緋のクルシュニカ
若生竜夜
蕾蓮の舞姫
王はただ一言、娘に『舞え』と命じた。
*
五年に一度の大祭にわく
屋台からただよう甘い
洞に落ちる雫のくぐもりに似た
「あれは誰だ」
イーファルージはまだあどけなさを残す舞姫を指して、かたわらで酒の
イーファルージが目にとめた幻を紡ぐ主は、朝のはじめの光に触れて、ようよう咲き初めそうな少女だ。
「ムルビダ、あの蕾のような舞手の名は?」
「どの
しこたま屋台で仕入れた酒で顔を赤く染めた従者は、人々の頭越し伸びあがるようにして舞台をながめる。
「ははあ、あの
高く結った黒髪の上で花ゆらす銀冠を見つめ、記憶の中をさらえるように従者は酔った目をまたたいた。
「このたび初の舞姫と見えますが、はて、
「ヨーナン
かたわらで同じようにつま先立って舞台を見物していた客が、口をはさんだ。
「
ほう、とイーファルージがもらしたのは、感嘆だ。
「
「いささかまだ幼のうございますが、お気に召されましたので?」
踵を下ろしたムルビダが、イーファルージの顔色をうかがった。彼の意向次第では、あの少女に王の
「ああ気にいった、あの舞が」
イーファルージは目を細めた。大祭で遠くながめるだけでは、惜しい舞だと思うのだ。王子のころ、初めて白鷹の献上を受けたときのような高揚に、胸が今躍っている。
「良い舞手だ。まだ後ろ盾がないのなら、俺が寵を与えてやろう。
敷きつめられた蓮の白花を小さな足が踏むたびに、花芯にそっとしのばされた
棕櫚葉の落とす影の下、ラージャニカが膝を折った。蓮の
「舞手ラージャニカ、お召しにより上りました、王よ」
小さな鳥のさえずりに似た愛らしい声が、イーファルージの胸をくすぐる。今日の少女は髪をほぐし、摘みたての緋蓮を耳の後ろに簪のように飾っている。イーファルージは目を細める。ムルビダか、侍女頭あたりのさしがねででもあったのか、ラージャニカの紅と青を眼尻に入れる化粧は、まるで
「いかような仰せをたまわりましょう、藩王イーファルージ様」
長い睫毛が持ちあがり、黒真珠のような目が、琥珀色の肌の中でつややかに濡れ光る。間近で見れば見るほどに、まことに蓮の蕾のようだ。
あまくほほ笑む舞姫へ、イーファルージは笑み返した。
「そなたの舞を所望する、
存分に舞うさまを、間近でながめて暮すのだ。焦がれる緋蓮の幻影に、彼の心臓は躍りだす。
「できませぬ」
そうきっぱりと響いた声は、笑みむすぶ愛らしい唇から放たれたものだった。鋭い刃にたち切られ、流れる緋蓮の幻が散る。何、と王は眉をあげた。
「ただ人のために舞うことは、わたくしにはできませぬ」
「カジャン
見据える若き王の気迫は、怒りに猛る樹林の
「いいえ」と、臆さぬ舞姫は、やわらかく首を振った。
「
「舞わねば首を落とされるとあってもか」
イーファルージの代赭の手が、腰の剣の柄にかかった。
「人に乞われて舞うならば、
首を落とさば落とせというように、花蓮舞の名手の姫は、深々と頭をたれる。
「他の舞なら舞いますれば、どうぞ、王にはご容赦を……」
鈍い光がほとばしる。抜き身の剣を床へ突き立て、王は静かに恫喝する。
「ならば舞え、今ここで。別の舞を舞ってみよ。花蓮舞と同じほど
「仰せのままに、藩王様」
優美きわまる一礼の後、蕾蓮の舞姫は、
白き
小きざみに舞踏むラージャニカの、天地を指してしなる腕。轟いてあふれ出した幻は、炎吐き出すアグンラ山だ。
魅了の瞳を王へ向け、くるりと
たわむれ飽きた神鳥は、麗々しき翼をはばたかせて、青くしげる樹林から蒼穹へ離れ行く。
行くな、アグララよ、舞い戻れ――。
思わず伸ばした代赭の手が、捕まえたのは蕾蓮だ。
「もう、よい」と、王はかすれて張り付く声を渇く喉からしぼり出した。
「もう、よい。ゆるす。ラージャニカ、そなたの舞を、以後我が
「仰せのままに、わたくしの王」
蓮の吐息はささやいて、彼の前にみずから折れた。
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