6.永訣の日(前)

「ずいぶんと美しくなられた、青の姫」

 平然と、何の動揺もなく、青の彩竜を前に神零が笑う。強い風が舞い、神零の細い三つ編みにした前髪を吹き散らかしていた。

 その青の彩竜の背から、灰銀の鱗をした小さな竜が顔をのぞかせ、ピィと鳴いた。昨日から姿が見えないと思っていたナハトだ。どうやら、青の彩竜の道案内をしてきたらしい。

 神零の言葉に、彩竜は金の鈴を震わせるような音を立て、

『伽羅を仰るな、神々の友たる方よ』

 顫音に似たそれは、どうやら彩竜の笑い声であるようだ。

 神零は真顔で肩をすくめた。

「伽羅など言わん。あなたは間違いなく美しい、シェンダール」

『貴方はまことにお上手よな。それにしても、貴方がわらわの名を呼んでくださるのは何年ぶりやら。本当にお懐かしい』

「そうだな……ノニアリアを手助けしてやった時以来だものな」

『小さな鈴(ノニアリア)かえ。もう四千年も経つのじゃな。あの日から比べれば、青の王国(クオタ=スナ)はずいぶん大きくなったものよ』

「そうだな。ナーナ自身はそうは思ってもいなかっただろうがね。ああ、呼びつけてすまなかった、しかし急を要することなのだ」

『ナハティリエルから聞いたわえ。お気になさるな、わらわは貴方のお役に立てるのが嬉しいのじゃから』

 金の眼を細めた彩竜、青の国と同じシェンダールの名を持つ彼女が懐かしげに語る事柄は、迦楠には何のことなのか判らなかった。が、隣の鬼彌に目をやると、彼は何やら考え込んでいて、どうも心当たりがあるらしかった。

(鬼彌、鬼彌)

 小さな声で彼を呼び、袖を引っ張る。

 風に漆黒の髪をなびかせながら、鬼彌が目線だけで問うてくるのへ、

(あのふたりが何のことを話しているのか判る?)

(多分な。ノニアリアとは初代青の国国王・吾透あつ=ルスタ=ノニアリアのことだろう。歴史書によると、シェンダールはもともと豊かな地方都市だったが、属していた国の圧制に耐え兼ねて独立したらしい。しかし、豊かとは言えたかが地方の一都市が、どうやって独立を勝ち取ったのかと歴史家たちの間では議論されてきたんだが)

(……じゃあ、あのふたりが手伝ったんだ)

(そういうことだろうな)

「正解だ。ナーナは我らの友人だった。彼はくだんの地方都市を治めていた市長の子息でな、いち地方都市の長で終わるのはあまりにももったいない、宝の持ち腐れだと言われた傑物だ。政治的な手腕とともに、学問にも剣の腕にも優れ、人間関係にも恵まれていた。豪胆なクセに涙もろくて、陽気でイイ男だったしな。ノニアリアほど他者に愛された人間はそうそういるまい。彼は、富の独占を狙った当時の国王に父親を殺されたことでブチ切れたのさ」

 こそこそと会話をしていたふたりを振り返りもせず、淡々と神零が言う。エルフでもないのに、よく働く耳だといつも思う。

「歴史家たちが聞いたら目を剥きそうな話だな……」

「“栄えたる国”ハネイガが滅んだのはそのときだ。姫と私と、それからナーナの心根に惚れこんだ人間やエルフやドワーフたちが力を惜しまず働いて、ハネイガの軍を潰した。その後はすべてナーナがやった。欲にまみれてまつりごとを疎かにした王を、自分自身の責任と覚悟において弑し、乱れきっていた国を創り直したんだ。以後四千年、シェンダールは強大なまま、こうして南大陸でも一、二を争う大国として君臨している」

 懐かしげに語る神零に、鬼彌が大きく頷き、

「なるほど、あんたのことだから、歴史書に名を記すことを禁じたな? フィル=エギロエナの歴史書にも、同じようなことが書いてあったぞ。記すなと言われたがこっそり書き残す、と。しかし……シヴァーティリー、あんたは一体いくつなんだ?」

 問われた神零は、ちょっとだけ考えたが、

「……天無あゆむ=フェイ=サラスゥオーラほどは生きてない」

 と、世界最古のエルフとも呼ばれるホワイト・ハイ、忘却の国ラファイールを治めるエルフ王の名前を挙げた。サラスゥオーラ王は齢五万とも六万とも言われるが、それよりは年下であるらしい。

 それでも、友人であったらしいオウガ、ディラルタとのことを考えれば、普通の“立つ者”としては有り得ないほどの長寿であることが判る。

『……それはそうと、シヴァ、そちらの“ハルファイス(智慧ある子)”が、貴方が育てている可愛い子かえ? ドーリエンの口振りでは、生まれて間もない赤子のようじゃったが、ずいぶん大きいようじゃな?』

 黙って三人のやり取りを聞いていたシェンダールが、不意に首を傾げて迦楠を見下ろす。

 目映い黄金の、深遠なる瞳に見つめられ、迦楠は咄嗟に鬼彌の袖をつかんだ。ある種の恐怖が込み上げたのだ。思わずこぼれそうになった悲鳴を、無理やり飲み下す。

 自分よりも高位の存在に、内面の更に奥を探られる畏怖だった。

 自分が歪んでいることや、自分に足りないものの存在を、理解できてはいないが知覚している彼には、内面を探り出されることは恐怖でしかなかった。忘れているからこそ、理解できないからこそ迦楠は正常でいられるのだから。

 しかしその畏れも、神零の、なんら変わりない静かな声が聞こえたことで霧散する。

「は、ドーリエンにしてみればあなたもまだまだ子供だろう。これはブラック・ハイだ、あなたよりも長生きをする。今では二千九百歳を少し越えた。もう子どもではないさ、一応な。小さいころは手のかかる坊やだったがね、私の手はとっくに離れている」

『ふふふ……妾を子ども扱いされるのは、貴方とドーリエンくらいのものじゃ。初めまして、可愛い子。妾は青の彩竜一族を統べる青竜王の血筋に連なるもの、名をシェンダールと申す竜じゃ。どうぞよしなに』

「あ……はい、わたしは迦楠。迦楠=アリス=イライファネラ、です。あの、よろしく……」

 敬語などほとんど使ったことがなく、いかなる人々であろうと区別することのない迦楠だったが、シェンダールにまで普通の言葉を使うのは憚られた。

「おまえが丁寧な言葉を使うのは珍しい、スミレ花よ」

 言って神零がくつくつと笑う。

迦楠は少しふくれた。

「子ども扱いはしない約束だよ! 千年も昔に決めたことじゃないか!」

「そういう返しをするからだ。やれやれ、姿かたちはこんなに大きくなったのに、まだまだおまえは子どもだな」

 神零が肩をすくめ、迦楠はずいぶん機嫌が直ったらしいその様子にちょっとほっとしていた。

 神零は迦楠にとって、二千数百年にわたる長い長い付き合いの友人であるのと同時に、特殊な環境で育ったために歪んでしまった迦楠の心を整え、明るく照らしてくれた人物でもあるのだ。

「迦楠、それは初耳だぞ」

 驚きと苦笑とを含んだ表情で鬼彌が言う。

 迦楠はそうだったね、と返した。

 声高に話したいことでもなく、知られずに済むのならそれに越したことはない。

「……また今度話すよ、鬼彌が嫌でないのなら」

 鬼彌は追求しなかった。

 もともと思いやりのある性質をした男だ。微笑して、

「ああ、迦楠が話したいときでいい」

 それから神零に向き直ると、

「なるほど、あんたが言っていた遣いとはこのことか。ナハトはこの用事のために出かけていたんだな。しかし、彼女は何のためにここへ?」

 尊崇と驚きの残滓を表情に貼り付けて問い掛ける。

 神零は頷いた。

「最初は消息をと思っただけだった。せっかく近くまで来たしな。事情がずいぶん変わったから、この際巻き込むことにした。シェンダール、あなたは青の国の情勢を知っているか?」

『……存じておる。じゃが、ノニアリアの末裔たちが妾を訪れなくなって久しいゆえ、彼らの思いがどこにあるのか量りかねるわえ』

 小山ほどある彩竜が項垂れ、嘆きの言葉を漏らす。

「我らはナーナの真摯さと優しさを今でも覚えているな? だとしたら止めてやらねばならん、彼の魂のために。――ああ、それから彼女は地霊の輩だが、彼女の血の半分は霧の国にある。私は彼女の願いを聞くことにした」

 言ってクラウディアを顧みる。

 半ば呆然とシェンダールを見つめていた女主人は、その言葉でようやく我に返り、やや震える声で、しかし礼儀にかなった優雅な一礼をした。

 シェンダールが黄金の眼を細める。

「お初に御目文字つかまつりますわ、地霊の故郷たる方。わたくし、由奈=マール=クラウディアと申します」

『ほほう、そなたがクラウディアかえ。そなたのことは存じておる。人と大地の子の宿命とを受け入れ、誇りを失わぬ強い子と聞いたわえ。そうか……それなら、なんとしても霧の国を救うてやらねばなるまいのう』

 誰からそのことを聞いたのか、シェンダールは何も言わなかったが、クラウディアの瞳に喜びと希望が光る。その場にひざまずいてこうべを垂れる。

「ああ……ご厚意に感謝いたします、親愛なる竜よ!」

 眼を細めたままのシェンダールが、そのこうべに鼻先で軽く触れた。地霊と大地に属する青の彩竜、そのつながりの深さと互いに抱く愛情の見て取れる一場面だった。

『妾に出来ることなら何なりと仰るがいい、旧き友よ』

「ならば――我らを、オウイクまで運んでくれ。あなたなら、オウイクまで三日程度で辿り着けるだろう? 今はまず時間が大切だ」

『お安い御用じゃ。それだけでよろしいのかえ?』

「ああ、それだけでいい。四千年前とは事情が違う、巻き込むとはいっても、あなたがたはあまり深く人間世界に首を突っ込まぬ方がいいだろう。今ではもはやかの時代のごとき聖王もなく、利己を隠しもせぬ、生々しい人間の営みばかりが目立つから」

『その営みをこそ慈しむと、そう仰ったのは貴方じゃ。妾もまた、彼らの利己多己をいとしゅう思うわえ。しかし、妾がことをややこしゅうしても詮なきこと、貴方の言葉に従う方がよかろうのう。では、いつ?』

「――そうだな、準備が整い次第いつでも」

 淡々と答え、三人を振り返る。

「構わないな?」

「うん、わたしはいつでもいいよ。もともと準備なんてあってないようなものだから」

「ああ……そうだな、早い方がいいだろう。――クラウディア、貴女がたはどうなさいますか? ここはあまり安全ではありますまい」

「ええ……そうですね。館の者たちには、しばらくの間、わたくしの懇意にしている方のもとへ避難してもらうことになっています」

「ああ、それはいい。いくさが終われば、また帰って来ればいいのですからね。今はまず安全を確保せねば。それで、貴女は?」

 問いに、クラウディアは少し寂しそうな微笑を――と、見えたのは迦楠の気の所為だったのか――浮かべ、

「はい、わたくしは行くところがございます。少しでも、できることをしておきたいのですわ。しばらく皆とはお別れですわね」

 ならば、と指針は定まり、準備の時間を少し多めに見て、出発は二時間後と決まった。

 ここで待っているというシェンダールが館の前に寝そべり、神零はナハトを労いながら屋敷へ戻る。クラウディアに、何か食うものをやってくれ、と言っているのが聞こえた。

 残された鬼彌は迦楠を目で呼ぶ。

「さて、私たちも準備をしよう。クラウディアに頼んで、糧食を少し足しておかねばなるまい。いくさになるというのなら尚更だ」

「そうだね。わたしは、出来ればナイフを研いでおきたいんだけどな」

「それも聞いてみよう。準備はしっかりやるに越したことはない」


 *


 二時間はあっという間にすぎた。

 砥石を借りてナイフを研ぎ、糧食や簡単な薬品、防刃にもなる丈夫なマントをもらった。乾かしてもらった上着に腕を通せば、もともと荷物も少ない根無し草の身だけあって、やるべきことは完全に済んだ。

 鬼彌が剣の手入れをするのを見物してから少し早い昼食を摂り、飲料水を入れる皮袋を満杯にした辺りで時間がきた。

 促されるままにシェンダールの背へと飛び乗り、腰をおろす。

 彩竜の背中は、思っていたほど硬くもなく、間違いなく命の息吹が息づいているのだと実感させるだけの暖かさを伴っていた。

 彼女の周囲には常に強い風が舞っていて、迦楠たちの髪を激しくはためかせた。

 それなのに、背中に腰をおろした三人と一匹がよろめいたり吹き飛ばされたりということはなかった。何かしらの力が働いているのが判る。

 風に舞い遊ぶ髪の束を見ながら、迦楠はクラウディアの懇願を聞いていた。

「面倒ごとを申しますが、どうかオウイクをよろしくお願いいたします!」

 返す鬼彌は深く笑み、

「我が手にいかばかりの力があるかは知りませんが、私に出来るすべてのことをするつもりです。どうかご心配なさいますな」

 その言葉に深々と頭を下げるクラウディア。背後に控える館の者たちも、同じく深い礼をしていた。

 黒の奥方クラウディアに仕えるものはそう多くなかった。昨日一行をもてなしてくれた老爺を始めとした年配の使用人たちが十人と、クルハスナを始めとする少年少女がやはり十人いるだけだった。

 家族という観念でくくれば大人数だが、オウイク王の義姉たる貴婦人の館としては少なすぎるほどだろう。

 館の人間たちは一様に、すがるような……祈るような表情で一行を見ていたが、それと同時に、少年少女たちがどことなく浮き足立っているように思えるのは気の所為ではないはずだ。

 話を聞いたところによると、彼らは風の国スドクレナールの首都であるサリオスに避難するらしい。

 サリオスといえば南大陸内でも有数の都市であり、様々な文化が交錯する華やかなところだ。年頃の少年少女たちが、そのことを楽しみにするというのも判らないではなかった。

 そして、そういう楽しみを持つことは、間違いではない。楽しみには余裕が含まれるし、その楽しみが希望にもつながるからだ。

「さあ……行こうか、姫」

 眼だけでクラウディアに頷いた神零がそっと告げると、

『承知した。転がり落ちぬよう、気をつけておくれ』

 悪戯っぽく答えたシェンダールが、大きな翼を羽ばたかせる。

 翼の力のみで飛ぶわけではないのだろう、さして強い羽ばたきとも思えぬのに、シェンダールの大きな身体はやすやすと中に浮かんでいた。

 すぐに上空へと舞い上がり、方向を定めると、空を滑るかのような速さで飛び始める。

 館はあっと思うよりも早く、木々の間に隠れて消えた。

「もう見えない……すごいすごい、なんて速いんだろう!」

 迦楠はご機嫌だった。

 空を飛ぶなど、三千年弱のエルフ生で初めてのことだったし、何よりも空は快適だった。ビョウビョウと激しく鳴く風も、シェンダールの上では音楽のように聞こえた。はるか下方に見える地上は、次々とかたちや色を変え、情景を変えて、迦楠の眼を楽しませる。

 はしゃぐ迦楠に鬼彌が苦笑する。

「まったく……気楽なエルフだ」

「いつものことだろうが。深刻な迦楠など、見ていても面白くない」

「まあ……それはそうだな」

「神零、今何か馬鹿にしなかった?」

「いいや? エルフ族というのは、気楽な性質が一番の長所だからな」

 多少は吹っ切れたのか、それとも旧い友人といることで気持ちが楽になっているのか、戯れを口にするようになった神零に、迦楠は鬼彌と顔を見合わせて笑った。同意するように、ナハトがピィと鳴く。

 口が悪くて頑固で強情で、それなのにどこか脆い人外の戦士。

 このひとには、懊悩よりも怒りや戦意の方が格段に似合う。激しい感情は、このひとに華のような美しい彩りを与える。

「シェンダール。どうしてあなたのまわりでは、こんなに風が強いのですか?」

 他愛ない会話をしながら、三時間ばかり飛んだ辺りだっただろうか。

 フィルオロウの連なりはとおに遠ざかり、今は青の王国とフィスコイトの国境の、なだらかな隆起を見せる広大な緑地が眼下に広がっている。

 出発したころは真上に輝いていた太陽が、徐々に――ゆっくりと西へと傾いていくのが判る。

 不意に思いついて、話すきっかけが出来たことを喜びながら、迦楠は彩竜に問い掛けた。

 すると、金の顫音がして、

『我ら彩竜は、四彩いずれも変わらず、常に世界とともにある。妾は青の彩竜ゆえ、特に大地と親しいが、風もまた妾を友と思うてくれるのじゃ』

「へえ……すごいのですね、彩竜って」

 迦楠は心底感心していた。感嘆したといった方がいい。

 彼らエルフ族は神々と四精の恩寵を受ける一族だが、四精そのものをはっきりと認識することは出来ない。四精たちをこんなにも自然に『友』と呼ぶシェンダールに、驚きと尊敬、そして畏怖の念を抱いたのだ。

 シェンダールはまた、金の顫音を響かせて、

『すごいというほどのものでもないわえ。我らにとってはそれが当たり前のことゆえな。すごいというのなら、そなたの一族の智慧や、人間たちの脈々たる営みもまた間違いなく【すごい】ことなのであろうさ。のう、シヴァ?』

 神零が一瞬何のことか判らないという表情をしたのは、たぶん考えごとをしていたからだろう。軽快に空を裂く翼の近くで、フィルオロウが遠ざかり始めたころから思考に沈むようになっていたのだ。

 シェンダールの声で我に返ったらしい神零は、首をかすかに横に振り、

「……すまん、聴いていなかった。どうかしたか?」

『なに、謝られるほどのことではないがの。彩竜もエルフも人間も、それぞれに《すごい》ものなのだと話していただけじゃ』

「ああ、そうか。――そうだな」

『あの子……クラウディアの【術】など、純粋な精霊にも何ら引けを取らぬ。見事な隠行であったわ。この妾でさえ、ナハトの案内なしにはあそこへ辿り着けなんだわえ。あのような子をこそ、【すごい】というのであろうな』

「――ああ、隠行か。あれは確かに見事だっ……」

 見事だった。

 きっと、神零はそう言おうとしたのだと思う。

 だが、言葉が終わるよりも先に、神零の表情が凍った。瞬間、空気が張り詰める。

「神零?」

「どうした、シヴァーティリー」

 空気の変化を敏感に感じ取って、訝しげに、交互に問い掛けるふたりの声も、届いてはいなかったかもしれない。

 瞳が深い不審を宿す。

「待て。待て待て待て。――そうだ、あそこには結界があった。確かにあそこは結界で覆われていた。あの結界を、連中が破り得たはずはなかった。それなのに――何故だ?」

 誰に向けて、というわけではなく、自問自答の響きで神零がつぶやく。深紅の瞳が険しくなっていくのが判る。

 やがて、

「シェンダール。あそこを経ってからどれほど経った?」

『はて。三時間ほどかのう?』

「三時間か……くそっ」

 吐き捨てて、不意に立ち上がる。

「シェンダール、すまないが少し低く飛んでくれないか。それから、この先何があっても、躊躇わずオウイクを目指すと約束してくれ」

『いかがされた、シヴァ? ……いいや、妾は何も問うまい。それが貴方の願いなら、妾は出来る限りのことをしよう』

 不審げな声音を漏らした彩竜は、しかしすぐにそれを打ち消した。高度が下がり、地面が近づく。神零がちょっとだけ笑った。

「神零、いったい何が……」

「忘れ物だ。お前たちはそのまま霧の国へ行け。ナハト、お前もだ。このふたりだけでは頼りない、何かあればお前が補佐してやれ」

「神零?」

 言いたいことを言うと、あとはもう何も答えず、眼差しを厳しくして翼下を見下ろすや、――――神零は、シェンダールの背から飛び降りた。

「うわあっ、神零ッ!?」

 自分は物事に動じないと思い込んで生きているわけではないが、あまり動揺しない性質の迦楠も、さすがに慌てふためいて悲鳴をあげた。

 高度が下がったといっても、地面までは少なくとも十ジットはあるのだ。しかも、凄まじい速度で飛行中である。

 しかし、躊躇いも逡巡もなく宙を舞った神零は、フードつきの防塵マントをはためかせながら一直線に降下し、ややよろめいたものの危なげなく着地した。そのまま、神速のとしか表現できない速度で、ある方向へ走り始める。

「いったい、何が……?」

 呆然とつぶやいた迦楠の肩に、ピィと鳴いたナハトが飛び移る。

 魔獣にしては格段にやさしい性質をしたこの小竜が、大丈夫だからね、と言わんばかりに迦楠の頬を舐めたので、彼は笑って頷いた。

「うん、判ってるよ。きっとすぐに追いついてくる……心配は要らない」

「……そういうことだな。アイツの非常識ぶりは今に始まったことでもない、心配するだけ損というものだ。我らは我らのなすべき仕事を果たすとしよう」

 肩をすくめ、鬼彌が言うのへ、迦楠は苦笑交じりに同意した。

 そして、シェンダールがまたあの美しい顫音を響かせるのを聞きながら、眼を細める。遠くを見晴るかしたところで、まだ何も見えてはこないと判っていても。


 * * *


 オウイクに到着したのは、そこから二日弱が経ってからだった。

 食事や休憩など、どうしても地上への降下が必要なとき以外、ふたりと一匹はずっとシェンダールの背中にいた。シェンダール自身はこの程度のことではそれほど疲れないのか、地上に降りて草を少々食む以外、休息を必要とはしなかった。

 人目につくのを避けるため、シェンダールはオウイク王の御座す中央都市・エレダイルにある、ちょっとした森のようになっている公園を選んで一行を降ろしてくれた。

 彩竜の存在そのものが目立つような気がして尋ねると、風や水たちがめくらましをしてくれているとのことだった。彩竜が目撃されることが少ないのは、そういう事情からであるらしい。

 礼を言い、再会を約束して彼女と別れ、一目散に王城を目指した。

 彼らが急いだのは、オウイクと青の王国の境辺りで民家や森が激しく燃えているのを目にしたからでもあったし、折り重なって倒れている死体の多さに事態の深刻さを思い知らされた所為でもあったし、着々と近づく闇の一族を阻止する手を、一刻も早く講じねばならないという思いの所為でもあった。

 しかし、今、ふたりと一匹は足止めを食らっている。

 オウイク王が御座す、旧いながらも美しい宮城の一角、客人のための部屋で。

「……審査っていうのは、まだ終わらないのかな?」

「あぁ。まったく……それどころではないというのに……」

 常の彼には珍しく、少々苛立っている様子の鬼彌は、手にした書状を大きな手でいじくりまわしている。純白の封筒に、琥珀色の樹脂で封がされたそれの表には、流麗な字で宛名が綴ってある。

 その裏面に、黒の奥方と呼ばれる半人半霊のサインがあることも迦楠は知っていた。

 出発の準備をしていた迦楠たちに、クラウディアが託した書状だ。中には警告の手紙とともに、母の形見だというペンダントが入っている。

 お守りに、渡してくださいますか。

 そう言ったクラウディアの、思いつめた哀しげな瞳が忘れられない。

「わたしたちはそんなに怪しげかなぁ」

「仕方あるまいとは思うが、な。こんなご時世だ、王の命を狙う刺客がいないとも限らん」

「そうだね。でも、もどかしいよ」

 ここに逗留させられて、もう二日ほど経った。

 時刻は午後五時。深い赤色をした夕闇が、徐々に迫ってくるころだ。

 もどかしいとはいえ、まさか強行突破するわけにも行かず、こうして無聊を持て余しながら待っている。

「神零はどうしたかな?」

 することもなくて、小さな欠伸を漏らした迦楠がつぶやいたのと時を同じくして、高い階級を表す衣装に身を包んだ壮年の騎士が、

「お待たせした。王がお会いになる、参られよ!」

 きびきびとした動作で部屋に踏み込み、やはりきびきびと言ったので、ふたりは顔を見合わせて立ち上がった。

 騎士のあとについて、城の奥へ進む。

「お手数を取らせて申しわけない。今、わが国は非常に厄介なことになっていてな、王を厳重にお守りせねばならんのだ。許されよ」

「いえ……お気になさらず、事情は存じておりますゆえ。失われる時間を惜しみますが、それも仕方ありますまい。貴殿の責ではありませぬ」

 堂々とした、それでいて穏やかな鬼彌の口調に、騎士はすまぬと苦笑した。

 そのまま黙って歩くこと数分。

 精緻な彫刻の施された、圧倒的な歴史と権威とを誇る扉が目前に現れる。騎

士が扉を開き、促すのへ、一礼して中へと入る。

 踏み込むと、謁見の間の奥の奥、非常に高い位置に立派な造りの椅子があり、

そこには老人が座っていた。豪奢なマントと王冠は、間違いなく彼がオウイクの王・久尽=オルセ=ウィルバークであることを示していたが、

「よう参られた、旅人よ」

 しわがれかすれた声の無気力さと同様に、彼の全身からは絶望と諦めとが漂っていて、王の威厳も威光もなにもかもが感じられなかった。

 彼よりは、騎士の服をまとって彼の傍らに毅然として立つ、顔立ちからして王の血縁であろう女性のほうが生気にあふれ、厳しいまでの威圧感に満ちていた。

 鬼彌は一礼し、早速本題に入る。

「礼儀を欠くことをお許しください、ウィルバーク王。あなたの義姉上より書状を預かってまいりました。急を要することゆえ、直接拝謁を賜りました」

 その言葉に、王のくすんだ青の目が見開かれる。震える指が伸ばされるのへ、美しい白の封筒を手渡す。

 王はそれをひったくるごとくに受け取るや、貪るように読んでいたが、不意にガタガタと震え出した。鬼彌は、眉をひそめる。

「――王?」

「わ、わしは……」

 歯が鳴るほどに震える唇が、かすれた声を紡ぎだす。

「わしは、戦わぬぞ! こ、このような……このような書状は偽りじゃ! 青の国王は、降伏すれば命は助けると言うておられる!」

 口角泡を飛ばす勢いで王がまくし立てる。

「王。そのペンダントはご確認いただけましたか?」

 取り乱すこともなく鬼彌が言うが、王は血走った目を彼に向け、

「義姉上が……由奈姉さまがこのようなことを申されるはずがないッ」

 善君ではあるが武人ではない。

 金切り声を上げるウィルバーク王を見ながら、クラウディアの言葉を反芻して迦楠は溜め息をついた。

 死への恐怖心というものを理解出来ない迦楠には、ウィルバーク王の取り乱しよう、怯えも理解できない。

「オークたちは確かにここを目指しているよ、わたしにもそれは判る。だってこの国の大気を、嫌な怒りと殺意が満たしているもの」

「だっ……黙れ黙れ黙れ黙れえええぇッ!」

 つい口を挟んだ迦楠だったが、王は泡を吹きながらわめきたてる。

 複雑な感情を理解しない迦楠では、彼を落ち着かせることは出来そうになかった。困って口を噤んだとき、不意に扉の向こうが騒がしくなった。

 賊め! とか、待て停まれ、とか、ここは通さぬ! という怒号と悲鳴とが交錯し、それは謁見の間に近づいてくる。

 王は「ひぃっ」とかすれた悲鳴をあげ、頭を抱えて身体を縮こまらせた。そのそばで、女性が腰に佩いた剣を抜く。

 やがて扉が弾けるように開き、

「クラウディアは死んだぞ、怯懦なる王よ!」

 轟と響いた声も、そこに立つ姿も、紛れもなくかの傭兵のもの。

 しかしその出で立ちに、迦楠は驚愕した。

 かの傭兵からは防塵マントが失われ、全身はどす黒い血にまみれている。

 血や臓物がこびりついて固まった髪、悲嘆と激情に燃える深紅の目、そして白皙を汚す赤黒い血。

 別れてからたった五日で、どうやってここまで辿り着いたのかよりも、その痛々しいまでの憔悴ぶりが気懸かりだった。

「そ、そなたは何ものじゃ!」

「私の名前などどうでもいい! 受け取れ、貴様の義姉が貴様に遺した最後の意志を!」

 吐き捨てるように言い、懐から何かを取り出すと、王に向けて投げつける。

「父上ッ!」

 低く声を上げた女性が、王を庇おうと踏み出すよりも速く、それは王の胸にぶつかった。勢いはそれほどでもなく、彼の膝の上に収まる。

「な、なにを――――……ひいぃッ!?」

 それを目にするや、またしても悲鳴をあげた王が、白目を剥いて失神する。

 その拍子に、それが王の膝から零れ落ち、彼の足元に転がった。

 それに目をやった女性が絶句した。

 同じく、鬼彌も、迦楠も。

「クラウディアの覚悟と苦痛を知れ、愚かな人間よ。貴様は貴様の臆病さゆえに、貴様を誰よりも案じる義姉を喪ったのだ」

 つぶやき、迦楠を振り返る神零。

 深紅の瞳に深い悲痛が揺れる。

「神零」

「私は――こんなことを望んでいたのか。スミレ花。私は愚かで、卑怯だ」

 呻くように言い、失神した王の足元へ、再び目を向ける。

 そこには、血にまみれてガチガチに固まってもなお美しい大地の色の髪がひと房と、そして、

「クラウ、ディア……」

 青い宝石のついた指輪、繊細なそれのはまった、白い繊手が転がっていたのだった。

 血に汚れ、もはや動くことのないそれの指先の青白さに、鼓動が早くなる。


 ――永訣の日は来る。

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