1.発端
コトの起こり、原因は、いつものことながらあの黒エルフだった。
エルフ族とは、長命で賢く、優美かつ思慮深い神秘の生き物である。
彼らは世界を創造した至高の母の
いまだ幼く未熟な人間にしてみれば、憧れと畏怖と羨望の対象となる存在だった。
原因となった彼は、大まかに分けて三種類ある彼らエルフの中で、もっとも数が少なく他種族嫌いの、滅多に人前には姿を現さない一族の若者だ。
とはいえこのエルフは、物静かで思索を好む黒エルフ族とはとうてい思えぬ程度には陽気かつ社交的で(そのさまは一番数の多い森エルフの、もっとも年若い連中とよく似ている)、人間社会にも屈託なく解け込んでいるのだが。
その彼も、今は困り果てた顔をして、部屋の壁際に張り付いている。
それをさらに、修復不可能なまでにややこしくしたのは、やはりいつものことながらあの剣士だった。
世界各地を流れ歩き、自分の気に入った仕事だけを受けて金を稼ぐ、最上位の職業剣士たる人間の男である。南大陸の東にある大国、古代語で狼の牙という意味を持つフィル=エギロエナの王に仕えたこともあるらしい。
確かに彼らの職業は、騒動が飯のタネ……という傭兵稼業だが、何が哀しくて日常にまで騒ぎを持ち込まねばならないと言うのだろう。
つきあってられるか。
胸中に吐き捨て、陶器や木製品の砕け散る音を聴きながら、自分のぶんだけしっかり確保しておいた昼食を再開する。
トレイから骨付きの肉を取って、自分の右肩で翼を休めている、小さなリンドブルムに与えてやる。灰銀の鱗と翼、そして蒼玉の眼を持つ竜は、周囲の喧騒には構わぬ様子で、嬉しそうに一声鳴いてそれを咥えた。
神零は騒ぎの中心に一瞬だけ視線を移したが、すぐに興味を失って食事に没頭し始める。ヤツらもそのうち飽きるだろう、というのが神零の率直な意見である。まさか、夕食時まで長引きはすまい。
そうなったらそうなったで見棄てて行きたいのだが、この案の場合、あの男はともかく、黒エルフが困った顔をするのは目に見えているから、できればとっとと終わってほしいというのが神零の内心だった。
無心に肉を食むリンドブルムを、眼を細めて見ながら、ゴブレットになみなみと注がれたハーブ酒に口をつける。鮮烈な、舌を刺す薬草の風味に、こんな場面でも食欲を増進させられる。
「あるじも気の毒なことだな。このあとかたづけはひどく大変に違いない。なあ、そうは思わないか、ナハト?」
肩のリンドブルムにそう言うと、人語を解するこの小さな竜は、ピィ、と小鳥のような可愛らしい声で肯定の返事をした。種族としては魔獣族に属するはずのリンドブルムだが、ちょっとした理由で群れを追われたこの小さな竜には、魔獣族特有の猛々しさが感じられない。
「しかし、暇なんだな、人の子というものは。ことあるごとに喧嘩とは、どれだけ時間をもてあましているんだ?」
――そう、小さな、しかしそれなりの飯を出す食堂は、今や煉獄の様相を呈していた。
ごつい武装に身を包んだ連中が、それほど広くもないこの飯屋で、くんずほぐれつの大乱闘を繰り広げているのだ。怒号と悲鳴、床を踏み鳴らす音などで、やかましいことこの上ない。
乱闘の結果の、だらしなく伸びた男たちや割れた食器などで床は埋まり、辺りはさながら戦場である。
――きっかけは実に単純なことだったのだが。
ハーブ酒を舐めながら、神零は部屋の隅っこで所在なげにしている黒エルフを呼んだ。人間の何十倍も耳聡いエルフは、特徴的な神零の声をしっかり聴き取って、こっそりとこちらがわへ近づいてきた。
「……我らが剣士どのはどうしてる、
問いに、若々しく美しい、独特の音韻を持った声が答える。ある種の歌を思わせる、エルフ特有の声音だ。
ただしその声音は非常に困惑しており、途方に暮れているようでもあった。彼は、ごちゃごちゃと人間たちが揉みあっている中心へ、スミレ色の美しい目を向け、
「判らないよ、神零。人間が多すぎて隠れてしまった。音がたくさんありすぎて聞き分けがつかなくなったんだ」
「なるほど。高性能すぎるのも考えものだ、黒エルフの耳も。人の子らはああやって固まると区別し辛いものな。まあ、殺さない程度なら好きにしてくれて構わんが。お尋ね者になるのは面倒だ」
「ああ、剣は抜いてなかったから、それは大丈夫だと思うけど。――それにしても神零はこんなときでも何だか落ち着いているね。食事を続けているのは神零とナハトくらいのものだよ」
金の髪と淡いスミレ色の瞳、そして濃い褐色の肌ととがった耳を持つ、信じられないほど綺麗な顔立ちをした青年は、そう言って苦笑した。薄紫の優しい瞳を彩る、濃い金の睫毛はまるでけぶるようだ。
神零は肩をすくめた。人間の年齢にすれば二十歳のはじめ程度の、美しい若者をツイと見上げる。
「見くびってもらっては困る、迦楠=アリス=イライファネラ。親愛なるスミレ花よ。この程度の騒ぎごときで、せっかくの昼食をだいなしにするわけにはいかないだろう?」
言いながら、香ばしく焼き上げられたパンをちぎり、口に放り込む。咀嚼しながら、カップから熱いスープを啜る。
周りの連中が何をしていようと、摂取すべき栄養は摂取するのが神零の主義だ。食事のほうが大事、という説もある。
肩のリンドブルムは満足したらしく、翼を畳んで丸くなった。
それを微笑とともに見つめながら、黒エルフの若者が神零の隣に腰を下ろす。確保しておいた葡萄酒のびんを示してやると、目を輝かせて手を伸ばした。彼は甘いものと果実酒の類いに目がないのだ。葡萄酒を受け取ってから、神零の背後に転がっているグラスを取ろうと身を乗り出す。
肩と肩が触れるほど近づくと、彼の旅装や髪から、きつい、粗悪な酒の匂いが漂ってきた。指を添わせてみると、服地はやや湿っている。
「……どこかで洗わないと駄目だな、これは。放っておくと変色するぞ。災難だったな」
栓を開け、葡萄酒の馥郁として濃厚な香りを楽しんでいた黒エルフは、神零の言葉に曖昧な笑みを浮かべてうなずいた。どう答えていいか判らない、という笑みだ。
「うん……そうだね。わたしとしては、こんな大きな騒ぎになるとは思わなかったんだけど……」
「は、確かにな。だが、それは別に迦楠の責ではないだろう。おまえに絡んだ馬鹿と、おまえのコトとなると眼の色の変わる馬鹿のせいでこうなっただけの話だ。まあ、結局のところいつものことだがな」
「ああ、
盛大な溜め息を吐く彼に、神零は苦笑した。
人から自分へ向けられる感情に鈍い節のあるこのエルフには、あの男がこれほどまでに怒り狂っている理由は判らないのだろう。
エルフの若者、と言いつつ、すでに数千年の時間を生きていながら、どこか危うい幼さの抜けない彼の、護り手を自任するあの男の気持ちは。
(考えてみれば、あいつも可哀相なやつだな)
同情を込めて、胸中につぶやく。
あの男は確かに(迦楠という名の、この若者に関することに対してだけは)相当な心配性だし強暴だが、ゆえもなく暴れたり騒いだりはしない。その辺りが、このエルフには判っていないのだ。
(まあ、私の知ったことじゃないが)
あの男は、神零にしてみればある種の好敵手であると同時に、唐突に現れて掌中の珠を奪っていった盗人でもあるのだ。同情すべき要素は少ない。
*
確か、時間にすれば一時間ほど前だったか、遅めの昼食を摂ろうと三人がこの食堂に入ったのは。
最近では、シェンダールが隣国である霧の国オウイクへの侵攻を開始したとかで、更に物騒な空気が漂っている。
そんなところにある食堂だから、客は人相の悪い連中が大半だった。
優勢であるらしい青の王国に加担して、恩賞をいただこうという、ゴロツキまがいの流れ者たちばかりだ。
店内の雰囲気はお世辞にも良いとは言えなかった。
神零は、中に入った瞬間、あの男――鬼彌=ノニア=ロシュネイダが、しまった、と淡い灰青の目を嫌そうにしかめたのをしっかり見ていた。
何せ、神零を含め、この三人はよくも悪くも目立つ者ばかりだから。
小さな竜を連れ、深紅の眼に真紅と茶色のまだら髪という、この世界では珍しい色彩をした神零と、大体8と半カイト(1カイト=約20㎝)ちょっとある神零よりも1と半カイトは長身の、人間にしてはかなり背の高い部類に入る鬼彌、このふたりが連れ立って歩くだけでも視線を集めるのだ。
そのうえ、この黒エルフの若者は、こんな殺伐とした……猥雑な雰囲気には似つかわしくない、清冽な、浮き世離れした美しさの持ち主なものだから、目立つなというほうが無理な話だった。
使い込まれた葡萄酒の樽を見つけた彼が、嬉しそうにフードを取り払ったときの、店内のざわめきは大きかった。
褐色の頬に濃く影を落とす長い睫毛だとか、9カイトという長身のわりにはすらっとした細身だとか女性と見紛うような繊細な美貌だとか、この場面において目立たない要素というものが何もない。
エルフ自身は、そんなことにはとんと気づかぬ様子で、さっさとカウンターへ向かってしまっていたが。
警戒心のない――よく言えば純真な、悪く言えば周りの空気を読めない彼が、カウンターで店主に葡萄酒を頼んでいるのを見て、神零はちょっとばかり鬼彌を憐れに思った。
黒エルフの天真爛漫さとあの容貌が、何度も喧嘩沙汰やいざこざになったことを覚えているからだ。
思いはしたが、彼への同情よりも自分の空腹の方が重要だったもので、神零もあっさりカウンターへ向かった。黒エルフの左隣に座ると日替わりの定食を頼む。
あるじは肩のリンドブルムに不思議そうな眼を向けたが、特に何をいうでもなく、定食の準備を始めた。
すぐに、なにやら色々と諦めたらしい鬼彌が、エルフの右隣の席へ腰を下ろす。
「この辺りは気候がいいから」
ところ狭しと並べられた葡萄酒の瓶を見ながら、嬉しそうに黒エルフが言う。
「毎年素晴らしい果実酒が出来るんだよ。葡萄酒だけじゃなくて、あんずやオレンジ、たくさんのベリー、あとはりんごの酒も美味しいんだ」
「ずいぶん詳しいな。――ああ、あるじ、一緒にハーブ酒をくれ。そう、そこのヤツだ」
「うん、それを目当てに何度も来たから。もう三百年以上前の話なんだけどね、人間の営みは何百年経ってもあんまり変わらないね。同じことを繰り返し繰り返しコツコツやる姿勢は、何度目にしても感心するな」
「そうだな。人の子らは自らの営みを誇りに出来るからじゃないか? 長い時間をかけて伝えてゆくことが、その者たちにとっての使命なんだろうよ」
とりあえず、と出された温野菜のサラダに塩を振りつつ、神零は答える。
四大精素を身に帯び、常に世界から活力を与えられているエルフは、気に入った銘柄の葡萄酒とやわらかいパン、そしてチーズだけを頼んだ。
手渡されたグラスの、薄い手触りを楽しんでいる黒エルフを見ながら、鬼彌が不意に口を開く。神零に対して何か言うより先に、店主に強い蒸留酒と煮込み料理を注文する。
「シヴァーティリー」
「何だ」
黒エルフの若者を真ん中にして(ようやく)まとまっている節のあるふたりは、接しかたも非常に淡白だ。エルフを呼ぶときはふたりとも真名を使うくせに、互いの名は通称か、通称の更に短縮された呼び名で済ませてしまう。
別に、信頼がないわけではない。
戦場では、お互いほど頼りになる相棒はいないと思っているのだから、単に立場や存在の意味の違いなのだが。
「シェンダールは……本当にオウイクを攻める気なのか?」
「知らん。今の世情には疎い。何か気にかかることでもあるのか」
「……私はシェンダール国王に目通りしたことがある。民を安んじ、和を尊ぶ善き王だった。その王が他国を侵略しようとは信じがたい」
「いつの話だ」
「十年以上は昔だな」
「――ひとの心は移ろいやすいものと聞くぞ。善君が暴君に変わるなど、耳新しいことでもあるまい」
「ああ……確かに、な」
思案顔で鬼彌が黙り込み、葡萄から作られた蒸留酒のグラスを口に運ぶ。
そこらの女勢が羨みそうなほどに美しい黒髪が、窓から差し込む陽光を受けてきらりと反射する。
黒真珠のごとき輝きとはこういうことをいうのだろう。
少し翳のある、鋭角的な横顔は、面倒臭がって無精髭をそのままにしている所為でどこか退廃的だが、非常に端正に整っている。
三十代半ばという年齢ゆえの、人間として男としての盛りの時期が、彼の物腰からも顔立ちからも、強靭さと柔軟さの双方を匂い立たせている。
神零が茹でたニンジンをつついていると、
「大規模ないくさが増えたと思わないか?」
胡桃を練り込んだパンにバターを塗りながら、不意に鬼彌が呟くように言った。重い話題だが、彼の視線はパンに集中している。
神零はわずかに頷く。
「ああ、そういえばそうかも知れん」
「五年前には風の国スドクレナールと名月の国コーダの領土問題でのいざこざがあったし、一昨年は赤の王国ユルムガルドと
「何故私に訊くんだ。国を統べる輩の考えは私には判らん。それはお前も同じことだろうが」
「年を食っているぶん、私よりも多くのことを知っているだろう」
身も蓋もなく鬼彌が言い、ハーブ酒のグラスに口をつけた神零は嫌な顔をした。自分を若者だなどと思っているわけではないが、いつもは年長者への敬意もクソもないくせに、こういうときだけ年寄り扱いするのはやめてほしい、と胸中に思う。
気分を害していた神零だったが、ふたりの会話を聞きつつ、千切ったパンにりんごのジャムを塗っていた迦楠が、
「戦争か……。また、無関係なひとたちが死ぬのかな?」
ぽつりとこぼしたので、彼に視線を向けた。
「それがいくさというものだ、迦楠。王の、総べるものの決定が国のすべてを動かす。人間たちは、エルフのようには生きられん」
「でも神零、何で悪いことをしていないひとたちが死ななくちゃならないんだろう? 彼らには彼らの大事なものがあって、そのためには絶対に死にたくないはずなのに、どうして王様は、そのひとたちのことを考えてあげないんだろう?」
不思議でたまらない、という表情の彼に、神零は苦笑するしかなかった。
二千数百年を、同族以外の様々な種と交わって生きても、このエルフは未だに純粋なまま――無垢で愚かなままだ。普通のエルフたちとは違い、彼には寿命がないからかもしれない。
彼は、人間たちが持つ醜い泥臭い部分よりもなお、消えることのない美しい部分を信じている。
――その無垢な愚かさを、神零は愛しいと思うけれど。
「だから、目の届かぬ王は罪深い。権力を揮うためにのみ、支配者が存在すると勘違いしている輩と同等にな」
神零は言い、だからといって自分たちに何が出来るということでもない、と胸中に独白する。その国に直接かかわりのない者が、双方の生き死にをどうにかするほどの力を持つとは思わないからだ。
結局のところ、その国に住む人間が、自らの意志で立ち上がらなければどうにもならない。鬼彌の言ではないが、長い時間を生きている分、王の独断によって起こった国と国との戦いを終結させたものが、多くの場合国民たちの意志であったことを神零は知っている。
「そうだね……」
と、呟いた迦楠が、ジャムを塗ったパンを口に運んだときだった。三人の背後に、大きな人影が立ったのは。
粗悪な、きつい酒の匂いがして、神零は顔をしかめる。
「儲け話があるんだが、ひとつ乗らないかい、兄さんたち」
いつまでも聴いていたい、とは到底言い難い声がして、首を傾げた迦楠が後ろを振り返る。神零もやれやれと思いつつ彼に倣った。鬼彌にいたっては、最初から振り向こうとすらしていない。
「そういう話はギルドへ持っていくんだな」
言いながら、声をかけてきた人物、縦も横も異様に大きな男を見上げる。
隆々たる筋肉の、たくましいというよりは獣じみた男で、剥き出しになった腕や首筋、下品なにやけ顔のあちこちに傷跡があった。手には酒瓶を持っている。匂いのきつい、あまり質の良くない安酒だ。
大勢の視線を感じて目をやると、奥の大きなテーブルに陣取った、同等に屈強な二十人ばかりの男たちが、意味深な――品のよくない笑みを浮かべてこちらを見ている。
仕事仲間といったところだろう。当然、人相はよろしくない。
声をかけてきた男は、神零と目が合うと一瞬怯んだが、すぐに気を取り直した様子で、
「そう睨みなさんな、せっかくの美人がだいなしだ。簡単なことなんだぜ? おれたちは今から青の王国に向かうとこなんだ。国王陛下は、屈強な戦士をご所望でね、手柄を立てたものには望みどおりの褒美を出すと仰る」
「それならあんたたちの好きにやってくれ。我々は手柄にも褒美にも興味はない」
「この前の仕事で、結構お金も貯まったしね」
隣から迦楠が合いの手を入れる。神零は苦笑して頷いた。
だが、男が言いたかったのはそのことではなかったらしい。
「そうじゃねえ。何もあんたたちの細腕に、剣を取れなんて言う気はねえよ。実は、国王陛下が所望されている『人材』にはもう一種類あるんだ。特に、そこのエルフさん」
……話が見えてきた気がして、神零は顔をしかめた。そういう話はよそでやってくれと、口に出して言うよりも早く、
「美しい娘、若者を連れてきたものは、恩賞が倍になるのさ。国王陛下のお傍に侍らせる綺麗どころ、ってワケだ。どうだい、美味い話じゃねえか?」
なあ? と、黒エルフに向かって問い掛ける。問われて、エルフは生真面目に考え込み、しばらくののちに顔を上げてちょっと笑った。
「悪いけど、わたしは鬼彌と神零と一緒にいたいから。国王陛下の傍に侍るというのも、ちょっと興味はあるけれどね」
おっとりと、けれどきっぱりと拒絶され、うわべばかりは友好的だった男の顔から、薄っぺらい親しさが消える。
「……力づくで担いでいくのは可哀相だと思って、親切に声をかけてやってるのに、判らねえエルフだな」
要求が通らなかったことが癇に触ったのだろう、理不尽な台詞を吐き、男が酒瓶を逆さにする。――首を傾げて男を見上げていた、黒エルフの頭上で。
「――う、わッ」
ある人物に施された【術】のために、一定の条件を満たさない限り決して戦闘的にはなれないこのエルフには、不意打ちに均しい行為だった。頭から粗悪な酒を被ってしまい、きつい匂いに嫌そうな顔をする。
意識がそちらにそれたところを狙って、男が彼の肩を掴もうとした。そのまま連れて行こうと思ったのだろう。
が。
「ひとの
厳しい声と同時に飛んだのは、手近に置いてあった銅製の置物だ。馬をかたちどったそれが、風を切って、男の側頭部に激突する。
「ぎゃっ」と声を上げてよろめいた男を、眼にもとまらぬ速度で動いた鬼彌の、長い脚が蹴り倒す。
時に人喰い
白目を剥いて気絶した男の姿に、彼の仲間たちが色めきたった。
鬼彌の力量が判らなかったワケでもあるまいに、数を頼みに囲んでしまうつもりなのだろう。全員が、椅子を壊さんばかりの勢いで立ち上がる。
神零は盛大な溜め息をついた。
(結局、こうなるんだな……いやまあ、うん、わかってた)
「鬼彌! わたしは怪我をしたワケじゃないんだ、平気だよ!」
おろおろと、黒エルフが止めようとするが、どうやらかなり激怒しているらしい鬼彌は、聞く耳持たずにつかみかかってきた男たちの群れに突っ込む。
戦闘民族国家フィル=エギロエナでは国王の傍に仕え、その名を近隣諸国へ鳴り響かせたという、一騎当千の彼のことだから、あの程度で怪我をすることはあるまい。
神零は、結局のところいつものことだ、と判断し、出来上がった食事のトレイを抱えて、部屋の隅へ避難したのだった。
* * *
――そして、今に到る、というわけだ。
外にも仲間がいたらしく、揉み合う人間の数は一向に減らない。床に沈む人間は増えているのに、だ。
「……ねえ、神零。そろそろ、放っておくと人死にが出そうだよ。神零なら止められるだろ?」
半分くらいに減った葡萄酒の瓶を抱えて、黒エルフがそう提案する。
「わたしは、こんなところで誰かが死ぬのを見るのはイヤだよ」
「咎のないお前に、理不尽な仕打ちをした人間の、でもか?」
「うん、イヤだ。人間なんて、瞬きするくらいの一瞬でいなくなってしまうんだもの。生きられるうちは一生懸命生きるべきだよ」
「――永遠をゆくブラック・ハイの、それが願いとあらば私は聞き届けよう」
苦笑し、神零は立ち上がる。
人間が何十回何百回も生き死にを繰り返して来たほどの、長い永い時間を生きながら、彼らの愚かしさを嘲ることはなく、ただ人間や生き物を好きで好きでたまらない、この奇妙な黒エルフの願いを叶えるために。
ゆったりした足取りで、喧騒の真っ只中へと近づいてゆくと、こちらに気づいた男が、下品な笑みを浮かべて飛びかかって来ようとする。
人質にでもしようと思ったのだろう。
神零はうっすら笑った。確かに神零は決してたくましくは見えないので、与し易いと思われても仕方がない。が。
「残念ながら、私はそこの大馬鹿たれよりも恐ろしいぞ!」
伸ばされた腕を払い、バランスを崩した男の背後に回り込んで、彼の猪首を
掴み上げる。
ずんぐりした身体つきの、体重でいうなら自分の倍以上はありそうな男、し
かも潰れたような聞き苦しい喚き声を上げて暴れる彼を軽々と持ち上げ、神零は大きく息を吸った。
腹に力をこめ、一言、
「静まれ!」
大音声で言い放つ。
身体つきに似合わぬすさまじい音量に、揉みあっていた人間たちの動きがピ
タリと止まった。
何事かとこちらを見遣った男たちの目が、大して太いとも思えぬ神零の腕に吊るし上げられた仲間の姿を目にして凍りつく。吊るされた男は顔に苦悶の表情を貼り付けたまま、怯えた目で神零を見ていた。
「別に私は、貴様らが死ぬまで争おうと構わないんだが。我が友は、こんなところで命を落とすのは誰であれ間違いだと言う。――貴様らどちらの言い分、どちらの理由も、否定も認めもせん。どっちでも構わんからな。だが、神零=エル=シヴァーティリーの名において言うぞ。今すぐこの馬鹿げた騒ぎを止めろ。さもなくば、『焔なる闇』の名にかけて、私が貴様らを潰してやる」
巨漢といって過言ではない男を軽々と持ち上げ、特に辛そうな様子も見せず、淡々と神零は言う。
この世界では非常に珍しい、深い赤の瞳で一同を睨めまわすと、男たちが息を呑むのが判った。
瞳の色によるあかしと同等に、声の端々に含まれる、本気の色を感じ取ったのだろう。男たちは反論せず、すでにただの伝説とも呼ばれ実存を疑われる傭兵、神零=エル=シヴァーティリーの名を疑うこともなく、ぎくしゃくと姿勢を正した。
深紅の瞳を輝かせる、凶暴ななにものかをみなぎらせた神零に、力で優るものなど今のこの場所にはいない。
(シヴァーティリー……“何ひとつ身に帯びぬ者”。まさか、こんなところに……)
(『
(馬鹿な、あれは伝説に過ぎないと……)
(あれがあの『焔なる闇(エルサイヴァ)』、だと……?)
ざわざわ、ぼそぼそと声が交わされ、やがて潮が引くように、喧騒と熱気が去ってゆく。
戦意を殺がれ、立ち尽くす彼らの姿に、神零はうっすら笑い、首をつかまれたまま身体を強張らせている男をぽいと放り投げた。男は情けない悲鳴を上げて床に沈み、四つん這いのまま仲間たちのもとへ紛れて行った。
神零がひとつ溜め息を吐き、
「……余計な手間をかけさせるな、ロシュネイダ。くそ、こんなところで目立つために傭兵をやってるんじゃないぞ。今度なにか奢らせるからな」
蝿でも追うように手を振り、人の群れを左右に寄せると、その中心では、怪我ひとつなく息すら乱していない、人の子らにおいては戦の寵児とでも呼ぶべき男が、特に悪びれた様子もなくたたずんでいる。群れの中でも頭ひとつ抜きん出た長身は、見事に均整のとれたものだ。
「私とて目立ちたかったワケではないさ。言ってみれば必然だ、いい加減その辺りを判れよ。――だが、騒ぎを止めてもらった恩くらいは感じている。飯代でも酒代でも好きにするがいい」
開けた道を悠然と歩き、そう言って鬼彌は笑った。笑うと案外人懐こい、魅力的な印象を与える男だ。
懲りないヤツめと溜め息を吐き、鬼彌がエルフを呼び寄せて様子を確かめているのを見ながら、神零は腰に巻いた鞄からいくばくかの正規金貨を取り出し、カウンターに置いた。食事代としては多すぎる額だが、迷惑料とすれば少ないだろう。
美味かった、ありがとう……と、どうもこういう騒ぎには慣れているらしいあるじに声をかけてから、
「夕暮れまでにスジュン峠を越えるぞ」
それだけ言って、さっさとドアへ向かい、それをくぐる。
くぐったとき、何者かが、さっと扉の前から離れていったような気がしたのだが、目の前には誰もおらず、気の所為かと首を傾げた。が、敵意や悪意は感じなかったので、特に気にする必要もないかと判断して、神零は背後に続いたふたりを急かす。
「通りすがりに川があれば、そこで迦楠の服を洗ってやろう」
あとはもう何を言うでもなく、背後を気遣うこともなく、さっさと目的の方角を目指して歩き始める。
――これが運命の分かれ道、騒乱への幕開けだったとは、そのときの神零には想像もつかないことだったのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます