ちかてつ

緑茶

ちかてつ

 その日も私は地下鉄の終電に乗っていた。ここ連日、仕事が恐ろしく忙しいので、ある程度の立場に居る自分が残らないわけにはいかなかったのだ。

 というわけで今日もまた、暗闇の中、金属の軋む音を響かせながらひた走る青白い空間の中に居た。


 周囲を見ると、自分と同じように疲れた顔をした者たちが居る。彼らのことを何一つ知らない。死んだように無言なので、まるで座席と一体化して背景に溶け込んでいるようだった。だから、私が彼らに干渉することはないし、その逆も然りだった。


 車内の揺れは緩やかになり始めて、間もなく窓の外にホームが見え始める。私は不意に、帰宅後のことを考えた。

 この時間まで働いた後自分を待っているのは、妻の冷ややかな目線と、真っ暗な食卓。ある意味で仕事以上に神経を使う場面がやってくるのだ。それを思うと、降車するのもなんだか億劫に思えてくる。


 とはいえ、ホームに列車が停まった。そうなれば、降りないわけにはいかない。私は他のまばらな影達と共に、のっそり降車する。

 ホームには明るさが溢れていて、自動音声やら何やらの音がそのまばゆい場所を染めていた。足音と、幾つかの話し声。改札機の音。私もそれらに混ざって、家路につこうと思った。


 すると、一人の男が、一時的な雑踏から離れた場所、ホームの端の部分で、ぽつんと立っているのが見えた。

 既に乗客の集団は改札機の向こう側に吸い込まれているし、列車はもうホームにやってこない。だから、その男の佇まいはとても奇妙に思えた。私は思わず、その男に声をかけた。


「今、終電がここを出ましたよ。ほら、遠ざかっていく音が聞こえるでしょう。そこで何をされているんですか?」


 すると私と同じようなスーツ姿の男は、こちらを見て言った。


「ええ。分かっています。でも私は、ここに居なければならない気がしているんです」


 男の顔にはいかほどの特徴もなかった。あまりにもありふれていて、目をそらせばすぐにでも忘れてしまいそうな、普通がすぎる男だった。そんな彼が、そのような意図の掴めない答えを返してきた。


 私は首をひねって、もう男のことを忘れてホームから出ようとした。

 ……が。そうすることができなかった。男の仕草が、また不可解だったからである。


 男は、脱力したような姿勢で、ホームの端から、その先の暗闇をじっと見つめていた。


 あるのは漆黒と、時折光沢を見せる線路。それから何かの信号のような赤い一つの光。

 それは今私達の居る光に溢れた空間とはあまりにも違う場所。静寂だけがあった。

 男は見つめている。その深奥を見つめている。


「あなたは何を見ているのですか……?」


「分かりません。でもわたしは、あの真っ暗を見続けねばならないんです。何故でしょうね……?」


 男の口調は異様なほど平板で、何の感情も滲んでいなかった。そのまま、暗闇を見つめている。そう――憑かれるように。


 夜よりも暗いその空間を一緒になってぼうっと見ているうちに、私はなんだか気分が悪くなってきた。線路を辿っていって、あの赤い光に向かってしまえば、何か後戻りの出来ない場所に行き着いてしまうような……そんな不安を抱いた。私は不意に、幼い頃図鑑かなにかで見た、底なしの沼の白黒写真を思い出していた。


「ねえ。あなたもここを抜けたほうがいいですよ。気持ちのいいものではありません」


 だが彼は返事をしなかった。目を見開いて、その先を見つめている。

 私は余計に気味の悪さを感じて、いよいよ身を翻した。

 すると彼は、不意に私に声をかけた。


「いいんですか? そのまま戻ってしまって」


 随分と大きく、よく通る声だった。思わず立ち止まり、振り返る。

 すると彼は――。

 顔だけをぐるりとこちらに回して、貼り付いた能面のまま、私にこう言った。


「あなた、きっと――


 私の背中に冷たいものが通り抜けると、間もなく頭の中から思考が吹っ飛んだ。答えとしての言葉を全て失って、今すぐこの場を離れなければという衝動だけが私を支配した。私は踵を返して、目の端に見える改札機へと向かおうとした。

 すると男は突然ホームの端から柵を乗り越えて、その向こう側へと走り出した。


 止める暇はなかった。男はまもなく暗黒の中に飲み込まれていって見えなくなった。そして次の瞬間に、ホームの端から明かりが消え始めた。漆黒が自分を追いかけてきた。既にその空間からすべての音が消えていた。何の音もなかった。何も、何も。


 私はひたすらに走った。明かりは次々消えていく。そしてとうとう、改札機にたどり着く。私は安堵して改札を抜けた。


 ――とてつもない絶叫が、暗闇の中から聞こえた。あの男の叫びだった。

 それは余韻として改札の向こう側にとどまり続けていて、ひとつの環境音となって響いている。私は全てを振り切るようにして、誰も居なくなった真っ暗な駅を抜けて、家路を急いだ。


 結局、男があの時何を見ていたのかはわからない。

 しかし今でも瞼の裏に焼き付いているのは、あの暗闇だ。小さな赤い光だけがチカチカと見える、あの暗闇だ。どこまでも続いていそうな、底なしの闇。

 だから私は思う。彼はきっと、魅入られてしまっていたのだ。取り憑かれてしまっていたのだ。



 ――その先に居る、『なにか』に。

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ちかてつ 緑茶 @wangd1

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