9.決断、転機、三つ子

 傲然と、昂然と告げられた神零の言葉に、ラオニーナは沈黙した。

 さきほど神零にひっくり返されて呻いていたベルセルクも、床に座り込んだまま眉根を寄せて黙りこくっている。

 選べといわれたからといって簡単に選べるものではないことは、決して聡明ではない迦楠にも判る。

 何故ならその選択は、自分ひとりの生き死にだけならいざ知らず、剣など握ったこともないような、いくさとは無縁な一般人たちの運命をも決定づけることだからだ。

たとえ選ぶべき道がそれしかないのだとしても、頂点に立つものの決定が国を左右するという事実から見れば、軽はずみな決断は力なき民を苦しめ、いたずらに死へと向かわせるだけだろう。

「……戦うしか、ない、ことは判っている。だが……」

 搾り出すような声はラオニーナのものだ。枯葉色の理性的な目には、苦悩と重圧の色がくっきりと刻まれていた。

「そのために、何人死ぬ? 何人残る?」

「あるいはひとりも残らぬかも知れん。青の王国の正規軍には、少なくとも十万の兵がいたはずだ。三千年前の正規軍の話だがな。だが、三千年を経てもなお――否、三千年を経て、それよりも更に強大な力を育て上げた青の王国に、平和ボケした二万八千の兵が勝利することは難しかろうさ」

 神零の言は厳しい。

 厳しいが、誰かを責めているわけではない。ただ、事実とやるべきことを告げているだけだ。

「厳しい言い様だな、事実なんだろうがね。が、姫の名誉のために弁解させてもらえるなら、俺がこの国に仕えることになった二年前に比べりゃ、ずいぶんマシになったんだぜ」

 苦笑を交えて言ったのは、迦楠が初めて見る顔だった。

 灰色の髪と鳶色の目、赤っぽい褐色の肌をした精悍な男だ。迦楠と同じくらいの身長で、筋肉の塊という武骨な表現は似合わないが、受ける印象は巌のようだ。

「……名乗れ」

 彼に視線を移した神零が、深紅の目を細めて言う。

 居丈高な、しかし不快に思うよりもまず畏怖を感じさせるその声に、男は居住まいを正し、

「香重=オルファ=アーディネイ。剣の国ニルヴァ=ソーンから来た」

 その言葉のあとに、口を開いたのは意外な人物だった。

「私の義兄だ、迦楠、シヴァーティリー。まさか、こんなところで再会しようとは思わなかったが」

「えっ」

 迦楠は驚きに声をあげていた。場違いだとは思いつつ。

 鬼彌が捨て子だったことはよく知っている。

 赤子だった彼を拾ってくれたのが、ニルヴァ=ソーンの山奥にある村の夫婦だったことも。しかし、その夫婦に息子がいて、しかも今こうしてここにいることを、迦楠は初めて知ったのだ。

「お兄さんがいたんだ、鬼彌。初耳だよ」

「――そういえば、言ってなかったような気もする」

「うん、聞いてない」

「そうか、そのエルフがお前の友人か、坊主。大層な美人だが、確かに男だな。しかも黒エルフとは珍しい」

「だから坊主っていうな、クソ兄貴」

「いいじゃないか、俺にとっちゃ坊主なんだから。で、そこのエルフはなんて名前だ?」

「迦楠=アリス=イライファネラだよ、お兄さん。初めまして、よろしくね」

「迦楠、こんなヤツに名乗らなくていいんだぞ」

「ほう……スミレ花の露とはまた美しい名前だな」

 鬼彌と迦楠の会話にアーディネイが加わって、なにやらのんきな――緊迫感のないやりとりをしていると、三人に視線をやった神零が軽い溜め息をつき、

「選べ、霧の国の姫。自分の意志で、だ。王は戦わぬと言うかも知れん。だが、戦わねば、恐らくこの国に明日はない」

 三人を無視したかたちで言葉を紡ぐ。

 迦楠は鬼彌と顔を見合わせ、ラオニーナの硬い表情を目にして口をつぐんだ。

「お前が護るべきものはいったい何だ。父親の命令か? それともくにたみのいのちか?」

「我が民の幸いと安寧だ。霧の国を愛し、この国に生き、そしてここで死にたいと願う人々のくらしを守ることこそ我らの務め」

 答えたラオニーナの口調にはよどみも迷いもない。

 神零はそうか、と返し、

「だが、お前だけで護れるものでもなかろう。身体ごと盾になろうとしたところで、そこからすり抜け零れ落ちてゆくのがいのちというものだ」

「――そうだ」

 ラオニーナの眉間に苦悩の皺が刻まれる。

 己の無力さが、彼女を責めているのだろうということは、他人の感情の機微に疎い迦楠でも多少は判る。

 ラオニーナもまた、ウィルバーク王と同じように、本当は非戦闘員をいくさになど駆り出したくはないのだ。幸いを護るべき対象を、むざむざと死に導きたくはないのだ。

 けれど、今のこの状況が、それを許さないだろうということも彼女には痛いほど判るからこそ、苦悩せずにはいられないのだろう。

「ラオニーナ。光の歌よ」

 そこへかかったことば、伝説を帯びる傭兵の声は、迦楠でさえ驚くほどやわらかかった。

「ひとりで背負うな、やさしい姫よ。確かにお前たち人間は儚い、それゆえ死を恐れぬ者はいないだろうが、幸いと平穏のために剣を取ることを是とする者がいないともまた、言い切れまい? お前の苦悩をお前の民は知っているだろう、少しは彼らに甘えるがいい。ほら、後ろを見てみろ、そこにもお前を案じ見守っている連中がいるだろう?」

「え……」

 きっと、そんな風に言われたことはなかったのだろう。枯葉色の眼に驚きを湛えて、ラオニーナが神零を見る。

 神零自身の表情に変化はなく、優れた細工師であるドワーフたちが精魂込めて削り上げた紅玉ロータスのごとき深紅の瞳には、強靭な意志と静かな光がたゆたっているだけだ。

「シヴァーティリー、殿……」

「敬称は要らん。なにひとつ身に帯びぬものの名のごとく、いかなる権威の綺羅うすぎぬであれ、私を飾ることはないのだから」

「ああ、うん、そうか……」

 どこか子どもっぽくラオニーナはうなずき、少女のように頬を赤らめて、

「そうかも知れない。少し楽になった、ありがとう……」

 呟くように言った。

 神零がかすかに笑んで頷き、それからひどく咳き込む。

 喉の奥に血塊がつかえたような、不吉でいやな音を伴った咳に、迦楠は眉をひそめた。神零の背中をさすりながら、

「大丈夫? また無茶をしたんだね。もう少し、自分のことを考えてよ」

「――命すらかけた女に比べれば、これの何が無茶だ?」

 迦楠の気遣いの言葉に、もはや心を決めた風情で神零が返す。

 強情なんだから、と迦楠は苦笑した。こうと決めたらてこでも動かない頑固さは鬼彌といい勝負だ。だからこそあのふたりはよく衝突するのだろうし、そしてその頑固さのゆえに互いを理解してもいるのだろう。

「なんだよ章輝、水臭えな。ひとりで抱え込んでんじゃねえよ。アンタだけに何もかも背負わせようなんて、この国の連中は誰も思っちゃいねえんだ。だいたい、悩んでばっかじゃ面白くねぇだろ?」

 立ち上がったベルセルクが、ラオニーナの肩を叩いて言う。

 それからまだ軽い咳をしている神零に琥珀色の眼を向け、にやっと笑った。少年っぽさと精悍さを併せ持った顔に明るい色が浮かぶ。

「あんた、実は結構イイ奴なんだな」

「――お前はもう少し悩め、ひよっこ」

 淡々と神零が返し、

「うわッ、やっぱイイ奴ってのナシ! 褒めた俺が馬鹿だった!」

 毒づいたベルセルクが頭を掻き毟る。

 重い空気を遠ざけるような、ベルセルクの大仰で滑稽な仕草に、迦楠はくすくすと笑った。見ると、鬼彌もアーディネイも、ラオニーナも笑っている。

 そんな中、まったく表情を変えていない神零が、

「名は何だ、ひよっこ。その角からしてヴァンディスオート出身のようだが」

「だぁら、ひよっこひよっこ言うな! 初陣云々っての、俺も気にしてんだからな!」

「何だ、先ほどのあれは図星か。だが、別にそんなことはどうでもいい、ひよこ扱いされたくなければ名乗れ」

 むきになり、顔を真っ赤にしてがなりたてるベルセルクとは裏腹に、神零は冷淡な表情を崩さない。

 もともと神零はそれほど表情豊かでも感情表現が巧みなわけでもないから、長く付き合わないとこの人の感情の機微を読むことは非常に難しいのだ。怒り狂っているときは別として。

「ああうるせえな、判ってるよ、名前だろ!? 俺はガルドール、ガルドール・ロータスだ! あんたの言うとおり、ヴァンディスオート出身だよ! これでいいだろ!」

 ベルセルクは闇の一族ではあるが、同属であるオウガと同等に、むしろそれよりも更に、格段に人間に近い。そのため、彼らの名前は神聖語とも別に称される古代語で成り立っている。

「秀逸な織物(ガルドール)? 悪くない名だな。そうか……ロータス家の一員か、お前は。パウラマースは健在か?」

 湯気でも噴きそうな勢いで名乗ったベルセルクに、やはり淡々と神零が言い、

「今も現役で戦場にいるぜ……ってあんた、大おじい様を知ってんのか!?」

 琥珀の目を剥いたガルドールが問い返す。

「ヴァンディスオートのパウラマース・ロータスは、四百年前の“嘆きの死戦”で名を馳せた勇猛の徒だ。私もあの戦に加わったから彼のことは知っている」

「そうなのか? でも、大おじい様は神零=エル=シヴァーティリーが戦に加わったなんて言ってなかったぞ?」

「用がなければ名乗らん」

 あっさりと言い捨てたあと、神零はラオニーナを見遣り、

「それで、心は決めたか、姫。すべてはお前の決断にかかっている」

 問われたラオニーナはしばらく沈黙していたが、やがて神零に強い光を宿した眼差しを向け、

「私は戦おう、《焔なる闇》よ。私とともに剣を握ってくれるものたちとともに。座して滅びを待つよりも、淡い希望のために死線をくぐろう」

 きっぱりと言い切った。

 その言葉にガルドールが満面の笑みを浮かべ、「俺はアンタに従うぜ」と誓った。それに対してアーディネイは思案顔だ。

「王はどうする? 彼はおそらく……」

「説得しよう。説得が無理なら、寝室でしばらく休んでいていただくのでもいい。とりまきの大臣どももな」

 もはや揺るがぬ口調で応える。

 アーディネイは苦笑し、

「それしかないか、仕方ない。少々騒がしくなるだろうが、俺の主はあんただ、あんたの決定にのみ従おう」

「ならば私のために剣を取れ、私の戦士よ。私と、この国の未来のために」

「御心のままに、我が戦姫(イシュ・ヤー・シ・ディノータ・ルヴィティーウ)」

 彼は言葉とともに恭しく背を屈めると、ラオニーナの手を取ってその甲に軽くくちづけた。

 それから立ち上がり、マントを翻して、

「さあて……じゃあ、口うるさい爺どもにしばらく黙っていてもらおうかね?」

 実に楽しげに笑って指を鳴らした。

 そのまま歩き始める。

 そのあとを、俺も混ぜろよ、と笑ったガルドールが追った。

「なんだか楽しそうだね?」

「まったくだ。なにやら含みがありそうだな」

 迦楠の言葉に、肩をすくめて鬼彌が返したところへ、生き生きと弾んだアーディネイの声が飛んでくる。

「おい、坊主! 力仕事だ、お前も手伝え!」

「だから坊主っていうな、クソ兄貴!」

 普段迦楠には見せないような、悪童の雰囲気とともに鬼彌が怒鳴り返し、

「……馬鹿がうるさいからちょっと行って来る。迦楠はあとで来ればいい」

 少々はにかんだ風情を見せて、早足でふたりのもとへと歩き去った。

 一緒に行くよと声をかけようとした迦楠だったが、何やら文句を言いつつアーディネイの隣に並んだ鬼彌が、それに笑った義兄の二言三言に、我慢出来ないといった様子で吹き出し、笑いながら肩を組んだのを目にして口をつぐんだ。

 何年ぶりの再会だったのかなど迦楠には判らないが、血のつながりの無さなど関係なく、むしろ本物の兄弟よりも深く、変わらずに続く親密な空気に、胸の奥で蠢く黒い塊を意識せずにはいられなかった。

 彼は自分のものなのに、と、黒い塊が言う。

 誰にも渡したくないのに、と。

 そう、出会って、友だちになって、道行をともにしようと決めてから、彼はずうっと迦楠のものだった。

 言葉も目線も心も。

 初めて出会った日から今まで、黒エルフの時間に換算すればそれほど長くもない時間、生まれて初めて彼の心を捕らえた人間の行く末を、迦楠はずっと見てきた。

 誇り高く、心には常に望みを失わず、そして自由で勇猛なあの人間の存在が、短い寿命しか持たず、ふと気づけば呆気なくいなくなっているような、人間という種族に迦楠を夢中にさせた。

 呆気ないからこそ、儚いからこそまぶしいのだと、彼の存在が教えてくれたのだ。

 二千数百年を生きながら、とある事情でいまだ未熟なままの迦楠にとって、彼は友人であるのと同時に兄であり、そして師でもあった。

 養い親である神零にも同等の執着を抱いている迦楠だが、まず神零との間にあるのは与えられる愛であり、常に注がれ続ける無言の庇護だ。

 もちろん迦楠が神零の愛を望まなかったことなど一度たりとてないし、特殊な生い立ちのせいでひどく歪んだ恐ろしい子どもであった自分を、深い愛と強い意志であたたかい位置に連れ出してくれた神零が常に傍にいることは、当然極まりのないことでもあった。

 だから、例えば神零が、また黒エルフの子どもを拾ってきて今日から養子になった……などと言い出したら迦楠は哀しいし、思い切り拗ねる。

 実の親からは決して得られなかった愛情を、迦楠は神零からすべてもらっていたし、また求めていた。

 しかし、鬼彌に抱く執着は少し違う。

 鬼彌は迦楠が、生まれて初めて行く末を見届けたいと切望した人間だ。受動的に、ひたすらに与えられ続ける愛ではなく、自分から何度でも友達になりたいと思い、またそのためなら何でもしようと思えるほどには執着している人間だ。万が一彼が自分のことを嫌いになっても、決して自分は嫌いにはなれないだろうと思えるくらいには好きなのだ。

 迦楠の世界のほとんどは、今のところ、彼を中心にして回っているといっても過言ではない。

 それだけに、彼の世界を占める鬼彌が、迦楠の知らない人間と親しくしている様子を目の当たりにさせられるのは、幼い独占欲に染まった心にはまったくもって面白くないことだった。

 鬼彌を呼んで、アーディネイから彼を取り戻したいという激しい欲求にかられるが、肩のナハトがピィと鳴き、神零の肩へと飛び移ったことで気勢をそがれる。

 目をやると、ナハトの咽喉をくすぐった神零が微笑して、

「どうした、迦楠。何をそんなに、怖い顔をしているんだ」

「怖い顔、してた?」

「ああ。エルフには笑顔が似合う、そんな怖い、不安な顔をするのはよせ。それとも、何か気にかかることでもあったか」

「うん……あぁ、いや、何でもないよ……」

 鬼彌が自分以外の誰かと仲よくしているのが気に食わない、などとは、さすがに口にするのは憚られて言葉を濁す。

 しかしどうやら気取られていたらしく、神零は静かな微笑を浮かべたまま、

「あれは恐らく、おまえが疑うまでもなくおまえのものだ、スミレ花」

「えっ」

「しっかりやきもちを焼け、嫉妬しろ、独占したいと思え。それは自分以外の誰かを、自分よりも大事だと思うのなら当然のことだ。私は、おまえの心が、誰かを自分だけのものにしておきたい、と思えるまで成長したことを喜ぼう」

 それだけ言って、歩き始めたラオニーナの隣に並び、男三人を追う。

 迦楠は沈黙した。

 ひとり立ち尽くしたのち、小さく呟く。

「やきもち、かぁ……」

 心とは、なんと複雑で難しいものか。

 未だ完成されることのない(そもそも、完成されることなどあるのだろうか?)、未成熟な自分自身を思い、溜め息をつく。


 *


 合議の間は戦場のようだった。

 ここはいわゆる全体会議の場所で、百人以上の高官たちが大きな問題を諮るときに使うらしい。この中で、十八人の老人たちが、ああでもないこうでもないと無意味な議論を戦わせていたのだとか。

「姫! これは一体何の冗談でございますか! ええい離せ若造、下衆に触れられとうはない!」

「はっ、俺が下衆なら、アンタらは小便垂れのタマなしどもだ! 姫は戦うことに決めた、戦わないヤツらは部屋で震えてな!」

 実に楽しげに罵りながら、ガルドールが合議の間に集っている老人たちを、片っ端から荒縄で縛り上げていく。

 老人たちは一様に豪奢な衣服を身にまとっていた。

 その尊大な雰囲気から、彼らがアーディネイ言うところの『爺ども』、すなわち国政を預かる大臣たちなのだろうと察しがついた。

 鞠のように肥満した老人から枯れ木以下の老人まで、金切り声を上げて抵抗するのを、辟易した様子で――しかし素晴らしい手際のよさで鬼彌が縛り上げていく。

 アーディネイ本人は剣を抜き、大臣の護衛らしい衛兵たちを牽制していた。衛兵たちも、大臣に剣が当たることを警戒して動くに動けずにいる。否、そもそも、積極的に手を出すつもりはないようだ。

 迦楠が合議の間へたどりついたころには、捕り物はあらかた終わっていた。拍子抜けするほどあっさりと。

 調子に乗ったガルドールが縄を巻きすぎたせいで芋虫のようになった大臣たちが、ごろごろと床を転がっている。

 そこへ、大きく開いた扉から、捕り物が終わるのを黙って見ていたラオニーナが、ゆったりとした足取りで中へ入っていくと、皆が皆ピタリと口を噤み、動きを止めた。

「ひ、姫様……このようなこと、お父上が哀しまれますぞ……!」

 震える声で、丸々と太った老人が言ったのへ、王女は冷え冷えとした枯葉色の視線を向ける。その姿は厳しく、そして凛々しく、床に転がって喚いている老人など歯牙にもかけぬほどの威圧感に満ちていた。

「父上にはしばらく休んでいただく」

「まさか……王位を簒奪なさるおつもりか!?」

 見当違いの問いかけに、王女はうっすらと微笑んで、

「そんなものに興味はない。いくさが終わり、この国の安全が保証されれば、いかなる咎めも罰も受けよう。その罰が死であっても。――どちらにせよ、この国の未来が決まるまであと三日程度のこと、大臣諸氏にはその間、部屋でゆっくり寛いでいていただきたい」

「王は戦わぬと仰りましたぞ! 青の王国の使者は、降伏すれば命まで取らぬと言いよったのです、従わねば滅ぼされるだけではありませんか!」

「そうです、姫! 霧の国の歴史を、ここで終わらせるおつもりか!?」

 必死の形相で主張する老人たちにはもはや構わず、ラオニーナは合議の間中央までゆっくり歩くと、

「騎士団長!」

 厳しく呼ばわった。

「はっ!」

 騒ぎを知らされて駆けつけてきたのだろう、高い身分を示す騎士服に身を包んだ壮年の男性が、ラオニーナの眼前で膝を折り、恭しくこうべを垂れた。見ると、何時間か前に迦楠たちを謁見の間に案内してくれた人物だ。

「いくさの準備だ。兵たちに新しい武器を与えよ。そして、王都に避難して来ているすべての民に触れを出せ。いくさが始まることと戦わねば明日がないこと、剣を取る覚悟のある人間を求めていることを。時間がない、急げ!」

 騎士団長は何も問わなかった。

 ただ誇らしげにラオニーナを見遣ると、右の拳を胸の中央にあて、

「イシュ・ヤー・エレ・ラオニーナ!」

 それだけ言って、足早に合議の間を出て行く。

 迷いのない、堂々とした姿で。

 その姿を観た大臣づきの衛兵たちは、お互いに顔を見合わせて剣を降ろす。

「待て、アルルヒンメ! 姫はご乱心されたのだ、命を聞いてはならん!」

 大臣のひとりが悲鳴のように叫んだが、騎士団長の歩みに変化はなかった。

 声をあげた大臣を見下ろしながら、ガルドールが呆れた声で言う。

「馬鹿だなぁ、アンタら。青の王国が本当に約束を守ると思ってんのか? 明らかに殲滅目的で来てんじゃん、あいつら。いや、別に死ぬのがアンタらだけなら俺も止めねぇけどよ」

「……思っていなければここまで暢気に構えていられまい」

 応えたのは神零だ。

 その肩のナハトがピィと同意の鳴き声をあげ、ガルドールの頭に飛び乗った。ベルセルクは少し驚いたようだったが、

「こいつ魔獣族上位種のリンドブルムだろ? それにしちゃちっせぇなぁ。まだ子どもなのか?」

「いや、もう成獣だ。確か今年で三百十六歳になる」

「って、俺の親父よか年上じゃねえか……」

「飛竜族は千年以上生きるからな。若い個体であることは確かだが」

「ふーん。で、お前はなんで俺の頭に来るんだ? 乗り心地はいいか?」

 いやがるでもなく頭上を見上げる。

 ナハトはまたピィと同意の声をあげて鳴き、まるで鳥が玉子を温めるような姿勢のまま、ガルドールの頭に腰を落ち着けたようだった。

「さて……ガルドール、鬼彌、それからそこのあんたたちも、爺ども……おっと、大臣各位を部屋に運んで差し上げてくれ。で、余計なことをしないよう、厳重に見張りを立てておくことにしようか」

 いたずらっぽく言ったアーディネイが、樽のような体型の大臣をふたり、軽々と両肩に担ぎ上げた。急なことだったので、老人たちが聞き苦しい悲鳴をあげる。鬼彌は嫌そうに、頭に小竜を載せたままのガルドールは楽しそうにアーディネイに倣う。

 三人と数人の衛兵たちが、縄でぐるぐる巻きにされた老人たちを部屋に運んでいる間、迦楠は神零とラオニーナが何かを話しているのをぼんやりと眺めていた。

 聞こえていないわけではないのだが、他に考えることがあって、ふたりの会話が頭に入ってこないのだ。

(いやな空気が、近づいてくる……)

 他種族よりも敏感に精素の流れを読むことのできるエルフ族は、精素によって運ばれてくる様々な情報を読むことに長けている。

 精霊族各種族の、属性に沿った能力には到底及ばないが、迦楠には空気に悪意が混ざっているのが判る。闇の一族の悪意と、そして人間の悪意が、ともに皆殺しの意志をたぎらせて近づいてくることが判る。同属の血に狂い、更にそれを求める歪んだ意志が。

「霧が出てきたな……」

 ぽつりと呟いたのは神零だ。

 頷いたラオニーナが、

「国名の所以だからな。一年の半分を、この国は霧に覆われる……」

 徐々に白靄に覆われていく、窓の外の景色を見ながら言った。

 そのとき、大臣たちの『片付け』が済んだらしいアーディネイが顔をのぞかせ、

「ラオニーナ、それからそこのふたりも、ちょっと来てくれ。来客らしい」

 そう言いながら手招きする。

 迦楠は首を傾げた。こんな時期に、一体誰が来るというのだろう。

「ああ、判った、今行く」

 迦楠は、アーディネイに応えたラオニーナが、濃い灰色のマントを翻すのを見やってから、歩き出した神零に並ぶ。

「誰だろう?」

「さあな……だが、悪いものではない気がする」

「うん……そうだね。嫌な空気は感じない」

 絶望的というのが相応しいようなこの国に、何か希望の風が吹き込めばいい、などと思いつつ、迦楠は促されるまま歩みを進めた。


 *


 来客は王城の門前にいた。

 時刻は大陸標準時間にして二十二時、門の外の景色は深い霧と闇に覆われていた。

数は三人。

 三人とも、一様に銀色の髪をして、一様に尖った耳を持っている。一目でエルフと判る美貌と、エルフ独特の雰囲気の持ち主だ。

「お前たちか……」

 三人を見た神零が、深紅の目を細めて言う。

 神零を視界に認めた三人は、まったく同じ顔を揃って笑みのかたちにして、

「「「お久しぶりです、神零=エル=シヴァーティリー!」」」

 異口同音に返して神零に駆け寄った。

 声質は多少違う。

「……誰だ?」

 隣に並んだラオニーナが呟いたので、迦楠は彼女に目を移した。

「忘却の国を知ってる?」

「森エルフが集う国だろう」

「うん、そう。じゃあ、そこのエルフ王のことは?」

「――天無=フェイ=サラスゥオーラ。世界最古のホワイト・ハイだ」

「その息子だよ」

「そっくりだな」

「三つ子だからね」

 小さな声でやり取りをしていると、ふたりを振り返った神零が、

深祥みゆき=サーラ=ルウネ、深涛みなみ=セレン=キルディン、深蕾みらい=ゾーナ=ファラソーンだ、ラオニーナ。父王サラスゥオーラに言われて来たらしい」

「ほう……。で、どれが誰だ?」

 神零の言葉にラオニーナは首を傾げて問い返した。

 答えたのは神零ではない。

「僕がルウネだよ。よろしく、お姫様」

 黒と見紛う深緑の瞳のエルフが自分を指差して言う。

 銀髪は大方が顎の辺りで切り揃えられているが、胸の辺りまでの長さのある房が十本ほどある。彼は、手に何かの包みを持っていた。棒のようなものに、白い布をぐるぐると巻きつけた包みだ。

「私はキルディンです。どうぞよしなに」

 こちらは打って変わって淡い緑色の目をしたエルフが優雅に礼をする。

 背の半ばまである銀髪は複雑に編み込まれ、垂らされている。

「ファラソーンだ。初めまして、姫君」

 最後に名乗ったのは、青みがかった緑の眼のエルフだ。

 肩の辺りまである髪はまっすぐに切り揃えられ、わずかな風に揺れている。

「ふむ。私はラオニーナ、章輝=エレン=ラオニーナだ。ようこそオウイクへ……と言いたいところだが、なぜ今、この国へ?」

「親父殿が神零を手伝って来いって言ったから」

「届け物もありましたし」

「だが、十日でここまで来るのはさすがに疲れた……」

 三つ子が、もうじき戦場になる国にいるとは到底思えないのんきな口調で言うのを聞きつつ、ラオニーナは微妙な表情をした。どう対処するか悩むところ、ということだろう。

「三人ともいくさに加わるそうだ。彼らはひとりひとりが一騎当千の若武者だ、おかげで戦況に希望が持てる」

「誇張ではなく、か?」

「ああ。あとはこの国の民がどれだけ加わるか、だな」

「――騎士団長がもうじき戻ってくる。剣を取ろうという者には、明朝八時に王宮前の広場に集まるよう言っておいた」

 徐々に徐々に、今以上に霧深くなってゆく周囲を見遣ってラオニーナが言い、それから一同をぐるりと見渡すと、

「だから、今日はもう休んでくれ。神零=エル=シヴァーティリー、あなたは特に休息が必要だろう? 客人方も、ご足労かたじけない」

 と、城へ入るよう促した。

 異存なく全員が城門をくぐる中、迦楠は闇と霧に包まれた外を見遣る。

 ひしひしと迫る、悪意に満ちた空気を感じつつも、迦楠自身に危機感というものはなかった。

「久しぶりですね、イライファネラ。まさか、こんなところで会うことになるとは思いませんでしたよ……」

 隣に立ったキルディンが苦笑混じりに言うのへ頷き返す。

「でも、わたしは、君たちが来てくれた分だけ気持ちが軽いよ」

 そう、実際、神零がいて鬼彌がいて自分がいて、リンドブルムやベルセルクが戦う決意を固め、更にはまだ若いながら勇猛の徒として名を馳せるエルフの三つ子が来てくれたのに、何を恐れることがあるだろうか。

 迦楠は自分が愚かだということを知っているが、同時に自分が強靭であることも知っている。戦う力があることを知っている。

(生きられるいのちがあるのなら、わたしはそのために戦いたい……)

 今ここにはない大弓の感触を思い、少しだけ眼差しを厳しくする。


 近づいてくる、決戦のために。

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