3.戦闘/殲滅

「助けて、助けて!」

 繁みを掻き分ける音、切羽詰った悲鳴とともに、彼らの『寝床』に飛び込んできたのは、十代前半から半ば程度の痩せた少年だった。淡い茶色の髪とやや濃い肌の色は、彼がこの地域、南方セルヴァトール系人である証しだ。

 葦の茎で編んだ行李を背負っているのを見ると、遣いにやらされた商人の子弟か、どこかに仕えている使用人なのだろうか。夜の生き物たちに追い回されたからか、少年の質素な麻の服のあちこちに破れ目があり、あちこちに血がにじんでいる。

 “夜の木々”の繁みの中の連中は、少年をいっとき見失ったらしく、不穏な気配を漂わせながらも、まだ溢れ出そうとはしていなかった。

「闇の一族に追われているのか。だが、なぜこんな時間に、“夜の木々”のある森へ?」

 碧色の大きな眼に、涙と恐怖をいっぱい湛えた少年を、背後に庇うようにしながら鬼彌が問う。

 抜き身の長剣、星の瞬きと月の光にきらめくそれは、彼が仕え父とも慕ったフィル=エギロエナの王から下賜された業物だ。銘をラスナ=ニル、即ち誉れの石という。

 問われた少年は、安堵で気が緩んだのかしゃくりあげながら、

「今日中にこれを持って帰らないと、奥方がお困りになるんです。間に合いそうになかったので、近道をと。危険だと、判ってはいましたが、でも、どうしても今日中に……」

「奥方?」

「はい、あの、僕のご主人です。シェンダール側のフィルオロウに居を構えておられます」

「は、フィルオロウにか。豪胆だが酔狂なことだな。その奥方とやらに仕える者たちはさぞかし大変だろう」

 エルフでもないのに驚くほど聴き心地の良い、高くも低くもない声には、若干の呆れが含まれていた。

 が、

「だが、そもそも闇が支配する時間に、“夜の木々”の栄える森へ足を踏み入れることは、闇の子と人の子との約定を違えることともなろうが。ここで連中に食われても、ある意味自業自得だがな」

「それは、本気で言っているのか、シヴァーティリー」

 眼差しに怒りの色を添えて鬼彌が問えば、問われた方は涼しい顔で鼻を鳴らす。

「ふん? 半分は本気だ、かがり火殿。お前の怒りは見当違いだな。闇の子と人の子は、そうやって境界を築くことで、わずかなりとも共存を図ったのではなかったか」

「それは、そうだ。しかし、」

「……でも、だからその子を見捨てるとは言ってないんだよね、神零は」

 真摯な生命に対しては、やや生真面目すぎる感のある鬼彌の、その心根を心地よく思いながら迦楠は口を挟んだ。大弓を引いたままだが、特に辛いとは思わなかった。

 彼の言葉に鬼彌が眉をしかめ、神零は肩をすくめて笑う。

「約定破りは罪深い。いかなる理由であれ、そのことに変わりはなかろうよ。そこから更に罪の選別がなされるとして、それで死ぬのが自らの力量を見誤った輩なら、私は彼らために指一本でも動かそうとは思わんがね。大体にして、それはお前もそうだろうが」

「……まあ、な」

 ざわ、ざわざわっ。

 ここからはやや遠い、森の木々がざわめく。

 他種エルフよりもなお高性能の、黒エルフの聴覚が、夜の生き物たちが少年の匂いをたどって近づいてきていることを教えてくれる。

「――来るぞ」

 もはや議論することでもないと話を断ち切り、簡潔な、厳しい声で神零が言う。少年が逃げてきた辺りを見据える。

 その横顔に少年が見惚れていて、迦楠は当然かな、などと、やはりどうでもいいようなことを考えていた。

 エルフたちですら驚き、溜め息をつくほどの、繊細なのに峻烈さと猛々しさを含んだ、神零の顔立ちに視線を移しながら。多分に欲目が入っていることを否定はしないものの、天上国におわす偉大なる方々でさえ、つい見惚れさせてしまうのではないかといつも思う。

 しかしこの美貌の持ち主が、多くの――連綿と続く時代の中で、様々な名前と功績とともに語られ続ける伝説の人物だと言うことは、実はあまり知られていない。

 そうこうしているうちに、再び上がった禍々しいどよもしは徐々に徐々に近づいて来、少年が身体を固くするのが判った。

 鬼彌が少年を見下ろし、

「名前は?」

「あ、はい、クルハスナ、です……」

「私はロシュネイダだ。ならばクルハスナ、そこのリンドブルムの傍にいろ。これも何かの縁だろう、我らはお前を守ろう。助けを求める手を振り払っては、何のために剣を持つのか判らないからな」

「はい……はい。どうかお気をつけください、『彼ら』は大勢です……」

 鬼彌の言葉に従った少年、舞い踊る青の意味を持つ彼が、闇の生き物の気配に威嚇の声を上げている小竜の傍へと退いた次の瞬間、


 オオオ、ウオオオォォ――――!


 辺り一面に響き渡る鬨の声とともに、無骨な甲冑に身を固めた闇の生き物の先駆者、即ちオークと呼ばれる連中が、醜い凶悪ながん首をそろえて、一斉に繁みから飛び出してきた。

 豚といえば案外愛嬌のある顔立ちをした連中だが、それに似た面立ちのオークたちには、愛嬌もへったくれもない。いかなる憎悪、いかなる辛苦によって、彼らがああも醜く生まれついたのか、考えてみれば憐れな話だ、と昔神零が話していたが、憐れみや同情の通用する相手ではないことも、彼らと戦ったことのあるものたちは誰もが理解している。

 オークたちは、足音こそ重々しいが、決して鈍重ではない動きで、こちらとの差を縮めてくる。

 手には不細工な造りの剣、『斬る』のではなく、『叩き割る』ことを目的としたそれ。

「……我らも、区別なく獲物だな」

 ぎらぎらと光る目を食欲と殺意に染めて、躊躇なく襲い掛かってくるオークたちを前に鬼彌が言う。

 淡い灰青の瞳に浮かぶ、彼らへの怒りと憎悪の感情は、フィル=エギロエナでの十数年によってもたらされたものだ。今はこうして世界を旅していても、彼の心は常にフィル=エギロエナの誇りとともにある。

「は、数が増えれば分け前も増える。奴らにあるのはそれだけだろうさ。ましてや今は夕餉時だ、この程度では、あの大食漢どもはちっとも食い足りないだろうよ」

 神零は、淡々と――しかし楽しげに言いながら、黄櫨色の防塵用マントを脱ぎ捨てる。

 そして、

「Agal youi Stue, Tasca aida Seivane. Si i eiga na taina kno kar aid el fahr」

 世界を創造した神々のひと柱である、星麗神ストゥーと星武王セイヴァーンへの敬愛と、彼女らを称える言葉をつぶやく。神零は、決して敬虔な星麗神信者、星武王信者というワケではないようだが、戦いの前には常にこの姉弟神への祈りを呟いている。

 それから、いつも手首を飾っている、黒銀を蔦のように編みこんで黄水晶の粒を組み込んだ優美な腕輪を外して荷袋に放り込み、前腕の半ばまでを覆う黒革のグローブをはめる。

 身体にピタリとした、防御性よりも動きやすさを追求した黒ずくめの武装は、この傭兵が一撃必殺を旨とする超前衛型であることを考えれば当然の装備でもある。

 腰には刃の厚い、大ぶりの短剣がふたふり佩かれ、首からは、光沢のある漆黒の素材で作られた勾玉が幾つかついた、革紐のペンダントが下がっている。

「数は……八十といったところか」

 数で見れば圧倒的不利とも言える状況で、まったく動じずに神零が言い、

「半分ずつだ、怠けるなよ。迦楠、援護を頼む」

 やはりまったく動じずに答えて、鬼彌がオークの群れに突っ込んだ。

 熟練の手さばきで剣を振るい、一息に首をひとつ落とす。

 返す刃で、背後にいたオークを袈裟懸けに切り倒し、次の一閃でもうひとつ首を落とす。

 彼めがけて一斉に突き出された剣を、なんでもない様子でひらりと避ける。

 それに遅れること数秒で群れに突っ込んだ神零が振るった拳は、一瞬そのかたちがぼやけるほどのすさまじい速度で目標へとぶち当たり、オークの頭蓋を一撃で割り砕いた。

 派手に、血と脳漿が飛び散る。

 返す裏拳で顔面を半分以上砕かれたオークが地面に沈み、そこへ斬りかかった別の個体は、反対の手に首を掴まれ、そのまま頚骨ごと握りつぶされた。

「つまらんぞ、雑魚ども!」

 美貌に似合わぬ凶悪な、戦いへの喜びの笑みを浮かべて神零が言い、

「グゥオホル ナ エイジヤ!」

 それを聞いたオークのひとりが、彼らの言葉で叫んだ。

 ざらついた印象のある、聞き苦しい声だ。

 その、警戒を含んだ言葉に、『彼ら』の大半が剣を握り直したが、

「は! 多少気合を入れたところで、この刃から逃れられるものかよ!」

 嗤った鬼彌の攻撃には、容赦も躊躇いもない。

 剣の一閃一閃で、いっそ滑稽なほどにあっさりと首が腕が胴が落ちてゆく。オークの悲鳴と怒号が辺りを埋め尽くす。

 ――もちろん迦楠とてぼんやりと傍観はしていない。

 していたいとも思わない。

 約十ジット(1ジット=2m66cm)先で繰り広げられる戦いに、自分の中の獰猛な部分が悦びの声を上げる。

「いくさ場の空気は久しぶりだよ!」

 ぎりぎりまで引き絞られ、放たれる瞬間を今か今かと待つ長い矢を、狙い定めて射る。

 キュゥンッ! という空気を裂く音に、一拍遅れて潰れたような悲鳴がふたつ上がった。咽喉を数珠繋ぎに射抜かれて絶命したオークたちには目もくれず、岩棚に置かれた矢筒から次の矢を引き抜いて構え、熟練の動作で間髪入れずに射る。

 連続して、幾射も幾射も。

 その度に悲鳴が上がり、大きなものが地面に倒れる音がした。

 迦楠の唇に、冷え冷えとした笑みが刻まれる。

 戦うこと、滅ぼすことへの愉悦の笑みだ。戦いによって――他者の血と死によってのみ、表へ出てくるもひとりの『迦楠』の表情だ。それは、“光”の部分に押し込められていた、“闇”の自分が表へ出られたことを喜ぶ声でもあった。

 彼の内部に巣食う、彼の本質とも業とも言うべきものだ。

「迦楠! すまん、幾つかこぼした、頼む!」

 不意に鬼彌が怒鳴り、喜悦に身を委ねていた迦楠は、反射的に矢をつがえる。ふたりの攻撃をかいくぐったオークが五体、憎悪に瞳を燃え立たせながらこちらへ向かってきていた。

 確かに、『彼ら』にしてみれば、たかだか三人にここまでやられるなどと、納得できる話ではないだろう。

 もっとも、ざっと見ただけで八十を越える個体がひしめく状態で、ここまで逃れ得たのが五体だけ、という事実を、『彼ら』は認識しなければならないはずなのだが。

 ――そんなことはどうでもいいけれどね。

 胸中につぶやいて、つがえた矢を射放つ。

 連続してもう一射。

 眉間を射抜かれて二体が倒れた。

 さらに、と、矢筒を見ずに手を伸ばした、それがいけなかった。普段は背に負っている代物で、距離感が狂ったのだ。

 凹凸も傾斜もある岩棚の、安定しているとは言い難い場所で、指先がコツンと矢筒に当たり、それは、

 かしゃんッ!

 間の抜けた音を立てて、手の届かぬ位置まで転がってしまった。矢を手にする暇はなかった。

 オークはすぐ傍に迫っている。

「ああもう、鈍ってるよ、まったく!」

 誰への憤りか判らぬものを吐き捨てると、弓を手放し、腰に佩いた短剣を抜く。神零と揃いの、石の国パランテーナに住む友人によって鍛えられたそれは、鈍い光を放ちながら迦楠の手にしっくりと収まった。

「アゴド エォヌ ミハイ!」

 憎々しげに叫んだオークが、不細工な剣を振り下ろすのをひらりとかわし、首筋に刃を叩き込む。

「生憎間に合ってるよ!」

 絶叫と共に噴き出す鮮血、赤色ではないそれをかわして一歩踏み込み、『彼』の背後にいたもう一体の咽喉を一突きにする。ごぼごぼという気味の悪い音を立ててながら、口元から黒っぽい血をあふれさせてオークが倒れる。

 あと一体。

 そう思って身構えた迦楠だったが、先ほどの二体を相手にしている間に、最後の個体は彼ではなく、ナハトの傍で身体を強張らせているクルハスナへと向かっていた。

 しまった、と口にする間もない。

 大きな動きで振り下ろされようとする剣を、少年は震えながら見上げていた。あまりの恐怖に身動きすら出来ないのだ。

「――だったら!」

 この身を以って止めるまで、と、迦楠は少年の前に立ちはだかった。

 彼に死への恐れはない。

 他のエルフよりも丈夫だから、長生きだから、という意味でではなく。

 自分の命もまた、今殺したオークたちと同等に、失われるべきときには失われるのだと、本能のように理解しているからだ。

 そして、生命とは失われるときにはなすすべもなく失われるのだと、身をもって知ってもいるからだ。

 しかし、その分厚い醜悪な刃が彼に襲いかかるよりも早く、ほんの数瞬の差で厳しく響いたのは、

「――護れ、ナハト!」

 こちらへ視線を向けすらしていない、神零の声だった。

 こんな小さな竜に何が出来る、と、オークは嘲りたかったかもしれない。

 だが、

 ルウゥーイイィッッ!

 高らかに、明らかに日頃とは違う調子で鳴いたナハティリエルが、口を大きく開けて吐き出した息は、瞬時に業火と化してオークを襲った。

 夕餉用に迦楠が獲ってきた猪を焼いた、あの時の炎など比ではなかった。

 甲冑の存在など歯牙にもかけず、鮮やかな朱色をした火は、あっという間に、決して小柄とは言えないオークを包み込み覆い隠してしまう。

 ゴオゴオと激しい音を立てて。

 『彼』は絶叫を上げ、剣を取り落として岩棚を転げ回ったが、火は消えるどころかますます勢いを増した。消そうと思って消せる火ではなかった。

 ものの数十秒でオークの身体は完全に炭化し、動かなくなった。その骸は、元の大きさの半分くらいにまで縮んでしまっている。

「リンドブルムの業火ブレス……やっぱり、すごい」

 弓を拾い、矢筒を背に負いながら、迦楠は口の中でつぶやいた。

 智慧ある魔獣たちへ、太古の昔に燎定神りょうていしんディドゥーヤから贈られたという、強い激しい火だ。

 炎の生み手たる当のナハトは、オークの危険が去ったことを理解していて、硬直しているクルハスナの顔を覗き込み、大丈夫? とばかりに首を傾げた。その愛らしい仕草で我に返った少年が、ナハトを抱きしめて礼を言う。

 その間に、一方的ですらある掃討はどんどん進み、あれほどいたオークは、すでに数えるほどしか残っていなかった。

 最初の十分の一くらいだろう。

 その残ったオークたちも完全に腰が引けており、もはや戦意を喪失している。

 挑んで来ないものまで殺すつもりはない鬼彌が、

「退くなら今のうちだ」

 と血に濡れた剣を構えてみせ、無言で彼の隣に立った神零は、革のグローブにこびりついた血を払った。

 聞き苦しい悲鳴をあげ、オークたちが我先にと背中を向けて逃げ出そうとしたとき、――それを目にして、鬼彌がほんの少し気を抜いたときだった。

 何かを感じ取ったらしい神零が、軽やかかつ俊敏に、“夜の木々”の繁る森へ駆け出しながら怒鳴ったのと、

「貴様は退がっていろ、ロシュナ!」

 その森の中から、逃げるオークたちを蹴散らすように、敏捷な動きで大きな黒い影が踊り出てきたのは。

 颶風のごときすさまじさでぶつかりあった神零と影は、派手な音を立てて組み合い、力比べをしていたが、やがてどちらともなく飛び退った。

 1ジットはあろうかという影の巨大さを鑑みれば、それに力負けしない神零の力量のほどが判るというものだ。

 すぐさま互いに地面を蹴り、激しい拳の応酬を始める。

 巨体から繰り出される、空気を震わせる突きの嵐を紙一重で避け、宙返りで後ろに退きながら、脚に蹴りつけて相手をよろめかせ、片手をつかせる。

 相手が体勢を整えようとする暇を与えず、着地と同時に跳躍し、微妙な回転を加えながら、自身の倍はあろうかという巨体を、強烈な勢いで蹴り飛ばした。

「……ッ!」

 声もなく、足場の悪い岩場を吹き飛ばされた巨体は、しかし追いすがった神零の拳を避け、反対にその腕を捕らえて遠くへ放り投げた。

「っ、と……」

 特に焦るでもなく空中で軽く一回転し、ごつごつした地面に着地した神零は、遠目にも判るほどに(といっても、エルフの目には、だが)楽しげな笑みを浮かべた。

「久しぶりだ……大鬼オウガにお目にかかるのは!」

 そう、その影は隆々たる筋肉によろわれた肉体と、漆黒の角を五本持っていた。どこか光沢のある鋭利な角は、同色の髪が落ちかかる額から突き出ている。

 少々大きすぎることを除けば、顔立ちはソローファルの子らのそれと大差なく整っている。鬼族はもともと人間と闇の生き物の中間に属する種族なのだから、当然と言えば当然かもしれない。

「オウガ? オウガとはかの三部族最大の?」

 神零の声を聞きつけて、クルハスナが不安げな声を上げる。

 迦楠はそうだよ、と答えて、いざというときのために備えて矢をつがえた。

 鬼属きぞく三部族とは、大鬼族、小鬼コボルト族、戦鬼ベルセルク族の三つを指す。

 コボルトやベルセルクは人間と交わることも多く、人間にとってそれほどの脅威ではない。が、オウガはオークの導き手であり統率者であり、また太古の暗黒神の力を、今もなおその身に宿す生き物なのだ。

 知能は高く、自ら率先して人里を襲うことはないが、ヒトを喰らうこともある。

 クルハスナの声が不安に震えるのも無理からぬことなのだった。

 以前オウガと遭遇した鬼彌は、一対一で戦って辛勝したが、それだって奇跡のようなものだ。エルフでも生きて戻れるかは判らない。

「ふむ……わしの忠告を無視した挙げ句にこの体たらくか。せっかく、向こうには恐ろしいモノがおると忠告してやったにな」

 身体についた汚れを払い、オウガがつぶやく。

 神零の蹴りをモロに喰らっていたが、大したダメージは受けていないらしい。さすがは闇の一族いちの頑丈な肉体を誇る種族だけのことはある、というべきだろうか。

 すがりついて助けを請うオークたちに、やれやれとばかり視線をやり、オウガは『彼ら』に早く行け、と手で示した。顔立ちから察するに、まだ若い個体のようだ。

「苦労人だな。……いや、この場合苦労鬼、か。名は?」

 一目散に森へと駆け込んでいくオークたちを横目に見ながら、楽しげに神零が問う。オウガは牙の目立つ口を開けて笑った。

「先に名乗れと言うところだが、ウチの間抜けどもを見逃してもらったでな。ディハル・サタム・ナグン・フオレ・ヘルダル・フオレ・ユロイハス・ソオム・クスガラド・フオレ・ウィニアス・サタム・ディラルタだ。もっとも、わしにはあんたの名は見当がついとるがの。なあ、『焔なる闇』よ」

 とんでもなく長い名は、彼らが数代前からの先祖の名を、脈々と引き継いでいるためだ。

 サタムは第三子、フオレは第一子、ソオムは第二子の謂である。つまり、ディハル・サタム・ナグンならナグンの三番目の子であるディハル、ということになる。

 大鬼の男子は父親の名を、女子は母親の名を営々と受け継ぎ、伝えてゆくのだ。

 その名を聞いた神零は、深い赤の目を少しみはり、それから深い深い……獰猛な笑みを美しい唇に浮かべた。

「ディラルタ・フオレ・エレゼンの子孫か! 今日は何とも縁深い日だ!」

 言って、首もとのペンダントに触れる。

 勾玉のかたちに削りだされた漆黒の素材が、かちん、と、見かけよりも硬い音を立ててぶつかりあう。

 ディハルという名のオウガもまた瞠目し、

「あんたはわしの家系を知っとるのか。そいつはまさか……」

「は、ずいぶん昔の話だがな、私にはオウガ族のよき友がいたのだよ。勘違いした阿呆のせいで喪われて久しいが。その友がいまわの際に、己の角を私に寄越したのさ」

 オウガの寿命は千年から千五百年といったところ。

 六代前のオウガを友と呼ぶのなら、単純に計算しても、少なくとも六千年は昔の話になる。迦楠は今二千九百歳を少し越えたところだから、神零は少なくともその倍は生きているわけだ。

 神零とは物心ついたころからの付き合いで、おそろしく長生きだということは知っているが、どれだけ生きているのかまったく判らない。

 ――などと、指折り数えて考えていた迦楠だったが、

「さて、ディラルタの遠い息子よ、話し合いをしよう。オークたちがあの子を追ったのには理がある。約定破りは死を以って償われるべきだからな。だが、あの子はどうやら主人の遣いを果たそうと必死であったらしいのだ」

 そこでちょっと言葉を切った神零のあとを継いで、桁外れの数字に沈黙していたらしい鬼彌がようよう口を挟む。

 もっとも、臆した様子はまったくない。

「我らはそれを見捨てるに忍びない」

「あんな馬鹿どもでもわしには身内だ、と言うたらどうする?」

 牙ののぞく口をわずかな笑みのかたちにしてディハルが問う。

 先刻とは打って変わってシンと静まり返った山の中、オウガの声は低いのによく通り、その言葉を耳にしたクルハスナが硬直する。

 鬼彌は眉を険しくして剣を構えた。

 消え残った焚き火の光が反射して、誉れの石と呼ばれる剣が鋭利な輝きを放つ。ドワーフの名工によって鍛えられたという剣は、あれだけオークを斬ったのに、曇りもしていない。

「約定破りに関係なく、我らをもろともに襲ったのは奴らの方だ。あんたが奴らを身内と呼び、庇護するように、私は私の身内を危険にさらすものを許しはしない」

 人間の中でも特に長身の部類に入る己より、更に頭ふたつ分は大きいディハルを目の前にしても、怖じたところをまったく見せず言い切る。

 それを見て、ディハルが鈍い金色の眼を細めた。つられたように神零がくっくっと笑う。

「……勇ましい人間だの」

「ウチの坊やは血気盛んでな。まあ、実力が伴うぶん、不快ではない」

「それは重畳。何にせよ剣持て戦うものは、剣にたおれる覚悟を持たねばならん。それは誰にでも言えることなのでな。それでぬしらを恨みはすまいよ、わしもオークどももな。そもそもわしはあれらを止めに来ただけだ」

「無駄に血を流すな、と、か?」

「いいや、勇敢な人間殿。わしより恐ろしい鬼の気配がするからやめておけ、とだ。無駄に命を落とすのは口惜しかろう? まァ結局、いまいち間に合わなんだが。ぬしは知らんだろうがの、そこの焔殿は、今でも世界のあちこちで恐れられておるのだよ」

 ディハルの言葉に、鬼彌は神零を凝視したが、言われた当人は、特に感慨もないのか軽く肩をすくめただけだ。

 それから、

「ならばそれで決まりだな。住まいはどの辺りだ? あとであの子の主人とやらに言って、弔い代わりに酒でも届けさせよう。それくらいはされてしかるべきだろうからな」

「は、そういうことなら受け取ろうかい。そうだの、この森を8フィスス(1フィスス=1.3km)ほど南下したところにある洞窟よ。見ればすぐに判る。ならば、酒樽を持った人間は襲うなと厳命せねばの」

 もともと、生そのものにしがみつくことのない闇の生き物だからなのか、ディハルは非常に淡々としていた。それだけ言うと、もはや用はないとばかりに身を翻す。

 巨体に似合わぬ俊敏な動きだ。

「ではの、人間殿、焔殿、それからそこのエルフ殿も。……そうそう、西方の闇のものどもが妙な動きを見せとるで気ィつけえよ」

 と、去って行くオウガの広いたくましい背中を見ながら、鬼彌が血を拭いた剣を鞘に戻す。神零はひとつ息を吐いて革の手袋を取った。

「そう言えば、誰が坊やだ誰が」

 先刻の神零の言葉を思い出したのか、ぶつぶつ言いながら迦楠たちのもとへ戻ってきた鬼彌だったが、まだどこか不安げなクルハスナを目にして、思案顔になった。

 オークの脅威が去ったとはいえ、闇の一族に追い回されたという恐怖は、確実に少年の足を重くするだろう。シェンダール側のフィルオロウなら、大人でもあと二、三時間はかかる。

 その行程を思えば、少年の不安は決して的外れなものではない。

 鬼彌には、それが判っているのだ。

 彼はしばらく考え込み、それから、

「……少々、進む方向を変えたいんだが」

 やや決まり悪げに提案する。

 普段から彼ら(つまり迦楠を含むふたり)に振り回されている感のある神零は、「好きにしてくれ」とばかりに肩をすくめて、大まかに血糊を落とした手袋を仕舞う。

 それを横目に見ながら、迦楠は小さく首を傾げつつ、発言者たる鬼彌へ視線を向ける。

 そして、彼の次の言葉を待った。


 ――こうして、運命へと進む一本道。




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