ウロボロスの末裔 霧の古都にて

犬井ハク

序.嘆き

 薄影に覆われた広い広いその部屋で、彼はずっとどこともない宙を見つめていた。

 以前は――それは、実を言うとそう遠い昔のことでもないのだが――たくさんの人々が忙しく行き来しては様々な議論をたたかわせ、王宮を護る近衛騎士たちが凛々しくたたずみ、美しく華やかな女官たちの明るい笑い声であふれたこの場所、瑞々しい活気に満ちていたこの部屋は、主人以外の人間を寄せつけなくなって閑散としていた。

 人々はただ息を飲んで、遠くから彼を見守るばかりだ。

 それはつまり今でも彼が人々から愛されているという証しにほかならなかったが、そのことで彼の心が動かされるということはなかった。

 豪奢な細工を施され、青を基調とした装飾品で見事に統一された部屋は、彼が虚ろに囚われてしまった今でも荘厳に美しく、細工や装飾物のひとつひとつに、平民には一生手に出来ないような金がかけられていたが、今の彼にとっては、贅など路傍の石ころ以下の価値しか持たないのだった。

 否、むしろ今の彼は、自分が数十年に渡って腰かけてきたその椅子、遠大な歴史と命と人々の幸いとを預かる偉大なその座にさえ、何の価値も見出せなくなっていたのだ。何十代にも渡って彼の祖が連綿と築き上げてきたその座を、これ以上護ってゆくことが苦痛でたまらなかったのだ。

 第一に――何よりもまず人々のためにあるべき己の心が、どうしようもなくその座から離れたことをもっとも苦しんでいるのは彼自身だったが、正しく務めねばと己を叱咤するたびに、その心は少しずつ病んでいった。

 皺深いが高貴な、理知と忍耐と武勇とを刻み込んだような面に寒々しい虚ろを張りつけ、彼は無を見つめていた。

 かさかさに乾いた唇から、ああ、と溜め息が漏れる。魂を削り取るような、悲痛な嘆息だった。

「何故だ。何故このようなことになったのだ。私は善き者であろうとした。賢明であろうとした。事実、そうであった。それなのに、何故このようなことに。天上におわす貴き方々は、私の何が気に食わぬと仰せなのだ。これ以上何を捧げ、何を整え、何を直せば、私を救うてくださると仰るつもりなのだ」

 ああ、とまた呻いて彼は顔を覆った。

 よわい二十の春にこの座について三十五年、人々の幸いを第一に考え、その営みが平らかであるように、傲慢な強者の手が民草の暮らしを脅かすことのないようにと常に務めてきた。

 無論そのすべてが完璧であったなどと自惚れるつもりはないが、だからといってこんな罰を下されねばならぬほど自分が愚かであったとも思わない。彼の人生のほとんどはこの座とともにあったし、人々の営みとともにあった。人々こそが、彼と彼の統べる土台の持つ宝であり礎だった。

 彼は間違いなく、この座と人々を愛していた。その愛するもののために存在した、懸命で一途な人生だった。

 そんな彼の懸命さは、しかし残酷な運命によって唐突に断ち切られた。

「私はそれほどに罪深い何かを犯したということなのか。天上なる方々は、それを罰しようと仰せなのか。――だが、どれほど苦悩しても、そのような罪には思い当たらぬ。私は確かに賢明であった。善ではなかったかもしれぬ、だが、そうあろうと務めた。この私のどこに、かような罰を下されねばならぬ罪があったと仰るのだ……」

 独白は怨嗟に満ちていたが、同じくらい悲痛で切迫していた。

 もう何ヶ月もまともに眠っていない彼の肉体は疲弊の極みにあり、その魂にはすでに癒し難い亀裂が入っていた。しかし、眠ればもはや戻らぬ昔の夢ばかり観る。愛しく懐かしい――満ち足りて幸福だった過去の夢は、彼の心を少しずつ狂気の色に染めてゆく。

 己が狂ってゆくことを彼は理解していた。緩慢に狂ってゆく己を、自分の中の冷静な一部分が見つめているのだ。

 自分を蝕む狂気の餌となったふたつの感情、すなわち孤独と絶望を癒してくれる、彼を希望と善意に満ちた場所へ連れ戻してくれる存在は、もうどこを探してもいなかった。

 もはや滅びへ向かう己に抗うことも出来ない、いっそ自分のものではないかのような錯覚すら覚える身体と心とを持て余すように、再度彼が嘆きに満ちた溜め息を落としたとき、

「……我が君」

 静かなのに圧倒的存在感を持った美声がひとつ響いた。

 その声が耳に届くと同時に、彼は寒々しく広い、この薄暗い部屋に小さな明りが灯ったような気持ちになる。それは、わずかではあれ今の彼が感じることの出来る数少ない安らぎだった。

 彼は億劫げに首を動かし、声のした方向を見遣った。そして、緊急時の退路として使われる小さな隠し扉から、ひとりの青年が姿を現したのを認めてわずかに唇を歪める。

 そこには、黄金というより光の色をした髪と、鮮やかな空を思わせる目をした、美貌というのも馬鹿馬鹿しいような美貌の青年がいる。滑らかな白皙にほっそりとした長躯の、繊細優美にして神秘的な、中性的な顔立ちの青年だ。

 白い薄絹をふんだんに使った、ゆったりとして雅な衣装を身にまとった青年は、しなやかな両の手に酒器といくばくかの菓子が載った盆を捧げ持ち、背にはリンデと呼ばれる優美なかたちの弦楽器を負っていた。

「楽士殿か」

「はい、我が君。御酒ごしゅと菓子をお持ちいたしました」

「よい。何も要らぬ」

「しかし、それでは陛下のお身体がもちませぬ。どうぞ、一口なりと召し上がってくださいませ」

「今更、身体の心配などして何になる。もはやこの身を待つは死のみぞ」

「……我が君」

 彼の足元にひざまずき、リンデを隣にそっと寝かせた青年が、時に畏怖すら感じさせる青の目を伏せ、哀しげに言ったので、彼は微苦笑を浮かべた。神代の細工物を思わせる青年のこんな表情はひどく様になり、また美しかったが、同時にひどく罪深い気持ちにもなる。

 彼は青年を手招きし、盆を掲げさせると、水晶を削り出して作ったきらきらしい杯を手にする。杯には、とろりとした紅い液体が入っていた。青年が彼のために作った栄養価の高い薬酒だ。

「そなたを困らせようと思ってのことではない、許せ」

 言って杯に口をつける。独特の苦さと甘さが口に広がり、咽喉と胸がじわりと熱くなる。

 青年は盆を掲げたままかすかに首を振り、

「もったいないお言葉にございます」

 そう言って美しい微笑を浮かべた。

 彼は薬酒をぐっと乾すと、現在では唯一身辺に侍ることを許した青年の美しい目を見下ろし、

「なァ。私は一体どのような罪を犯したと言うのだろう、楽士殿。神々は私の何を罰しようとしておられるのだろう。何をどのように償えば、私のこの魂は救われるのだろう。それとも、もはや何をしたところで、この苦しみが癒されることはないのだろうか」

 淡々と――切々と、胸の内を訴えた。

 親子ほども年の離れた青年に何を、と人々は笑うかもしれないが、今の彼にとって青年は唯一、己の真情を吐露できる相手だった。

 数年前にふらりとここを訪れ、素晴らしい腕を披露して、楽士として彼に仕えるようになったこの青年は、この世というものを超越した風情があり、生々しい生の営みとは無縁とすら思えるのだ。そんな、かけひきや権謀術数とは無縁の相手だと感じたからこそ、この正体不明の麗人を怪しむこともなく心を許したのかもしれない。

 彼の、淡々としているがゆえに切実なその言葉に、青年はしばし沈黙していたが、やがてひざまずいたままそっと彼の手を取り、神秘的な青の双眸で彼を見上げた。真摯な表情だった。

「畏れながら、我が君。わたくしはそうは思いませぬ」

 中性的で音楽的な美声が、きっぱりとした意志を伴って青年の口から紡がれる。彼はかすかに首を傾げて青年を見下ろした。

「どういう意味だ?」

「若輩者が差し出口を利きますことをお許しいただけるなら、我が君。わたくしは、あなたさまにお仕えするようになってたかだか三年のひよこではございますが、あなたさまにお仕えしたこの三年間、我が君は道を誤られたことなど一度たりとてございませんでした。天上なるかの方々、いと気高く賢き神々が、あなたさまに罰など下されるはずはございませぬ」

「ならば、過去の罪かも知れぬ。そなたが知らぬ昔の私が、どこかで暗君めいた愚行に走り、このような罰を受けるに相応しい何かを犯したのやも知れぬ」

「いいえ、いいえ我が君!」

 これが何かの罰なのだという意識を拭い去ることが出来ず、彼は自嘲気味に笑ってそうこぼしたが、青年は彼が驚くほど強い口調で言い募った。透けるような白皙をほんのり上気させた青年は、彼が驚きに何度か瞬きをしたことに気づいて目を伏せた。

「……お許しを」

「いや、よい。そなたがそのように言うてくれることが、今の私にとっては安らぎだ。――たとえ、真実がどうであれ」

 謝罪を口にする青年へ、やはりどこか自嘲気味に返した彼を、青年が哀しげに見上げる。青年は敬愛のこもった繊指で彼のごつごつした手を撫で、囁くように言葉を紡いだ。

「わたくしは、直接には過去のあなたさまを存じませぬが、ここにおられる皆さまを見ていればすべてが察せられます。皆、あなたさまを愛しておられます。そのあなたさまが暗君などであるはずがございませぬ」

「だが、罰は下った」

「ですから。わたくしはそれが、何かの啓示ではないかと思うのです」

「――――啓示?」

「はい。いと高き園におわす貴き方々が、あなたさまに何か、とても重大で偉大な何かをなせと命じておいでなのではないかと。すべてはそのための試練なのではないかと思うのです」

「あの忌まわしいすべてが、か。それが、神々が私に課された試練だと申すのか」

「わたくしごとき愚昧の輩に、神々の深慮など量れるはずもございませぬが、そうとでも考えなくてはあなたさまの味わわれた辛苦の説明がつきませぬ。瑕疵なき治世を敷かれた我が君が、このような苦しみを負われる謂れがありませぬ。だとしたら、それは、」

「――――私に何かをなせ、と。その何かとは、何だ?」

 かすかに見えた光にすがるかのごとく、彼が青年を見下ろして問うと、青年は困惑した表情になって首を横に振った。

「わたくしごときには、とても。ですが、これが啓示だというのなら、答えは決して遠くにはないでしょう。じきに、何かの兆候がございましょう」

「――――そうか」

 すべてに納得したわけではなかった。

 今まで懸命に――個人としての自分を押し殺してまで人々のために務めてきた己が、どうして今更このような惨い試練を受けなくてはならないのか、と、叫びだしたいほどの怒りを感じもした。

 けれど起きてしまった惨劇はもはや元には戻らず、凍てつき病んだ彼の魂が元のように頑強な健やかさを取り戻すこともない。

 だからこそ、彼は『試練』という甘い逃げ道にすがりたかったのだ。

 試練なのだから、課された運命なのだから、仕方がないのだと。決して自分が、自分の計り知れない罪を犯したゆえではないのだと。――天より下された罰などではないのだと。

 そう思ってしまいたかったのだ。

 そしてそれを事実と受け止めることが出来る程度には、青年の言葉は真摯で、情熱的な懸命さに満ちていた。青年自身がそう信じているがゆえにだろう、その言葉は何の歪みもなく彼の魂へ染み入り、刻みつけられた。

 あの忌まわしい出来事から数ヶ月、彼はようやく、ほんのわずかな安息を得た。

「――そうか。そうだな……」

 彼は少しだけ笑って、椅子に背を預けた。つい先ほどまではあれほど寒々しく、岩のような硬さを感じさせたそれが、今では数ヶ月前と同じ慣れた感触として感じられる。

 彼が穏やかさを取り戻したことに安堵の表情を浮かべた青年へ、

「何か聴かせてくれ、楽士殿。久々に、そなたのリンデが聴きたい。安らかな心地になれば、啓示も早く訪れるやもしれぬ」

 そう言って彼は目を閉じた。

「……御意に、我が君」

 恭しく、笑みを含んだ声で返した青年が爪弾く、やわらかく優美な音色を静かな心で聴きながら、彼はゆっくりと眠りの淵へ誘われていった。疲弊しきっていた身体と心は、しばらくぶりに訪れた安息を歓喜とともに迎え、泥のような眠りの中に彼を導く。

 まどろみから徐々に深い眠りへと入り込んでゆく途中、誰かが語りかけてきたような気がしたが、すぐに意識は闇に覆われた。安らかな――甘く温かい忘却の闇へと。


 ――……ヲ、……セ。

 ……ンヲ、……ヲ、……ゥカ、セヨ。


 強い強い力のこもった囁きは、とろとろと眠る彼の魂へ、直接に――深々と刻み付けられる。抗うことも出来ないほどに深く強く、彼の魂を絡め取ってゆく。

 壮絶にして深遠なる、純白の悪意を孕み、世界と命のすべてを巻き込む嵐の種となって。

 ――しかし、世界がそのことを知るには、世界がその嵐に震撼するには、まだしばらくの時間が必要となる。



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