4.黒の奥方

 彼らは無慈悲だった。

 無慈悲で冷酷だった。

 自分たちの意にそぐわない存在に対しては。自分たちとは反対の、『光』ではない存在に対しては。

(貴様らだけは許さない……!)

 十二対一の圧倒的不利な戦いで半分を屠り、しかし身内の仇は討てなんだと自嘲気味に笑った友の名を、今でも一日たりとて忘れたことはない。

 引き裂かれ血にまみれた彼の、力を失っていく身体を抱いて、憤怒と憎悪に吠えた自分を忘れたこともない。

 彼、ディラルタ・フオレ・エレゼンは親友だった。紛れもなく、比類なく大切な友人だった。

 統太母の子らでも闇の一族でもなく、それらに属するいかなるものでもない、遥か昔に不変を義務づけられた神零にとって、移り変わり滅び生まれ繰り返す、すべての生き物たちは憧憬の的だった。

 懸命に生きる命のそばで過ごすことは温かく、そしていとおしかった。

 たとえ、すぐに置いて行かれるのだとしても。

 その中でディラルタとは、彼が二百歳にも満たないころに出会った。

 道端で彼が売っていた金や銀や宝石の、繊細で美しい細工を気に入って、話し掛けたらそのまま友達になった。

 深紅の宝玉を銀の輪に通した珥璫みみかざりも黒銀を蔦のように編んで金水晶の粒を飾った腕輪も、この世界では珍しい色彩の髪を束ねる、艶を消した朱金と白銀で作った髪飾りも、神零が今でも身につけている装飾の類いは、すべて彼の手によって作られたものだ。

 ディラルタ、とは彼らの言葉で黒檀の糸を意味し、その名の通りの美しい黒髪と、鮮やかな朱金の瞳をした男だった。身長は神零の1.5倍、体重は2倍以上あっただろうか。

 そこから五百年、彼が通過儀礼を経て成体となり、彼を慕うオークたちを率いて縄張りを創り、美しい同族の娘に恋をして(オウガの婦人は、武骨な男連中からは想像もつかないほどに美しく儚げな存在なのだ)結ばれ、利発な子どもらを設けて幸せな日々を送るのを、神零はずっと見てきた。

 ヴァンディスオートの、三本角のディラルタ。

 そう呼ばれ、彼の身内であるオークたちだけでなく、近辺の人間たちにすら慕われた、闇の一族としては滑稽なほどにひとの好い男だった。

 水不足で困っている隣村の人間のために、井戸を三つも掘ってやったようなオウガなのだ。

 そんな、陽気で親切で、手先の器用な細工師のオウガなど、この世に彼くらいのものだっただろう。

 人間を――統太母の子らを食ったことなど一度もなかった。自分たちの身を護るため以外に、無益な殺生をしたこともなかった。彼に従うオークたちにしても、彼らが人を襲わずとも生きていけるよう、しっかりと手綱を取って導いていた。

 そのためか、ディラルタの身内たるオークたちは、よその同族よりも格段に穏やかで、時に人間たちと親しく交わりすらした。

 そう、ディラルタは、闇の一族と人間たちとの共存を、何よりも望み果たしたオウガだった。生きようという思いの元になら、闇の子と人の子は判り合えるのだと身をもって教えてくれた。

 ――その彼を、闇の子のひとりだからという理由で、彼の身内のオークともども殺戮したのが、あの連中だった。

 光色の髪に空色の眼、すらりとした長躯に美人揃いのエルフたちですら陶然としそうな美貌の持ち主たちが全部で十八人。

 【術】と呼ばれる不思議な力を振るう、生粋の『聖なる生き物』たちだ。

 エルフや人間にも、【術】を使う者はいるが、ごく少数の使い手を除いて、彼らのそれは奴らには遠く及ばない。

 奴らは、住処のそばの山で狩りに勤しんでいたオークたちを、ただ自分たちの行く手を阻んだからという理由で殺し、それを心配して捜しに行ったディラルタまで手にかけたのだ。彼らが、闇の一族だからといって。

 同行した神零は連中の策略でディラルタと分断され、彼を見失った。

 自分も決して浅くはない傷を負いつつ、前に立ちはだかった数人を倒して駆けつけたが、そのときディラルタは地に伏していた。

 とどめを刺そうとする生き残りを蹴散らして、彼のもとへ駆け寄ったとき、ディラルタの顔色はすでに死人のそれだった。全身をくまなく引き裂かれ、自らと殺戮者たちの血に身を浸しながら、彼は笑った。面目ない、と。

 今でも神零の心から怒りの火が絶えることはない。

 憎悪の火に水が注がれることはない。

 生き残りたちが背を向け、逃げるように立ち去るのを、いっそ邪眼でもあればと歯軋りしつつ睨み付け、

(どれだけの時間がかかろうとも、いずれ貴様らを滅ぼしてやる……!)

 叫びは誓いだった。

 呪いですらあった。

 巨躯から流れ出る血を気にもせず、自らの角を折り取って神零に手渡しながら、すまんと謝った彼の笑顔を忘れはしない。

(愛しい黒檀よ……)

 今でも、夢に見る。

 彼らと過ごした時間を、そして別れの瞬間を。

 たとえ夢だと理解していても、別れの記憶は痛みを伴った。夜中に飛び起きたことすらある。喪失は、決して強靭ではない神零の精神の中に、未だ癒えない傷となって残っている。――それは、はるか昔に喪った、最愛の人間の記憶とも重なってしまうから。

 若々しい黒エルフの友を――『家族』と呼んで差支えない存在を得、その友が見守る人間とぶつかり合いながらもともに進み、孤独ではないと実感しつつも、あの時のことが……あの痛みが薄れることはない。

 その度に、何度でも心に刻み込むのだ。

 奴らを許しはしないと。

 奴らのすべてが無様に地を這い、死に絶えるまで、決してこの怒りを和らげはしないと。

(ひとり残らず、滅ぼしてやる。『光』であることが、そんなにも誇りなら、その誇りにしがみついたまま死ぬがいい。闇の一族の、闇に生まれついたがゆえの哀しみ苦しみが判らないというのなら、私が貴様らに、自分が『光』であることを後悔させてやる……)

 喪った苦痛を、長い長い生の中で幾重にも幾重にも連なったそれを、今もなお虚しく引きずりながら。

(滅ぼしてやるぞ、精霊族ども……!)


 * * *


「あっちです、あの、岩棚の向こう側……」

 クルハスナの言う『奥方』の住まいへ近づくにつれ、安堵で和らいでくる少年の表情に反比例するように、神零の機嫌は徐々に悪くなっていった。

 目つきが険しくなり、口元は不機嫌に引き結ばれ、身にまとう気が不穏なものへと変化してゆく。

 それを自分自身で自覚していた。

「そんな顔をしてたらクルハスナが怖がるよ、神零。どうかした?」

 苦笑交じりの迦楠に問われ、さらに彼の肩にいるナハトにまでピィと同意されて、神零は眉をしかめた。

「……精霊臭い」

 それだけ言って、歩みを速める。

 ディラルタを喪ってからすでに五千年以上が経ち、手間のかかるエルフと人間の存在もあって、今やあのときほどの激情は神零にはなかったが、それでも二千年ばかりは、胸を焦がす復讐の思いから、精霊族を追って世界中を旅して周った。そのときに全身で感じた、精霊のにおいとでも言うものが、確かにこの辺りで感じられるのだ。

 今ではもはや、精霊族のすべてがあのときディラルタを奪った連中と同じとは思わないが、それでも、胸の内に燻り続けているこの暗い怒りが、精霊族の気配によって和らぐということは決してなかった。

 かといって、自分の五分の一も生きていないような若いエルフや、本来の自分の目的を駄目にしてまで同族を護ろうとする男や、住処への道を素直に喜んでいる少年に八つ当たりするほど大人げなくもない。

「精霊族がこの辺りにいるの? こんな、岩だらけのところに?」

「判らん」

「確か、精霊族というのは、自分の属性と一致するところでしか生きられないんだろう? 違うのか」

「……違わん。四精に属する精霊たちはな」

「なら、地霊族か」

「さあ……そうかも知れん」

「え、あれ? 精霊族って四種族だけじゃなかったっけ?」

 迦楠と鬼彌の訝しげな問いに、神零は肩をすくめてみせた。

 そもそも、一般に知られている精霊族とは、


 地属ヴァンシャーラ人(地霊族) 

 水属アーク・オーラ人(水霊族)

 火属フリール・ロタス人(火霊族)

 風属リリ・レイユ人(風霊族)


 の四種族を言う。

 彼らは平均して五百人ほどで、二十人から五十人の小さな集落を作って、ひっそりと……静かに暮らしている。

 しかし、神零が憎むのは、彼らのことではないのだ。

 友好的になろうとは思わないが、彼らを滅ぼそうとも思わない。

 ディラルタを殺したのは、精霊族の中でも特殊な、他の四種族とは明らかに一線を画した一族で、彼らを目にすることは奇跡といってもいいくらい希だ。そのため、人間はおろかエルフ連中にもほとんど知られていないだろう。神零は出自が特殊なので名を知ってはいたが、実際にお目にかかったのはあのときが初めてだった。

 その、五つ目の精霊族こそが、神零に今も憤怒の咆哮を上げさせるのだ。

 種族名を、天属ファンレイン人という。

 俗称では光霊族と呼ばれ、数はもともと少ない四種族より更に少なく、百人にも満たない。神の亜種と言われ、常に神々の傍らに侍るという聖霊族の末裔とも生まれ変わりとも噂される精霊たちの中でも、最も神々に近いと言われる一族だ。

 それだけに、非常に高慢であり、『光』に敵対するものたちへの慈悲など欠片もない。闇の一族および闇に近い性質を持つものたちにとっては危険極まりない存在といえるだろう。

 人間ですら、時に彼らの『消去』の対象になり得る。

 光霊族をすでに何十人も手にかけている神零など、彼らの抹殺リストのてっぺん辺りにいてもおかしくはない。

「精霊族は四種族だ。それで間違いない」

「え、でも神零、」

「――残り一種族は、じきに滅びるからな」

 言い募ろうとした迦楠を制して言い放つ。

 冷え冷えとした笑みが、口元に浮かぶのを自覚する。

 笑みを目の当たりにしてしまった少年が一瞬硬直し、神零と目が合うと取り繕うように笑って鬼彌の隣に並んだ。どうやら、彼を『保護者』と認識しているらしい。

 クルハスナの動きを目で追った迦楠が、次に神零に視線を移し、ナハトの顎をくすぐるように愛撫した。

「神零のそういう笑顔はとーっても怖いから、初対面の人には向けないようにね。逃げられてしまうよ」

「……善処する」

 何だかひどいことを言われたような気もするが、この、のんきで陽気な黒エルフにはどうしても強く出られない神零はそう答え、視線を巡らせた。

 精霊のにおいはますます強くなり、神零の眦を怒りのかたちに吊り上げさせるには十分な効果を発揮していた。

(いやな感じだ……)

 鬼彌と何やら話し込んでいる少年の、華奢な背中を見ながら、胸中に苦々しくつぶやく。この、厳しく閉ざされたフィルオロウなどに居を構える『奥方』とやらと精霊のにおいとが、まったくの無関係であるようには思えなかったからだ。

 けれど、どちらにせよ、もしも『奥方』とやらが光霊族なら、神零はやるべきことを成し遂げるだけだ。

(例外はない、ひとりたりとも)

 黒エルフを哀しませ、剣士を怒らせて、他に何を得ることがあるのかと、胸の奥で問い掛ける声は確かにあるけれど。

 それでも、優しかったオウガを理不尽に失わせた連中に、彼ら自身が他者に与えたごとく、同じく理不尽な終焉をもたらしてやらなければ神零の気がすまないのも事実だった。人間にしてみれば永遠にも均しい時間を生きているくせになんと大人げのない、とあきれられるだろうが。

「あ、あそこです!」

 クルハスナの嬉しそうな声と指し示された手に、彼の荷を肩代わりしている鬼彌がこうべを巡らせる。まったく、行き先の変更といいあの荷物と言い、顔に似合わず人の好い男だ。

「……すごいな」

 鬼彌の声につられて示された方向を見る。

 そこには、眩しい月光に照らされて、極寒の雪山を思わせる白壁の、堅固かつ優美な館がそびえ立っていた。

 ――唐突に目前に現れた感があった。

 険しい山道とは言え明るい夜で、しかもずっと一点を目指して歩いていたのに、目前に迫るまでその存在に気づかなかったのだ。不自然すぎる、と胸中に思う。

(……結界、か)

 精霊が、自分たちの住処を、他者に知られないよう隠すための【術】だ。

 目くらましのようなもので、彼らにはそう難しいものでもないらしく、神零が出会った、光霊族以外の精霊たちも普通に使っていた。この【術】のために、普通の人間たちはあまり精霊族と出くわすことがないのだ。

(決まり、だな)

 少なくとも、ここには精霊がいるのだ。

 エルフや人間にも【術】を使うものたちはいるが、ごく一部の例外を除いた彼らの大半は、これほど自然には使えない。

「扉はこっちです」

 心底安堵した表情で、礼を言って荷を返してもらいつつ、クルハスナが案内してくれる。彼にとって、この住処がそれだけ安堵できる場所であるということは、少なくともここの主は、クルハスナのような使用人たちに理不尽な仕打ちをするような性質ではないらしい。

 いや、こんな幼い少年が、命を賭してでも役に立ちたいと思うような主なら、それが悪い性質の持ち主であろうはずがなかった。

(……)

 クルハスナの背を追う鬼彌に促され、館の入り口を目指しながら、今回だけは違えばいいと、柄にもなく思っていた。復讐よりもただ、この幼い人間の、すみかと拠りどころを奪うような真似をせずに済めばいい、と。

 結局のところ、それは叶えられた。

 運命とやらは、それほど意地悪ではないらしい。

 それで神零の機嫌がよくなったかというと、そうでもないのだが。

「お帰りなさい、早聡ささ=ファレン=クルハスナ。心配していましたよ……」

 扉をくぐった瞬間かけられた声、やわらかく優しい美声に、少々疲れが見えていたクルハスナの表情がパッと明るくなった。

「黒の奥方さま!」

 荷の重みなど気にもならない、といった風情で少年が駆け出す。

「ただいま帰りました。遅くなって申し訳ありません」

「いいえ、十分間に合いましたよ。無理を言いました、本当にありがとう」

「そんな、僕が行くって言ったんですから。ちょっとくらい危なくたって平気でした。……それに、この方たちが助けてくださったんです」

 クルハスナの言葉に、少年の向こう側の人物がこちらを見る。

 そこには、背後に年老いた男を従えた、美しい婦人が佇んでいた。

 彼女の足元には分厚い絨毯が敷かれ、広い玄関には趣味のいい調度品や装飾品が置かれている。

 春の、栄養がたっぷり詰まった土の色をした豊かな髪と、萌え出たばかりの新緑色の穏やかな瞳、人間にもエルフにもドワーフにも、その他いかなる種族にも持ち得ない色彩が、彼女の属する種を教えてくれる。

「地属ヴァンシャーラ人……?」

 小さくつぶやいたのは迦楠だった。どうやら、少々見惚れていたらしい。彼は顔立ちの美醜にはあまりこだわらないため、珍しいことだと神零は思ったが、彼女を目にすれば誰でも納得するだろうとも思う。

 それほど、彼女は美しかった。

 外見だけなら二十代後半に見える。

 白い肌には染みひとつないし、理知的な輝きを宿した瞳は、視線が絡まったら眼を離せなくなりそうだ。

 薄く紅を引いた唇は優美な曲線を描き、見事な、光沢のある茶色の髪は高く結い上げられて、大粒の真珠で装っている。黒絹の、身体のラインをくっきりと見せるドレスは、余計な装飾のないシンプルなものだったが、彼女のほっそりとしているのにどこか母性を思わせる肢体を隙なく包んでいた。

「早聡を助けてくださったこと、深謝いたします。わたくし、由奈ゆな=マール=クラウディアと申します、この館の主です。館のものには黒の奥方と呼ばれておりますわ。あなたがたのお名前をうかがってもよろしいでしょうか? 是非、お礼をさせてくださいまし」

 やわらかい、慈愛を含んだ美声に、何故か剣士と黒エルフは顔を見合わせ、

「……鬼彌=ノニア=ロシュネイダと申します。彼を助けたのは偶然ですから、それほど礼を言われることでもありません。それよりも、貴女のために闇の一族の恐怖すら乗り越えようとした、その子を褒めてやって下さい」

「そうだね。クルハスナは偉いよ、すごく。奥方のために命をかけたんだもの。ああ、わたしは迦楠=アリス=イライファネラ。見て判るかもしれないけど、黒エルフだよ。あと、この子はリンドブルムのナハティリエル」

 一国の王に仕えた者らしく、礼儀正しい返答をする鬼彌に、のんきな口調で迦楠が名乗りを重ねる。自分を紹介されたことを理解しているナハトが、ピィと鳴いて翼を動かした。

 クラウディアと名乗った女主人は、ふわりと優しく微笑んで頷いた。それから神零に新緑色の瞳を向け、

「あなたさまは……?」

 問われて、神零は顔をしかめた。

 はっきり言うが、神零は精霊族に関わるすべてのものが嫌いなのだ。

 馬鹿らしい、大人げないと嗤われるかもしれないが、奴らに連なる種族だと思うと、それだけで怒りが湧き上がる。殺意にまでは発展しなくとも、進んで関わりたいと思う理由など、どこにもない。

 が、さすがに精霊族に名乗る名前はない、などと言うほど子どもっぽくもなく、

「……シヴァーティリー。神零=エル=シヴァーティリー」

 それだけ言って沈黙する。迦楠が苦笑するのが目に入った。

 神零の名乗りを聞いて、クラウディアは目を瞠り、

「あなたさまが、あの……」

 何か言いたげにしたが、それは思いとどまったらしく、

「お急ぎのご用はおありですか? おありでなければ、どうぞ今日はこの館にお泊まりくださいまし。何もないところですが……」

 ――本当は、戻ろうと思えば戻れたのだ、スドクレナールへの道に。今夜中にもとの位置に戻れば、十の弓月の間にコーダへ辿り着くことも出来た。

 神零としては、そうしたかった。

 精霊族と関わりたくない、という理由も確かに大きいが、何より、長い長い年月を生きたことで培われた、勘というか予感のような鋭いものが、ここに留まることで厄介ごとに巻き込まれる、と囁いていたからだ。

 が。

「では、お言葉に甘えさせていただきます。構わないな?」

「うん、鬼彌がそれで構わないならいいんじゃない? 名月の国へは、また来年でも行けばいいんだし。シルウエンディだって怒りはしないよ、きっと」

「そうだな。別の土産を考えよう」

 お前ら私には訊かんのかとか、そういう突っ込みをするよりも早く、どうやら話はまとまってしまったようだった。

 もともと、このふたりはあまり神零の話を聴かない。

「じゃあ神零、そういうことだから、行こうか。あれ、どうかした?」

「……いや、別に……。好きにしてくれ」

 一度決めたら意志を曲げない鬼彌と、(鬼彌本人は知らないかもしれないが)その鬼彌にはとことん甘い迦楠が、自分の意見に耳を傾けるとは思えなかったので、脱力とともに面倒臭くなって曖昧な返事をする。

 するとクラウディアは微笑んで、背後の老人に何やら囁いた。

 老人は頷いて、優雅にお辞儀をして立ち去るクラウディアの後ろ姿を見送った後、三人と一匹の前まで進むと恭しく一礼した。

「本日はようこそおいでくださいました。わたくし、この館のまとめ役をしておる者です。お部屋の準備が整いますまで、こちらでおくつろぎください……」

 言った老人が、一行を案内しようと歩き出すのを横目に見つつ、神零はこっそり溜め息をついた。面倒なことにならなければいいが、などと思いながら。


 *


 出された花茶は、馥郁とした温かい芳香を立ちのぼらせ、白磁のカップの中に、淡い紅色の花びらを泳がせていた。花の国ルル=レイの名産品だ。

 更に、光沢のある美しい木を使って造られたテーブルには、沢山の果物とたっぷりのクリームが使われた秋らしいパイと、木の実をふんだんに使った焼き菓子とパン、それから濃厚な赤葡萄酒とりんごから造った蒸留酒、様々な種類のチーズが並べられていた。

 果実酒と同等に甘いものが大好きな黒エルフは、嬉々として、勧められるままにグラスを傾け、パイを攻略していた。先刻の夕食よりも大量に食っている辺りが彼らしい。

 鬼彌は蒸留酒をちびちびと舐めながら、時々思い出したようにチーズをつまんでいる。

「皆様は、どこへ向かわれるご予定なのですか?」

 迦楠のグラスに自ら葡萄酒を注ぎ足しながら、クラウディアが問う。

 女主人の問いかけに、迦楠と鬼彌は顔を見合わせた。

「いえ、今は特にどこへ行こうという予定もないのです。もともと、気ままな傭兵稼業の、根無し草の身ですから」

「だね。じゃあ、白の王国にでも行こうか。ティオラのエルフ王はすっごい美人だって聞くよ」

「あら、それはわたくしも耳にしたことがありますわ。ティオラは気候もよろしいですし、女王の治世も安定していて、とても暮らしやすい国だとか。一度、行ってみたいものですわね」

 屈託なくクラウディアが笑い、それから、ふと真摯な表情になって、

「ご予定がおありでないのなら、ひとつ、お願いしてもよろしいかしら。図々しいこととは判っているのですが」

「……? 我々に出来ることなら、何なりと。こうしてお会いしたのも、何かの導きかもしれませんから」

 言って、鬼彌が居住まいを正す。クラウディアがじゃあお言葉に甘えて、と前置きする。

 次に彼女が口にした言葉は、鬼彌の眼差しに真剣な色合いを添えるのに十分なものだった。

「霧の国にわたくしの異父弟がおりますの。名を久尽くつき=オルセ=ウィルバークと申します。その者に、言付けをお願いできませんでしょうか?」

「久尽=オルセ=ウィルバーク……もしや、その方は霧の国の……?」

 何かを思い出す風に鬼彌が言うと、クラウディアは微笑んだ。

「ご存知でしたか。そうですわ、霧の国オウイクの百七代目国王です」

「……わたしは、あなたは地霊族だと思ってたんだけど、違うんだ?」

 首を傾げた迦楠に、クラウディアの微笑が哀しみを帯びる。

「ええ、半分は違います。わたくしの父は確かに地霊族のものでしたが、母はオウイクの王女だったのですわ。ですから、わたくしは半精霊であり、半人なのです」

 それを聞いて、神零は顔をしかめた。

 だとしたら、この女が、こんなへんぴな山奥で、隠れるように住んでいる理由も判る。

 他種族同士の婚姻の結果生まれてきた子供たちは、父と母の種族の、どちらにも属することが出来ないからだ。結局、どちらにも、完全にはなりきれないからだ。

 特に精霊族は自分の属する四精の影響を強く受けているから、属精の乏しい土地では生きられない。人間たち、闇の子らによってつくりかえられた土地では、長くは生きられないのだ。

 地霊族のハーフというクラウディアが、王族という貴い身でありながら人里離れた山奥にこうして暮らしているのは、そういう理由からだろう。

「霧の国が今どういう状況なのかは理解しています。青の王国はこともあろうに闇の一族と手を結び、霧の国を包囲し始めているようなのです。わたくしはそのことを義弟に伝えたいのですわ。どちらにもなれない身ではあれ、霧の国はわたくしの故郷でもあるのですもの。貴方がたが素晴らしい腕の持ち主だと早聡に聞きました。無理を承知でお願いいたします、どうか……」

 言葉とともに頭まで下げた、熱心な――というよりも必死な女主人の頼みを、鬼彌は黙って聞いていたが、やがて、深くうなずいた。

「私は十年ほど前まで、牙の国の王に仕えておりました。我が王も、霧の国の王とは親しくしておられました。ならば貴女の頼みを、断る訳にはいきませんでしょう」

「ロシュネイダ様……」

「幸い我々は自由な、気楽な身ですから、必要ならば力をお貸しすることも出来ましょう。ですからどうか、ご心配なさらずに」

 常日頃から彼の言動に振り回されている神零としては、耳を疑うほど穏やかな言葉だった。それに同意して迦楠が頷き、

「罪もないひとたちが死ぬのを見るのはいやだからね。わたしも出来る限りのことをするよ。……ねえ、神零? 神零は?」

 三人に視線を向けられて、顔をしかめつつ神零は沈黙する。

 出された茶にも菓子にも手をつけていない、それだけで神零の気持ちなど判るだろうに、たまにこの黒エルフは無意識に意地の悪いことを言う。

 冗談ではないと、はねつけるのは簡単だった。

 黒エルフと剣士が、力ずくで神零に何かをさせることは出来ない。力の差は歴然としており、自慢ではないが、このふたりに襲いかかられたところで負けるとは思っていない。

 だが、白状するなら、非常にみっともないことに、クラウディアが半精霊であるという事実に動揺していたのもまた真実だった。

「……考えさせろ。今すぐにでなくてもいいのならな」

 苦々しげに言って、席を立つ。

 タイミングよく、使用人が部屋の準備ができたことを伝えに来て、そのまま三人を放って、客室へと移動する。

 逃げるように、というのが実は正しい。

 個室であること、残りふたりと顔を合わせなくてもいいことを少々感謝しつつ上衣を脱ぎ捨て、灯りも入れず、ベッドを使うこともなく、絨毯の上に胡座をかいて沈黙する。

 先刻のことを反芻しながら。

 半分とは言え精霊の血を継ぐ者の手助けなど、という思いと、半分は人間の血を引いた者の頼みなら、という思いの板挟みになる。

 それだけ確執は深く、傷もまた深かった。

 精霊族を思うとき、激しい痛みと鮮やかな実感を伴って必ず脳裏に蘇るのは、心底愛した友の血にまみれた死に顔だ。

 ただ日々を懸命に――真摯に生きていた彼にいかなる罪があったというのか、いかなる罪があって、彼があんな死に方をしなければなかったのか、いまだに神零には判らない。

 しかし、悩んでいるのも事実だった。

 正義のために、などと青臭いことを言うほど年若くはないが、生きたいと望む生命を、護るために戦った自分を誇りに思ってもいたからだ。

(お前は、――お前たちは、どう思う)

 ディラルタだけではない、かつて、友と呼び深く愛し、護るために戦った、記憶の中のいくつもの顔に問いかける。

 答えはない。

 いや、最初から、彼らから返る言葉など判り切っていると言うべきか。

 神零が愛したのは、今でも愛しているのは、結局のところ、そういう人たちばかりだったから。

「……そう、だな」

 誰を恨むでも憎むでもなく斃れた人々の顔を思い起こし、小さく息を吐く。

 そのまま身動きもせず、何時間経っただろうか。

 カタリというかすかな音がして、誰かが部屋に入ってくる。

暗闇への順応力が高いとは言え、いつものふたりではない、それだけの判断しかつかないまま、近づいてきた人影の腕を捕らえて床に押し倒した。

 と、小さな悲鳴が上がって、人影がクラウディアだと気づく。

「……何をしに来た」

 立ち上がり、灯りを入れて問い掛ける。

ゆっくりと上体を起こしているクラウディアは、薄い黒絹の部屋着だけを身にまとっていて、めりはりのきいた身体のラインが透けて見える様子はひどく扇情的だった。

「あなたさまの噂はお聞きしています、シヴァーティリー様。ですからもう一度、こうしてお願いに参りました。どうかわたくしの義弟と国を、あなたさまのお力でお救いくださいまし。そのためなら何でもいたします」

「……精霊殺しの狂戦士を頼るのか、あんたは。しかも、身体を使ってまで」

「あなたさまが精霊族を憎まれるのは、故のあることと聞いておりますわ。わたくしの身体や命ごときで、あの国が救われるのなら幾ら差し出しでも惜しくありません。どうか、お好きになさってください」

 神零は沈黙した。

 絶句した、が正しいかもしれない。

 この貴婦人は、自分に抱かれてでも――殺されてでも、彼女自身の意志を貫き通すつもりなのだ。彼女には、自分の使えるもの、持ち物をすべて差し出してでも護るべきものがあり、そのための戦いなのだ、これは。

「生憎――」

 溜め息をついて、答える。

 ああ、これは自分の負けだな。

 胸中で、そんな風に思った。そして、それを受け入れようとしていた。

「私は男ではないんだ、あんたを抱いてやることは出来ん」

 クラウディアが不思議そうな顔をして、神零を見上げた。

 素肌をさらした神零の身体の大半には、漆黒の美しい文様が彫り込まれていて、不思議な印象を醸し出している。が、そこにあるのは凄まじく鍛え上げられた肉ばかりで、乳房の類いではないのだ。これで男でないと言われても、首を傾げるしかないだろう。

「この世に存在するのが、雄と雌ばかりと思うなよ」

 視線に素っ気なく返して踵を返すと、

「シヴァーティリー様?」

「……考えさせろと言ったぞ。あんたに覚悟と意志があるように、私にも意地と確執がある」

 これは弱音だと理解しつつ、言葉を止めることはしなかった。クラウディアが頷くのを気配だけで感じ、

「ならもう寝てくれ、あのふたりにヘンな誤解をされるのはごめんだからな」

 それだけ言って、客室を出てゆく。

 頭を冷やすつもりだった。

 いまだに迷う、この軟弱な精神に、胸のうちで毒づきながら。

(ディラルタ……お前は私を笑うか……?)

 彼は決して笑いはしないだろうと確信しつつ、遠い日の友に、思いを馳せる。



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