知恵の実の王妃

 海より深い蒼穹に、アグララが舞い雨を呼ぶ。雷と雨に洗われ潤う山野が、いきいきと歌をうたいだす、恵みの季節の到来だ。

 香米を蓮の葉に包み蒸したもの、花籠に山と盛りあげた果実や折った椰子葉に蘭を挿した麗しい円飾り。それらをいくつも祭壇に捧げて、カジャニリでは連夜の宴。カジャン藩王国エルドに住む者たちは、日ごと定まる神を祀り、水のめぐみに日々過ごすのだ。

青銅琴クンガルの弾き手がおりませぬ」

 宴に侍り舞うように命じられたラージャニカが、訴えたのは日の翳るころだ。今宵彼女がまとうのは、蓮糸を織った黄色いきぬに蝶のうろこを繍した。黒真珠の目にほどこした青と白の縁化粧で、いにしえ語りの森に住む魔女ザウラを模した舞仕度は、凄みをおびて美しい。

「またか」と王は顔をしかめた。ラージャニカが花庭ワランへ入りわずかつき。神舞の絶技に腕を羞じて奏者が姿を消したのは、これで既に三度目だ。

「我が緋蓮の舞姫よ、代わりをつけてやりたいが、そなたの腕に見合うほどの者、すぐにはとうていいだせぬ」

「王はわたくしに恥をかけとおっしゃる?」

 黒真珠の目が冷えて彼をねめつける。神舞クルシュニカの舞手が公の場で伴奏無しに舞うことは、この上もない恥辱であるのだ。

「何を愚かな。この俺が、そのような仕打ちをするものか」

「では、どうか」

 乞われはしても、と渋面のイーファルージに向けられたのは、弦月のごとくつりあがるラージャニカの紅き唇だ。

「王はお忘れでいらっしゃる」

「なに?」

「名手が近くにおられることを」

 誰のことかと怪訝に思うイーファルージに、緋蓮の舞姫は、知恵ラチャトウニのほまれ高き王妃のことだとさらりと告げた。

「ファルトマ様は、藩王国エルド屈指の青銅琴クンガルの名手であられますもの」

 かつて琴楽のともうたわれたファルトマならば、ラージャニカの舞に合わせて奏でることも易きはずだ。王なら命ずればよいのだと、緋蓮はほほ笑みそそのかす。


 くだんの王妃ファルトマは、雨に濡れた花のよう。蜜を薄めた色の肌、三日月形の眉の下で椰子殻色の細い目が寂しげな色をいつもたたえている。それを好んだころもあったと、イーファルージは遠く記憶をふり返る。今では緋蓮のあでやかさには、到底かなわぬと思うのだ。

 青銅琴クンガルの奏を命じたところ、ファルトマはしばし黙して口をひらいた。

「ジャヤンバマン王の掌中の珠とうたわれたをご存じでしょうか?」

 憂いをおびた細い目が、イーファルージをひたむきに見つめる。愛情深いこの妃は、いまだ彼に心を寄せているのだ。

「知っているさ」と王は答える。「『宝珠の』のヤガシだろう」

 歓喜神ヤガーシャの祭りに集う百に余る舞手の姫は、いずれも名高き名手ぞろいだ。競い咲かせた美貌と技で、大祭にしのび紛れる王たちの寵姫となってうたわれた者も少なくない数である。宝珠の舞姫はその一人だ。名高き宝珠のチャガンククルカヤ。いにしえ、隣島ワシュクの国で、王と王子に同時に寵され、最期は王子とワシュリへ消えた、花蓮舞の名手である。

「宝珠の舞姫は憐れだが、それに何の関わりが?」

 思慮深き年かさの王妃は、愛しき王に添うように、代赭の腕に手をかける。

「花蓮舞の舞姫は、不吉を運ぶと思われませぬか」

「くだらん」と吐き捨て、イーファルージはその手を払った。

「ねたみ故か、ファルトマよ。賢き姫よ知恵ラチャトウニよとうたわれたお前も、しょせんはただの女だったか」

「そのような」

 嘲りを受け、ファルトマの顔が青ざめた。ハマン藩王国エルドの王女の出なれば、侮辱を受けたことなどは、きっとこれまでなかっただろう。

「いかな王のお言葉とて、かようなあなどりは耐えられませぬ」

「ならばけ。その手でごと青銅琴クンガルき、緋蓮の舞姫を舞わせてみせよ」

 王の心を占めるのは、ラージャニカの神舞クルシュニカばかり。あわれと思うこともなく、彼は冷えた眼差しで、王妃をなげきへ突き落とした。


 松明の火が赤く照った。

 細くあがる悲鳴のような青銅琴クンガルの楽に乗り、魔女ザウラの幻が立ちあがる。ひとり舞の悪神バヤン・語りタガン。蝶のうろこを持つ魔女ザウラが妙なる美女に化生して、善なる王子をまどわせる。

 腰を低く地に沿うように、じりじりと動く足さばき。身を伏せていたラージャニカが、蔓のように伸びあがる。いにしえ語りから抜け出した妖しき魔女ザウラの幻が、あたりを吞みこみ染めあげていく。

 緋蓮舞う。青銅琴クンガルが追う。魔女ザウラの幻がしなだれかかる。緋蓮笑む。青銅琴クンガルが泣く。幻が人にからみつく。

 ほこり故の苦悩で青ざめ、楽を奏でるファルトマ妃。彼女へ集まる同情の目は、舞の神技に色を変え、緋蓮のへおぼれて消える。

 やがて果てたる王子を腕に、勝利の視線を投げかける魔女ザウラ。幻去った後に立ち、つややかに笑む緋蓮へ向けて、王は微笑みうなずき返す。舞の余韻冷めぬ中、打ちひしがれたファルトマが、耐えきれず一人広間を去った。

 緋蓮をはべらせ梔子パルチャ酒をあおるイーファルージは上機嫌だ。心を浮き立たせるものは、喉をすべるかぐわしきとさきほどの余韻ばかりではない。明日の祭りはカジャ女神スーサリだ。月に一度回り来る番。奉じられるは花蓮舞。

「久方ぶりの花蓮舞、そなたが奉ず舞の技を、明日は存分に楽しもう。心して舞え、我が緋蓮よ」

「仰せのままに、わたくしの王」

 蓮の舞手はささやいて、今宵も王に手折られる。

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