5.青のシェンダール

 次の日の早朝、大陸標準時刻にして六時過ぎのことだ。

 山の端から昇った太陽が、冬の装いを始めている山々を眩しく染め上げ、天然の芸術品のごとくに、惜しげもなく、観るものを楽しませている。

 日課となっている朝の鍛錬のため、剣を手に屋敷の外へ出た鬼彌だったが、適当な場所を探してあちこちを歩いているうち、屋根の辺りがやけに騒がしいことに気づいた。

 条件反射のようにそれを見上げ、思わず沈黙する。

「相変わらず、よくわからん」

 なにせ、色とりどりの、数え切れないほどの小鳥たちに囲まれて、この気温の低い中裸の上半身をさらした伝説の傭兵が、屋根の上に座っていたのだ。腕や肩に小鳥を休ませながら胡座をかき、目を閉じた様は、まるで世界各地の神殿に伝わる聖者の像のようだった。

 鍛え上げられた肉には、しかし『たくましい』という武骨さはない。

 そこにあるのはただただ鋼のように揺るぎない硬質さであり、しかし若木のようなしなやかさでもある。

 それは、天才的な芸術家が刻み上げた、一個の彫像のごとくにも見えた。

 身体の半分以上を覆う精緻な刺青、大陽神の庇護を受けるものであるというあかしでもあるそれが、神秘的な雰囲気を醸し出している。大きな太陽と降り注ぐ陽光がモチーフになっているこの刺青を見るのは数度目だが、何度見ても美しいと思う。

 しばらく考えてから、声をかける。

「……そこでいったい何をしてるんだ、シヴァーティリー」

「情報収集」

 端的に言った神零は、どうやら鬼彌の存在には気づいていたらしい。

 片目を開けるとちらりと彼を見下ろして立ち上がり、7~8ジットはありそうな屋根の上から軽々と飛び降りた。

 小鳥たちは軽やかな羽音とともに舞い上がり、神零の周囲を数度飛び回ったあと、別れでも告げるように美しい声で鳴いてから飛び去った。

 神零は小さく頷いて彼らを見送る。

 それは、友人との別れの場面のような、ごくごく自然な姿だったが、

「情報収集? あの、小鳥たちからか?」

 突拍子もない言葉に、冗談かと思って傭兵を見下ろす。

 十年ほど昔、鬼彌自身が流れの職業剣士となり、傭兵ギルドを訪れるようになったばかりのころは、神零=エル=シヴァーティリーといえば神出鬼没の超級戦士で、小山ほどある大男だとか腕が八本あるとか四彩竜すら配下に従えるとか、出鱈目な噂が様々に飛び交っていたものだったが、本人に出会ってみると別の意味で出鱈目だったのだから世の中は判らない。

 鬼彌より頭ひとつぶんは小さいこの肉体が、いったいどうやってオウガを蹴り飛ばしトロルの首をへし折るのか、今もまったくもって不可解だ。

「西のオークどもが動いたぞ。数は少なくとも三千」

 鬼彌の疑念など知らぬ気に、事実だけを告げる口振りで傭兵が言う。

 機嫌がよければ戯れも言う神零だが、昨日の反応を鑑みるに、冗談が出る状態ではない。だとすれば、

「……どこから、どこを目指してだ」

「ディハルの棲みかより西方の、フィスコイトとシェンダールの交わる辺りだな。我々が野宿しようとした位置より、ほんの少し青の国側だ。……ご丁寧に、トロルを三十匹ばかりつれているようだ」

「なら、スジュン峠は」

「……ヘタをすれば、戦場になるだろうな。頭は悪いが根性はある連中だ、昨日の話の通り、奴らがシェンダールと手を組んだなら、何があっても霧の国を攻めるだろう。その場合、己の道を阻むものへの攻撃は徹底的に行われる」

 更に言うなら、人間よりも肉体的に優れ、体力的にも秀でた連中だ。

 通常、一般人が歩いて半月以上かかるオウイクへの行程も、『彼ら』ならその半分以下で辿り着くだろう。霧の国がオーク軍の襲撃を念頭においていなければ、『彼ら』の存在に気づいたところで、それに備える暇もあるまい。

「その話、クラウディアには?」

「……」

 半精霊の女主人の名が出た途端、神零は沈黙する。

 「考えさせろ」という、昨日の言葉の答えは、どうやらまだ出ていないらしい。

 互いに武器を抜くような喧嘩をしても、和解するとかそういう次元でではなく、次の日になるとけろっとしているようなこの傭兵が、こうまで長い永い時間、精霊なる一族を憎悪するのは、過去に友を害されたからなのだと連れの黒エルフに聞いた。

 鬼彌には、それを否定することは出来ない。

 六千年もむかしのことなど忘れて力を貸せ、と、無理強いすることも出来ない。

 もしも自分が、あの屈託のない陽気な黒エルフを同じように失ったら、きっと神零と同じように永久に忘れず、執拗に仇を追い求めるだろうから。

 そして言ってしまえば、彼がフィル=エギロエナの筆頭近衛騎士の座を振り捨ててまで世界を放浪しているのも、神零と同じような私怨と憎悪のためだからだ。

「仕方ない、私がクラウディアに話しておくさ。あんたは部屋に帰って身支度でもするがいい、その格好は見ていると寒くなる。しかし、だとしたら、連中より早くオウイクに辿り着く手段を講じねばなるまいな」

「……早くに、か……」

 鬼彌の言葉に神零がつぶやく。

 何かを思案している様子で、そのまま屋敷へ入っていく。

 一分の無駄もない、それだけで美しい背中を見送りかけてから、ふと気づいて問い掛ける。

「そう言えば、ナハトはどうした? 昨日から見ていないが」

「遣いに出した」

 少しだけ立ち止まった神零からは味も素っ気もない答えが返ったが、十年の付き合いで、考え事をしているときの傭兵が周囲に気を使わなくなることは理解しているので、肩をすくめて鬼彌も屋敷へ戻る。鍛錬をするような気分ではなくなってしまったのだ。

「おはようございます、ロシュネイダさん!」

 屋敷へ入ると、数人の少年少女たちと一緒に掃除をしているクルハスナに出会う。

 元気な挨拶に笑って答え、何かの話題で盛り上がっているらしい彼らを微笑ましく思いつつ、あてがわれた部屋に戻る。

 彼が借りた部屋は、静かな青色を基色とした、やわらかい印象の調度品が趣味よく配置されたところだった。置かれた家具の類いは豪奢でも華美でもなく、ただ簡素で使い勝手がよく、そして馴染んでいた。

 この館で采配を振るった人物のこだわりと、優れた美的感覚がうかがえる。

 鬼彌は手袋を脱いでテーブルに置きながら、簡素だが寝心地のいいベッドに向かうと、ひとの大きさに盛り上がっているそれに苦笑して声をかける。

「迦楠、もう朝だぞ。そろそろ起きたらどうだ……?」

 すると、もぞもぞと毛布が動き、

「うぅーん……」

 返事と言うよりは寝言のような声が返る。

「迦楠。オウイクへ行かなくてはならないんだぞ」

 やはり苦笑混じりに言って毛布をめくると、ごちゃごちゃと絡まった、極上の金糸が目に入る。

 非常に細くてやわらかいこれは、何か他にも原因があるのか絡みつきやすく、情けない様相を呈したその金糸をほどくのは、ほとんど毎朝の確率で鬼彌の仕事となっていた。

 傭兵などは、そんなに絡まるならいっそ切ってしまえと言うのだが、こんなに美しいものをあっさりと捨ててしまうなんてもったいなさすぎる……というのが鬼彌の言い分である。

「髪を結ってやるからそろそろ起きろ、まったくよく寝るエルフだ……」

 そもそも、迦楠にも個室があてがわれたのに、いつもの癖なのか単に寂しかったからなのかは知らないが、わざわざ鬼彌のベッドに潜り込んできたのだ。野宿でも宿に泊まるときでも、暖を取る意味も兼ねて寄り添って眠ることが多いから、お互いにくっついて寝ることには疑問も不満もないのだが、折角広いベッドをひとつずつ借りたのだからゆったりと眠ればいいのに、などと思う鬼彌である。

 いまだ内面に幼さや脆さを残したこのエルフは、他者との付き合いが淡白な黒エルフには珍しいほど、ひとのぬくもりというものに貪欲だ。

 そんなことを考える彼の目前で、毛布の塊が再び動いたかと思うと、

「おはよう、鬼彌……今日もいい天気だね……」

 まだ半分以上覚醒していない顔つきで、金の髪を絡ませた黒エルフが起き上がる。

 精素という、世界の――生命の根本を司る存在に愛されているエルフ族は、本来ならそれほど眠らなくとも平気なはずなのだが、ちょっと他のエルフからズレたところのある迦楠は、彼らが見れば苦笑するくらいにはよく寝る。

 一度、休日に私的な用事があって迦楠を放ったまま出かけたら、一日中寝ていたことすらあった。

 鬼彌は苦笑し、おはようと返すと、

「まだ予定は立っていないが、クラウディアの依頼を受けるなら準備はしておかないとな。シヴァーティリーにも何か考えがあるらしいから、いつでも行動に移れるよう支度をしよう」

 頑丈な荷袋の中から、迦楠のためにいつも持ち歩いている櫛を手にする。

 のろのろと、欠伸をしながら起き上がった迦楠を椅子に座らせると、鳥の巣のように絡まった部分を手にとり、指先と櫛とを使って丁寧に、馴れた手つきでゆっくりとほどいてゆく。

「神零は……クラウディアの頼みを聞き入れるかな?」

 おとなしく髪を梳かれながら、背後の鬼彌に尋ねるエルフに、彼は肩をすくめて首を横に振った。

「さっき私がその話を振ったら沈黙していたが。戦力という点では助かるが、無理強いは出来ないしな」

「そうだね。もっとも、無理強いしようったって出来ないだろうけどね」

 言って笑う迦楠に頷きながら、すっかりまっすぐになった髪を、今度はエルフの習慣に則って細々と編んでいく。

 永い時間を生きる彼らは、何百年に一度くらいの割合でしか髪を切らないため、長く伸びたそれを種族ごとの特徴的な編み方でまとめているのだ。

 黒エルフの場合は、ひとつにまとめた後ろの髪を細々と編み、銀細工の髪飾りで止めるのが一般的だ。

 自分のことに頓着のないこの奇妙な黒エルフの、美しい金髪を精緻に編み上げるのは、彼と放浪の旅を始めた十年前から毎日変わらずに、鬼彌の日課であり一日の始まりの仕事となっている。

「出来たぞ。朝食は八時だと言われたっけな、昨日。まだしばらく時間がある、散歩にでも行くか?」

 片付けるというほどの荷物もなく、非常に寝相の悪い迦楠がごろごろ転がって少々乱れたベッドを整えると、あとはもうするべきこともない。

 昨日告げられた朝食の時間まで小一時間はあったので、周囲の散策に出てみようかと思ったのだ。

「ああ、うん、それはいいね……あ」

 笑って賛成しかけた迦楠が、不意に言葉を途切れさせる。

 スミレ色の視線が鬼彌の背後へ移り、訝しく思って振り向くと、そこには黒い武装に身を包んだ神零が佇んでいる。

 気配も何も感じさせない、野生の獣のごとき立ち居振る舞いはさすがだとは思うのだが、何もこんなときまでひっそりと姿を現さなくとも……とも思う。

「どうかしたの、神零?」

 どうでもいいようなことを考えていた鬼彌だったが、まだ何やら考えている様子の神零に迦楠が声をかけたので、我に返って伝説の傭兵を見遣る。神零は深紅の瞳で迦楠を見つめたあと、唐突に口を開いた。

「シェンダールという国名の由来を知っているか?」

「シェンダール(空の貴婦人)? ……さあ、知らないけど。どうして?」

「なら、青の王国が青の王国たる所以は?」

「ああ、それなら知ってるよ。確か、青の彩竜の一族が住んでるから、じゃなかった? わたしはまだ、彩竜には会ったことはないんだけど」

「――彩竜? それは、魔獣族に属する『竜』とは違う次元に属するという神獣のことか?」

 エルフや精霊族と同じく精を身に帯び、彼らよりもなお聡明で思慮深いという、伝説や神話の類いの神聖なる生き物だ。

 ちなみに、神零の連れているナハトはリンドブルム、すなわち魔獣族である飛竜族の中の一種だから、彩竜とは存在が根本的に違う。リンドブルムの寿命は千年程度だが、彩竜は数万年生きるとも不死だとも言われている。

 ……といっても、鬼彌が彩竜を知ったのは、フィル=エギロエナの古い書庫の隅っこで埃をかぶっていた辞典で、だ。実物と出くわしたことはないし、世界的に見ても、彼らの実態は判っていないに等しい。

 彼らは精霊族よりもなお希少で、赤・青・黒・白の四彩竜をあわせても二百体を越えるか越えないか、程度しか存在していないと聞いたことがある。

 世界中のあちこちを、二千数百年に渡って旅しているという迦楠ですら出会ったことがないのだから、その数の少なさが際立つと言うものだ。

「当たらずと言えども遠からずだ、迦楠。……魔獣はケモノと同義だが、幻獣に属する彩竜は精霊と同じ扱いだな。統太母の御力によって大地から目覚めたケモノとは違い、威駆王いくおうライグーンと万生王ばんしょうおうリヴィーロティスの双生神が手ずから創られたのが幻獣だ」

 生命の守護者たる二神の名を挙げ、淡々と説明する神零の意図が読めず、鬼彌は首を傾げる。好奇心の強い迦楠は、興味津々といった趣で傭兵の話を聴いていたが。

「で、それがどうしたんだ?」

「心の準備をしておけ。あまり驚くのは『彼女』に失礼だ」

「……?」

 要領を得ない言い方に、再び首を傾げる鬼彌。が、神零はそれ以上語らず、

「昨日、屋根で月光を浴びていたあれは珮光銀はいこうぎんか……」

 口中に独白すると、部屋を出て行ってしまった。

「あぁ、神零、朝ごはんは八時からみたいだよ。忘れないようにね」

 硬質的な背中に迦楠が声をかけたが、返事はなかった。やはり、まだ何やら考えているらしい。

 鬼彌と同じように小首を傾げている彼に、

「珮光銀とは何だ? 迦楠、知っているか?」

「うん? えぇと……月光を溜め込んで、所有者の【術】の効力を大きくしたり、身体能力を上げたり出来る魔石の一種、だったかな。『月仙貴の宝珠』より高位の石ですっごく珍しいみたいだから、見つけるのは大変だって聞くよ」

「ふむ。で、それがどうしたんだ……?」

「うーん、どうしたんだろうね?」

 疑問に疑問で答え、小さく肩をすくめる。あまり細かいことにこだわらない、どちらかというと本能や感情のみに近いところで生きている彼だから、内側に色々なものを抱え込んでいる神零の考えを推測することは出来ないのだろう。

 もともと、とある事情から高名なエルフ王の【術】によって感情の一部を封じられている彼は、あまり難しい思考をすることが出来ないのだ。迦楠が無垢で純粋なのは、その【術】の所為でもある。

「まあ、いい。必要ならば自分から言い出すだろうさ」

 譲れないなにものかを持ち、おまけに互いに強情ということもあって、反目もこだわりもあるが、十年の付き合いは伊達ではない。

 鬼彌にとって、気に食わない部分は多々あるが、神零は確かに友人なのだ。

「うん、わたしもそう思うよ。じゃあ鬼彌、朝ごはんまで散歩に行こうか。今の季節の山々は、景色も風情も最高だからね」

 笑った迦楠がそう提案し、上着に手を伸ばす。異存のない鬼彌は頷き、手にしたままの櫛を片付けるべく荷袋へと近寄ったのだった。


 * * *


 黄身のきれいな卵を二つと、絶妙の塩気のベーコンを使った目玉焼き。季節の新鮮な野菜と、塩加減の素晴らしいハムやチーズがたっぷり摂れるサラダ。緑色の豆とこの辺りでは珍しい牛蒡、干した小エビをふんだんに入れた深みのあるスープ。

 焼きたての香ばしいパンは三種類、ジャガイモの粉を加えたもの、胡麻を練り込んだもの、さっくりと焼き上げたパイのようなもの。

 濃厚なヨーグルトには蜂蜜と果物が入っていて、エネルギーが身体の隅々まで行き渡るさまが如実に想像できる。

 更に、薫り高い紅茶の芳香が、清々しく食堂を包み込んでいる。

 一般的に言う豪奢とか豪勢という言葉は当てはまらないが、贅沢であることに変わりはないだろう朝食は、彼らをとても満足させた。食も進んだし、他愛ない会話も弾んだ。

 同席したクラウディアも暗い話題をひととき忘れ、屈託なく笑い、貴婦人らしい優雅さで幾ばくかの食物に手をつけていた。

 が。

「神零はどうしたんだろうね。もったいない、こんなに美味しいごはんを見逃すなんて」

「あいつの考えは私には判らん」

 実際には、判る部分もあるが理解したくない、というのが正しいのだと理解してはいるのだが。

 朝食の時間になっても、神零は姿を現さなかった。

 食べるときはふたりぶんでも三人ぶんでも平気な顔で平らげる傭兵だが、一週間や十日食事を抜いたところで体調や行動に変化はないのだ。

 肉体を動かすのに必要な栄養を、食事によって得ている鬼彌たち人間とは、何かが根本的に違うのかもしれない。

「わたくしがここにいるからかも知れませんね。席を外しましょうか?」

「あぁ、いえ、お構いなく。あいつの偏屈さは今に始まったことではありませんし。多分、貴女の願いを聞き入れるか聞き入れないか悩んでいるところなのでしょう。その気持ちは、私にも少しは判ります」

「……そう……ですか」

「それよりもクラウディア、無粋なことをお尋ねしますが、貴女は我々に何を望まれますか? ……誤解しないでいただきたいのは、私たちは武の才を売る傭兵ではありますが、決して金目当てで言うのではないということです。お恥ずかしい話ですが、私は昔、私が仕え父ともお慕いした王を、闇の一族によって奪われました。王をお守りできなかったのは私の未熟さゆえですが、それをひとまず捨て置くとしても、私は自分と同じ思いを他者に味わわせたくはないのです。クラウディア、貴女は、我々に使者としての脚のみを望まれますか? それとも、それとともに武を望まれますか?」

「遠慮はしなくていいよ、今のところわたしたちは暇だからね!」

 向かう場所が戦場だろうが悪党の巣窟だろうが花畑だろうが、恐れることも訝ることもない迦楠が、レッド・ベリーのジャムをたっぷり塗った胡麻パンを齧りながら屈託なく言い、明るい声にクラウディアが微苦笑する。

「貴方がたは……国家間の醜い争いに巻き込まれることをよしとなさるのですか? わたくしも恥を晒しますけれど、義弟は善君ではありますが武人ではありません。オウイクは長い歴史を誇る、平和な国でしたから。彼の気質から申し上げれば、青の国への全面降伏もあり得ないことではないのですわ。それでくにたみの安全が守られるのなら、無辜の民が苦しむことがないのなら、わたくしとてこんなことはいたしませんでしょうが、けれど、」

「……シェンダールの王が、乱心されたという噂は」

「はい。半端者とは言え、わたくしも地霊族の血を引くもの、大地から様々な思念や情報を読み取ることは可能です。青の国の王には、一年ほど前から何かしらの鬱屈がおありらしく、ひどく横暴になられたとか。現在、国境周辺の都市はほぼ制圧されているようなのですが、抵抗を試みた者だけでなく、女子供関係なく一人残らず処刑されたとの話も耳にするのですわ。それがただの噂だと、言い切ってしまえるだけの根拠がどこにもないのです」

「そう……なのですか。あの賢王が、そんなにも」

 フィル=エギロエナの王に従ってシェンダールを訪れた日のことを思い起こしながら、鬼彌はおとがいに手を当てた。砂糖を入れていない紅茶を一口含む。

 シェンダール王は勇猛で鳴らした武人で、やや視野の狭い部分はあったが暗君ではなかった。

 鬼彌が彼の王とともにシェンダールを訪れたとき、彼は荒野の開拓を行い、開拓従事者たちの税を軽くすることで志気を高め、更に開拓を成功させたものには恩賞を出していた。

 そう、くにたみを嘉し彼らの生活を第一に考え、『人』あってこその『国』だと言い切る、懐の深さこそが彼を引き立てていたはずだった。

 人の心は移ろいやすいものだと、傭兵がつい先日口にした言葉を、一抹の寂しさと諦観とともに思い返す。

 女主人は少し口を噤み、考え込んだが、すぐに鬼彌をまっすぐに見て言った。

「貴方さまのご厚意に甘えさせていただいて、無理を申します。義弟と、わたくしの故郷を、どうかお救いくださいませ。オウイクは、古の国ほどではありませんが、歴史のある国です。それゆえの醜悪な部分はありますが、未だ旧き善き習慣の根差す、素朴で美しい国でもあるとわたくしは思っているのですわ。わたくしは半端な地霊ですから、人間族の住まない未開の地にしか安住できないということはありませんが、人間たちが生活のために、大きく土地を作り変えてしまった場所では、やはり生きることは出来ないのです。それでも、わたくしにとってオウイクは、」

「――なにものにも換え難いと、かけがえがないと言えるか、半精霊であり半人である女よ」

 クラウディアの言葉を遮るように、厳しく――しかし静かに響いたのは、聞き覚えのある声だ。

「神零。どこへ行ってたんだい……あれ? 外に、何か……」

 とがった耳を動かして迦楠が言うのを目線だけで制して、腰に佩いた大ぶりのナイフを引き抜き、クラウディアに突きつける。

 何を、と立ち上がりかけた鬼彌の服の裾を引っ張って、迦楠が「大丈夫だよ」と囁いたので信頼する。

 確かに、殺気はない。

 そこにあるのは、ただ深い憤りと悲嘆、そして苦悩ばかりだ。

「シヴァーティリーさま?」

 取り乱すことなく、静かな表情で自分を見上げるクラウディアに、神零は昏い眼差しを向け、

「私の友は、精霊の傲慢さのゆえに死んだ。その責を負うべきがお前ではないとしても、私はすべての精霊を許すまい。だとしたら、その血を引いたお前の願いを聞き入れるわけには行かない」

「……神零」

 本来、生命を愛しそのために身を削ってきたという、そういう伝説を数多く帯びる傭兵の、深紅の瞳にちらつく懊悩の色は、神零がまだ吹っ切れていないのだということを如実に教えてくれる。

 その弱さを嘲笑うことは、鬼彌には出来ない。

 迦楠の気遣いの声に、神零はかすかにかぶりを振り、

「だが、」

 と、続けた。

「人とともに生きることを望んだのは私だ。無辜の、日々を精一杯に生きる人々の幸いを守ると自らに課したのも私だ。だとしたら、人間の血を引くお前が真実願うなら、それを拒絶することも出来ない」

 矛盾した双方の言葉だったが、鬼彌にはその微妙な迷いが理解できた。

 もはや大きないくさに関わることはほとんどないが、神零=エル=シヴァーティリーの功績を紐解くと、弱い立場の人間たちのための戦いの場に常に姿を現しているからだ。

 生きたいと願う弱い生き物ために。

 それが、神零の一貫した行動の理由なのだ。

 だからこそ、精霊ではあるが人間でもあるクラウディアの願いに、過去の恩讐を越える位置で答えなければならないと思うのだろう。

「お前はなにものだ、由奈=マール=クラウディア。お前はなにもので、何を命に代えてでも護りたいと思い、そのためなら何を投げ出せる」

「……わたくしは」

 ひとつ呼吸して、クラウディアが口を開く。

「わたくしはなにものでもありません。なにものにもなれません。ですが、半端者と知りながらわたくしを愛してくださった人たちを、そしてその人たちが愛するものを護りたいのです。そのためなら、命も、精霊である部分も、人である部分も何も要りません」

「……珮光銀はそのためか?」

「ご覧になったのですか、あれを。そうです、クルハスナが命がけで運んでくれた貴い宝ですわ。わたくしにも出来ることがあるなんて、すばらしいことですもの」

 ナイフを突きつけられたまま、誇らしげに――晴れやかに笑うクラウディア。神零はしばらく沈黙していたが、やがてナイフを腰に戻すと、

「いいだろう、人間であるお前の半分のために、私はお前の願いを聞こう」

 言って、大きな溜め息をついた。クラウディアの深緑の眼が輝く。

「本当ですか。ありがとうございます、感謝いたします……!」

 希望と喜びを含んだ礼の言葉に、神零は首を横に振る。礼を言われたい心境ではない、といったところだろうか。

「なら……来い」

 短く言って三人に背を向け、歩き出す。

 迦楠と顔を見合わせ、鬼彌もその後を追う。迦楠とクラウディアがその後ろに続く。

 行き着いた先は屋敷の入り口、正面たる大きな扉の前だった。

 立ち止まり、彼らを待っている風情の神零の向こう側、扉の外に、何か強大なものの気配を感じて鬼彌は眉根を寄せる。

「シヴァーティリー、外に何が、」

「私の、古き、善き友だ」

 端的な言葉のあと、扉を開け放つ。

 眼前に広がるのは見事な山の景色と、そして、

「――――ッ!」

 絶句したのは鬼彌だけではなかったはずだ。

 物事に動じない迦楠が息を呑み、クラウディアが溜め息するのが聞こえたから。

『お久しゅう、お久しゅう、親愛なる友よ!』

 響いた声はまるで歌うように軽やかだった。

 それは明らかに人間のものではなく――統太母の子らのものでも闇の一族のものでもなく、力強く晴れやかで喜びに満ちていた。

「久しいな、青の姫。しばらく見ないうちに、美しくなられた」

 気取らない、何も変わらない声音で返す神零が三人を振り返る。三人三様に見返すと、少しだけ笑った。

「シヴァーティリー、あんたは、ほんとうに、一体……」

 言葉は続かなかった。目前の光景に心を奪われて。

 それはあまりにも大きく、あまりにも荘厳で、そしてあまりにも美しかった。畏怖すら感じるほどに。

「まさか、こんな……」

 女主人のつぶやきを脳裏に聞きながら、鬼彌は『彼女』を見つめ続けた。

 そう、深い、鮮やかな青の鱗と翼、理知と慈愛といくばくかの悪戯っぽさを宿した黄金の瞳の、美しすぎる神秘の生き物を。

「青の、彩竜……!」

 かすれてこぼれた声は、笑い出しそうな非現実感をともなっていた。

 目的すら忘れてしまいそうになりながら、呆然と、立ち尽くす。




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