2.フィルオロウ

 鬼彌=ノニア=ロシュネイダには黒エルフの親友がいる。

 外見は人間でいうところの二十歳を超えた程度だが、すでに二千数百年を生きていると聞いた。

 ブラック・ハイと呼ばれる、黒エルフの突然変異、寿命を持たない黒エルフにしてはまだまだ若い方らしい。黒エルフはそもそも五千年近く生きると言うから、種族としてもまだ若いうちに入るだろう。

 実際の年齢を聞いたことはない。永遠を生きるハイ・エルフにとって、年齢や時間というものを計ることは無意味に均しいからだ。

 が、暗黒の王と呼ばれた、闇と魔のものの神である黒刃王こくじんおうファラディーエが起こしたいくさ、後に黄昏の大戦と呼ばれ、人間にはすでに伝説の域に入っているその戦いには加わったと言う。

 人間の時間の数え方で言うと、千五百年前のことになる。その頃ですでに、少なくとも千歳は越していたらしい。

 しかし、鬼彌の何十倍も生きているわりにはふわふわして危なっかしく、おしゃべりで、屈託がない。

 長い時間を彼とともに過ごしている伝説の傭兵の言によると、黒エルフという種族はもっと物静かで、騒がしく命短い人間などという種はもとより、同属である他種エルフとも交わりたがらないのだとか。

 親友以外の黒エルフに出会ったことがないので、鬼彌には詳しくは言えないが、少なくともふらふらと酒場に入って、手当たり次第に果実酒を注文したりはしないらしい。

 この黒エルフのおかげで、色々な面倒に巻き込まれたこともあるが、それでも、彼が隣にいないよりはずっと楽しいし満ち足りている。

 友であり兄弟であり護るべきものであり護ってくれるもの、そんな存在なのだと、口にすればあの、伝説に名の刻まれた傭兵は、肩をすくめて「そうか」と答えるだけだけれど。

 もともと彼はエルフという種が好きなのだ。

 その理由のひとつが、彼が四つだか五つの頃、捨て子だったということで苛められて森に逃げ込み、闇のものと呼ばれるオークに殺されそうになったところを見知らぬエルフに救われた、という幼児体験だ。

 この世界、エトレジナ・スートゥレリアの北大陸にある、剣の国ニルヴァ=ソーンの山奥にある村でのことだった。彼を拾い、育ててくれた養父母の生まれ育った国であり村だ。

 ここの民は大抵が灰色の髪と鳶色の眼、そして赤っぽい褐色の肌をしているため、黒髪に灰青の眼、白い肌の鬼彌は非常に目立ったのだ。

 今でこそ一般の北大陸人より大柄で、トロルとだろうが大鬼(オウガ)とだろうが素手ででも戦う鬼彌だが、幼い頃は身体も小さかったし力も弱かった。おまけに気弱で泣き虫とあっては、やんちゃな子どもたちに標的にしてくれと言っているようなものだっただろう。

 ニルヴァ=ソーンの民は、非常に勇猛で好戦的なのだ。自分に勇猛であれと思うのと同等に、他者にも勇猛さを求める性質があった。その血や性質は子どもの頃からはっきりしていて、彼らが弱々しい異分子の少年に苛立ちを感じないはずもなかった。

 その日も、いじめっこの大将に犬をけしかけられ、泣いて山へ逃げて、近寄ってはいけないといわれていた“夜の森”へ踏み込んだ。

 “夜の森”とは朝にも晩にもほとんど日が差さず、年中暗くて薄ら寒い森を指して言う。闇の一族の棲みかともなっているため、何の装備もなしにたったひとりで入り込んだりしていい場所ではない。

 鬼彌は、そんな場所に、捕まる恐怖に追い立てられ、奥へ奥へと進んで、辺りを徘徊していたオークに見つかったのだ。

 闇の一族とも夜の生き物と呼ばれる、負と邪に属する生き物たちの代表格ともされるオークは、豚の顔を潰してさらに邪悪にしたような禍々しい外見をしており、それに比例するように悪徳を悦ぶ性質をしている。

 背丈は人間と同じかそれよりもやや低いくらいだが、力は人間とは比べようもないくらい強い。

 自分よりも力の劣るもの、例えば人間への侮蔑と攻撃性――食欲の入り混じったそれを考えると、幼い鬼彌には危険すぎる遭遇だった。

 醜い、割れ鐘のような声のそのオークは、群れをなす彼らにしては珍しく単体だったが、ひとりだろうが多数だろうが、生と正に属するものたちへの憎しみと残虐性に変わりはなかった。

 不恰好な剣と、残酷な愉悦を含んだ恐ろしい言葉に追われて必死で逃げて、けれど幼子の足では早々遠くへ行けるはずもなくて追い詰められ、もうここで死ぬんだと思った瞬間、目の前に、金の光があった。

 それが、自分の目の前に立ったそのひとの髪なのだと気づくのに、呆然としていて少々時間がかかった。

 背後からでもそれと判る尖った耳は、そのひとが人間ではない生き物、人間の先輩であり偉大なる統太母とうたいぼソローファルの長子でもある存在、智慧あるエルフだと教えてくれた。

 幼い記憶は情景を曖昧にしか残していない。ただ、断片として時折浮かぶのは、

(立ち去れ、闇の一族。この、人の子はわたしが預かる……)

 凛として澄んだ、エルフ独特の音韻を持った声。揺れる金の髪と、鬼彌を庇うそのひとの、すらりとしてしなやかな背中。その程度のものだ。

 単体ではエルフに到底敵わないと、半ば本能のように知っているオークは、威嚇の声をあげながら森の奥深く、闇の中へと消えていった。

 衝撃と恐怖が去り、こみ上げてきた何かを抑えきれず泣き出した鬼彌を抱き上げて背中を撫でながら、エルフは彼を村の入り口まで連れ帰ってくれた。

 その記憶が、彼の中に、今でもエルフへの思慕となって刻み込まれている。彼を助けてくれた当のエルフのことは、夢の中のようなぼんやりとしたものでしか覚えてはいないのだが。

 ……もちろん、それだけがあの黒エルフの若者と深い友情で結びついている理由ではない。

 出会ってから早や二十年、ともに死線を越え様々なひとたちと出会い別れ、それにつけ彼の純粋さもろさを目の当たりにし、同時に、自分の弱さや苦悩を理解してくれる相手でもある彼に救われている。

 不可思議な懐かしさと慕わしさは、まるで魂に刻み付けられたようでもあった。

 彼がエルフだからではなく、彼が彼だから――迦楠=アリス=イライファネラという一個の存在だからこその、友情であり愛情であり憧憬でもあるこの感情を、鬼彌は何よりも貴く大切に思っているのだった。


 * * *


 スジュン峠は、鉄の国から青の王国へ向かうか、もしくは隣国、風の国スドクレナールへ抜けるための三叉路になっている。国と国を隔てる壁も砦もない、国境を護る兵士のひとりもいない閑散としたところだ。

 国と国とをつなぐ要路であるこの峠に、どこの国からも人員が配置されていない理由は簡単だ。

 スジュン峠は、一般人が通るには適さない、刃のごとく切り立った岩場と、闇の生きものたちの棲みかともなる“夜の木々”に覆われた、道ならぬ道を通るしかない厳しい通路なのだ。

 峠を構成する岩山の名はフィルオロウといい、これは古代語で牙なる岩の謂であるから、その鋭利さが判るというものだろう。

 それだけに、ここを武装して通ることは難しい……というより自殺行為だし、何より、道が細いため隊列が伸びきってしまい、かえって危険なのだ。

 自分は大丈夫だ、と、無茶をして命を落としたものは数知れない。

 更に、闇の生きものたちを刺激しないように、ふもとの町の住民たちも旅人たちも、よほどのことがない限りここへ足を踏み入れようとはしない。

 そんな道だから、鬼彌としてはあまり気乗りがしなかった。彼は自分の図体が大きいことを知っているので、こせこせしたところを通るのが嫌なのだ。つっかえたり引っかかったり、ロクなことがない。

 それと、何よりも、こんなところでもしも何かあって、迦楠に怪我でもさせたらという、もうひとりの同行者に向かって言えば一笑に付されるような理由からだった。

 が、神零=エル=シヴァーティリーという名の、伝説にすらなっている同行者は、鬼彌のそういう過保護な気持ちをしっかり理解していて、

「もう少し安全な道はないのか?」

 という鬼彌の言葉に、呆れの表情を浮かべた。大袈裟な溜め息交じりの口調で、

「今月中に名月の国へ着かねばならんとかほざいたのはどこのどなただったか訊いてもいいか?」

「……私だが」

「いいか、十の弓月が終わるまであと十日だ。効率よくコーダに辿り着こうと思ったら、ここからスドクレナールへ抜けて中心部を突っ切るのが一番いい。――というか、それ以外では無理だ」

「だが、ここはあまりに……」

「山登りごときで、四大精素を身に帯びるエルフに危険もクソもあるか。大体にして、アイツはお前の数倍丈夫だぞ。ある意味、迦楠ほどがさつなエルフはそうそういるまいよ」

 言い募ろうとした鬼彌を押しとどめ、肩をすくめて傭兵は言う。男女の区別のまったくつかない、ちょっとそこらでは耳に出来ないような美声だが、口にしている言葉は優雅さとか美麗さとかからは程遠い。

「そもそも、どうしてそんなに急いでコーダへ?」

「――ん? 言ってなかったか?」

 疑問形に疑問形で返すと、神零は眉根を寄せて頷く。

 秀でた額の両端で、前髪のひとふさを三つ編みにして垂らした長いそれらが、神零の動きにあわせて軽く揺れる。三つ編みの一部に、複雑な文様の書かれた布が巻いてあるのは、本人曰く何かのまじないであるらしい。

 鬼彌を見据える深い赤の瞳、そして真紅と茶色のまだらな髪は、この世界では滅多に見かけない珍しい色彩だ。

「名月の国では、十の弓月に限って『月仙貴げっせんきの宝珠』が採れるのさ」

「……ほう。あの、月光の凝った魔石か。確かに貴重だが、【術】も使えぬお前が、それをどうする気だ?」

「いや、シルウエンディに、土産にと思ってな……」

 その言葉に神零は沈黙し、ただ、

「……そうか、しばらく行ってないな。それはさぞ喜ぶだろうよ……」

 そう答えて、思案顔になった。それから、

「なら、コーダの次はパランテーナか。北大陸に渡るのは久しぶりだが、シルウエンディやドワーフたちと酒盛りをするのも悪くない」

 深い赤の瞳を細め、つぶやくと、少しずれていた腰の荷を直してまた歩き始める。神零の、旅の日用品が入った荷鞄には、細身で胴のくびれた弦楽器が括りつけられている。

「何をぼうっとしてる! 迦楠はもうあんなところまで登っているぞ!」

 厳しい声に鬼彌がふと顔を上げると、彼の(過保護な)心配の種であるエルフは、ふたりの会話に退屈したのか、ひとりでさっさと岩場を登ってしまっていた。

 灰銀の鱗を持った小さな竜、大きく翼を広げても人間の五~六歳児程度の大きさしかないそれが、ピィピィと鳴きながら彼の頭上を飛んでいる。

 ナハティリエル、すなわち薄暮の銀と名づけられたこのリンドブルムは、一体でも人里に現れれば大騒ぎになる魔獣族の一員とは到底思えぬ程度には人懐こく、可愛らしい。

 迦楠は、コーダへ急ぐ理由は理解しているらしく、

「じゃあわたしは、シルウエンディに一等いい葡萄酒を持っていってあげなくちゃ! 前に別れたとき、約束したんだもの!」

 どこの国の葡萄酒が一番美味しいかなあ、などと楽しそうに言っているのが聞こえる。その肩にリンドブルムが翼を休め、細長い首を傾げて彼の顔を覗き込む。

「私は忘却の国か銀の国を推すが」

「そうだね。エルフの国の酒はどれも美味しいよ。みんな宴会が大好きだから」

「ラファイールなら、北大陸へ渡る通り道だしな」

 のんびりしたふたりの会話を聞きながら、鬼彌は苦笑して岩場へ脚をかけた。でかい図体をしているとか嵩張るとか、神零にはさんざんなことを言われる彼だが、決して動きは鈍重ではないし身も軽い。単に、前方を行くふたりが身軽にすぎるだけなのだ。

 ただの人間に、エルフやエルフを超越した何ものかと同じ体機能を求めないでほしい、というのが鬼彌の正直な気持ちだった。

 慎重に登り始めてみると、思っていたよりも足場はしっかりしていて、鬼彌はちょっと安心していた。これなら、自重で足場が崩れて落ちるようなことはないだろうし、それはつまり、迦楠がそうなる確立はさらに低くなるということでもある。

 先頭が迦楠、真ん中が神零、しんがりが鬼彌という順番で登り始め、三十分ほど行った辺りで小さな清流に行き当たった。鬼彌が一歩で踏み越えられる程度の狭い川だが、流れはしっかりしており、水量も豊かだ。

 周囲には青々とした草が生えており、そのうちの何種類かは薬草やハーブの類いのようだった。

「丁度いい、迦楠、ついでだから服を洗っておけ。変色すると後々面倒だ」

 飲料水を詰める革水筒を取り出しながら神零が言うと、迦楠はいかにも面倒臭いという表情をして、

「わたしは別に気にしないからいいよ。先を急ごう」

「却下だ。おまえが気にしなくても私が気にする。……というか、汚れものの後始末をするのはいつも私だろうが。無駄な手間は今のうちに省きたい。ロシュネイダ、私は水と薬草を確保するから迦楠を洗え」

 と、一方的に言い捨て、鬼彌が肯定も否定もしないうちにさっさと上流へ行ってしまった。途中、立ち止まっては屈み込んで、川べりの草を摘み取っていく。その背を追って羽ばたいたナハトが、ピィピィと楽しげに鳴きながら神零の周囲を飛び回る。

「ひとの話を聞かないヤツだな……」

 などと文句を垂れてみたものの、先ほどの一件で迦楠が被った粗悪な酒を洗い流すことに異存はない。彼が荷袋から洗髪料を探し出し、中身を確かめていると、

「いや、だから別にいいってば、鬼彌」

「何を言ってるんだ、ここを逃したらしばらく洗えないかもしれないだろう。確か髪にもかかっていたな? 痛んだらどうする、せっかくの綺麗な髪なのに。洗ってやるから、ほら、こっちへ来い」

「だってもう乾いてるよ、わたしは風邪も引かないんだし、時間の無駄じゃないか……」

 迦楠はなおもぶつぶつ言っていたが、ちょっと笑った鬼彌が手招きをすると、渋々といった風情で水辺に歩み寄った。

 防塵マントを外し、濃朽葉色の上着と氷緑色のシャツを脱いで荷物の上に置く。酒に汚れた上着を清流にひたしてから、複雑に編み込んだ金の髪を、不器用な手つきでほどく。傷ひとつない滑らかな褐色の背中に、金色の光が広がり、さらさらとやわらかく揺れた。

こうして見ると、上背はそこそこあるし筋肉もあるのに、エルフという優美な種族のゆえか、彼の半裸の身体からは繊細な印象を受ける。

「耳に水が入らないようにしてね」

「判っているさ、気をつける」

 自分のことに頓着のない迦楠の、身の回りの世話をするのは鬼彌の役目なので、彼の髪を洗うのも手馴れたものだ。

 清流から水をすくって手早く髪を濡らすと、神零が以前ハーブから作った洗髪料を少し沁み込ませて泡立て、揉むように洗う。

「さ、流すぞ」

 抱かかえるようにして川辺に屈み込ませ、洗髪料を洗い流す。迦楠は小さな子供のように、尖った耳を塞いで目を閉じていた。

「終わりだ、迦楠。すっきりしただろう?」

 言って、荷袋から乾いた大布を取り出し、髪を拭いてやる。

 生活という点ではほとんど役に立たない迦楠は、鬼彌が布を動かすのに、されるがままになっている。

 滴っていた水が徐々になくなると、

「うん、そうだね。気持ちよかった。ありがとう鬼彌」

 もともと細い髪質のため、水分でぺしゃんこになった金髪を気にしながら迦楠が笑う。

 どういたしましてと笑い返すと、鬼彌は清流に浸した上着に視線を移し、汚れた部分を重点的に洗う。硬くて丈夫な毛織物で作られたこの上着は、防塵防寒という点では非常に重宝するが、こうやって一度洗うと乾くまで時間がかかるのが難点だ。

 洗い終え、よくしぼった上着を予備の荷袋に入れる。

「迦楠、寒くないか?」

「ああ……平気だよ。わたしたちはもともと、暑さ寒さには強いから」

 ざっくりした質感のシャツを着込み、止め紐を不器用な手つきで結びながら迦楠が答える。彼の言うとおり、エルフという、精素に愛された種族は、寒暖の差や環境の変化に非常に強いのだ。

「そうか、ならいい」

 そのうえから防塵マントを着せ掛けてやり、彼の、まだ少し濡れたままの髪を精緻に結い直した辺りで、水と薬草をしっかり確保した傭兵とリンドブルムが帰ってくる。

「ふむ、終わったようだな」

「ああ」

「うん、洗ってもらったよ」

「たまには自分で洗え、生活力のないエルフだな……」

「今更という気もするがな」

「……」

 呆れの色彩を深紅の瞳に浮かべ、神零はしばし沈黙したが、

「まぁ、いい。なら行くとしようか。日が沈むまでに分岐点まで辿り着きたいところだな」

 言って、ハーブの入った小袋と革水筒を荷袋にしまうと、ふたりを気にすることなくさっさと歩き出す。ナハトがその肩にとまり、歌でもうたうかのように声をあげていた。

 その背を追って、ふたりも歩き出す。

 それから三時間経つと、太陽は徐々に紅さを増して、西の空へ傾き始めていた。

 岩ばかりの道に、鬼彌はいい加減ウンザリし始めていたが、精素と呼ばれる、世界を構成する根本の存在に愛されているエルフは、まったく疲れた様子を見せず、さっぱりした気持ちよさも手伝ってか、屈託のないおしゃべりを続けている。

「ねえ神零、あの太陽は、神零の眼とよく似ているね」

「そうか? 自分ではよく判らんが」

「うん、そうだよ。鬼彌もそう思わない?」

「……どうかな。もう少し深いような気もするが。それに、大陽神の御光(みひかり)は、私には少々強すぎる。よくは見えん」

 鬼彌が、夕陽独特の、脳髄の奥を射抜くような強い眩しさに目を細めながら言うと、エルフと傭兵が顔を見合わせるのが判った。

「そういうところ、人間は不便だね。自分たちを育む貴い光を、その眼ではっきり見ることが出来ないんだもの」

「仕方あるまい、エルフたちと比べれば、人間は脆い存在だからな。だが、そう創られたことに意味があるんだろうよ」

 神零がそう答え、肩をすくめるのを、鬼彌は不可思議な気分で見遣っていた。

 この、数百年数千年――実際には、もっと、かもしれない――に渡って名前の囁かれ続ける人物は、言動から考えても、出身国どころか種族すらはっきりしない。

 どう見てもエルフではないし、人間は何百年も生きられない。ドワーフのように物堅くも器用でもないし、かといって闇の生き物のように醜悪ではない。容姿だけで言えば、むしろ正反対だ。

 一時期は、もっとも神々に近いと言われる精霊族なのではないかと思ったこともあったが、彼らは基本的に自分の属性の中かもしくは近くでしか生きられないのだ。おまけに、赤というのは彼らにとって不吉なものであるらしく、そんな色彩を身に帯びる神零が、精霊族であるとは思えなくなった。

 さらに、その話を迦楠にしたら、神零は精霊族が大嫌いだから、本人にそれを言ったらたぶん殴られるよ、などと脅されもした。

 その他のいかなる種族とも条件が合わず、結局、この人物の正体は謎のままだ。

 と言っても、信頼に足る人物だと思うからこそ、こうして旅の道をともにしているわけだが。

「神々の意思には、生命への慈悲と慈愛が満ちている」

 と、不意に呟いた神零の言を受けて、まるで歌うように韻をつけ、

「統太母は手ずからみっつの種族を創られ、長子には貴い智慧を、乙子(おとご)には鋼の意志を、末子には循環する魂を与えられた……」

 迦楠がゆっくりと言葉を口にする。口にしてから、

「統太母は芸術家だね。エルフとドワーフと人間、全然違う種族をみっつも創られたんだもの。でも、創ってもらえて本当によかったね」

 ね? と、肩の小竜に語りかけると、ナハティリエル――通称ナハトは、翼をパタパタさせて同意を示した。

 神零によって拾われたリンドブルムだが、満遍なく三人に懐いているのは、ナハトが人間もエルフも好きだからだ。

 そんな、屈託のない会話を続けながら更に登ること一時間、紅い強い光が薄れ、深い青とやわらかく交じり合う頃には、三人は分岐点たるフィルオロウの頂上へと辿り着いていた。

 巨大な岩の塊が突き出し、“夜の木々”に周囲を囲まれた、いっときなりとも平坦な場所である。ここから、シェンダールとスドクレナールへの道、更に険しい岩ばかりのそれが伸びているのだ。

「まあ、予定通りだな。今日はこの辺りで休もうか、闇の中を降りるにはこの山は危険にすぎる。それで構わないな?」

 平たく割れた岩、三人が寝転んでもまだゆとりのある場所に、腰から解いた荷袋を置きながら神零が言う。それは問いかけというよりも確認で、異存のない鬼彌は同じように荷物を落とす。

「ああ。今日は天気もいい、火を焚くだけで充分だろうしな」

「じゃあ、夕食の支度をしないとね。何か獲って来ようか。この辺りなら結構色々いそうだ」

「――そうだな、なら私は山菜でも探して来ようか。ロシュネイダ、ナハトを貸してやるから火を熾しておいてくれ」

「了解した。ついでに茶を沸かしておこう。――ああ迦楠、気をつけろよ」

「うん、判ってる。美味しいものを獲ってくるからね!」

 分担を決め、二人が“夜の木々”の中へ踏み込んでゆくのを見届けてから、鬼彌は小高い位置の岩塊にとまっているナハトに声をかけた。

「火を熾したいんだ、枯れ木を拾うのを手伝ってくれないか? 後で私の分の肉を分けてやるから」

 頼むよ、と手を差し伸べると、小さな竜は空中で一回転してみせ、鬼彌の腕にちょこんと乗っかった。

 鬼彌はちょっと笑う。一体現れれば一つの町が壊滅すらする、誇り高く獰猛な魔獣族の一員とは到底思えない可愛らしさに。

「やはり、人が来ないとその分資源も残っているんだな……」

 のんきに枯れ木を拾う彼には、ふたりが闇の生き物たちのいる可能性の高い、“夜の木々”の中へ踏み込んでいったことに対する懸念は何もなかった。ふたりとも、すらりとした細い身体つきをしているが、闇の生き物如きに遅れを取るほどやわではない(と、思いつつ、迦楠に対しては過保護になってしまうのが鬼彌なのだが)。

 ナハトが小さな翼で一生懸命羽ばたきつつ、小さな木切れを口に咥えては鬼彌のもとへ運んでくる。ありがとうと笑いながら、辺りに落ちている石ころを使ってかまどを作り、木切れを並べてゆく。

 即席かまどに水を張った鍋を乗せてから、鬼彌はナハトを手招きした。

 ピィ、という肯定の返事とともに羽ばたいて、ナハトは鬼彌の腕の中に収まると、息を吸い込み、ふぅっと吐き出す。小さな竜が吐いた息は、空気に触れると同時にまばゆい炎と化し、正確に枯れ枝を巻き込んで、勢いよく燃え上がらせた。

「お見事」

 パチパチと爆ぜる火は、暮れ始めた空に明々と翻り、闇の青と言えばいいのか、深い穏やかな色彩の空と対照的によく映えた。

 白い岩肌にちらちらと炎の赤が写る様は、まるでそれらに意志があり、なにごとかを喜んで舞でも舞っているかのようだ。

 その暖かな色に見惚れること十数分、鍋の湯が沸き立ってようやく鬼彌は我に返り、荷袋から干した薬草や香草が入った小さな袋を取り出す。これらの草には、乾燥させても栄養素が失われないというありがたい特徴があり、旅先などでの手軽な栄養補給には欠かせない。

 種類別に分類され、細々と袋詰めされた(こういう細かい作業をするのは大抵神零だ)葉っぱを少しずつ取り、鍋に放り込む。

 湯気とともに、爽やかかつ少々刺激的な香気が立ちのぼって、鬼彌は目を細めた。ハーブ系の匂いが苦手らしいナハトは、ピィッと鳴き声を上げて湯気と香りの届かないところまで逃げてしまう。さもいやそうに、後ろ足で鼻をこする仕草が愛らしく、鬼彌は目を細めたまま笑う。

 お茶をじっくり沸かしている間に、短剣を使って辺りの草を刈って行く。

 青々として柔らかいそれらは、岩の上に敷き詰めれば、一夜限りの良い寝床になってくれるだろう。

 そうやって、三人と一匹ぶんのベッドをつくり終えようかという頃、時間にして一時間が経った頃、聞きなれた足音とともに、森の葉がざわめき、そして、見慣れたふたりが、めいめいの獲物を手に戻ってくるのが見えた。


 *


 メインには、迦楠が仕留めてきた猪を、ナハトの火で豪快に焼いたもの。

 植物にやたら詳しい神零が集めてきた、野生のセリやキノコのスープ。実りの季節だけあって、食べられる木の実も多く、磨り潰して粉にしたそれに水と塩とを加え、即席のパンも焼かれた。

 食後にはあけびや山ぶどう、飲み物は薬草茶と迦楠気に入りの葡萄酒。

 野宿にはもったいないほど豪勢な夕食になり、三人と一匹は思う存分に晩餐を楽しむ。

 鬼彌から約束の肉をもらったナハトは、早々に満足して草の寝床で丸くなり、すぐに寝息を立て始めた。

 残り三人は、成人の、よく動く面々ばかりだから、摂取するべき栄養をしっかり補給する。精素の援けを得ている迦楠は、楽しむために食べることが多いのでどちらかと言うと少食なほうだが、神零など、あんなにほっそりしているくせに驚くほどよく食う。それで太りもしないのだから、飽食に悩む都の乙女たちが聞いたら憤死しそうだと鬼彌は思う。

「あんたが食ったぶんの栄養は、いったいどこに行くんだろうな?」

「……さあ」

「あれ、わたしは筋肉になっているんだと思っていたけど?」

「……迦楠、あのな……」

 迦楠の言葉に、神零は一瞬半眼になったが、すぐに気を取り直したらしく、荷袋に括りつけてあった、流麗なかたちの弦楽器を取り出した。

 弦は三本で長く、胴は小振りでやわらかい印象の造形だ。傍らには、馬の毛を張った小弓が添えられている。それを見た迦楠は目を輝かせた。

「何か弾いてくれるんだ? 神零の仙清琴せんしんきんがこんなところで聴けるなんて、嬉しいな」

「……お前が歌ってくれるのならな」

 もちろん、音楽と宴会をこよなく愛するエルフに否やのあろうはずもなく、ひとりきりの観客の音楽鑑賞会となったのである。

 神零の告げた演目は、『ファーラ・イ・エテナ・アルレギオン』。

 現代共通語に訳せば黒獅子アルレギオン、となる。

 千五百年前のいくさ、今では“黄昏の大戦”と呼ばれる戦いで名を馳せた、一騎当千の戦士を讃える歌だ。

 彼が仕えていた、牙の国フィル=エギロエナの始祖王となった半エルフの姉弟を助け、暗黒の神の目覚めによって混乱を極めていた世界に平和をもたらす一端を担ったと言い継がれる英雄のうたである。

 懐かしいね、と迦楠がつぶやくと、少し笑った神零は頷いて弦に弓を当てた。胴の部分は胡座をかいた太股の辺りに来る。

 一瞬置いて流れ出した音は、滅多に耳に出来ないような優美さと流麗さ、しかしどこか男性的な力強さを持っていた。

 戦場では死神だとか鬼神だとか、不吉な名で呼ばれることの多い神零だが、音楽に関する腕前は相当なもので、曲は途切れることも滞ることもなく滑らかに美しく進む。

 長い、少々哀しげな前奏の後、曲調ががらりと変わって勇ましくなり、


 ――いざや来たれフィルエントの黒獅子、勇猛なるアルレギオン。

 かの英雄、半エルフ ニオナの友、戦乙女ファナオーラの喜び。

 丈高く力強く、黒き髪青き瞳。瞳には光、声には望みあり。

 時は暗く哀しみ多けれど、草は萌え空の晴れぬことなかれば。

 アマン・ニィ・コルノンの地に猛者どもの集いて、

 悪しきものどもとの雌雄決さる。

 アルレギオン、黒き王より二人を援け、光あれと剣振るいぬ。

 ああ麗しき者、祝福ある御子、神々の寵児よ。

 汝はいずこから来たりていずこへと去るや……


 迦楠の歌声は澄み渡って朗々と響き、神零の演奏とあいまって、この世のものとも思えぬ、美しい一個の空間を創り上げていた。

 天空を彩る満天の星と、暑くもなく寒くもない気候、たまに吹き過ぎてゆく涼やかな風が、その美しい世界を更に引き立てている。

 鬼彌は、夢のようだとはこのことだな、などと思いながら耳を傾けていた。

 心の奥底に、何故かこの歌をひどく懐かしむ気持ちがあって、少し訝しくも

思う。

 が、その歌が中盤に差し掛かった頃、鬼彌が歌の世界に没頭していたとき、不意に、“夜の木々”が深々とわだかまる森の中から、

 オオオ、オオオオオォ――――ッ!

 禍々しいどよもしの声が響いた。

 地の底から響くような、と言えば陳腐に過ぎるが、まさしくそんな印象だった。

 せっかくの美しい世界を邪魔され、鬼彌は眉を険しくして傍らに置いてあった剣を拾う。

 響いてくる声の主は、ひとりやふたりではない。徐々に声が大きくなってくるのは、連中の足がこちらを向いているからだろう。

 同時に――どよもしよりもやや近く、やはり徐々に大きく聞こえてくるのは、まだどこか幼さを含んだ、恐怖に満ちた悲鳴だ。助けを求める、すがるような声には、どこか諦めと絶望がある。

「……近づいてくる」

 楽器を置きながら神零がつぶやく。

 頷いた迦楠は大弓を手にしており、その美しい横顔は驚くほど厳しさを増している。

 鬼彌も剣を抜いた。

 いつの間にかナハトも目覚めていて、黒々とした森に向かって威嚇の声を上げている。

「誰か追われている……こっちへ来る!」

 鋭い迦楠の声に、一瞬で空気が張り詰める。

 迦楠が矢をつがえるのを横目に見ながら、鬼彌は喧騒の近づく暗い森を凝視していた。

 やがて、ガサガサと繁みを掻き分ける、ひどく焦りを含んだ音が響く。

 ――――そして。




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