10.剣をとれ

 夢見が悪くて目が醒めた。

 呼吸が停まるのではないかと思うほど生々しい夢だった。

 ――ディラルタとクラウディアの死を交互に見た。

 死と別れ、無意味なまでに淡い希望と虚しい祈り。

 色は赤、匂いは鉄錆、感情は絶望。

 叫ばなかっただけマシかもしれない。

 ひきつけを起こしそうなほどに悲壮な息のあと、ようやく覚醒した意識は、あの過去がいっそ夢であったならと思えるほどに追い詰められていた。

「くそ……」

 神零は毒づいて身を起こす。

 綿の夜着が、嫌な汗に濡れているのが判る。

 神零は基本的に風邪など引かないが、だからといってこのままでいるのも気持ちが悪いので、客人用の部屋に据え付けられた大きなベッドから、豪奢な布団をはねのけて降りると、身につけたものをすべて脱ぎ捨てた。

 素っ裸で隣の浴室へ入り、浴槽に満たされた水に頭を突っ込む。

 初秋とはいえ、夜も更けたこの時間では、水はひどく冷たかった。

「……」

 やがて水音とともに神零は頭を上げ、真紅と茶色のまだらな髪からぽたぽたとしずくを滴らせながら、今度は洗顔用の桶でくみ出した水を全身に浴びる。

 派手な水音が響いた。

 浴室の床を水浸しにしながら、皮膚に感触がなくなるまで水を浴びた辺りで動きを止める。

 ぽたりぽたりと、滴り落ちるしずくを見上げ、神零は眦を厳しくした。

 わかれの悲嘆、流された血の赤、託されたものの重さ。

 迷え、と、誰かが嘲笑っているような気すらする。

 これだけ長く生きてきて、いまだに間違いばかり犯す神零を。

(ふざけろ!)

 不意に込み上げてきた激しいものを抑えきれず、ぎりりと歯を噛み締めて、握り締めた拳を床に叩きつける。トロルの首をへし折るほどの怪力を持つ神零の拳に耐え切れず、床がピシリという悲鳴をあげてひび割れた。

 全身から水を滴らせたまま浴室を出ると、寝室を通り越して荷が置いてある居間へと歩いてゆく。もはやその足取りによどみはなく、行動するのに支障はなかった。水滴がふかふかの絨毯を濡らしたが、頓着はしなかった。

 疲れがとれ、蓄積されたダメージが癒やされたとは言い難いが、再び悪夢にうなされたくもなく、寝台に戻る気分にはなれなかった。それならもう、武装に着替えてしまおうと思ったのだ。

 おそらく明日には、この国の命運を決する戦いが始まるのだ。クラウディアの願いのままに、この国のために命を削る覚悟を決めた神零だ、今更多少の疲れを取ったとてどうということでもない。

 武装はオークの血と臓物に染まり、使いものにならなくなった元のものではなく、王女が用意してくれた丈夫な衣裳だ。しっかりと織り込まれた獣毛の上着は、ヘタな矢くらいなら防いでくれるだろう。

 さっと着替えたあと、大して多くもない荷の中から、イール樹を削って作った繊細なつくりのパイプと、乾燥させて細かく刻んだ煙草を取り出し、ソファに腰掛けてそれを燻らせた。

 極上の、とまでは行かないがそこそこの質の、薫り高い煙が立ち昇り、神零にまとわりつく。

 白い煙を吐きながら夢を反芻する。

 あれが啓示かもしれない、という意識はあった。

 死に瀕しながらも、ふたりが何かを一生懸命伝えようとしていることが、神零にも判ったから。

 ふたりとも、自分自身の死よりも、他人の――愛しいものたちの死を哀しむような連中だ。己の愛したもののためなら、命すらかけて悔いない連中だ。そんなふたりならば、己が死してのちも、心を残したものの無事と平安を祈っているに決まっている。

(……宝物庫を見ろ、と、言ったか……?)

 そのこたえに辿り着いたとき、不意に、夢の全貌が神零の脳裏を駆け巡った。

 そう、ふたりは切り刻まれながらも、必死に神零に訴えていた。

 護れ、戦え、生きろ。宝物庫に力がある、それを得ろ。

 声なき声に含まれるのは、残されたものへの愛情と、どうか生きてくれという切実な願いだった。その願いを、無下にすることなどできるだろうか。

(私は間に合わなかった、あのときも、あのときも。……だが、今回は、今度こそは、間に合わせてみせる……)

 いまだ、後悔と慙愧の念は消えずとも、生きるべき命を永らえさせる。

 そのために戦う力なら、神零には今も満ちている。

 神零はパイプの火を消し、立ち上がると、ソファに立てかけてあった棒状のものに手を伸ばした。

 白い布で包まれたそれは、6カイトほどの長さがある(1カイト=約20㎝)。

「連中に……感謝しなくてはな……」

 独白し、固くて丈夫な白い布を剥がす。

 中から現れたのはひとふりの剣だ。

 伝説の大劫竜エスティファーダの姿が刻まれた見事な拵えの柄と鞘、そして見ただけで最上級の業物と判る刀身を持った、神零の愛剣である。これを鍛えてくれたのは神零の義兄だが、あまりに威力がありすぎるため、普段は友人であるサラスゥオーラに預けてあるのだ。

「久しいな、神剣エルサイヴァ……」

 つぶやいて剣を引き抜くと、神零はその刀身を愛しげに撫でる。そして、再び鞘に戻したそれを腰に佩くと、ゆっくりとした足取りで部屋を出て行った。

 もはや揺るがぬ、不退転の決意とともに。


 *


 章輝=エレン=ラオニーナは、手にした銀杯を執務机に置くと、何度目とも知れぬ溜め息をこぼした。

 どれだけ遅く見積もっても明後日……早ければ明日の夕方には、三千年前で十万と言われ、現在どれほどの兵力を擁するのかすら判らぬシェンダールの大軍が到着し、生き残りをかけた最終戦が始まる。

 しかも自国と敵国の兵力差はあまりに明らかで、どう見積もっても最初から勝てる見込みすらない戦なのだ。

 更に言うなら、いかなる理由があるのかは知らないが、シェンダール軍はオウイクの民をひとり残らず殲滅するつもりで来る。つまり、降伏という最終手段は最初から封じられてしまっているのだ。この状況でもしも溜め息をつかぬ為政者がいたらお目にかかりたいと彼女は思う。

 思った途端、意識の片隅に追いやっていたはずの疲れがどっと押し寄せ、これではいけないと自嘲して、章輝は一端ペンを置いた。

 様々な書類と作戦書、そして何度も何度も練り直した陣形の図案を脇にやり、侍女が持ってきてくれたチョコレートをつまむと口に入れる。女らしいとかいう言葉とは縁遠い章輝だが、世の中の女性の大半がそうであるように、彼女は甘いものが大好きなのだ。深い甘味が口の中に広がり、身体の隅々まで染み渡るような気がして、章輝はちょっとだけ元気を取り戻した。

 再び陣形の図案書を引き寄せるとペンを走らせる。

 霧の国の主都エレダイルは、到底そこから人の下りることの敵わぬ、断崖絶壁といってもいい大きな岩山を背後に控え、前方は見晴らしのいい大平原だ。霧の国の都市は国土のあちこちに散らばっていて、主都から他の都市を見晴らすことは出来ない。それほど、土地の割合に対して国民が少ないのだ。

 しかし、今回はそのことがほんの少しだけ有利に働いた。有利、というのも虚しい程度のものだが。

 エレダイルはまだいくさが頻繁に起きていた古い時代のみやこであるから、都市そのものを、幾重もの強固かつ広大な防壁で覆ってあり、主都へ侵攻するためにはその防壁を突破せねばならない。この国はそもそも戦闘行為を嫌い、攻められてもひたすら身を守ることに徹していたのだ、そのためにあれだけの防壁が築かれたのだろう。

 防壁の数は王城まで全部で五つ、そのどれもが、大量の人間が出入りするには適さない、小さな門しか持たない。

 だとしたら、門の要所要所に人員を配置し、侵入してこようとする敵兵を随時葬ってゆけばよいのだ、防壁そのものを破壊されない限りは。幸い、視界は開けていて、敵軍の進行状況は手に取るようにわかる。

 とはいえそれでは埒があかないのも確かなので、門の防備と侵入者掃討に必要最低限の人員だけを残し、あとは最外部の防壁、【壱の玉璧】の外――つまり首都を取り巻く大平原で、数と数のぶつかりあいを行うしかない。

 しかし、白兵戦が結局のところ潰し合いであるように、それには、当然のごとく大量の兵士が必要だ。焔なる闇と呼ばれる伝説の戦士の言葉どおり、エレダイルへ避難してきている者たちに触れは出したが、はたして必要にして充分なだけの戦力が集まるかと問われれば、触れを出した章輝自身首を傾げるしかない。

 ただでさえ人口が少ないのに、シェンダール軍による殺戮で小都市や近郊の村落が滅び、人心は疲弊しきっているのだ。この状況で剣を取ろうと思う民がどれくらいいるだろう、というのが章輝の正直な気持ちだ。

 もっとも、それで国を棄てて逃げたとしても、章輝にはそのことを責めるつもりはないし、逃げられるものは今のうちに逃げて、せめて違う土地で霧の国の歴史と最期を語り継いでくれればいいとも思う。

 そもそも六十八万の人口しか持たぬ、人口規模で言うと世界最小のオウイクとは違い、シェンダールは三百万以上の民を抱く大国だ。民が多いということは優秀な人材もまた多いだろうし、軍隊の訓練なども系統立っているだろう。

 ぴしりと統制された十万の軍と付け焼刃以下の二万八千の軍とでは、考えるまでもなく、最初から勝負にもなりはしない。

 もともと軍隊の規模が小さい国ではあったのだが、戦を厭う父王の命で、彼が王位についた三十年前から、オウイクの軍は縮小の一途にあり、オウイクでは武人という存在そのものが冷遇されてきた。

 騎士団長を務めている梧陶ごとう=バルト=アルルヒンメなど、章輝が軍務を司るようになる三年前まで、王の傍に控えることすら許されなかったのだ。血の穢れを王が厭ったためだが、己の血と肉をもって国を護る武人たちに、その仕打ちはないだろうと章輝は何度も思ったものだ。

 確かに霧の国は数千年前の建国当時から彩り豊かな文化の国として栄えてきたのだ、それも当然といえば当然なのだが、その結果今のような状況に陥っているとなると笑うに笑えない。

 章輝が実権の半分以上を握り、更に香重という優秀な戦士を得たことで、もっとも衰退していた時期からはましになったが、それでも二万八千人の正規軍など、おそらく世界中を探してもオウイクくらいしかあるまい。

 大乱世と呼ばれた時代と比べれば格段に平らかにはなったものの、まだまだ世界は安定からは遠く、争いの火種が消えることもなく、国々は自国の防衛に力を尽くしているものだからだ。

「それも今更か……」

 独白し、銀杯の中のぶどう酒を乾すと、章輝は再び溜め息をひとつ落とし、そして立ち上がった。気ばかり急いても仕方ない、と思い直し、武器庫の様子でも見てこようと思ったのだ。

 国の旧さでいうと(エルフの国は除くとして)、最古の人間の国ヴァンディスオートを筆頭として、上から五番目に位置するオウイクなので、物の溜まり具合には自信がある。使わないから始末しろという父王を牽制し、章輝が大量の武器防具の類いをきっちり管理してきたのは、いずれ大がかりな何かが起きるのではという警戒心からだったが、今にして思えばその判断は正しかったわけだ。

 霧の国を継ぐ身でありながら、王族内では異端視されるほどにさっぱりした気性の章輝は、少々移動するからといって従者を呼ぶのがわずらわしく、精緻な彫刻の施されたランプを手にひとりで外へ出る。

 空気の冷たさが、今が真夜中であることを教えてくれる。

 時間が意味をなくしてどれだけ経ったのか思い出せない章輝に、それは新鮮だった。

 廊下に立つと、欄干の向こう側では、霧に半ば覆われつつも、黄金色の月がおぼろに輝いていた。こんな時でも月は美しいということに驚くと同時に、霧の国の抱えた滅びなど瑣事にすぎないような気がして、章輝は苦笑した。

 そう、世界にとって、霧の国の生き死には大した問題ではない。

 霧の国が滅び、民が死に絶えたとしても、明日という時間は何の変化もなく訪れるだろうし、世界の動きが滞るということもないだろう。

 世界を創造した統太母ソローファル、そして彼女の眷族たる創世の神々は、すべての種族に平等な存在の権利を与えたが、それ以上のことは何もしない。強大な力を持つ彼女らが、一個の存在のために何かをすることは、すなわち不平等につながるからだ。

 つい先日まで、神々の平等を恨めしく思いもしたが、不思議なことに今の章輝は、それを当然の、そして守られるべきこととして受け入れていた。

 勝てば生きる、負ければ死ぬ。

 民にまでそれを負わせることが為政者の傲慢だとしても、章輝は国とともに生き国とともに死ぬ。章輝=エレン=ラオニーナは、霧の国オウイクのためだけに生き、そして死ぬために生まれ、今まで存在してきたのだ、この国が明日を限りに滅ぶというのなら、もはや彼女に存在する意味はない。

 すでに覚悟は決まり、あとはただ、ひとりでも多くが生き残ればいいと思うだけだ。ひとりでも多くを護れたらと思うだけだ。

 カツン、カツンと高らかに鳴る長靴の音を聞きながら、人気のない廊下を進んでゆくと、前方から誰かが歩いてくるのが見えた。徐々に大きくなるその姿は、神の造作かと思う程度には美しい。

「――シヴァーティリー」

 彼女の独白を聞きつけたのか、いくつもの伝説を帯びる傭兵の、深紅の視線が章輝を射る。その眼差しはただ強く、そして揺るぎなかった。

「ラオニーナか。こんな時間にどうした」

「そういうあなたこそ。疲れは取れたのか?」

「調子は悪くない。万全でもないがな」

 淡々とした口調に章輝は苦笑する。もっと休めと言っても到底聞きそうにない雰囲気だった。おそらく、何を言ってもこの人物は、自分の思ったようにしか動かないのだろう。

 そのシヴァーティリーが、腰に見事なこしらえの剣を佩いているのを見て、章輝は首をかしげた。剣としては短い部類に入るが、観ているだけでそれの持つ力の強大さが判る。ただの剣ではない。

「……その剣は、先ほどの三つ子たちが届けにきたという……?」

「ん? ああ、そうだ。銘をエルサイヴァ、即ち焔なる闇という。私の二つ名はここから来ている」

「そうなのか。強い力を感じるんだが、いわくのあるものなのか?」

「そうだな、義兄が私のために鍛えてくださったものだ。刃は火神鋼、柄と鞘には界竜の骨と角、鱗が使われている。……太古の神の息吹を宿す剣だ」

 言って剣を引き抜いて見せてくれる。その刀身は鮮やかに美しい真紅、はがねと言いつつ向こう側が透けて見え、また光の加減で、炎が揺らぐかのように色合いを微妙に変える。

「それは……」

 章輝は絶句した。

 火神鋼とは火の神ディドゥーヤのみが創り出すことの出来る金属であり、界竜とは統太母ソローファルの隣に常に侍るといわれる伝説の――最高位の幻獣の名だ。もちろんのこと簡単に手に入れられるものではないし、しかもそれらを鍛えることが出来るものは、おそらく人間にはいるまい。

「いつもは旧友に預けてあるんだが、さすがに上古のエルフ、どうやら向こうの方で気づいて届けてくれたようだな。ありがたい」

「そうか……その力に期待することにしよう」

「そうだな、期待に応えられるよう最善を尽くすとも」

 生きた伝説が目の前にいるという幸運と、それをもたらしてくれた美しい伯母のこと、そして彼女がもうこの世にはいないという悼み、それぞれの思いに、章輝は淡い微苦笑をのぼらせた。

 地霊族の血を引く伯母は、人間の多いエレダイルへは滅多に来られなかったが、調子のよい時には二三日程度滞在して、章輝や父王のみならず、王宮内の――彼女を目にした主都の――すべての人間たちに、その場にあでやかな花が咲くような錯覚を抱かせたものだった。

 彼女のやさしい眼差しややわらかい声、細い指先、美しい心根のすべてが、もう二度と再び出会えない、すでに喪われたものなのだと考えることはひどく辛いことだったが、それでも、彼女が霧の国のために命をかけたなら、章輝もまたその意志を継ぐだけだ。

 そうすることで彼女の愛に報いるだけだ。

 不意にシヴァーティリーが、ついでのように質問を口にする。

「――ああ、ひとつ訊きたいんだが、宝物庫というのはどこだ?」

「宝物庫? 城の最下層だが、何故?」

「いや、私もよく判らん。案内してもらえるか」

 いまひとつ要領を得ない言葉に首を傾げつつ、拒むほどのことでもないのでシヴァーティリーを導いて歩き出す。

 しかし、宝物庫といっても、衰退の一途をたどる霧の国なので、たいしたものは残っていない。価値のあるものは、章輝の命令で、国宝などを除いて売り払ってしまっているからだ。それでも霧の国の財政は非常に厳しい。

 文人だけあって美にこだわる王が何代も何代も続いたためである。むしろ、章輝のような性格の王族が生まれたのが不思議なくらいなのだ。

 確かに美しいが生活のうえでは何の役にも立たない芸術品の類いを好む王や貴族連中のお陰で、霧の国はかなり貧乏だ。

 霧の国の軍隊は世界最小規模だが、それと同時に軍備も世界最小規模なのだ。歴代国王が軍隊を厭った所為ではあるのだが、新たな軍備に割くだけの金がないのも事実である。

 それは決して父王だけの責任ではないが、もちろん国民の血税を国民たちにまったく関係のないものに使うことが正しいはずがない。金貨千枚で絵を一枚買うくらいなら、灌漑設備や交通網の整備、医療施設の充実など、国民のためになるたくさんのことが出来るはずだ。

 章輝は身を飾る宝石よりも、城を彩る名画よりも、貧しい人々にパンを分けるための金貨を欲する。

 それだけに、章輝は実権を握ったあと、とにかく不要な高級品をこれでもかというほどに売り払った。おかげで、もっとも貧乏をしていた時期から比べるとかなりましにはなったし、今後章輝が王位をいただくのならば決して芸術品などに手をつける気はないが、このまま何も購入しなかったとしても、おそらくまだ、全世界の国家でも五本の指に入る程度には貧乏なはずだ。

 章輝は為政者としての自分、軍人としての自分にはそこそこ自信があるが、金を稼ぐ方法となると困らざるを得ない。今後、何とかして霧の国の財政を回復させていかなくてはならないのかと思うと、素で溜め息がこぼれてしまう。

 ……とはいえ、王位を継ぐべき正統な血を有した人間は章輝しかいないので、彼女がやるしかないのだが。

 そんな貧乏国家の空っぽ宝物庫に一体何があるのだろう、などと内心首を傾げながら、何故こんなに天井が高いのかと疑問に思う程度には広い階段、冷たく重厚かつがっしりした石造りのそれを降りきると、荘厳な印象の扉がそびえ立っている。8と半カイトある章輝の三倍程度の高さを持つ扉の上部に施された、霧の国の象徴である、ハシバミの枝をくちばしに咥えた紅燕の彫刻が、宝物庫に入るものを見下ろしている。

「ここだ。だが……恥ずかしながら、はっきり言って役に立つようなものはほとんどないと思うぞ。うちの国は財政難に悩まされていたからな」

「悩んでいたのはお前と、一部の聡明な連中だけのような気もするがな」

「……それを言われるとぐうの音も出ない。つくづく、オウイクは暢気なヤツらの集まりのようだ。今回のことで嫌というほど思い知らされた」

「そう思うならお前が変えろ、お前にはそれが出来るのだから」

 当然のことのようにシヴァーティリーが言い、盗んで得をするような金気のものが何もないため鍵すらかけられていない扉を押し開けた。

 光晶石と呼ばれる、自らの力だけで発光する不思議な鉱物が壁に埋め込まれているために、内部は常にぼんやりとした明るさを保っている。そのあかりの中に足を踏み入れ、周囲を見渡したシヴァーティリーが、章輝にもはっきりと判るほどに絶句した。

「これは……」

 章輝は最初、あまりにもものが残されていないせいだろうと一瞬思ったのだが、しかし、その声に感嘆が含まれていることに気づいて眉をひそめた。シヴァーティリーと同じように、周囲を見渡してみる。

 そこにうずたかく積み上げられているのは、そのうち再利用しようとずっと置いたままのくず鋼の類いと、きらきら光って美しいが宝石ではなく、金にはならない小石の山、そして錆びて使いものにならなくなった城の備品などだ。馬鹿みたいに広い庫内だが、それ以外のものはほとんど入っていない。

 国宝と呼ばれる類いの、国の基盤にすら関わるような宝物は、章輝の側近たちが厳重に管理している。正直言って、父王の側近たちはまったくもって当てに出来ないし、信用もしていない章輝である。

 更に、宝物庫内部の壁に沿って、何のためにあるのかは判らないが、鎧を着た兵士のかたちをした巨大な石人形が全部で二十体、何百年何千年も変わらぬ姿でたたずんでいる。

 子どものころ、宝物庫内の探険を楽しんだ記憶のある章輝にとっては見慣れた光景だったが、シヴァーティリーは違うようだった。親指の先くらいの小石をひとつ拾い上げてから石人形を見上げ、

「精素の石、それに石神巨兵(ゴレム)……」

「え?」

「……そうか、これを伝えようとしてくれたのか……」

 独白し、微笑む。

 その笑みは力強く、そして希望の何たるかを体現しているかのようだった。

 神零は、章輝をその深紅の、美しい目で見つめると、

「これならあるいは、オウイクは生き延びるやもしれん」

「何?」

「ああ、思い出した、オウイクはニルギナとティオラの支援を受けて建国された国だったな。精素の石は女王からの、ゴレムはドワーフ王からの贈り物か」

 天才的な技術者たるドワーフの国である山の国ニルギナと、優秀な術師が多い白エルフの国である白の王国ティオラ、この二国は隣国同士ということもあって親密だ。

 そして、鉄の国フィスコイトを挟んではいるが、美や芸術を愛する王の多い霧の国は、美しいものを生み出す力に長けた二国とは、この国がオウイクを名乗る以前から友好的な関係を結んでいる。

 章輝が霧の国の王族らしくなく広い視野を持つのは、これら二国に、若いころ何年か留学し、様々なことを学んできたから、というのもある。

「どういうことだ、シヴァーティリー」

 話が見えてこなくて、章輝は首を傾げた。

「ああ、」

 と、シヴァーティリーが口を開いたとき、バタバタと階段を駆け下りる音と、「お待ちください、陛下!」という女声が響いたかと思うと、

「姫、姫はどこじゃ!」

 みっともないほど裏返った金切り声を上げながら、章輝の父たるオウイク王が、宝物庫に転がり込んでくる。目覚めてすぐに来たのだろう、王の威厳も何もない寝巻き姿だ。申し訳程度に金の冠をかぶり、手には杖を持っている。

 彼の世話をしている侍女が三人、大慌てで彼を追いかけて来たが、章輝の姿を目にして安堵の表情を浮かべた。章輝は苦笑して、彼女らに下がるよう眼で合図した。年を取って扱いの難しくなった父の世話をしてくれているのだ、侍女たちにはいくら感謝してもしきれないくらいだ。

 侍女たちが深々と礼をして立ち去るのを見送ってから、ゼイゼイと呼吸を荒らげている父を見遣る。

 昔は豊かで濃い茶色だった髪は、ここ何ヶ月かの心労ですっかり薄く白くなり、章輝と同じ枯葉色の眼は血走って、血色のよかった頬はげっそりとこけている。

 章輝の少女時代に死んだ母が、若いころのお父様はそりゃあ男前だったのよ、と笑いながら話していたのを章輝はよく覚えているが、今ではその男前とやらの面影はなく、ただ死の恐怖に疲れやつれた老人がいるだけだ。

 昔、章輝が幼かったころの父は、戦嫌いという点では今も同じだが、様々な政治面の問題を、斬新な角度から切り開いては、新しい政策や難題の解決方法を見出していた。民のための治世を実現していたのだ。決して芸術が好きなだけの、無能なお飾りではなかったのだ。

 それが王妃たる母を失い、世継ぎであった長男を――そして次の王太子となった次男を、つまり章輝にとっては長兄次兄とを――次々に亡くしたころから、急に情熱を失い無気力になった。

 一の姫と二の姫、章輝にとっては長姉と次姉であるふたりの娘を、まるで人形でもくれてやるかのように、求婚してきた他国の貴族へ嫁がせ、ふたりの姉のように女らしくなく、幼い頃から少年のようだった章輝だけを手元に置いて、王子のように教育させた。

 章輝はふたりの姉を憐れんでも羨んでもいないし、ふたりの姉のように、美しい容姿とやわらかな仕草で男を虜にするようなすべを持たないのも確かだが、何故自分だけが、という思いは常にあった。

 彼女は今年で二十七歳、婚期という点ではとっくに逃しているし、霧の国と婚姻を結んだつもりでいる章輝には、人間の夫など必要とも思っていないが、そのすべてが父王の心の結果と考えると釈然としないこともある。

 それでも章輝は章輝なりに、父を一個の人間として愛しているが、自分のみならず民の命がかかったこの状況で、目先のことしか考えられない『王』としての父には失望していたし信頼していなかった。

「何かご用ですか、父上。もうしばらく休んでおいでになればよいのに」

 多少の皮肉を込めた言葉だったが、父はそれに気づいた様子もなく、章輝に詰め寄るとまくし立てた。

「何を言う、休んでなどいられぬわ! 王たるわしを差し置いて戦の準備とは何事じゃ、しかも民にまで剣を取らせると抜かすのか、そなたは! 戦などわしは許さぬぞ、いますぐに兵と民を退かせよ、青の王国のご使者殿に、降伏の意をお伝えせねば!」

「……いいえ、父上。霧の国は戦います。戦わなければ滅ぼされるだけです、青の王国には我らを生かすつもりなどないのですよ。でなければ、地方の小都市を丸ごと滅ぼしたりなどするはずがないでしょう?」

「何を言うか、そんなはずはない! ええい、父の言うことが聞けぬのか、霧の国は戦わぬ!」

 そもそも大柄な父ではなかったが、年齢と心労で痩せて小さくなったために、女性にしては長身の部類に入る章輝と並ぶと、驚くほど小さく見える。合理的かつ冷静に物事を考えることも出来ず、口角泡を飛ばす勢いでまくし立てる父親を見ていると、幻滅ばかりが胸中から沸いてくる。

 章輝は苛立ちを抑えつけながら静かに言った。

「父上、いい加減にお目を醒まされませ。これが戦わずして見出せる活路なら、章輝とて異議なくあなたに従いますが、明らかにかの国は我らを滅ぼすつもりでくるのです。戦わぬと仰るならお部屋にお戻りくださいませ、あとのことは章輝がやっておきますゆえ」

 あくまでも従おうとはしない章輝に、父王はわなわなと震えていたが、不意に血走った目をシヴァーティリーへと移した。シヴァーティリーはかすかに首をかしげて彼を見返す。

「貴様が……」

「うん?」

「貴様が姫をそそのかしたのであろう、死神! でなくば姫が父の言いつけに従わぬはずがない! なんということをしてくれたのだ、凶報の狗、凶事の萌芽、災いの先触れ、災厄の運び手め! 貴様はそんなにも、歴史ある霧の国に終焉の幕を下ろしたいと申すのか!」

「父上! あなたはなんという……!」

 金切り声で喚き、呪いの言葉を吐いた王が、章輝の制止を振り切ってシヴァーティリーに詰め寄り、イール樹で作った杖を振り下ろす。

 避けるかと思われた麗人はしかし一歩も動かず、甘んじて杖の一撃を受けた。杖はシヴァーティリーの肩口を直撃し、いかに武人ではない人間のものであっても多少の衝撃はあったのか、麗人はわずかに身体を揺らした。そして咳き込む。咽喉の奥に血の塊がつかえたような、嫌な音の咳だった。

 咳が止まると、シヴァーティリーは尚もなにやら喚いている王に視線をやることもなく、章輝をまっすぐに見て、

「石もゴレムもこの日のためにあったのかもしれん。ラオニーナ、覚悟は出来たな? ならばあとは、生き残るために戦うだけだ」

 言って石人形の一体に近づくと、全長20カイト(大体4メートル)ほどもあるそれの膝に手の平を当てた。父親には眼もくれず、章輝はその傍へ歩み寄る。

「シヴァーティリー?」

「面倒だ、神零と呼べ、章輝。真名の方が、思惟が伝わりやすい」

 その言葉に章輝はハッとした。

 真名とは魂を表す神聖な言葉を使った、心に直結する名前なのだ。真名を呼ぶほうが、通称で呼ぶよりも、真意や意図を読み取りやすい。己の真名を許し、相手の真名を呼ぶということは、許した――呼んだ相手を、魂を以て信頼するということに他ならない。

 その信頼を与えてくれたのだ、伝説の戦士が。

 章輝の胸は熱くなった。

 それには気づかぬ風情で、眼前の麗人が言葉を継ぐ。

「ゴレムはこのままではただの石人形だが、誰かが精神力を注いでやることで、」

 言いながら手を滑らせ、膝を撫でるような仕草をする。すると、一瞬その石肌が光を放ち、そして、――――ぎしり、と音を立てて動き出した。最初強張っていた動きは徐々に滑らかになり、やがて人間のそれと大差なく自然になった。

 ずしん、という重い歩みを見ながら、章輝は瞠目する。

「こうして無敵の戦士となる」

 シヴァーティリー……神零の言葉を肯定するように動いた石人形――ゴレムは、声なき声で咆哮したあと、章輝の前にひざまずいた。石とは思えぬほど滑らかな動きだった。ひざまずいてなお巨大な石の兵士を、章輝は呆然と見上げる。

「シヴァ……神零、これは……」

「ふむ、まぁ、旧い時代には便利なモノがたくさんあったということだ。ゴレムなど、もはや造れる者はそうそういないだろうな。しかし、その辺りは、今は考えなくていい、まずは戦いの準備だ。勝利の――そして存続のために」

 言って神零は微笑した。

 章輝は、これほど美しい笑みを見たことがなかった。顔かたちの美しさだけでなく、決意と戦意と誇りに満ちた、限りなく優しいのに猛々しくも厳しくもある笑みだった。

 章輝は無意識にこうべを垂れていた。

 畏怖と、そしてこの戦士を遣わしてくれた伯母への敬意からだった。

 章輝は伯母が大好きだった、滅多に会えない人だったけれど、本当に彼女が好きだった。

 大地の暖かな匂いと、春の息吹を感じさせるあの女性に、幼い頃失った母の面影を見ていたのだ。

「伯母様に感謝しなくては。あの方の愛と献身は、きっと霧の国を救うだろう」

「……ああ、そうだな。戦が終わったら彼女の遺体をちゃんと埋葬したい、時間がなくて何も出来なかったんだ。手伝ってもらえるか」

「当然だ」

 神零の言に章輝が返すと、再び深い微笑を浮かべた神零が「ありがとう」とつぶやく。

 礼を言うのはこちらの方だ、と章輝が笑った背後にいつの間に傍に来ていたのか、怒りと恐怖と絶望のあまりぶるぶると震える父王が立っていた。

「き、ききき貴様、国王たるわしに、たた、た楯突いたばかりか、ひひ姫まで篭絡ししししおって! 貴様はは死罪じゃ、ししし縛り首にしてくれる!」

 混乱のあまり激しくどもりながらまくし立てる王に、あまりの見苦しさあまりの愚かさに、章輝の怒りは頂点に達した。

 実父といえども許し難かった。

 今はそのようなことを言っている場合ではないのだ。

 霧の国を愛した伯母が命をかけてまで危機を伝え、戦って生き延びよと言い遺してくれたものを、どうして彼は理解しようとしないのか。理解しそのために立つことこそ、国を統べる人間の責務ではないのか。

 眦を吊り上げると、父王の前まで大股で近づく。それを見た父が、何を勘違いしたのか喜色を浮かべた。

「おお姫、判ってくれたのか。父は嬉しいぞ。そうじゃ、戦は無意味じゃ、今からでも遅ぅはな……」

 彼がすべてを言い切らぬうちに、章輝の拳が父の顔面を捉える。

 がきっ、という硬い音とともに、そこらの男など束になってかかっても敵わない程度には鍛えてある章輝の、硬く強靭な拳が、だらしなく緩んだ父王の顔面にめり込み、そして彼を吹き飛ばした。「ふぎゃっ」というみっともない悲鳴をあげて、父王が床を転がる。

 神零が目を丸くした。

 神々しいほどの美貌の人物でも、あのような顔をするんだな、と、章輝の方が驚くほどびっくりした顔だった。

「ひ、ひひひ姫、姫! い、いい一体なんの……」

 相当痛かったのだろう、鼻血を噴きこぼしながら床をのたうちまわり、涙声で王が言いかけるのへ、章輝は厳しい、そしてもはや一歩も退かぬ決意を込めた目を向けた。

「……章輝は情けのうございます、父上。伯母様は、父上のような腰抜けのために命を棄てられたのですか? だとしたらあんまりです。あの方はきっと、最期まであなたがすっくと立たれることを信じて逝かれましたのに」

「ひ、姫……そなたまでわしに背くのか……」

 鼻を血塗れになった両手で押さえながら、怒りと悲しみと憎悪のこもった声で父王が言う。もはや何も届かぬと理解した章輝は寂しげに笑うと、これが最後と心を決めて一礼した。

「いいえ、父上。章輝は霧の国のために、そして昔の、聡明であらせられたころの父上のために戦いに赴くのです。ですからこれでお別れです、父上。きっと章輝は、生きて戻りはしないでしょう。章輝亡きあとの太子には、スドクレナール右軍将軍のもとへ嫁がれた予耶よや姉さまのご子息をご指名くださいませ」

 そこまで一息に言うと、呆然と自分を見上げる父にはもう目もくれず、ひざまずくゴレムを立たせて出口へと向かう。

 宝物庫への階段が広く頑丈に出来ていたのは、このゴレムでも通れるようにということだったのだと気づいて、少しおかしくなった。長い歴史は、様々な過去をなきものにしてしまうのだ、ということに。

 神零はどうしたのかと振り返ると、床にへたり込んだまま悄然とうなだれた父王に静謐な眼差しを向け、

「クラウディアは戦えと言ったぞ、生きるために戦えと。自分が死ねば久尽はきっと目が醒める、とな。それを耳にする以前から、お前の娘が、死をも厭わず戦い抜く決意を固めているというのに、お前はそれを黙って見送るしか能がないのか」

 静かに、しかし厳しく言うところだった。そのあと、弾かれたように見上げる彼を残し、章輝の隣まで歩いてくる。黙ったまま、ふたりでゴレムの足音の響く階段を昇っていると、不意に神零がぽつりと言った。

「……死ぬなよ」

「え?」

「勝手に死ぬな。私はお前の墓など刻みたくはないぞ。きっと、霧の国の誰もが、だ。生きて帰れ、どんなことがあっても」

 淡々とした、しかし無限に祈りの含まれたそれに、章輝はにっこりと笑った。こんな場面なのに、嬉しくて仕方がなかった。同じようなことを、彼女の大切な友人や民が思ってくれていることを理解したからだ。深く頷く。

「そうだな、判った、絶対に死なない。生きて帰って、もう一度父上と喧嘩のやり直しだ。あの方のなまった心根を鍛えなおして差し上げねば」

 言ってまた笑う。

 ほんの少しだけ見えてきた希望に、その希望を潰えさせはしない、と胸の炎を燃え立たせる。

 階段を昇りきると、そこには何人かの側近がいた。

 香重とガルドール、元フィル=エギロエナ近衛騎士ロシュネイダや黒エルフのイライファネラ、三つ子のエルフたちの姿もある。誰もがひどく青褪めていて、章輝は眉をひそめた。

「姫、斥候が戻りました……」

 章輝の背後から現れたゴレムに訝しげな表情をしたのち、青年補佐官が彼女の傍へ歩み寄った。草歌そうか=クルド=ティティオーラ、章輝を政治行政面で補佐する人物である。かすれた声はうわずっていて、紙の束を持った白く細い指は細かく震えていた。

「そうか。それで?」

 先を促すと、草歌はごくりと生唾を飲み込み、

「あ、青の王国の勢力は、総勢十五万強の大軍となって、明日の日没には到着するとのことです……」

「……十五万……!」

 当初の予想を大幅に上回る兵力に、章輝は眼を厳しく細めた。

 これが威嚇だというのなら、三万弱の兵しか持たぬ国に派遣する数ではない。もはや疑いようはない。青の王国は、霧の国を滅ぼすつもりなのだ。

 しかしだからといって諦めるつもりなど毛頭ない章輝が、凄まじい勢いで脳裏に陣形や作戦を描いていると、

「姫……ラオニーナ姫さま!」

 草歌の配下で、もうひとりの側近たる青年、有稀うき=パウラ=エヴォーラが必死に走ってくる。顔は蒼白で、表情は限りなく絶望に近かった。

「どうした、有稀」

「青の王国と手を結んだものと思われるオークの軍隊が、エレダイル西部の岩山から侵入、王都西側を包囲しようとしています! おそらく、シェンダール軍の一斉攻撃開始と同時に攻めてくるものと思われます……!」

 叫ぶような彼の声に、章輝は眉をしかめる。

「……数は」

「お、およそ五千! 中にはトロルが十体ほど含まれている模様です!」

「五千……!」

 人間の数倍の力を持つオークが五千ということは、人間にすれば一万を軽く超える兵力が、王都の背後を包囲しかけているということだ。到底そちらへまわす戦力など望めそうにないのに、十五万の人間よりも五千のオークの方が不気味だった。彼らは本当に、何をするか判らないのだ。

 章輝は唇を噛み締めた。

 神零へ視線をやると、強靭な光を宿した眼差しは、何も変わらずに彼女を見つめていた。絶望にはまだ早い、と言わんばかりに。

 それで、章輝の心はまた浮上する。

 そう、わずかな希望のために死線をくぐると決めたのは章輝だ。ならば彼女は、結果がどうであれ、なきに均しい希望であっても、それを現実にするための努力をするだけだ。

 そしてそのための祈りと力を、伯母や伝説の戦士がいくつもいくつも届けてくれたのだ。それを無為になどできるはずもない。

「予定を変更するぞ。全員、手分けをして王都を回れ。王都へ避難して来ている民に、戦う覚悟のあるものは今すぐ王宮前の広場に来るよう伝えるんだ。一刻を争うぞ、騎士団の連中にも手伝わせろ、急げ!」

 厳しく、そして揺るがぬ声で命ずると、部下たちの蒼白だった顔に色が戻ってくる。彼らは、章輝の決意、不動のそれにつられるかのように背筋を伸ばした。

「「「イシュ・ヤー・エレ・ラオニーナ!」」」

 いくつもの声が応え、あちこちへ散ってゆく。

 それらの背を見送ってひとつ溜め息をつき、それからその場に残った友人たちへ、猛々しさを含んだ笑みを向けた。

 そして、言う。迷いも躊躇いもない口調で。

「――さあ、始めようか、皆。最後の戦いだ。霧の国の明日のために」

 めいめいに頷く面々に、章輝の笑みが深くなる。


 ――夜は徐々に更けて行く。

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