7.永訣の日(後)
神零=エル=シヴァーティリーは怒っていた。
怒り狂っていたといっても過言ではない。
胸中に毒づく言葉の汚さは、聞くものがいれば顔をしかめるだろうほどだった。
もちろん、あの女主人、半人半霊の愚かさ加減にだが、かの珮光銀を目にしながら、そのことに思い至らなかった自分自身にもだ。
精霊殺しと恐れられる自分に身を捧げてまで国を護ろうとする女が、その程度のことをしないはずがなかったのに、どうして気づかなかったのか。精霊族に対する憎悪や恨みの念が心を曇らせていたことは明らかで、その盲目ぶりに怒りが募る。
(くそ……くそッ、冗談じゃない! 冗談じゃないぞ、阿呆が!)
シェンダールの背から飛び降りてどれくらい走り続けているのか、神零には判らなくなっていた。時間の感覚はもはやなく、頬を叩く風と地を踏みしめる脚だけが神零のすべてだった。
かの姫君の背にいればごくわずかな時間で進める距離も、翼持たぬ身には遠すぎた。もはや陽は西へと深く傾き、光を失って濃紺へと変わりつつある空は、やがて訪れるであろう漆黒の時間を予感させている。
それでも、常人にはありえない速度を数時間走り通しながら、神零の脚から力が失われることはない。
呼吸は荒いが、途切れることもない。
はるか昔、まだディラルタもシェンダールも迦楠も、それどころか古のと称される世界最古の国すら生まれていなかったころ――人間がまだ『目覚め』を迎えていなかったころ、心優しく美しい
もちろん、疲労を感じないわけではない。このまま十時間も二十時間も走り続ければ、そのうち限界が来て倒れるか何かするだろう。それが負担でないはずもない。
――それでも、神零は最悪の結末を否定できないのだ。
きっと間に合わないだろうという、諦観にも似たものが胸のうちには常にある。
だからといって立ち止まれないからこそ、肉体への悪影響を顧みず、こうして疾走を続けている。
(いと麗しき星々の姫よ、星守りの旗手よ。我が身に恩寵を垂れる貴き御祖よ)
脳裏に祈りの言葉をつぶやきながら、神零は疾走を続けた。
精霊は嫌いだ。特に、光霊族と、精霊であることを驕り、ヒトへの愛を薄れさせた第四第五世代の連中は。
あんな連中はこの世界から消えてなくなればいいと、心の奥底から思っている。
彼らは働かずとも糧を得ることが出来、飢えも貧困も病もなく、年老いることもなく、恵まれた生を生き続けている。そしてそれを当然だと思っている。地を這いずり回ることでしか生きられない、他の生命たちを見下すこともある。
厳密に言うと彼らには死もない。
知っている者は少ないが、彼らは精霊としての生――精霊としての勤め――を終えると、“高みの園”と呼ばれる神々の住処へと還り、聖霊に戻るのだ。
神々に仕える聖霊は、何千年かに一度の周期で下界へ降り、統太母ソローファルの創り愛したもうたこの大地を守り導く役割を負っているのだ。
しかし、
(精霊たちは今や勤めなど思い出しもせず、己が優位のみをことさらに誇示し、大地の子らへの愛も失ってしまいました。星麗神ストゥー、星武王セイヴァーン。私を救い、導き、愛と望みと許しを与えたもうた方々よ。どうかあなたがただけは、御祖母の子らを見捨てたまうな。精霊でありながら人の心を持つ、かの愚かな女をお守りください……)
精霊は憎い。
それでも、あんな山奥で、人間の心を持て余しながら、人間への愛を捨てることもできず、まるで忘れ去られたような生を生きるあの女をこのまま失わせてしまっていいはずがない。
それゆえの祈りだった。
古い言葉で祈りを紡ぎつつ更に走り、やがて深い森に行き当たった。
長い長いフィルオロウの始まりたる夜の森だ。迷わず踏み込む。
怒りと戦意をほとばしらせて。
今、人間たちは遅い夕餉といったところだろう。
ここから五時間、休みなく走り続ければ、日が変わる前にはかの奥方の住処へと辿り着ける。いや、辿り着かなくてはならないのだ。
胸中の焦り、怒りにも増して荒れ狂うそれを押さえつけながら、飛ぶようにして神零は走っていく。
深い森の中、奔放にあちこちへ伸びた木々は、疾駆する神零を傷つけることなく道を譲り、柔らかい苔をあちこちに抱いた森の土は、神零の脚が受ける衝撃をやさしく逃がして、常に神零を助けてくれる。照りつける月光のお陰で、周囲は驚くほどに明るい。
走っている途中、踏みしだかれた土と乱雑に折られた木々を目撃した。
足跡は数多く、無骨で、醜悪だ。木々に気を使うこともなく、みっともない甲冑をがちゃつかせながら森を抜けたからだろう、木々の傷は。
木が倒れているのは、連中が連れているトロルの所為か。
眉が怒りのかたちに吊りあがる。脚に力がこもる。
怒りが力となり、予想よりも早く、時間帯で言うなら午後十時を少し回った辺りで、神零は目的の場所に着いた。――辿り着いて、沈黙した。
かの奥方が施していた見事な隠行はすでに失われ、白亜の屋敷は、荒々しい山の中で場違いなほどにまぶしく輝いていたのだ。人間の気配はなく、月の光の下にひっそりと佇むそれは、外見の美しさと反比例して寒々しかった。
「どこだ――由奈=マール=クラウディア」
立ち止まり、上がっていた呼吸を整えながら考える。この周囲には人間や精霊の気配はない。
そう、この結界があれば、屋敷の者たちを避難させる必要などなかったのだ。精霊やエルフの行う《術》は、特に闇の一族には効果覿面で、彼らにこの場所が見つけ出せたはずはなかった。
それなのに、クラウディアは屋敷の者たち、彼女にとって家族とも言うべき人間たちを風の国に避難させた。
――何かをするつもりだったのだ。
もう、ここには戻れないと覚悟のうえで。
だからこそ、彼女は『家族』を風の国へと行かせた。
あの珮光銀、月光や星光を蓄えることによって《術》を何倍にも強力にする魔石は、そのためのものだったはずだ。
「くそッ……駄目だ、焦るな焦るな。考えろ……」
自分で自分に言い聞かせつつ、こうべを巡らせる。いくつもの言葉を脳裏に羅列していく。
通って行ったオークたち、霧の国を目指す闇の一族、珮光銀、地霊たる女。オークたちの通り道は……。
そこまで考えたとき、閃くものがあった。ある種の絶望感を伴って。
「スジュン峠かッ」
歯軋りし、身を翻す。
半分は、勘のようなものだった。
戦場になるだろう、と、鬼彌に話した言葉を思い出す。今ならあそこまで二十分弱で辿り着ける。
跳躍と疾走とを繰り返し、徐々に疲労を訴え始める肉体を無視して、険しい山道を下っていく。――深い絶望と、淡い希望の双方に心を焦がしながら。
*
そして辿り着いた先、牙なる岩フィルオロウの一角、スジュンは、汚らしい血でべっとりと濡れていた。
累々と積み重なるオークの屍骸は、ざっと数えただけでも五百を越える。醜悪な顔のトロルの屍骸も五つほど見かけた。
先日通りかかった時とは地形が変わっているところを見ると、やはり地霊だけあって大地に作用する《術》を使ったようだ。
《術》によって死んだオークたちの醜い顔には、苦痛や怒りや恐怖などの、ありとあらゆる負の感情が張り付いている。
闇の一族にとって、エルフや精霊の使う《術》は憎悪と恐怖の対象なのだ。
《術》とは即ち、神々に愛されているというあかしだから。そして闇の一族とは、神々の愛が届かない、原初の混沌たる存在だから。
神零は神々の加護を受ける身だが、特殊な補助なしに《術》を使うことはない。やって出来ないことはないが、肉体に対する負担が大きすぎるのだ。過去に何度か、必要に駆られて補助なしの《術》を使ったことはあるが、使った後しばらくの間は身動きすら出来ないほどの激痛に責め苛まれる。
(見事な《術》だ……。だが)
しかし、神零はフィルオロウの森を無理やり踏み越えていったオークの大群があったことを知っている。
《術》の使用者たる半人半霊の姿も見えない。
荒くなる息を殺し、かすかな音も聞き逃すまいと耳をそばだてながら、神零は周囲を窺う。早鐘のように鳴り響く鼓動が、いっそ煩わしいほど耳につく。
神零の思いを読んだかのように、周囲の風がぱたりと止み、木々や虫たち、夜の鳥たちは囁くのをやめる。そのことに少しだけ笑って意識を集中した。
すると、
(……まだ、オークが残っている……?)
闇の子の代表とも言えるオーク、特にオウガの統制を受けないものたち特有の、周囲に気を配らない鈍感さによる物音が、峠道から少し離れた森の中から聞こえた。
といっても、耳聡いエルフでもなければ聞き逃した程度のものだが。
用心しながら森を下る。
自分のためではなく、クラウディアの安全のために。
森はすでに真っ暗だったが、かすかに届く月や星の光は、神零の深紅の眼に並々ならぬ力を与えてくれる。昼間と同じように、とまでは行かぬものの、少なくとも何の不自由もない視界の中、気配を殺しつつゆっくりと近づく。
やがてやや開けた場所で、二十体弱のオークたちが蠢いているのが見えた。円になり、下卑た声で笑いあっている。
神零は眉をひそめながら、よく見える場所を探して静かに移動した。利き腕は腰の短剣にかかっている。
――ガドゥ ジア ラグール ベタ ヌーグ……
連中の会話が聞こえてくる。
(『これは悪くない』……? まさか)
まさか、と思いつつ、半分は予想されることだった。
そして、それが目に入る。
――円の中心には、半分以上肉塊と化した、かの奥方が横たわっていた。
美しい顔は血と泥にまみれ、右の繊手と左の足が失われ、身体を覆う衣服、目に鮮やかな翡翠色をしたドレスの大半は破れて肌が露出している。右の肩、左の脇腹、右足のふくらはぎなど、あちこちの肉が喰いちぎられていた。
しかし、目を瞠る神零の前で、
「ぅ……」
かすかに呻いた彼女が身じろぎした。
生きているのだ。
生きたままで、奴らは彼女を嬲りながら齧ったのだ。
(――――――ッッ!)
ひゅっ、と喉が鳴る。
絶句と言うより、沸騰といった方が正しい。
意識は瞬間的に赤く染まり、ただ怒りと殺意だけが脳裏を支配する。
思考のふちから蘇る、忌まわしい……苦痛を伴った記憶は、怒りのあまり表情をなくした神零の眼前に、友の屍の幻すら見せた。
――彼も、彼らも、ああやって、望みのない戦いの中で死んでいった。
「貴様らッ!」
叫びは鋭く、物理的な圧力さえ伴っていた。驚いた鳥たちが、大慌てで飛び立っていく。
夜気を切り裂く声にオークたちがおののき、臨戦態勢を取るよりも早く、神零の左手には短剣があった。地面を蹴り、オークたちの中に突っ込む。
突っ込むと同時に短剣を振るい、右往左往するオークの首を斬り飛ばす。
斬られた首が地面に落ちるより早く、右手にもう一本の短剣を抜き、二体目のオークの首を刺し貫いた。ごぼごぼと、嫌な音とともに黒い血を吐きながらそいつが倒れる。
それを確認することもなく次の一体の眼前に迫り、短剣を腹に突き刺すとそのまま斬り開いた。赤黒い臓物が零れ落ち、生きたまま解体されたそいつが聞き苦しい悲鳴をあげる。返す刃で、首を切り落とす。
「アガッス バロ ドゥーム!」
「黙れ、死ね!」
狼狽し叫ぶオークに怒鳴りつけ、背後に迫ったオークを回し蹴りで沈没させる。地面に倒れるのを確認し、神速のとでも言うべき足捌きで、そのオークの頭を踏み潰した。脳漿と血が派手に飛び散る。
更に十体ばかり、無造作にオークを斬り倒し、まだ息のあるものの頭部を踏み砕いてとどめを刺す。
オークたちは恐慌状態に陥って闇雲に剣を振り回すが、どれほど怒り狂っていても運動能力に何の変化もない神零が相手では、どうにも出来ないのは当然だった。
その中で多少知恵があるらしいのが、クラウディアを人質に使おうとでも思ったのか彼女へ近寄ろうとしたが、
「下衆が!」
何の躊躇いもなく、神零は左手の短剣を投げつけた。夜の空気を裂き、鋭く短剣が飛ぶ。
刃の厚い、神零の手に馴染んだそれは、狙いを違えることなくオークの顔面を刺し貫き、沈黙させた。クラウディアに近づこうとしていたもう一体のオークに、片方の短剣も投げて息の根をとめる。
これで、オークの残りは六体になった。
だが、神零の手に短剣はない。
それに気づいたオークたちが、勝ち誇った鬨の声をあげて殺到した。
一斉に振るわれる不細工な剣を、地面を転がって避ける。刃が肩口や腕、頬などをかすったが、鈍い痛みは神零の意識を鮮明にする。
鋭く突き込まれた剣を宙返りで避け、避けながら両の足でオークの首を挟む。そして首を挟んだまま、足と宙返りの力だけで、決して小柄とはいえないオークを放り投げた。足に力を入れると、ごきり、という音がして、生物にはありえない方向に首を捻じ曲げたオークが、勢いよく吹っ飛んで仲間を巻き込み、二体一緒に木に激突して動かなくなる。巻き込まれた仲間は、頭蓋が割れたのか、脳漿をはみ出させて痙攣していた。
鬼彌をして非常識といわしめる怪力は、こんなところで神零を救う。
低い姿勢で着地しざま、素早く動くと、近場にいたオークの首を掴んで締めあげ、暴れる身体をものともせずに頭上に持ち上げる。今度はそのオークの太股辺りを万力のごとき力でつかみ、聞き苦しい悲鳴をあげてもがくその身体を、気合とともに縦ふたつに引きちぎった。
黒っぽい臓物の細切れや肉片が神零の髪や顔を汚したが、本人はそれに頓着しなかった。
「ギヴァ ナグラ オズルヌ!」
悲鳴とともに、残ったオークが喚く。神零は嘲笑した。
「貴様らに言われたくはないな!」
目にもとまらぬ速度で動くと、喚いたオークの眼前に迫り、その醜い顔に拳を叩き込む。
頭部を半分近く陥没させたそいつが倒れるのを眼の端に見ながら、噴水のように噴き出した血が服や腕を汚すのも気にせずに、すでに及び腰になっている残り二体を見据える。
「逃がさない……」
その場に転がっていた不細工な剣を拾い上げ、わけの判らぬ喚き声を上げて逃げ出そうとする二体に向けて、渾身の力で投げつける。
重い鉄の剣は、不気味な唸り声をあげながら宙を飛び、縦一列で走り出したオーク二体の、鎧に包まれた胴を真っ二つに断ち割った。一体目の胴と二体目の胴が、一拍違いで地面に落ちる。
真っ二つになったオークたちは、何やらごぼごぼと喚いていたが、その声もすぐに聞こえなくなった。
「……」
一方的な殺戮劇が終わり、神零は顔をしかめて咳き込む。
十時間にも及ぶ長距離の疾走だけでも身体への悪影響は免れないのに、更に急に動いたことでとどめを刺され、身体が悲鳴をあげているのが判る。
込み上げる吐き気を堪えながら、何度も激しい咳をする。思い出したように、オークの顔面に刺さっている短剣を引っこ抜き、防塵マントの裾で無造作に拭うと腰の鞘に戻した。
刃を受けたいくつかの傷口が熱を持ってちりちりと痛んだが、頓着するほどのものでもなかった。
これ以上の怪我なら、何度でもした。死にかけたことも数えきれないほどある。神零の長い長い生のほとんどは、いくさと死のただ中にあったから。
それから、ゆっくりと、地面に横たわったクラウディアに近づく。
言うべき言葉を思いつけず、黙って彼女の隣に腰を下ろした。
浅い呼吸は、彼女の命がもう長くはないことを教えてくれる。
むしろ、この状態で生きていることのほうが奇跡に近い。半分とは言え、地霊の血のなせるわざだろう。
胸元で煌く白銀のペンダント、繊細な細工の施されたそれは、世に珮光銀と呼ばれる貴重な宝だ。胸元にあるにもかかわらず、血に汚れすらしていない。ある種の冷たさすら感じさせる、怜悧な光を宿したままだ。
「お前は……愚かだ、クラウディア。何のために死に急ぐ……?」
血の気の失せた美貌を横目に見ながら、防塵マントを取り、彼女の身体にかぶせてやる。
貴婦人然としたクラウディアを、半裸の状態でいさせるのには抵抗があったのだ。――特に、死に赴こうとしている女に。
そして、引き裂かれた衣服から、もうひとつの事実を思う。オークという種族の、醜さ汚らしさを。
そもそも両性で、更にいかなる種族の雌とでも繁殖が可能な彼らは、人間の集落などを襲うと手当たり次第にその行為に走る。生まれてくる、祝福されぬ半人は、母の血の冷たさを恨んで闇に染まることが多い。
オウガという統率者があればこうはならないのに、オウガの数はあまりに少ない。
ふっ、と溜め息をついた神零が、軽い咳をしたときだった。
「……名前を呼んでくれたの、初めてね……」
驚くほどしっかりした、甘さを含んだ美声が、神零の耳を打ったのは。
瞠目し、見下ろす視界の中で、半人半霊の女がやわらかく笑った。
「お前……」
「来てくれると、思わなかった……」
館とは口調が違うのは、今の彼女が『館の女主人』ではないからだろうか。それらのすべてを振り捨てて、彼女はここに来たのだから。
「時間稼ぎをするつもりだったのか? 私たちは信用ならないと?」
もはや、精霊に抱く怒りはない。
彼女は間違いなく人間だ。そう、思う。
「いいえ……信じているわ。時間稼ぎをするつもりだったのは間違いじゃないけれど。少しでも、闇の一族の到着を遅らせたかったの、あなたたちと出会えなくても。けれど、わたくしは幸運だったわ。でも、そうじゃないの、あの子の目を覚まさせるには、きっとこれしかないのよ……」
「あの子? ウィルバーク王か」
眉をしかめると、クラウディアは寂しげに笑った。
「あの子は優しいの。優しすぎて、ひとの死が耐えられないのよ。国が戦うことになって、くにたみを死なせることが堪らないのよ。でも、それが通じる相手と、通じない相手があることはわたくしにも判るわ……」
「……それは臆病と紙一重だ。だが、身近な人間が死ねば、目を覚ますと? 誰でも死ぬのだと。お前はそう信じているのか?」
クラウディアがしゃべることを、神零は止めなかった。
止めたところで、彼女は助かりはしないのだ。薬も医者も《術》も、もはや何ひとつとして、喪われゆく彼女の命を、この世につなぎとめておくことは出来ないのだ。
ならばせめて、言いたいことくらいは言って逝けばいい。
クラウディアは小さく頷き、
「わたくしを人間だと言ってくれるのね。嬉しいわ……あなたは精霊を許しはしないと思っていた」
「――精霊など死ねばいい。だが、お前は違うだろう」
神零は淡々と答えた。
不意に込み上げた咳に血が混じる。口の中が金臭くなり、顔をしかめた。やはり、少々無茶をしたらしい。
クラウディアは、澄んだ新緑色の目で咳き込む神零を見ていたが、
「お願いしてもいいかしら、神々の友たる方。わたくしの故郷の平安を。わたくしはもう、逝かなくてはならないから……」
「――最初から、どうせ巻き込むつもりだったのだろう。そして私はそれを受けたはずだぞ。ならば何ひとつとして心配することはない、《焔なる闇》の名にかけて」
「ありがとう。ふふ、期待しているわ……。本当は、あなたたちがクルハスナと出会わなかったとしても、あの館に招待するつもりだったのよ。家の者が峠の町で相応しい実力者を探していて、あなたたちを見つけたと報告をくれたわ。迎えをやろうと思っていたら、クルハスナと一緒に来てくれた。運命なのかしら?」
思い当たる節があって、神零は苦い笑みを浮かべる。
「……酒場のあれか。変なところで名乗るものではないな……」
「あなたの名前は素敵だわ。とても美しいし、『力』に満ちている。あなたの名乗りを聴けるものは幸いよ」
「は、我が御祖に賜った名だ、そう言われるのは悪くない。だが、お前の名とて美しい、まことの芽吹き(クラウディア)」
「まあ、お上手ね……」
言って、クラウディアは笑った。同時に、涙がこぼれる。
「久尽に伝えて……いつでも、どこでも愛していると。生きるために戦いなさいと。――あの子の存在はわたくしの希望だった。どちらにもなりきれなかったわたくしを、あの子は常に慕ってくれた。彼の望むように、いつもそばにいることは出来なかったけれど……」
「――伝えよう。それが可能ならば」
答えながら神零は、館では黒いドレスを身にまとっていた彼女が、ここでは翡翠のそれを着ている理由を考えていた。部屋着すら黒絹だったのには、何か意味があったはずだ。
――場違いだとは判っていたけれど。
「これを……あなたに。幸いここにいる間、月と星の光を浴び続けていたから、多少の力は残っているはずよ。無理を言ってごめんなさい、でも」
「気に病む必要はない。かのかがり火と、私の養い子がお前の願いを聞き届けると言った。なら、私もそれを遵守しよう」
言われたとおり、珮光銀のペンダントを、彼女の細い首からそっと外す。
ちゃりっ、と軽い音を立てたそれは、ひんやりと冷たく、汚らしい血に塗れた神零の掌に収まった。力の残照がほのかな光を放つ。
それを見届けて、クラウディアは溜め息をついた。
「もう……これで何も心配は要らないのね……」
徐々に、彼女の目や声から力が失われていくのが判る。
クラウディアの中の精霊の部分は、彼女を少しばかり長くこの世につなぎとめたが、それも完璧ではなかった。きっと、人間としての部分が大きかったのだろう、彼女の場合は。だからこそ、街に住むことは無理でも、山奥に人間と住むことは出来たのだ。
そのとき、脳裏に閃くものがあった。
「ああ……喪服か、あれは……」
ぽつりとつぶやく。
黒い絹のドレスを思い出しながら。
クラウディアは微笑んだ。
「ええ……人間の、わたくしに……。わたくしは今、いくつだと、思う? もう八十歳のおばあちゃんよ、わたくしが、人間、だったら……」
そう、ひとの部分が死んだ所為で、もはや彼女は精霊としての生しか選べなかったのだ。人里離れた山奥で、大地の精素とともに、わずかばかりの心許すものたちと生きるしかなかった。
その絶望、その悲嘆はいかほどのものだっただろうか。ひととしての心を持ちながら、人間のようには生きられなかった。
不意に激しい感情が込み上げて、神零は血にまみれたクラウディア頬を、そっと両手に包み込むと、その額にくちづけた。
クラウディアが目を瞠る。
「……神零=エル=シヴァーティリーの祝福を受けてくれ、心美しい人間よ。お前の旅立ちが平安であるよう、お前の旅路が喜び多いよう。どうか、我が神、星麗神ストゥーと星武王セイヴァーンの導きがあるように」
別れの言葉は祈りでもあった。
死んだ人間がどこへ行くのかなど、彼女らと旅路をともにすることのできない神零には判らないが、それでも。他者のために死ぬこの女が、せめて安らかに旅立てればと思う。
くちづけにクラウディアは微笑し、
「ありが、と、う……。あなた、の、おかげで、わたくしは……人間として、死ぬことが、出来る……」
新緑の瞳に紗がかかる。呼吸が徐々に弱くなっていく。
神零は沈黙し、彼女を見守った。
――そして、それから約一分の後、由奈=マール=クラウディアは、ゆっくりと息を引き取った。静かに、穏やかに。
それを看取ったのち、生死を司る神、
「Estraidoa manu theerz lewn liletua fue wrenchher nim abiz」
古代語でつぶやくと、のろのろと立ち上がる。圧し掛かる重い疲労に、低く溜め息が漏れる。
思いついて短剣を抜き、美しい大地の色をした髪、今は血にまみれたそれをひとふさ切り取る。
草葉でそれをまとめ、懐に収めて歩き出そうとした神零だったが、ふと移した視線が固まった。何故それを見つけたのか疑問で仕方なかった。呼ばれた、のかもしれない。
見えにくい、気づきにくい草陰に、線の華奢な、美しい手首が落ちていた。血の気を失って、寒々とした色になっている。拾い上げてみると、青い宝石のついた指輪が光っていた。
宝石には、オウイク王家の紋章が刻まれている。
神零は沈黙したが、これがクラウディアのメッセージであるような気がして、腰にくくりつけた荷鞄から布を取り出すと、手首を丁寧に包んだ。そのままそれを荷鞄に収める。
それから、地面に横たわる遺体に目を向けた。
心残りなのは確かだが、彼女を埋葬している時間はない。そのために時間を割くことを、彼女も望みはしないだろう。
心の中で一度だけ詫び、神零はペンダントを首からかけた。
意識を集中させ、『流れ』を脳裏に思い描くと、珮光銀の持つエネルギーを、疲労に疼く身体に注ぎ込む。
身体が軽くなっていくのを感じる。《術》を使うために溜め込まれることが多いエネルギーだが、使い方によっては身体能力を増強させることもできるのだ。もっとも、実際には、《術》に使用する方が効率もいい。
ぱちり、と音がして、全身を軽い衝撃が襲った。静電気に似ている。
「うあっ」
小さく声を上げ、舌打ちをする。一体なんだというのか。
そうぼやこうとした脳裏に、不意に鮮やかに映し出されるのは、オークの群に囲まれて、切り刻まれながら《術》を揮うクラウディアの姿だ。肉を削られ血にまみれても、退きも恐怖もしていない。
「ッ、」
神零は、長い時間を生きてきた所為で、人の死などというものとは馴染みが深い。
これがクラウディアの最期でなければ、そしてこの瞬間に観たものでなければ、ひとつの痛ましい出来事として神零に記憶されただけだっただろう。
しかし、凄惨なその残像、珮光銀がもたらしたそれは、あまりに条件がそろいすぎていて、神零の記憶の中にある触れたくないものを――触れればただではすまないものを、まとめて引きずり出した。
あのとき、世界中の誰よりも愛した友の、壮絶な最期を。
それはディラルタだけではなかった。
「……やめろ」
ほとばしる血、こぼれおちる臓腑、自嘲気味な笑い顔。
彼の死を伝えたとき、奥方がこぼした涙。子どもたちの嘆き。
黒鋼の髪と蒼玉の眼、白エルフの貴い血を引くかの王と、かの王の魂を継ぐいくつもの血脈と。
何度も、何度も、何度も、いくつも、いくつも、いくつも。
愛した友は永遠に喪われ、もはや二度とまみえることはない。結局、止めることも護ることも救うことも出来なかった。
神零は呻いた。
――知っていながら、死なせた。お前には、判っていたはずなのに。何度同じことを繰り返せば気が済むのか。いつになったら学習するのか。
「私は、」
光霊に胸を貫かれ、地響きを立てて大地に沈む友の幻が閃く。そんな場面を見たはずもないのに。
――古びた憎しみのために、生きるべき者を救えなかった。
「う……」
ごおごおと耳の奥、思考の奥が音を立てる。
ふっと意識が途切れ、感覚が曖昧になる。
自分が何をしているのか、どこにいるのか、判らなくなる。
――誰かが叫んでいる。過去の懊悩、苦い激痛に。
耳障りだと、罵ってから気づいた。
叫んでいるのは自分自身だった。全身から叫びがほとばしっていた。
絶叫しながら走っていた。何かに引き寄せられるように。
(私は)
何度も何度も繰り返しながら、光の失われた視界の中、風よりも速く疾駆する。絶望と後悔と慙愧に苛まれながら。
――望みも目的も忘れ、ただ、黒い感情に突き動かされて。
苦い、重い、永訣の日。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます