手の、指の隙間から、鮮血があふれてこぼれ落ちた。

 精素の力を借りずに放つ《術》がどれほどの衝撃を自分の身体に与えるか、迦楠は身を持って体験していた。非常識なほどに丈夫な迦楠や神零だからまだこの程度で済んでいるが、普通の人間なら《術》を解き放とうとした瞬間に身体が崩れ落ちているだろう。

 《術》とは本来、それほどの負担を強いるものなのだ。

「でも……悪くない、よね。わたしにできることは、これだけなんだもの」

 迦楠は咳き込みながらつぶやいた。熱い塊は、あとからあとから込み上げ、迦楠の口の中に鉄の臭いを運んでくる。血なんて美味しいものじゃないな、と、のんびり思う。

 迦楠、と、遠くから鬼彌が呼んだ。

 入り乱れるシェンダール兵に阻まれて、いまだ生き残る数体の魔獣に阻まれて、彼はこちらに来られずにいる。

 それでいい、と迦楠は思った。

 醜い、殺意の塊たる自分を、あの優しい人間に見せたくはなかったのだ。

 ――殺せ、と、黒々とした意識が命ずる。

 殺せ。

 その本能の赴くままに、と。

「うん……判ってる。霧の国を、鬼彌を、死なせたくないからね」

 迦楠は頷き、血にまみれた唇で、何度も咳き込みながら、次なる魔穣源語を唱え、咒文を紡ぎ始める。ずたずたになった内臓が、熱と痛みを訴え始めたが、今更頓着することでもなかった。

「ラオニーナが、アーディネイが、霧の国の人たちが、――鬼彌が、どうか綺麗な朝日を観られるように」

 つぶやき、咒陣を展開させる。

 ――黒々とした殺意に飲まれてゆく魂を感じる。

 それでも、こぼれおちる咒文によどみはなかった。黒に飲まれる己すら、必然であると感じられた。

 今の彼は確かに黒い迦楠だった。神零と鬼彌が、そうはさせるまいと、そうはなってほしくないと悲痛に願った『黒』の体現だった。

 けれど今の、黒い迦楠は、自分の楽しみのためだけではなく、ただ大切な人が生き伸びるために力を揮っていた。養い親と親友が、優しくあれと、光に満ちてあれと望んだように。

 迦楠を愛するふたりは、その点では、彼を過小評価していたと言える。彼の魂は確かに幼かったが、それと同時に、大切なものへの執着と愛情は、黒い幼い意識を凌駕するほど深かったのだ。

 瀕死の若者にとどめを刺したことも、身を削って《術》を使い、己が狂ってなくなることも恐れず次の《術》を紡ごうとすることも、すべては『白』の迦楠と『黒』の迦楠がバランスを保ってなしたことだった。

 ――それしか、迦楠に出来ることはなかったのだ。

 幼い心しか持たない迦楠には、歪んだブラック・ハイたる彼には、それ以上のことが思いつかなかった。

 彼がこうして示した破壊の力、殺戮の力のすべては、己の命を、心を犠牲にしてでも何かを護ろうという意識は、黒い幼い迦楠が人々に示し得た、唯一にして純粋な、――――血の色をした慈悲だった。




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