11.朝日のために
大陸共通時間にして五時、まだ夜と変わらぬ暗さの、そして霧に覆われた王宮前広場には、驚くほどたくさんの民が集まっていた。
王宮前広場は大きな式典などが催されるときに使われる場所なので、主都エレダイルの住人たちがすべて集っても平気な程度には広いはずなのだが、各地域から逃れてきた民の混じっている今日ばかりは全員入ることは叶わず、町へと続く道路へとはみ出しているものも少なくなかった。
本来、主都エレダイルの人口は五万を少し超えたくらいだ。
五割の民が他国へ避難したと聞くから、主都住民だけなら現在ここにいるのは三万人に満たないはずなのだが、その住民が全員集まるよりもなお多いのは、正規軍の兵士たちが多数集っているのに加えて、恐らく主都へ避難してきた国民の半数以上が集まったためだろう。
正規軍の制服をまとった兵たちが声を上げ、民衆の列を整理している。
男が多いのは当然だが、中には決意に表情を凛々しく引き締めた女たちも混じっていて、鬼彌は救われるような思いをしていた。王宮前広場の噴水横にある階段に腰をおろし、ラスナ=ニルを右腕に抱きながら、もうじき王女が現れるであろう、広場に面した王宮バルコニー、今は霧にけぶるそれを見上げる。
この中の誰もが、王女ラオニーナにすべての責を負わせることなく、自らの意志で集い、戦う決意を固めていることが明らかだったから、こんな時だというのに、鬼彌の心は軽かった。
あの、強くて優しい、そして強くて優しいがゆえに大きなものをひとりで背負ってしまいがちな彼女の持つ、痛みを伴う重い荷を、皆で分かち合おうと誰もがここに来たことが明らかだったからだ。
章輝=エレン=ラオニーナは、古い血に縛られがちな、歴史ある国の王族らしからぬ広い視野を持った聡明で思いやり深い女性で、鬼彌がまだ牙の国の筆頭近衛騎士を務めていた頃、狼王の剣と呼ばれていたころの、彼女がまだ少女であった時代から、国民たちには非常に慕われていた。王族内の人気で言えば文句なしに一番だろうし、彼女の呼びかけになら、国民の多くが応えたことも頷ける。
ウィルバーク王は後継ぎたる男子を十二年前と十年前に相次いで亡くし、ラオニーナの姉である一の姫と二の姫は他国に嫁いで久しいため、王位を継ぐのはラオニーナしかいない。
彼女のような為政者なら、国民の幸いと平穏を第一に考え、旧い因習などに縛られることなく、霧の国を栄えさせていくだろう。
だからこそ、今を限りに、いずれ賢王となるであろう王女を失わせてはいけないし、その彼女とともに国の明日を創ってゆく、民をひとりでも多く生き延びさせなくてはならないのだ。
(私は、私にできることを。――この、剣にかけて)
鬼彌が、最愛の王から賜った剣、誉れの石と呼ばれる剛剣を撫で、自らに強く断じたとき、
「あの。不躾なことをお伺いいたしますが、もしやあなたさまは、牙の国のロシュネイダさまでは……?」
隣に立った老人が声をかけてきたので、微苦笑を浮かべて彼を見上げた。
身なりも姿勢も悪くなく、皺とともによい意味での老いを重ねた、穏やかな理知が見え隠れする男だった。
「……確かに私はロシュネイダですが、今は牙の国の人間では」
言うと、老人はその灰色の目に懐かしげな光をたたえ、
「やはり、そうでしたか。存じております、亡き狼王の剣よ。といってもあなたさまはわたくしをご存知ではありますまい、わたくしは十五年前まで牙の国に居を構えておりました。常にかの慈悲深き狼王陛下とともにあらせられたあなたさまのお姿は、忘れようと思って忘れられるものでもございませぬし、狼王陛下とともにこちらにおいでになったときの、あの勇壮なるお姿を忘れることも出来ませぬ。恐らく、あなたさまのことを見覚えているものも、ここには少なくありますまい。文化の国たるオウイクの民にとって、あなたさまは戦意の象徴でございますれば」
静かに言ってひざまずくと、鬼彌の大きな手をそっと取り、その指先に敬意のキスをした。これは高位にいる騎士に、剣を握るその手と、それを操る指とを称え、祝福のためにするものだが、一般的には下級の騎士や貴族、もしくは神官などが、高位の騎士に対して行う。
十年ぶりのそれに、今はもう騎士でもなんでもないんだが……などと思った鬼彌だが、かといって拒絶するのも失礼なので黙って受けつつ、彼は灰青の目を眇め、小さく首を傾げた。
老人の雰囲気は、戦士や貴族のものではない。
「……貴殿は神官どのか? フィル=エギロエナの?」
世界随一の戦闘国家たるフィル=エギロエナが信奉するのは、戦場の守護神にして鍛冶を司る神でもある、創世二十二柱神のひとり、
その神官たちは戦場へ赴く戦士たちを祝福し、その勝利を祈願し、また死したのちの魂を慰めて清め、次の輪廻の流れへと送り出す役目を担っている。
「ニゼリーと申します、偉大な剣よ。いかにもわたくしは天武王シヴァータに仕えておりました。第三神殿の神官でしたが、十五年前に娘がこちらへ嫁ぎましてな、遅くに出来た、たったひとりの娘ゆえ、心配で矢も楯もたまらずに着いて来てしまいました」
言って笑う顔は好々爺そのものだ。
牙の国と霧の国は、国家間の距離や国の規模の問題などから、正式な同盟があるわけではないのだが、先代の狼王、故・
特に、鬼彌の主であったエギルーシア王は、戦ばかりで雅ごとがさっぱりだったため、それゆえに芸事の達者なウィルバーク王を憧れの目で見ていたような節があった。おかげで鬼彌も、彼に仕えた十年の間、年に何度かは霧の国へ赴き、彼とウィルバーク王が親交を暖めるのにつきあったものだ。
王同士が親密なため、国民の行き来も多く(と、いっても距離があるため『頻繁に』とは言えないのだが)、そのためニゼリーと名乗ったこの老人の孫娘のような、異国間の婚姻も珍しくないのだ。
「そう……でしたか。貴殿も戦われるおつもりで、ここへ?」
「ええ、もちろん。婿殿も、孫息子もそのつもりです。亡き兄君方に代り、国のために尽くしてこられた姫さまに、こんなとき報いずにどうします」
胸を張り、誇らしげに言う老人のその決意が快かったので、鬼彌は思わず微笑した。
彼は実の親も出身地も知らず、属する一族も信仰を捧げる神も持たぬ、魂の根幹から孤独と流浪を宿命づけられた存在だ。
しかし、ただひとりの王に十年のあいだ信念と誇りのすべてを捧げて仕えた、その胸の昂揚が、彼に命をかけて守り抜くべきものの存在を教え、また道を同じくする人々へ笑みを向けさせるのだ。
「……そうですね、亡き我が君も、霧の国を愛しておられました。ここの、静かで、理知的で、豊かな文化を愛しておられました。ならば、今は流浪の身となったとしても、私もまた亡き主君の思いに応えねばなりますまい」
「――かの、誉れの石の名にかけて」
神技の近衛騎士ロシュネイダの名が語られるとき、必ずそれとともに誰もが誇らしげに紡いだ、狼王が彼のためだけに鍛えさせた剣の名を、ニゼリーがいっそ恭しくすらある風情で唱える。
その名前が聞こえたのか、それとも鬼彌の顔を見覚えている者がいたのか、いくつもの視線が彼を見つめ、そして密やかに何かしらを囁き交わすのが聞こえた。
十年前とは、人相風体の類いで言えば『雰囲気が変わった』どころでなく変わっている鬼彌は、十年も経てば誰も覚えてはいるまいと思っていたのだが、人間には珍しいほどの長身と、そして鬼彌自身はあまり頓着していない整った容貌のために、彼が誰なのか気づいた人間は少なくないようだった。
牙の国の、近衛騎士の、狼王の剣の、といった単語が感嘆と敬意を伴ってあちこちで囁かれ、鬼彌はそのざわめきに微苦笑する。
今の彼は牙の国の近衛騎士でも狼王の剣でもなく、ただ復讐心から世界を放浪する流れの剣士に過ぎないのだ。ご大層な畏怖や敬意を向けられるような存在ではない。
仄かな希望のこもった視線にさらされる面映さから、鬼彌がその場を退散しようとしたとき、
「ふむ……やっぱ使えるな、お前。よし決めた、ちょっと来い坊主」
気配も何も感じさせず、唐突に彼の背後から義兄の声がして、ぎょっとするよりも――坊主とか言うなという抗議の声をあげるよりも早く、勢いよく腕を引っ張られて立ち上がらされ、ニゼリーへの挨拶もそこそこに王宮内へ引きずり込まれる。
何が起きたのか判らずなすがままの状態で小さな部屋に押し込められて、そのまま更に身につけていた濃灰色のマントや上着などを剥かれた段階で、ようやく鬼彌は我に返った。
「何だ何だ、一体何なんだ! ちゃんと説明しろ、香重!」
大人げなく喚きつつ、気配に気づいて部屋を見渡すと、そこには香重の他にベルセルクのガルドールがいて、大きな箱から白い布で包まれたいくつもの何かを取り出しているところだった。
陽気なベルセルクは、問答無用で弟の衣服を剥ぎ取りにかかる香重に呆れたような鼈甲の目を向け、『何か』から白い布をはがしながら言う。
「……おいおい、弟の意志はまったくもって無視かよ? 一応、何をするのかとか何をして欲しいのかとか、説明してやった方がいいんじゃねーの? お前の弟なんだったらどうせ頑固なんだろうし、そんなことで、血で血を洗う兄弟喧嘩に発展しても知らねーぞ、俺」
対する香重は、対象物の図体のでかさに辟易した様子で、すでにシャツまで脱がされて素肌をさらしている鬼彌の背中を平手でぱちんと叩き、胡乱げに自分を見下ろす彼を見上げると、
「神技の近衛騎士ロシュネイダが参戦するとなれば、士気はずいぶん上がるだろうな?」
そう言って、ガルドールによって布を外された、漆黒に輝く金属を鬼彌に手渡した。反射的に受け取ってしまってから手元を見下ろして、鬼彌は顔をしかめる。
鬼彌が反射的に受け取ったそれは、一般に黒竜鋼と呼ばれる、非常に丈夫な金属で出来た肩当てだった。
もしやと思って箱に視線を向けてみれば、ガルドールが次々と取り外す布の下からは、甲冑のパーツ以外のなにものでもないしろものが顔をのぞかせていく。
ランプの光を受けて荘厳に輝く鎧には、銀で幾何学的な文様が描かれていて、その細工の確かさからは、明らかにこの甲冑が高貴な身分の人間のために作られたものだということが判る。
「……これは、もしや」
何となく閃くものがあって鬼彌がつぶやくと、香重は小さく頷いた。
「そう、姫の兄君である第一王子のために作られた鎧だ。もっとも王子は、背丈はあったが武に関してはからきし駄目だったらしく、これが実際に使われたことはなかったそうだがな。その辺りは、俺よりもお前のほうがよく知ってるだろう?」
「……ああ。王子はひとりで馬にも乗れぬほど身体を動かすことが苦手だったな、確かに。ウィルバーク王の血を引く五人の御子の中で、武にも秀でていたのはラオニーナ姫だけだ。私は余興の席で彼女と手合わせをしたことがあるが、姫の剣筋は迷いがなくて速い。実戦向きの剣だ」
「ああ、剣の師匠が森エルフだったらしいからな。――まぁ、それはさておき、だ。幸いこの甲冑はお前にぴったりのようだから、お前、こいつを着て姫の隣に侍れ」
「――――は?」
唐突な言葉に、鬼彌は眉をひそめた。
「牙の国の騎士はひとりで千人の戦士にも匹敵するという。戦闘国家フィル=エギロエナの騎士が、ひとりとはいえ応援に駆けつけたとなれば、オウイクの民の希望はわずかなりとも高まるだろう。ましてやお前はこの国の人間たちに顔が売れてる、煽動にはもってこいの逸材だ。――と、いうことで今すぐに着ろ、時間がない」
香重はそう一方的にまくし立てると、鎧とあわせてあつらえられたのであろう黒いシャツと上着を鬼彌に放り、鎧を保護している布をガルドールと一緒に剥がし始めた。
が、鬼彌が硬直したように身動きしないのを見て、
「どうかしたか?」
かすかに首をかしげて問いかける。
鬼彌は首を横に振った。
胸の奥に、痛くて苦いものがゆっくりと拡がってゆくのを感じる。それは、何事にも前向きな鬼彌が、十年経ってもいまだにひきずっている、唯一の傷であり過去だった。
「……私はもう、フィル=エギロエナの民でも騎士でもない。私の中の、『神技の近衛騎士』は、我が君を喪ったときに死んだんだ」
「あのな、」
「無論のこと、オウイクのために戦おう、この命をかけてでも。だが……再び『騎士』に戻ることは、私には辛い」
そう言って、鬼彌が肩当てをテーブルの上に置くと、何かを言おうとしていた香重は大きな溜め息をついた。
それから、つかつかと鬼彌のもとへ歩み寄ると、その広い背中を平手で力いっぱい叩く。
ばちん、という大きな――間の抜けた破裂音がして、痛みに思わず顔を引き攣らせた鬼彌へ、右手の人差し指をびしりと突きつける。
十年ほどの年の差に加えて、経験や視野の関係で、この義兄に勝てた試しのない鬼彌は、反射的に一歩後退して身構えた。
香重は、鬼彌が十歳にもならないうちに、世界を観て回りたいという自由気ままな願いのまま生家を飛び出して、傭兵の真似事をしながら世界中を旅して歩いていたという行動力あふれる男で、その磨き抜かれた身体と築き上げられた経験は、神技の……という呼び名をほしいままにした鬼彌をして、彼には敵わないと言わしめるだけの実力となって発露している。
剣の腕だけ、身体能力だけでなら鬼彌の方が上かも知れないが、機知と応用力に富み、雑多かつ豊富な技術を習得している香重には、どうしても勝てる気がしないのだ。
――あの、旅の連れの、非常識な傭兵なら、鼻歌でも歌いながら倒してしまうかもしれないが。
養父母が病で死んだあとの数年間、牙の国の前国王に出会い黒エルフの親友に出会うまで、義兄にくっついて世界を旅していた鬼彌なので、香重の実力は痛いほどに理解しているし、こうと言い出したらてこでも動かない頑固さも理解している。
基本的には仲のいい兄弟なのだが、へそを曲げた兄にしばき倒された記憶をいくつも持っている鬼彌には、香重はよき兄であると同時にどうしても勝てない恐ろしい存在でもあるのだ。
――三十七歳にもなって情けない話ではあるのだが。
その香重が口を開き、
「いいか、鬼彌。お前の感情はどうでもいい、俺にとってはな。決戦にまで着て行けとは言わんから、もうじき始まる姫の演説の場でだけは着ろ。希望もクソもない俺たちに、わずかばかりの昂揚を寄越せ」
と、厳しく断じたその言葉に、今更ながら鬼彌は気づいた。
――彼がすでに、霧の国と最期をともにする覚悟でいることに。
鬼彌は言葉を失って、義兄の鳶色の双眸を見つめる。
「――兄貴、あんたは、」
何かを言おうとして、何を言えばいいのか判らないことに気づく。
香重は鬼彌の灰青の目へ、うって変わって明るい、ただ兄が弟に向ける親愛深い笑みを返し、
「俺は姫と霧の国のために死のう、彼女の楯となり国の壁となって。そうだな、別に、死にたいわけじゃあないが、そんな覚悟ならとっくにできてるさ、姫に拾われたときからな。何よりもここはいい国だ、古臭い面倒なしきたりも多いが、ここの古い、静かで深い空気は悪くない。俺は、国が生き延びる運命ならその礎の力となり、滅ぶさだめならば最期を見届けよう。ようやく見つけた安住の地、俺の骨を埋めるための国だ、そのくらいのことはしてしかるべきだろうさ」
悲壮感のない、事実を告げる口振りで言う。
鬼彌はテーブルに置かれた甲冑の、そのまぶしい黒に少しだけ悩み、やがて深々と溜め息をついた。胸の苦さは今も疼くが、死すら甘受する覚悟でいる兄の、その誇りと信念に悖るような真似だけは出来ないと切実に思う。
そして、黒いシャツに腕を通し、もう一度溜め息をついてから、
「……で、どれとどれをつければいいんだ?」
苦笑まじりに問いかけた。
香重が深い笑みを浮かべ、彼の背を軽く叩くのへ、肩をすくめてみせる。
*
香重は、黒竜鋼の鎧を輝かせ、深緑のマントを翻しながら廊下を進む鬼彌の背を惚れ惚れと見上げた。
兄である彼の背丈を拳ふたつ分ほど超してしまった大柄な弟は、しかし決して鈍重ではない、むしろその長躯には似合わぬほどに身軽な、まったく無駄も隙もない足運びで、広場に面したバルコニーに続く部屋へと歩いてゆく。
鬼彌=ノニア=ロシュネイダという名前の、香重が十歳になるかならないかの時期に家族となったこの男は、本人はあまり頓着していないようだが、同性ですら見惚れてしまう程度には水際立った、静謐さと勇壮さを兼ねそえた美丈夫だ。
気楽な根なし草ゆえか、無造作にくくっただけだった髪とほったらかしにされていた髭を整えられた鬼彌の、静けさと雄々しさの同居する、どこか高貴な色彩を含んだ男性的な美は、同じように廊下を行く騎士や侍従たちを思わず立ち止まらせ、その姿に見惚れさせた。
香重は、それを我がことのように誇らしげな気分で眺めながら、鬼彌の後ろについて章輝の元へと歩く。
彼は、鬼彌が十三歳のときから十七歳になるまでの四年間、ともに世界を旅してきた。
幼いころはひ弱で、村の子どもの誰よりも小さく、短気で喧嘩早い少年たちにはしょっちゅう虐められていた弟が、世界を巡る旅の中で、様々なものごとを学び、経験を積んで、少しずつ人間として戦士として成長していく過程を見守ってきたのだ。
他に兄弟のいなかった香重には、年の離れた鬼彌は誰よりも可愛い存在だったし、離れて暮らすようになってからも、弟が牙の国に仕えた十年間は、時折は文のやり取りをして、お互いの近況などを知らせあっていた。――その後、根なし草となった鬼彌が、世界を放浪するようになってからのことは、人づてに聞いたわずかなことしか知らないのだが。
この、血のつながった兄弟よりも深い絆で結ばれた義弟が、誰よりも愛した王の死を、いまだに引きずっていることも知っている。
『神技の近衛騎士』と呼ばれ、フィル=エギロエナ随一の……ひいては世界に名だたる戦士として称えられた彼が、仕えた王の死によって国を飛び出し流浪の身となったことを教えてくれたのは、懇意にしていた水の国ヴィヴィの老騎士だった。
純粋でまっすぐな――悪く言えば融通の利かない性質に育った弟が受けた衝撃の大きさを、十年経った今でも彼が牙の国に戻っていないことが物語る。牙の国の現王は、今でも鬼彌の帰りを待っているとも聞くが、恐らく彼は帰れまい。
その鬼彌に、一時的にではあれ『神技の近衛騎士』に戻るよう強いることが、彼に痛みを思い出させる惨い所業なのだと知っていて、香重があえて我を通したのは、人間が痛みを超えるためには痛みが必要なのだという香重自身の思いがあったことも事実だが、鬼彌の気持ちを無視してでも何かしらの鼓舞が必要だという、切羽詰った状況のためでもある。
王宮前に集った霧の国の民はざっと数えて三万弱、正規軍も三万弱。その人数で十五万のシェンダール軍と戦わなくてはならないのだ。大軍同士のぶつかり合いで最後にものをいうのは所詮数だ、十五万対六万では勝負は見えているし、ましてや、世界でも五本の指に入る強大なシェンダール軍と、半数が一般人という付け焼刃のオウイク軍では、最初から不利どころか無謀としか言えない戦いだ。
戦士としての経験が豊富な香重には、何をどう足掻いても、この戦いが絶望的という枠組みを離れられないということがよく判っていた。
しかし、彼が命をかけて護ると誓った姫がこの国のために死ぬ覚悟を決め、この国を愛する民がこの国に残り最期をともにするというのなら、彼もまたそれらの思いに殉ずるだけだ。
そのために、少しでもできることをするだけだ。
聡く思いやり深い弟はそれらのことを察し、己の痛みを押し隠してでも、香重のために『騎士』に戻ってくれたのだろう。
ほんのわずかな、希望の種をまくために。
不器用でまっすぐなその気遣いに報いることが出来ればいいんだが、などと思いながら、鬼彌に続いてバルコニーに通ずる部屋へ入る。
そこには白い鎧に身を包んだ章輝=エレン=ラオニーナとオウイク正規軍の将軍である
「わぁ、とてもよく似合うよ、鬼彌。なんだか、君に初めて出会った二十年前を思い出す。あの時も君はそんな風に黒く輝く鎧を着て、しゃんと背筋を伸ばしていたっけね」
鬼彌の甲冑姿に目をやった黒エルフの青年、イライファネラが口元をほころばせて言うと、鬼彌は香重が見たことのない、はにかんだような微笑を浮かべて「そうか?」と返した。
その微笑は、彼の抱える過去を超越したもので、香重はこの黒エルフの青年が鬼彌の隣にいる限りは、何を心配する必要もないのだということを唐突に理解した。
そして、彼の痛みをそんなにも簡単に癒すイライファネラに、驚きと感謝の念を抱く。
イライファネラは、深い藍色の上着のうえに革の肩当てと胸当てをつけ、腰には流麗な細工の施された短剣を二本佩いて、背には大きな矢のたくさん詰まった筒を負っている。矢筒の矢を見れば判る通り、その、決してたくましくは見えない手には、俗に十人力と呼ばれる特別に大きな種類の弓があった。やわらかな灰銀に輝くそれは、おそらく世界でもっとも優美で丈夫な樹木、イール樹から創られたものだろう。
彼は、武装していなければ絶世の美姫とも見紛う繊細な面立ちの持ち主だが、香重には、この黒エルフが確かな手練れであり、熟練の戦士なのだということもまた理解できていた。
「ハ、確かによく似合っている、オウイクの民はさぞかし力づけられようさ、牙の国の騎士は力と意志の代弁者だからな」
そう言って笑ったのは伝説の傭兵だ。
その周囲がシンと静謐に冷えるような錯覚を覚えて、香重は思わず居住まいを正す。
神零=エル=シヴァーティリーという名の、数えきれぬほどの伝説を持つ傭兵は、縹色の上着の上に、イライファネラと同じく黒革の肩当てと胸当てをつけ、腰の両横にイライファネラと同じデザインの短剣を一本ずつ吊るし、腰には真紅の、視界の端に捕らえただけでめまいを感じるほどの力にあふれた剣を佩いていた。更に、両方の、二の腕半ばから手の平半ばまでを、肩当てや胸当てと同じ色合いの黒い革篭手できつく巻いている。背には黒灰色の防塵マントがある。
その装いは、比類なく整った、繊細優美な顔には似合わぬ武骨さだったが、しかしその武骨さは、遠い上古の時代に聖なる戦場を疾駆した、貴い神の戦士を彷彿とさせる。
鋼の甲冑を身につけているわけでもないのに、香重がシヴァーティリーから感じたのは物々しさだった。
「……あんたがそこまで重く装うのは珍しいな、シヴァーティリー。いや、いつものあんたが軽装過ぎるだけかもしれんが」
どうやらそれは弟も同じだったらしく、シヴァーティリーへ視線を移した鬼彌がそう言うと、傭兵は小さく肩をすくめてみせた。その仕草にリンドブルムがピィと鳴き、翼をはためかせる。
「ああ、まったくだ。この私にここまで装わせたいくさは、千五百年前の“黄昏の大戦”以来だな。――だが、このくらいは必要だろうさ、盛大な祭になりそうだからな」
返したシヴァーティリーの口調には、緊張や悲壮感の類いはない。
「……ふむ、全員揃ったな。では、始めようか」
その場にいるメンバーを見渡し、ラオニーナが言うと、同じく周囲を見渡したイライファネラが首を傾げる。
「あれ、あのベルセルク……ええと、ガルドールだっけ、彼は?」
「ああ、彼は同族や獣人族で構成された軍の指示に行っている。我が国にはそうたくさんの鬼や獣人がいるわけではないが、彼らは皆優秀な戦士たちだ、心強い戦力になってくれることだろう」
ラオニーナの返答に反応したのはシヴァーティリーだった。傭兵は深紅の眼を細め、悪戯っぽくつぶやく。
「ハ、あのひよっこが指揮官か。まぁ、その呼び名が飾りのたぐいではないことを祈るさ……」
「それは心配不要だ。アイツは確かに青い部分も多いが、戦いにおいて見せる判断力には疑いがない。俺もラオニーナも、そのことは誰よりもよく知っているし、信頼してる」
香重の言葉に、シヴァーティリーは軽く肩をすくめただけだったが、王女はそれで充分だと思ったのだろう、
「……さあ、では行こうか、諸君。霧の国の明日を担うために」
そう、重々しく言って、白み始めた空を垣間見せる、白いバルコニーへと踏み出した。一行もその後ろに従う。
ただし、シヴァーティリーだけは部屋に残った。無論理由あってのことなのだが、そのことで、鬼彌が一瞬訝しげな表情をし、首を傾げながらバルコニーへと歩いて行った。
一時間ほど前までこの辺り一面を覆っていた霧は、まるでそれが冗談か何かだったかのように晴れ渡り、夜の藍と朝の朱の混じる、奇跡のごとくに美しい空を香重たちの眼前に広がらせていた。
「……こんなときなのに、空は綺麗だね……」
イライファネラがぽつりとつぶやく。
そのつぶやきから、世界は常に、どんな時でも、残酷なまでに平等で美しいのだな、と、いつだったか章輝が言ったことを思い出しながら、香重はバルコニーへと足を踏み入れた。多種多様な祝い日や記念日に、王族やまつりごとにたずさわる高官たちが一堂に会して式典や演説を行う場所なので、十人や二十人が集ったところで窮屈ではない。
5ジットほど下に広がる広場を見遣ると、様々な顔つきのオウイク国民が、これだけは一様に、不安と決意に揺れる表情でバルコニーを見上げている。
彼ら、彼女らは、バルコニーの中心に章輝が立つと、ざわめきをぴたりと止めて、白く優美な甲冑に身を包んだ王女へと視線を集中させた。
「――親愛なるオウイクの民よ!」
章輝の声は決して女性的な可愛らしいものではないが、朝のシンと冷えた空気の中に凛々しく朗々と響き渡り、それを聴いたオウイクの人々が背筋を伸ばすのが見て取れた。
章輝は、人々の表情を確かめるように眼下を見下ろし、
「まずは、この未曾有の――絶望的な危機に、それでも逃げず、これほどの民が集まってくれたことに礼を言う。諸君らのその心根に応えるためにも、決してこの国を今日限りに終わりにはさせはしないと私は誓おう」
集まった人々すべてに届くような、静かだが明朗な声で力強く語る。
「私たちは、これまでの日々を、贅沢ではないが豊かに、世界への感謝とともに暮らしてきた。私たちの国は決して大きくはないが、だが他のどの国も代わりにはなり得ない、素晴らしいものをたくさん持っている。ここに集った諸君らが、その素晴らしいもののために剣を取り、戦うのだということを私は誇りに思う」
彼女の言葉は静かで落ち着いていたが、オウイクへの愛と自身の信念に満ちていて、彼女を見上げる民の目に、敬意と同意の光がかすめる。
「それらの素晴らしいものたちを、今日を限りに潰えさせはすまい。無論その希望は少なく、危険ばかりが空と大地を覆うが、私はこの命が尽きるまで、この国のために戦おう。だからどうか、諸君らの力を私に貸してくれ、ともに戦ってくれ。この国の歴史を伝え続けるため、そしてこの国の明日のために!」
章輝がそう、言葉を締めくくると、彼女の両隣に立った将軍と騎士団長とが同時に剣を抜き、高々と空に掲げた。
それが合図だったかのように、広場を揺るがすほどの大喊声(鬨の声)が上がった。人々が拳を空に突き上げ、王女に応えて上げる声で、辺りは朝とは思えぬ喧騒に包まれる。
「……ありがとう……皆。私は……その気持ちに報いよう、必ず……」
人々には届かぬほどの、小さな……わずかに揺れる声でつぶやいてから、彼女も同じく剣を抜く。
そして、その、色の薄い唇に深い笑みを刷き、
「だが諸君、今日は
そう、高らかに断じた。
朗々と響く声にあわせて、香重は鬼彌の背を押す。鬼彌はわずかに苦笑したが逆らわず、腰の剛剣を引き抜いて、王女の隣に並んだ。
雄々しくどこか高貴な風情の美男子の登場に、民衆が敬意と希望のどよめきをあげる。あちこちから、ロシュネイダの名を呼ぶ声と牙の国への感謝の声が上がり、広場は更に賑やかさを増した。
鬼彌は、章輝の掲げた剣先に、ラスナ=ニルという銘を持つ業物の剣先を合わせ、
「今は亡き我が王の思いのままに、霧の国のために剣を揮おう。――霧の国に勝利あれ!」
蠱惑的に低いが、どこまでもよく通る声で言い切った。
それに頷いた章輝が、剣を掲げ切っ先を合わせたままで、眼下の人々をぐるりと一望し、
「ジス・アーシュオーラ(幸いあれ)、ジス・アーシュリーダ(栄光あれ)、ジス・アーシュヴェーナ(未来あれ)!」
開戦前によく唱えられる、祝福と決意の言葉を凛と紡いだ。
どおぉっ、と上がった歓声が、
『『『ジス・アーシュオーラ、ジス・アーシュリーダ、ジス・アーシュヴェーナ! 我らの、オウイクのために!』』』
異口同音に、同じ言葉を唱和する。
章輝は深い深い笑みを唇に刷き、鷹揚に頷いて剣を腰に戻した。
それから、一歩退いた場所で成り行きを見守っていた、三つ子のエルフと黒エルフを手招きし、彼らをバルコニーの中央へと誘う。
「そして彼らは、かの忘却の国より駆けつけてくれた、『神技の近衛騎士』と同じく一騎当千を謳われる戦士たちだ。我らのために戦ってくれる、かの美しき種族に幸いあれ!」
銀髪と金髪の、夢のように美しい一族の四人は、特に何も言わず眼下の人々に手を振った。
エルフの数が他国と比べると圧倒的に少ないオウイクでは、エルフという種族への畏怖や憧れが格段に強いので、四人がめいめいに手を振っただけで、溜め息と歓声がわきあがる。
エルフたちは、絶望的な戦いが近づいているとは到底思えぬ表情で、芸術的なかたちをした唇に笑みを刷き、人々の歓声に応えてから、マントを翻して部屋の中へと戻って行った。その足運び、一歩一歩進む様さえもが完璧なまでに美しいのは、やはり彼らが、神々に愛された種族だからなのだろう。
香重は民衆たちからは見えない位置で思わず溜め息をついたが、彼らの退出を合図とばかりに、再びバルコニーの中心に戻った章輝が凛と澄んだ声で指示を出したので、我に返って表情を引き締めた。
「では、これより武器と防具を支給する。使い馴れたものを、という者は自分の武具を使え。だが、ちょうどよい武器を持たぬ者は、稀代の名剣というわけには行かぬが、それなりのものを用意してある、それを受け取りに来るように。その後、各隊の隊長から指示がある、その指示に従って行動してくれ」
章輝はそこで言葉を切り、人々をぐるりと見渡して、
「恐らく決戦は黄昏時辺りから始まる。それまでに出来ることをして休息を取り、その時を待つように。――――さあ、皆で生き残るぞ、しっかり備えろ!」
びしりと厳しく言い放った。
どおぉっ、と、また大きな喊声が上がる。
それらを満足げに観た章輝は、濃い藍色のマントを翻してバルコニーを離れた。続いてアルフレッダとアルルヒンメが退出し、香重は鬼彌とともにその背後に続く。
香重は章輝の一番の側近ではあるが、ほとんどの場合彼の仕事は日陰の事柄ばかりなので、オウイクの国民たちは、香重が章輝の側近であることは知っていても、彼がどんなことをしているのか、どれほどの実力を持っているのかについてはほとんどといっていいほど知るまい。
だからこそ、万が一ここで章輝の命を狙う者がいてはいけない、とバルコニーに入りはしたものの、彼自身は民衆から見えない位置にいたのだ。
彼自身には、名誉欲も権勢欲もない。ただ、信念と魂を捧げた主のために、いつでも己の命を投げ出そうという誓いだけがある。
香重たちが部屋へ戻ると、肩にリンドブルムを乗せた傭兵は、のんきなことに、ソファに寛いでパイプを吹かしていた。
傭兵が白い煙で輪をつくるたびに、小さなリンドブルムが首を傾げてその輪を見送る様は、あまりものごとに影響されない性質の香重が思わず脱力した程度には微笑ましかった。
それが伝説の伝説たる由縁の余裕というものなのか、それともただ単に本人がのんき過ぎるだけなのかは、さすがの香重にも図れなかったが。
「なんだ、外に出ないと思ったら一服か。だが、私よりあんたが出た方が、彼らに希望を与えられたのでは?」
幾つ目かの白い輪を吐いたシヴァーティリーに鬼彌が声をかける。
シヴァーティリーは軽く肩をすくめると、パイプを手にしたままでソファから立ち上がった。
「ここで私の名を出すとかえって胡散臭い。ただでさえ、神零=エル=シヴァーティリーは実存しないとまで言われているのに。失礼な話ではあるが。それが唐突に現れたとあってはあまりにもご都合主義に過ぎるだろう? まったくもって今更だが、名が売れすぎているというのも考えものだな……」
「……そういうものか?」
「そういうものだ」
訝しげに眉をひそめた鬼彌に、傭兵はあっさりと返して、それから三つ子のエルフと何か言葉をかわしていた黒エルフを手招きする。
「それはさておき、ロシュネイダ、迦楠、見せておくものがある、ちょっと来い。――アーディネイ、私はふたりに例のものの説明をしてくるが、ゴレムの起動は判るな? 私は口を出さずともいいな?」
「ああ、大丈夫だ、問題ない。ただ、のちほど最終的な調整に関してはお願いする。……まぁ、ぶっちゃけた話、ここに集った国民すべての精神力を注げばいいだけだろう?」
「簡単に言ってしまえばそういうことだ。強い意志を注げば注ぐほど動きが滑らかになるし、起動時間も延びる。皆に気合を入れさせろ、それからひとりにひとつずつ精素の石を持たせろ。それだけでかなり違うはずだ。……ではちょっと席を外すぞ」
どこまでも美しい、しかし美しさよりも力強さが際立つ声で言って、鬼彌とイライファネラを引き連れた傭兵が部屋から出て行く。
その肩から小さなリンドブルムが舞い上がり、軽やかな羽音を立てながらバルコニーを抜け、外へと飛んで行った。
香重はみっつの背中を見送り、羽音が遠ざかるのを脳裏に聞いてから、すぐに己のすべきことに取りかかる。決戦まであと少し、そこにあるのがわずかばかりの希望であっても、己に出来る最善をしよう、と強く胸に思う。
*
神零がふたりをいざなったのは、城の最奥部にある、石造りの通路の行き止まりだった。
この伝説の傭兵と出会ってからの十年、その間に彼らは、何度も何度も、様々な理由から様々な戦いに身を投じたが、それらのどの戦いに赴いたときよりも、今の神零の姿は重々しかった。
彼もまた、こんなにも重装備をするのは十年ぶりのことだった。ラオニーナの演説のときだけでいいと兄には言われたが、己の存在に希望を見出す人々がいるのだということを鬼彌は理解していたから、ならば最後までこの姿で、『騎士』としての立ち位置を全うしようとも思っていた。
黒竜鋼という、金属の中では格段に丈夫な類いに属する代物で造られた甲冑は、しかし、剣のように鍛えれば重さを増すが、打ち延べれば軽くなるというこの鋼の不思議な特徴のままに、普通の鉄で出来た防具よりも軽くて動きやすい。
「で、我々に見せたいものというのは何なんだ?」
かしり、とガントレットを鳴らして鬼彌が問うと、神零はパイプに口をつけて少し笑い、
「……ハ、本当によく似合っているな、その漆黒の姿はまるで、救世の英雄、黒獅子アルレギオンの再来のようだ。まったく――なんとも懐かしいことだ、なぁ、迦楠?」
奇妙な――何かしらの含みを感じさせる声で、『見せたいもの』とは関係のないことを言った。にっこり笑った迦楠がそれに同意する。
「ああ、本当だねぇ、まるで
淡いスミレ色の目を細めて迦楠が言うのへ鬼彌は苦笑する。
己の心が非常に狭いことも、自分が嫉妬深いことも自覚している鬼彌だが、何故か迦楠が、親友だったという古の英雄、王樹=エソル=アルレギオンの話をしても、嫉妬心や悔しさは湧き上がってこない。アルレギオンがもうこの世にいないからなのか、それとも迦楠が愛した人間に悪感情を抱くことが出来ないからなのかは判らないが。
しかしそもそも、それらはたかだか百年の生しか持たぬ鬼彌にはまるで実感のない昔の話なのだ。そこで起きた種々の物事を懐かしまれても、何をどう返せばいいのか判らない。
判らなかったので、髭を整えられた顎へ指先をやって、
「それは褒め言葉と受け取ればいいのか? ではありがたく頂戴するとして、まずは本題に入ってくれ。もう一度剣の手入れをしておきたいんだ」
ふわりと煙を吐き出す神零を促した。
神零は「せっかちなことだ」と笑ってから、通路の行き止まりの壁を軽く蹴飛ばす。軽く、とは言っても、鬼彌にはそう見えたけのことで、翼竜ワイバーンや金剛竜ディスロフカを蹴り殺したことのある非常識な人物の『軽く』であるから、実際にはもっと力が入っている可能性は高い。
と、ごぉん、という音がして、石造りの壁が、ごりごりという鈍い音とともに動いた。呆気に取られる鬼彌の目の前で、行き止まりだったはずの通路は、冷たい空気の漂ってくる道への入口へと変貌する。
「……これは」
「見て判る通り、抜け道だ。ここの通路を南へ行くと、王城裏の岩山とその向こう側の平原を更に越えた、イクス山の山中に出る。――覚えておけよ」
「……あ、ああ……?」
鬼彌があまりに訝しげだったからだろう、神零は苦笑して肩をすくめた。そのあと、神零が石の扉が引っ込んだ壁を蹴飛ばすと、またごりごりという音とともに石の一部が動き、今度はただの通路へと戻る。
「そんな万が一はないようにと祈るが、ありえない未来でもないからお前たちに託す」
神零はそこで一旦言葉を切り、寄り添うようにして立つ鬼彌と迦楠を、深紅の双眸で交互に見遣った。
「もしも、平原での戦いが敗北に終わり、敵軍が防壁を破って主都へ入ってくるような事態になったら、おまえたちはラファイールの三つ子とともに、戦えぬ民を導いてあの道を行け。ナハトも行かせるから、明りには不自由しないはずだ。それと、この石の扉は向こう側からも閉まる、今と同じようにすればな。おまえたち五人のうち、しんがりを行くものが責任を持って閉めて行けよ、戦いには向かない通路だからな」
それは、まるで何かの教本でもそらんじるような、滑らかに淡々とした口調だったが、
「……ちょっと待って、神零。どうしてわたしたち五人だけなの? 神零や、ラオニーナや鬼彌のお兄さん、ガルドールたちは?」
言葉の節々に含まれた不吉なものの存在に、迦楠が眉をひそめる。彼に救いを求めるように見上げられて、鬼彌も言を継いだ。
「そうだ、どうせあんたも平原の戦いに参加するんだろう、何故そんなことを、我々だけに言うんだ」
これだけ絶望的な状況でも、鬼彌には死ぬつもりも負けるつもりも、ましてや逃げるつもりもなかった。剣一本で、どこまでも戦い抜くつもりだったし、彼にはそれが可能だということもよく判っていた。
それなのに、鬼彌にとっては力の――威の象徴とも言える神零が、そんな不吉を告げるという事実が、彼の心に冷たい影を落とす。
スミレ色と灰青の双眸に見つめられ、神零は一瞬黙ったが、不意に、鬼彌が今まで見たこともないような晴れやかな笑みを浮かべ、
「――私はオーク軍を潰す、ヤツらを徹底的に――最後の一体まで叩かなければ、背後から襲われて終わりだ。無論私ひとりでやる、人手は足りないようだからな。だから私はおまえたちと一緒には行けない。章輝も、アーディネイもガルドールも、最期まで最前線で戦うそうだ、だからおまえたちとは行かない」
そう、きっぱりと断じた。
そこにはもはや誰にも動かせない決意があり、覚悟があった。
迦楠が息を飲み、鬼彌は絶句した。
それは、つまり。
「……死ぬ気か、シヴァーティリー!」
声が上ずったのは致し方ないことだろう。鬼彌の、問いとも叫びとも取れぬそれに、神零はうっすらと微笑んだだけだった。
「冗談はやめてよ神零、どうして、」
「クラウディアが望んだ。私はその約束を果たす。――それだけのことだ」
「神零!」
「おまえはロシュネイダと行け、迦楠。ヤツがいれば大丈夫だろう?」
泣きそうな声で叫び、詰め寄った迦楠の、滑らかな褐色の頬に手を当てて、神零はそう静かに言った。
「別に、私も……残る彼らも、望んで死のうと思うわけではないし、彼らは恐らく生き延びるだろう、霧の国と同じく。――ただ、生きて帰るだけの根拠を、私自身は提示し得ない。精素の石があるとは言っても《術》は私を壊す。この身体では、おそらく、相討ちがいいところだろう。先刻オーク軍の話を聴いて、連中に割く兵力がないならひとりで行くしかないと考えた結果、そういう答えに行き着いた」
「シヴァーティリー……」
「気にするな、気に負うな。生きて帰れれば儲けものだ、私は充分すぎるほどに生きたし、すべてのものごとに対して、今更泣き言を垂れるような後悔はない。ただ、私の愚かさのせいで死んだ女のために、持てる力のすべてを使うだけのことだ」
「イヤだ神零、そんなことを言ってはイヤだ!」
幼子そのままの仕草で首を横に振り、悲鳴のように叫んだ迦楠へと腕を伸ばし、神零が抱きしめる。迦楠は神零よりも拳ひとつぶんは丈高いが、そうやって抱きしめられている姿は、幼子以外のなにものでもなかった。
「……ずっと、ずっと一緒にいたんじゃないか。それを今更、どうして離れてしまうなんて言うんだ。わたしは、鬼彌も神零も、ふたりともいてくれなきゃイヤだよ……」
頑是ない子供のように、小さな声で繰り返す迦楠を、神零は無言で抱きしめていた。時折、その背中をあやすように叩き、まぶしい金の髪を撫でる。
だが、もう迦楠にも判ってしまっただろう。
神零が、霧の国のために――亡き半人半霊の女との約束のために、たったひとりで死地へ向かう覚悟を決めてしまったことが。
「迦楠。それでも結局、おまえは選ばなくてはならないし、もう選んでいるだろう? 選んだのなら、あとはもう、その選択を全うしろ。それは、おまえ自身に課された命題だ」
何度も首を横に振る迦楠を、神零は淡々と――静かに諭し、そして、
「……さあ、準備に戻ろう、何事もしっかりやっておくに越したことはない。ああ迦楠、すまないがナハトに飯をやってくれ、そろそろ朝飯だ、じきに帰ってくるだろう。私はもう少し、ロシュネイダと話すことがある」
「……でも、」
「迦楠。頼む」
躊躇した迦楠だったが、澄んだ深紅に見つめられ、促されて、哀しげにうつむいてから、何度も振り返りながらその場を立ち去った。残された鬼彌は、眉をひそめて神零を見下ろす。
「まだ何かあるのか?」
神零は、迦楠の消えた通路を見つめたまま、鬼彌を見ることもなく、
「……もしも戦いが長引いて、あの子が殺意に狂うようなら、そのときはおまえが殺してやれ」
静かに、しかし断固とした強さでそう言い放った。
鬼彌は再び絶句する。
「何を……!」
「判るだろう、鬼彌=ノニア=ロシュネイダ。あの子の歪みを、おまえは理解しているだろう? この規模のいくさで、殺意にさらされ続ければ、あの子の正常な精神はそうそう長くは持たない。……本当は、城に残して行きたいが、無理だろうしな」
「だが、彼は、」
「おまえか私がいれば、こちら側に戻してやることはできただろう、いつもなら。だが、今回は戦いの規模が違う、満ちる狂気が違う。おまえという砦があってなお、あの子の正常はそう遠くなく揺らぐだろう。それはあの子の、私にもおまえにも、どうすることもできない業だ」
鬼彌と神零が共通して深い愛を注ぐあの黒エルフの青年は、殺意や敵意を向けられることによってある種の人格置換を引き起こす。普段の天真爛漫な心優しい性質は、殺意という負の感情によってあっさりと消え去り、殺戮に悦楽を見出す美しい死そのものへと変貌するのだ。
それは、戦いが終われば、もしくは戦場から離れれば元に戻るものではあるのだが、その双方が叶わず殺意敵意にさらされればさらされるほど、彼の『負』への変貌は深刻になり、もとへ戻すことも難しくなる。だからこそ、鬼彌にせよ神零にせよ、あまり長引くような戦いには彼を関わらせないようにしてきたし、戦わなくてはならない場合でも後方支援に徹するようにさせてきた。
だが、今日のこの戦いでは、そんなことを言ってはいられないだろう。それは、鬼彌にもよく判っているし、そのことで神零が心を痛めているのだとも理解出来る。
そして、万が一、迦楠が正常を失って狂うようなら――狂って殺戮と破壊に走るようならば、それを、たとえ殺すという手段ででも、止められるのは鬼彌しかいないのだということもよく判っていた。
それらのすべてを理解してなお、首を縦に振ることは鬼彌には出来ず、しかし結局、迦楠を救うためにそうせざるを得ないことを――最後にはそうするだろうことを自覚して、押し寄せる無力感と苦悩に、彼は奥歯をきつく噛み締めて神零を睨みつける。
「……私に答えることが出来ないと知って、あんたはそれを言うんだな……」
それは低い、憎しみすらこもった言葉だった。今が決戦前でなかったら、間違いなく殴りかかるか剣を抜くかくらいはしていただろう。
しかし神零から返ったのは、鬼彌が今までに見たどの表情よりも明るい、安堵を含んだ笑顔だった。毒気を抜かれ、鬼彌は眉をひそめる。
「ハ、二千数百年もの間慈しみ育てた随一の宝を、横からあっさりと掻っ攫っていく憎い男に、嫌がらせのひとつくらいしたところで誰も咎めはすまいよ。――だが、そうだな、悩みもせずに殺せると言える薄情者は信用ならん。それ以外ないのだと、それ以外彼を救えないのだと知ってなお、それでも殺せぬと抜かす腰抜けにあの子は渡せん。しかしおまえは、そのどちらでもなく、口にはしないが判っているな? ならばきっと、おまえは、そうならないような最善を、あの子のために尽くしてくれるだろうさ……」
「シヴァ、……」
反射的に愛称で呼び、はっと気づいて思わず赤面する。
鬼彌が普段、神零を真名や愛称で呼ばないのは、信頼がないのではなく照れ臭いからだ。フィル=エギロエナで長く過ごした彼にとって、救国の英雄のひとりたる神零は憧憬と親愛の対象だ。ただ、それを口に出来るほど素直でも若くもないから、つい斜に構えてしまうのだが、意識せずに呼ぶとこうなってしまう。
そのことに鬼彌は照れたのだが、彼のそんな様子に神零はまた少し笑い、そして何かを握った拳を、その胸に突きつけた。
鬼彌が思わず手のひらを差し出すと、神零はそこに、何かの小さな金属を転がした。
「……?」
目を落とすと、鬼彌の大きな手の平の上には、黒貴銀の地に透明な貴石のはまった、勇壮で美しい細工の指輪があった。狼と鷲が珠を競い合う意匠は、力強く躍動感にあふれていた。
恐らく何かの貴い力が働いているのだろう、指輪の触れた手のひらが、じわりと心地よく熱い。
旅路をともにして十年になるが、お互いのことを詮索し合わなかったとはいっても、神零がこんなものを持っていたことをまったく知らなかった。
一体何のことなのかと、目線だけで問いかければ、
「お守りだ、おまえにやる」
「だが、」
「それを継ぐのはおまえしかいない」
「――――は?」
「……いや、何でもない。理解すべきときが来たら自ずと判る、それまでは厄除けだとでも思って持っていろ、いいな?」
「……? まぁ、いい。そうだな、あんたが持てと言うなら持っていようか……」
胸中に首を傾げながらもそう言うと、神零はまたあの晴れやかな笑みを浮かべて、
「ああ、それでいい。――さて、では戻ろうか、迦楠がそろそろ拗ねているかもしれない」
あとはもう、それについての言及は一切せず、黒灰色のマントを翻した。
そして、城へと戻る道の途中で立ち止まり、あとに続いた鬼彌を振り返ると、美しいとしか表現できないような、ただただ澄んだ笑みを向け、
「――さあ、祭の始まりだ。……戦え、生きろ、朝日のために」
それだけ告げて、鬼彌の視界から外れて行った。
鬼彌は沈黙し、思わず立ち止まってから、神零の姿が視界から消えるのを見送って、
「ああ、そうだな……あんたの、その祈りのままに」
握り締めた指輪に囁くように、静かにつぶやいた。
託されたものの重さを、今更ながらに思う。
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