8.嫉妬、再会、選択

 鬼彌には言葉がなかった。

 彼にとっては無敵無敗の代名詞ですらある傭兵が、こんなにも打ちひしがれ憔悴し、そしてひどい絶望の匂いをさせていることに。

 けれどそんな、鬼彌の感傷になど、周囲が構ってくれるはずもない。

 深い悲しみに曇った眼を黒エルフの若者に向けていた神零を、衛兵たちが取り囲む。神零自身は身動きもしなかった。

「賊め!」

 神零が何をもたらしたか、よりも、王への無礼に怒髪天を衝いたらしく、厳しい怒りに眦を吊り上げた王女が、引き抜いた剣を手に一歩踏み出す。そして輝くそれを神零に突き付けた瞬間、唐突に、傭兵はその場にぶっ倒れた。

 受身も何もない、まさしく『力尽きた』というのが正しいであろう倒れ方だった。

 地響きが、とまでは行かなかったものの、普段軽やかな挙動からは想像もつかぬほど、不恰好で無防備な昏倒だ。もっとも、この傭兵が地に伏すこと自体、そうそう目にできるものでもないのだが。

 そのまま意識を失ったらしく、色めき立つ兵たちが殺到しても、その深紅の目が開かれることはなかった。

「神零!」

 叫び、駆け寄ろうとする迦楠を衛兵たちが阻む。

 その迦楠を尻目に、衛兵のひとりが神零を蹴った。呻き声すら立てず、磨き上げられた床を転がる傭兵に、迦楠が悲鳴のような声を上げた。

 それに同調するごとく、迦楠の肩にいたナハトが、ピィッと哀しげに鳴く。

 しかしナハトには、許しなしに人間を攻撃することは出来ない。神零に、そうしつけられたからだ。

 前髪を編み上げた細い三つ編みを、もうひとりの衛兵が乱暴に掴み、顔を上に向けさせる。血にまみれ、汚れに汚れた、しかしそれでも間違いなく――比類なく整った美貌には、明らかな苦悩の色が張り付いていた。

「……無礼者が。この場で斬り捨ててくれる!」

 吐き捨てた王女が剣を構える。

 制止しようと、鬼彌が声をかけるより早く、

「神零に触るなッ!」

 鋭く叫んだ迦楠が、鬼彌が呆れるほどの素早さで、彼を取り囲んでいた衛兵たちを殴り倒した。

 唐突だったためか、肩から転がり落ちかけたナハトが慌てて宙に舞い上がり、鬼彌の肩へと移動した。「ぎゃッ」とか「うわっ」とかいう悲鳴が響き、衛兵数人があっという間に床へと沈む。

 王への拝謁のため、武器を帯びることは許されていなかったが、そもそもこの黒エルフの戦闘能力は、例え素手であっても、そこらの人間では相手にならないくらい高い。

 彼の無造作な拳の一撃、蹴りの一撃で、次々と衛兵たちは戦闘不能に陥った。

「停まれ、王の御前で、無礼な!」

 金切り声を上げる衛兵たちなど眼中にない勢いで、立ち塞がれば即座に打ち倒し、神零のそばに立つ衛兵に肉薄する。彼は、意識を失ったままの神零に剣を向け、迦楠を制止しようとしていたが、

「――逆効果だ」

 憮然としてつぶやく鬼彌の言葉どおり、自分が殺意を向けられたわけでもないのに戦闘態勢に入っている迦楠は、

「そんなもの、神零に向けるな!」

 スミレ色の眼に激しい怒りを燃やして、衛兵の剣を蹴り落とした。更に踏み込み、その衛兵を殴り倒す。

 それから、苦悶の声を上げて引っ繰り返る衛兵には眼もくれず、神零を抱き起こすと、泣きそうな顔で傭兵を呼んだ。

 それほど大柄でもないのに、普段は猛々しさに満ち溢れた傭兵の身体は、今は何の抵抗も反応もなく、迦楠の腕の中でぐったりと力を失っていた。

「神零、神零! しっかり――どうして、こんな……!」

 しかし傭兵は答えず、目は閉じられたままだ。

「いったい、何があったんだ……」

 頬にこびりついた血を指先で拭いながら、途方に暮れたようにつぶやく迦楠の首筋に、背後から銀色の刃が突きつけられる。

 刃の主は、王の娘たる女だ。

「お前もその賊の仲間か。我が父への無礼、死を持って償え」

 冷え冷えとした声だったが、迦楠はまったく動じていなかった。神零の、乱れ汚れた髪をいとおしげに撫でながら、

「神零は何も悪いことをしていない。それを賊と呼び、死ねというのなら、わたしはあなたを殺してでもこのひとを守る」

 毅然として答えた。

 迷いも躊躇いもない言葉と、いっそたおやかですらある顔立ちとは裏腹の、手練れの雰囲気に王女が鼻白む。

 普段は暢気で陽気でおしゃべりで、楽しいこと面白いことやおいしいものが大好きな迦楠だが、彼の根本には、決して我を曲げようとしない頑固な部分が根差している。無垢で純粋なるがゆえに、喪いたくないと心底思ったもののためになら、身体もいのちも投げ出すくらいのことは平気でやるエルフなのだ。

 そして、鬼彌が迦楠と出会うずいぶん昔からともに旅をしてきたという神零を、迦楠が見捨てるかといったらそんなはずはなかった。

 鬼彌は、王女が戸惑いをみせたのを感じ取るや、その背後にそっと近づき、彼女が彼に気づく前に、彼女の手から剣を抜き取った。

「無礼をお許しください」

「何だ、お前、は……?」

 邪魔者に激昂しかけた王女だったが、鬼彌と目が合うや否や、彼女の凛々しいかんばせに、不思議そうな表情が浮かんだ。

 何かを思い出そうとするように、どこか悲しみを含んだ、理知的な枯葉色の瞳が宙を漂う。

「お久しぶりです、章輝ふみき=エレン=ラオニーナ。霧の国の戦姫よ。……といっても、貴女が私を覚えておられるかは疑問ですが」

「――ああ……いや、待て……」

 しばしの沈黙のあと、

「思い出した。あまりに見てくれが変わっていたから気づかなかったぞ、ロシュネイダ。牙の国随一と称された筆頭近衛騎士が、何故こんなところに?」

 きびきびしたラオニーナの言葉に、鬼彌は苦笑した。

 冷ややかさが消え、女性にしては低い声に親しみがこもる。近衛の出奔など国外で取り沙汰されるものでもないから、ここまで情報が伝わっていなくてもおかしくはない。

 十年前、彼が国を出るきっかけとなった主君の死を、つい昨日のことのように思い起こしながら答える。

「事情あって、今は根なし草の身です。貴女はお元気そうだ、姫」

「そうだったのか。貴殿と最後に会ったのは十年も前だ、それだけあれば人は変わりもするだろう。――では、あのふたりは貴殿の連れか」

「はい。我ら三人、王姉殿下の願いにより参りました」

 言うとラオニーナの顔に、悲哀とも思慕ともつかぬものが浮かんだ。

「クラウディア伯母様が。そうか。……すまぬ、貴殿の連れに無体なことをした。最近色々あってな、苛立っていた」

「お気持ちお察しします。お気に召されるな、あいつは頑固で強情ですが、貴女がたの状況を理解しないほど狭量ではありません。それはさておき……あいつをどこかで休ませてやっていただけませんか?」

 実は義理の親子らしい、しかし親子というよりは、どちらかというとまったく似ていない兄弟のようにも見える異種族ふたりに眼をやりながら言うと、ラオニーナが軽く頷く。

「医師か世話係が要るか?」

 すると、細身に似合わぬ怪力で、ぐったりと気を失っている神零を軽々と抱き上げた迦楠が、硬い表情のまま首を横に振る。その肩に、クゥと鳴いたナハトがとまり、神零を見下ろして哀しげに鼻を鳴らした。

「要らない、わたしがやるから。身体を拭くものと、着替えをもらえたらありがたいけど」

「用意しよう。――アスディ、ガルヌ、父上を寝室に。ゴートルド、ヘメリ、そちらのふたりに部屋と湯、着替えを。急げ」

 死の恐怖に我を失い『閉ざされて』いたウィルバーク王より、数倍は為政者らしい姿に、彼女が王であればもっと士気が上がるだろうに、などと、鬼彌は要らないことを考えていた。

 てきぱきと采配をし、神零を抱えた迦楠が案内されてゆき、気を失ったままの王がふたりの侍従によって運ばれてゆくのを見送ると、ラオニーナは玉座に歩み寄った。

奇妙な非現実感を伴った色合いの、しかしそれだけで美しい手首と、髪の束を拾い上げ、

「……伯母様。まさかあなたが……しかし、何故?」

 独白し、髪束をきつく握り締める。

 うつむいた顔に、顎の辺りで切り揃えられた淡い金髪がさらりと揺れ、影を落とす。苦悩と疲れの張り付いた目は閉じられ、紅もさしていない唇が、哀悼の言葉を紡ぎだした。

 しかしそれも一瞬のことで、やがて顔を上げたラオニーナは、

「……先ほどの者が気づき次第、事情を聞く。ふたりにそう伝えてくれ。貴殿も、それまではしばし休まれよ、いっときなりとも」

 やはりきびきびと、そう言ったのだった。


 *


 迦楠の邪魔をせぬようにと思い、鬼彌は一時間ほどおいてあてがわれた部屋に入った。

 宵闇に包まれつつある室内では、統一されたデザインの優美なランプに火が灯され、静かに辺りを照らしている。ランプの光に照らし出された、古びてはいるが優美かつ豪奢な内装に、霧の国の歴史と文化を思う。

 鬼彌の、そう豊かではない芸術の知識を総動員してみると、霧の国第三紀と呼ばれる約二千年前の彫刻や絵画が飾られているのが判る。

 霧の国最盛期と言われたこの時期は、まるで金銭というものが湯水のごとく湧き出てくるものであるかのように、華美かつ豪奢なものが貴ばれた。

 扉から少し奥まったところにある寝室を遠巻きにのぞくと、傭兵は目覚めて、ベッドに身を起こしていた。金糸銀糸で縫い取りのされた、絹の布団が乱れてめくれている。

 汚れを落とし、白い部屋着に着替えた姿は、何者をも凌駕するほどに美しかったが、いつものあの猛々しさは感じられなかった。深紅の目には力がなく、重い疲労と悲嘆が、神零から生彩を欠いていた。

 遠巻きにそれらを目にした鬼彌は、神零の、いつもは細い三つ編みにして垂らしている前髪が、今ばかりは複雑な紋様の描かれた巻き布を取り外され、解かれている様に不可思議な感覚を味わう。それはきっと、普遍であるかのようなあの傭兵の、わずかな変化に対する戸惑いなのだろう。

 そもそも笑顔ばかりの人物ではないが、少なくともあんな沈んだ表情を見るのは、十年付き合って初めてのことだ。

 声をかけるのが躊躇われ、入り口付近で立ち止まっていると、

「神零! 目が醒めたんだね!」

 心底ほっとした声とともに、上着を脱いだ姿の迦楠がベッドに駆け寄る。手には湯を入れた手洗い桶と、よく絞った浴布がある。

 扉からベッドまでは距離があるため、鬼彌には気づいていないらしい。もともと迦楠は、殺気や敵意などの、負に属する感情以外には非常に鈍い。

 その迦楠の背を追うように飛んできた小さなリンドブルムが、クゥと鳴きながら神零の枕元にとまる。

 神零はのろのろとした動作で迦楠を見上げ、何かを呟いたが、声が小さすぎて鬼彌からは聞こえない。

 それを聞いた迦楠は困ったような微笑を浮かべ、神零の頬を両手で包み込むと、傭兵の額に自分の額をそっと当てた。そして、

「「『Estraidoa manu theerz lewn liletua(聖別されたる幸い人に祝福あれ) fue wrenchher nim abiz(かの人のゆく道に光あれ』」」

 同時に目を閉じ、異口同音に死者への哀悼句を囁く。

 そのあと迦楠は、困ったような……どこか泣きそうな微笑のまま、

「神零の所為じゃない。クラウディアは幸せだったよ、だって神零が看取ってくれたんだもの。ねえ、だから自分を責める必要はないよ、そんな悲しい顔をしないで、いつもの神零に戻ってよ……」

「Si Aura Eilairfanneila……」

 古代語でつぶやいた神零が、頬に当てられた迦楠の右手を取り、その手の平に軽くくちづけた。

やがて開かれた深紅の眼には、徐々にではあるが光が戻ってくる。

少し笑った迦楠が手を差し出すと、その手を取った神零がゆっくりとベッドから降りる。

 ふたりのその姿の、何と美しかったことだろう。

 そして、何と妬ましかったことだろう。

 不意に強烈な所有欲、独占欲が込み上げて、鬼彌は今更ながら自分の身勝手さ醜さを再認識する。もちろん、あの優しい美しい黒エルフを、今のこの場で独り占めにする傭兵への、本能のように染み付いた嫉妬の感情だ。

 今はそれどころではないと理解しつつも、そのどす黒い感情を止められず、鬼彌はしばし自分に戸惑う。ここまであの優美な生き物に囚われていたとは、正直思いもしなかった。

 性別も種族も存在の意味も関係なく、愛だ友情だなどという論理を置き去りにして、ただただ迦楠=アリス=イライファネラと言う名の美しい生き物を独占したいという、あれは間違いなく自分のものだという激しい内心の声に眩暈すら覚えた。

 このままではあの満身創痍の傭兵に、ヒトのモノに触るななどと食って掛かり兼ねないと自覚した鬼彌は、着替えの真っ最中のふたりに気づかれないよう、そっと部屋の外へ出る。

 外へ出て大きく溜め息し、奥の廊下へ目をやると、煌々と輝くかがり火の向こうから、三つの人影が近づいてくるのが見えた。

 ひとりは女性だ。

 ラオニーナ、すなわち光の歌という意味を持つ、強靭にして優秀なる霧の国の王女。

 もうひとりは見知らぬ男だった。

 彼は、短く切り散らされ、髪質の硬さのゆえか針のようにぴんと立ち上がっている黒髪と、瞳孔の縦に切れた鼈甲色の目をしていて、そして額の中央、髪の生え際の辺りに、瞳と同じ鼈甲色の角が一本生えていた。

 頭部に角を持つ“立つ者”は、この世界では鬼族にしか存在しない。

 身体つきからして戦鬼ベルセルク族だろう。

 戦いこそを身上とし、戦場で死ぬことを何よりの幸せとする一族だ。

 大柄ではないが引き締まった身体つきをして、腰に大ぶりの剣を佩いている。攻撃を最大の防御とする考え方の持ち主たちだけあって、動きを制限する防具をほとんど身に帯びていない。

 このベルセルクは、顔立ちから察するに、まだ成人してからあまり経っていない個体だろう。といっても、彼らは五百年程度の寿命を持つ一族で、百歳程度で成人とされているのだが。

 そのふたりは、鬼彌に特別な感情の動きをもたらさなかった。ベルセルクはオウガより数が多く、戦場に行けばひとりやふたりと出くわす。

 しかし、最後のひとり、王女の背後を護るように進んでくる男を目にしたとき、鬼彌は思わず絶句していた。

 無造作に刈り込まれた灰色の髪と、強い意志を宿した鳶色の瞳、赤っぽい褐色の肌をして、髪より少し色の濃い口髭を生やしている。背は高く、たくましいという表現は似合わないがしっかりした身体つきで、その挙動には隙がない。

 近づくにつれ、徐々にはっきりしてくる容貌は、美男子などという単語が使われる類いのものではない。が、表情豊かで影のないその顔立ちが、多くの友人を得る手助けになっているのもまた確かだ。

 すでに四十代の半ば辺りのはずだが、老いの気配はまだ彼には無縁のようだった。今の鬼彌と並べば、鬼彌の方が年上に思われるだろう。

 思いも寄らなかった人物の登場に、知らず知らず、口から言葉がこぼれる。

香重カノエ……」

 彼がつぶやくのと同じくらいに、鬼彌に気づいたらしい彼がにやりと笑う。鬼彌の連れふたりと一匹がいる部屋の前で止まると、

「よう、坊主。元気にしてたかよ?」

 言われて鬼彌は顔をしかめた。三十代も半ばを過ぎた、いい年の男に向かって吐く台詞ではない。

「子ども扱いするのはやめてくれ。久しぶりに会って第一声がそれか。……私は元気だが、そういうあんたはどうなんだ、兄貴」

「見れば判るだろ?」

「……元気みたいだな。悪くない」

 鬼彌が苦笑すると、香重=オルファ=アーディネイという名の義兄、つまり捨て子だった鬼彌を拾ってくれた養い親の、実の息子たる人物は、隣で目を瞬かせているベルセルクに向かい、彼を指し示した。

「あぁそうか、お前には言ってなかったっけな。鬼彌=ノニア=ロシュネイダ、俺の弟だ。つっても血はつながってないが」

「へえ、でっけー弟だな……まぁいいや。俺はガルドール・ロータス、ヴァンディスオート出身のベルセルクだ。よろしくな」

 闇の一族のひとりとは思えぬ陽気さでガルドールが自己紹介し、右手を差し出す。視線の位置は迦楠より少し高いくらいだろうか。

 鬼彌は再び苦笑して、その武骨な手を握り、こちらこそと返した。

 それから香重に向き直り、自分より頭ひとつ半ほど低い兄を見下ろす。

「そういえばあんた、嫁さんと子どもたちはどうしたんだ?」

 牙の国の王に仕え始めたばかりの頃、彼が十八歳になった辺りで、名月の国コーダの娘を娶ったと手紙がきた時のことを思い起こしながら鬼彌が言うと、

「女房は死んだよ。五年前の話だ」

 肩をすくめて香重が返す。鬼彌は目を瞠り、

「――……それは気の毒に。しかし、何故?」

「はやり病だ。もともとそう丈夫な女じゃなかったが」

「五年前の……そうか、赤腐病だな。じゃあ、子どもたちは?」

「息子は今コーダに仕官してるし、娘はユルムガルドの騎士に嫁ぎやがった」

「……赤の王国か。北大陸とは、また遠くへ嫁いだものだ。それでまた気楽な冒険者に戻ったのか?」

「そういうことだ。二年ほど前、霧の国に立ち寄ったとき、この姫さんに腕を買われて仕えることになった。で、今に至るというわけだな。つーかお前こそ、エルフの嫁さんもらったって人づてに聞いたが、どうなんだ?」

 その言葉に鬼彌はちょっとむせた。

 噂には尾ひれがつくものと相場は決まっているが、どこからどう伝わってそんな話になったのだろう。

「違うのか?」

「違う。エルフの友人は出来たが、男だ」

「なんだ、つまらん。じゃあまだ独り身か。さっさと身を固めろよ、いつまでも根なし草ではいられんだろ」

「四十過ぎて根なし草をやってるあんたに言われたくはない。それに私は、あんたと違って結婚しようとも思わんよ」

「子どもってのは可愛いもんだぞ? ま、それはお前の自由だがな。しかし根なし草とはひどい言い草だな、俺はこんなに立派に国のために尽くしてるってぇのに。な、姫さん?」

 と、香重がラオニーナを見ると姫は微笑み、

「彼には色々と助けてもらっている。だが……貴殿と香重が兄弟とは、ついぞ知らなかった。縁とは異なものだ」

 確かに、と笑う香重の肩を軽く叩いて、それからふっと為政者の顔に戻った。

「無理をさせてすまんが、我々の事態は切迫している。先ほどの者に会わせてもらえるか」

 その言葉に鬼彌が答えるよりも早く、

「鬼彌、どうかした? 来たなら入ればいいのに……あれ?」

 不意に扉が開き、肩にナハトを留まらせた黒エルフが顔を覗かせた。

「なんだ、騒がしいと思ったらたくさん人がいたんだね。あ、そっちはベルセルクかな? 戦場以外で見るのは初めてかも。それで、どうかした?」

「ああ……アイツに話を聞きたいらしい。構わないか?」

 その問いに答えたのは迦楠ではなかった。

 彼のすぐ背後から、

「構わん。聞く気があるのならな」

 部屋着から戦闘用の衣裳に着替え、いつものように前髪を細い三つ編みにした傭兵が姿を現す。

 服は、使いものにならないほど汚れてしまった漆黒の武装ではない。

 桧皮色の丈夫なシャツの上に、ややくすんだ青色である縹色の上着をまとい、黒灰色の下穿きですらりとした脚を包んでいる。頑丈なブーツだけは、今まで履いていたのと同じものだ。

 もはや先ほどまでの悲嘆、苦悩は感じ取れなかった。

 目の下が疲労ゆえにくすんでいるのを除けば、いつもと変わらぬ姿だ。深紅のその瞳には、ただ強靭な意志が浮かんでいる。

 その神零の姿を目にした三人が、三様に惚けた表情になったのは致し方ないことだろう。先刻血と臓物にまみれていた闖入者は、本来夢かと疑うほどの美貌の持ち主なのだから。

「先ほどは失礼した。申しわけないが、御名をお教え願えまいか」

 我に返った王女が問うと、深紅の目をラオニーナに向けた傭兵は、淡々とした口調で答える。

「神零=エル=シヴァーティリー」

「――! 貴殿が、あの。……早速だが、事情をお聞かせ願えるか?」

 尾ひれのついた伝説のために、《焔なる闇》を騙る偽者は少なくない。

 が、神零=エル=シヴァーティリーその人がこの名を名乗ると、偽者など歯牙にもかけぬ圧倒的な真実味と存在感が現れる。

 鬼彌は今まで、神零がその名乗りによって疑われるのを見たことがない。

「青の王国と手を組んだオークの軍がこちらへ向かっている。数は少なくとも二千、トロルも何体かいるようだ」

「――どちらから」

「地図はあるか」

「執務室の方になら」

 答えたラオニーナに神零が目だけで案内を求め、一同は静かに執務室へと移動する。

 執務室というのはラオニーナの仕事部屋であるらしく、彼女の性質そのままに、簡素で使い勝手のみを追及した部屋だった。

 しかし、状況が状況だけに様々な資料であふれかえった部屋の中から、ラオニーナが一枚の古びた地図を引っ張り出し、がっしりした木造りの机の上に広げる。

 すると神零は、

「道中私が目にした移動の跡は、ここから……こう続いていた。私は北正面からこの国に入ったが、奴らはもっと西側まで移動していたように思う」

 地図に指先を這わせながら淡々と説明した。

 考え込んだラオニーナが、首を傾げて疑問を口にする。

「西側から……何故? 王都エレダイルは堅固な城壁に囲まれた場所だし、王都の西側は切り立った岩山によって防がれているはず……」

「岩山ごとき、奴らには大した障害でもなかろう。人間たちがそう思っているということは、彼らの仕事がしやすくなるだけだ。何にせよ、早ければ三日後の夕刻には来るぞ」

 動揺の欠片もなく神零が言うと、ラオニーナは深々と嘆息した。

「三日後か……辛いな。霧の国の正規軍には現在二万八千の兵がいるが、青の王国との最終戦を考えると、オーク軍にたくさんの兵を裂くことは無理だ。今は一兵たりとも余計に動かしたくないのが真実といっていい」

「最終戦というのが生々しいな。青の王国はどこまで攻め込んでいる? 私が見た限り――道中だが――、向こうの軍がここへ辿り着くのはそう先のことでもなさそうだ」

「ああ。彼らはつい三日前、エレダイルより二十フィススほど手前の小都市コウガラを落とした。確認は取れていないが、住人はおうされたとの報告もある。周囲の集落を落としながらであったとしても、あと一週間もしないうちにここへ辿り着くだろう。兵の数にせよ覇気にせよ、我が霧の国はシェンダールに遠く及ばん。――口惜しいが」

「そもそも国力が違う、オウイクの民の絶望は当然だ。しかし……鏖されたとの噂は真実かも知れん。生き残りはこの都へ?」

「そうだ。霧の国の民六十八万のうち、約七分の一がこの都へ避難してきている。青の王国がわの小都市や集落はほぼ全滅だ。奴らは赤子や老人まで容赦なく殺したそうだ。《焔なる闇》よ、教えていただけまいか。かの国は一体、何が目的で我が国を襲う?」

 必死に激情を抑え込んでいるのだろう、白くなるほどきつく拳を握り締め、ラオニーナが唇を噛む。

 神零は表情少なく首を振った。

 冷淡に答える。

「私に訊くな、人間の心を読むような芸当は出来ん。そもそもかの国が何を望んでオウイクを滅ぼそうとしているのかなど、お前たちに関係あるまい? どちらにせよ奴らはお前たちを滅ぼすつもりなのだから。お前たちがなすべきこと、出来ることは、国中から戦える者を募って最終戦に備えることだ」

「随分つめてーな、アンタ」

 その言葉に苦々しい表情をしたのはベルセルクのガルドールだった。

 額の角を目にした神零が、苦しげに表情を歪めたが、それはあまりにかすかだったので、付き合いの長い鬼彌や迦楠にしか判らなかっただろう。

 ガルドールは神零に詰め寄り、

「ここが攻め込まれりゃアンタもヤバいだろ?」

 言われた当人はやはり冷淡に肩をすくめ、

「は、そんなものはこのまま立ち去ればいいだけの話だ、危険もクソもないな。勘違いするな、まだ誰もお前たちに手を貸すとは言っていないぞ、いまだ年若い戦鬼よ。その様子だと初陣が済んだばかりといったところか。いくら戦場で散るがベルセルクの至福とは言え、くちばしの黄色いひよこのままで死にたくはあるまい?」

 いっそ憎らしいほど冷静な言葉に、ガルドールが表情を険しくする。闘いを身上とする一族だけに、ベルセルクは短気で激情家だ。

「――俺を馬鹿にしてんのか」

「馬鹿に? そんなに暇じゃない。私は選択しろと言っている。戦わぬなら民に触れを出して国を捨てよと告げて回れ。このいくさ、降伏は無意味だ」

「なんでンなことが判るんだよ」

「考えろ。屍の数を数えてみろ。投降しても逃げても結局囚われて処刑されるんだ、連中の目的が土地や財でないことくらい察せられようが」

「……そりゃ、そうだが」

「青の王国の目的なぞ私には判らんが、お前らが生き残るためにすべきことくらいは判る。正規軍だけでなく、剣を取れるすべての民を集め、ここを越えられれば後がないと言い含めて戦わせることだ」

「いや……父は正規軍以外の者が戦うことを禁じている」

 ラオニーナの反論には、その禁止事項に賛成しかねるという色彩が含まれていたが、王ではない彼女には、それを撤廃することは出来ないのだ。

 しかし神零の言葉に容赦はない。

 厳しく猛る深紅の目を王女に向け、

「――お前は父親の人形か、霧の国の次代を担う姫よ。父親の言うことに唯々諾々と従うしか能のない木偶か」

「テメ、黙って聞いてりゃ……!」

 堪忍袋の緒が切れたらしいガルドールが殴りかかろうとするのを、絶妙のタイミングで脚を払ってひっくり返す。

 頭を打ったのか、若いベルセルクは地面に転がって呻いていた。神零はガルドールの苦悶など気にもかけず、うつむき沈黙するラオニーナへ、

「選択しろ、お前たちのすべてが。この国を担うお前たちのすべてが。――私はもう決めたぞ、霧の国のために戦ってやる。それがクラウディアの最期の望みだから」

 きっぱりと、言った。

 何を言っていても、この人は最初からそのつもりだったのだ。

「……シヴァーティリー」

 目を瞠り、鬼彌が呟くと、ほんの少しだけ笑った神零が彼を見る。

「お前はどうする、かがり火の守り手よ。いや……最初から決まっているか」

 言われて鬼彌も少しだけ笑った。当然だ、と返す。

 迦楠に目を移すと、唇の動きだけで、わたしもだよと言った。ナハトもピィと同意する。

「霧の国が戦うなら、神零=エル=シヴァーティリーもまた戦おう。私はその願いのためにここに来たのだから」

 淡々と、しかし揺るぎない強さのこもった声で神零が言うのを、鬼彌はこれから始まる死闘を思いつつ聞いていた。

「さあ、選べ」


 ――そして、長い長い夜へと、運命は近づいてゆく。

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