緋の神舞

 誰かが細い悲鳴をあげる。肌を襲ったうす寒さに、イーファルージは目を覚ました。

 やせて赤みをおびた月は影絵の樹林に身を投げかけており、藍に染まった草木たちが不穏な海風に身をゆらしている。寝台のくぼみは、かすかに残るぬくもりで傍らに眠る緋蓮がいたと触れた王の手に伝えた。

 日神ティーダが光を投げるまでにはまだ随分と遠いものを、と不審を覚えて起き上がる。

 剣を腰に、夢うつつの記憶を頼って、惹かれるように花庭ワランの奥へ。足を進めて夜をたどるうち、風にかすかな香りがまじった。

 ふたたび上がる細い悲鳴。耳にしたのは夢ではなかったとイーファルージは確信する。

 絶え絶えの、咳鳴に似た苦痛の呻き。見やった先の濃い闇の中、ぼうと浮かび上がったのは、

「ラージャニカ?」

 緋蓮よ、何をしているのか、と言葉を途中で飲み込んだのは、異様な姿に気付いたせいだ。ただ赤く妖しく咲く花のように、噴き上がるあかに染まるきぬ。あらわな胸に短剣をつき立てられて転がるあれは夜番に立っていた侍女だ。ひくつく女のその身体に片足をかけて立つ緋蓮。繊手が掲げ持っているのは、えぐり出されてなお脈打つ、しとどに濡れた赤い塊。

 あら、と小首をかしげるさまは、かつて蕾蓮カラジャと呼ばれたころから今も変わらぬ愛らしさだ。

「お目を覚まさせるつもりはございませんでしたのに」

 凍りつく王の眼前、舞姫はくるりと旋回する。まるで絡めとるように。ただそれだけでも夢幻まぼろしを生む、目も眩むほどのあでやかさ。むせかえる甘い花のに、狩りの獲物を仕留めたと同じ独特のが入り混じる。

「あせりましたわ、ほんとうに。早く緋衣ナグーを捧げなければ、明日の神舞は舞えませぬのに。王ときたら、わたくしをなかなか離してくださらぬのですもの。でも良かった、間に合いましたわ」

 ラージャニカは、手のひらの上でいまだ脈打つものに、うっとりと指を這わせて笑んだ。

カジャ女神スーサリへの捧げもの」

「そなたは……」と、王は粘つく舌を動かし、ようやく声を絞り出す。

 このつき、花蓮舞が舞われたのが三度。青銅琴クンガルの弾き手が消えたのも三度。それがあらわすところは、つまり。

「これまで、ずっと……?」

 ふわり、またもや舞いながら、ラージャニカが視線をよこす。化粧なき素顔のままであってすら、歓喜神ヤガーシャが腕に抱く花嫁の如き妖艶さ。

カジャ女神スーサリのまとう衣は、血と歓喜で染めたもの。花蓮舞の舞手ならば、夢幻をつむぎ舞うために緋衣ナグーを捧げ続けなくては」

 これは誰か。誰なのか、とイーファルージは戦慄する。女神の如く血衣ナグーをまとい、えんと笑ったラージャニカは、もはや人であるとは見えぬ。沼地を埋める大輪の妖しき緋蓮そのものだ。

 これは魔女ザウラだ。彼は気付いた。神舞の舞手ラージャニカ。人を惑わせ国を滅ぼす、恐ろしき花、亡国の緋蓮ザウラ。『花蓮舞の舞姫は、不吉をはこぶと思われませぬか』己が捨てた知恵ラチャトウニは、事態を案じ言ったではないか。

 放ってはおけぬ、この魔女を。腰の剣に手をかける。イーファルージは王ゆえに、ただちに魔女ザウラを切って捨てて、禍の根を絶たねばならぬ。

 ああ、けれど。と渦巻く心中訴える声。

 国滅ぼすとわかっていても。

 花蓮舞が見たいのだ。胸焦がす神舞クルシュニカがつむぐ、夢幻の緋蓮が見たいのだ。

 ふわり、緋蓮の大輪が、焦がれる胸に根付いてひらく。あらがえぬほどに鮮やかに、咲きほこり深く絡み付いて。

「舞え」

 と、王は命じた。

「舞え」

 ただ一言。緋蓮の化身に。

 いく度もいく度も。

 いく夜もいく夜も。

 王宮に住まう者たちを切り捨てては、イーファルージは緋蓮に命じる。女神に血衣ナグーを捧げるたびに、花蓮舞を舞うたびに、舞姫の舞は冴えわたり、むせかえるほどの妖艶さを、あらがえぬほどの美しさを、いや増しに増していくばかり――。


 やがて王宮が空になり、ラージャニカとただ二人、彼が花庭ワランで向かい合った時。


 カジャニリを包みこむ、ときの声がわきあがった。



                 ***



 からまる蔓草を引きはがし、歳月にもろくなった表面を傷つけぬよう注意しながら、こびり付いた苔と土をヘラと刷毛で取り除く。むき出しになった石の壁に彫られている画は、ひとつひとつが大人の腕の長さほどある大きなものだ。

 細部は繊細でありながら力強くもある、特徴的な美しさの古い時代の彫刻。キルハ・ラチャトマナは、現われたものを指先でそっと確かめるようにたどり、それらが意味するところをゆっくりと読み解いていく。

「かくてカジャン藩王国エルドは滅び、カジャ女神スーサリに捧げる舞は、以後『緋の神舞クルシュニカ』と呼ばれ禁じられることとなった」

 それはいにしえの語り舞を彫ったもの。いくつかの伝承の元となる古代王国の史料である。ラチャトマナの求めるものとは異なるが、貴重なものであることに変わりはない。

「キルハ、探していた浮き彫りは見つかったか?」

 荷役夫たちとの相談が終わったのか、樹林の湿度に汗をぬぐいつつヤナヒがやってきた。今回の調査も彼無しでは実現しなかっただろう。ヤナヒ・コーダベインは、ラチャトマナにとっては親友であるが、同時に、必要な資材の調達から現地との交渉までを一手に引き受けてくれている、この調査隊にとってかけがえのない人物でもある。

「いや、今回ぼくが探していたものじゃない」

 ラチャトマナは肩越しにふり返り、彼に答える。

「でも、代わりにちょっと面白い物を見つけたよ」

「面白いもの?」

「これさ」

 ラチャトマナが示した先を、ヤナヒは素直に覗き込んだ。

「花蓮、と……、これは絡め取られた男か? 変わった彫刻だな」

「『緋蓮に狂うイーファルージ』だよ。男性の装飾部分、王族の腕輪と冠、それに剣が見えるだろう? カジャン藩王国エルドの王だね」

「カジャン藩王国エルドの王?」

 そう、とラチャトマナはうなずく。

「緋蓮の魔女ザウラに狂って血の饗宴を繰り返した暴君。最後は難を逃れた王妃ファルトマとファルトマの母国ハマン藩王国エルドに攻め入られて国ごと滅びたっていう、伝説の王様なんだ」

「へええ。つまり、歴史の埋もれた証拠ってやつになるわけか。……しかし、いつもながら詳しいな、俺の隊長どのはさ」

「そうでもないよ」

 感心する友人へ向けて、ラチャトマナは肩をすくめた。

「ぼくもまだ、知らないことだらけだから」

 言いながら、背嚢から筆記具を取り出し、模写にかかる。

神舞クルシュニカ舞手トマウリたちは、ぼくの祖母の時代に絶えてしまっているから。何かを知りたければ、こうしてひとつひとつ手がかりになりそうなものを追って探していくしかない」

「この国の失われた神舞を取りもどすためにも、って?」

「そう。ぼくの目標」

「何度聞いても気の遠くなる話だよ」

 肩をすくめる友人に、ラチャ継ぎ手トマナの名を持つ若者は、ほほ笑んで言う。

「死ぬまでには終えてみせるよ、必ず。手伝ってくれる?」

「はいはい。お付き合いしますとも、隊長どの」

 笑い声が上がり、紙の上をよどみなく筆記具が走る。そうして失われた舞の所作が、次々と写しとられていく。



 かつて、王はただ一言、娘に『舞え』と命じた。

 娘は舞い、その舞は禁舞となった。




 ――今は忘れられた、いにしえの物語である。

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緋のクルシュニカ 若生竜夜 @kusfune

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