4.5

 公園を出て、改めて事務所に戻る。それは橘深雪と別れてから、事務所に戻るよう連絡があったためだ。

僕にそうやって命令を下す人間は石郷岡さんともう一人しかいない。

そして石郷岡さんは既に帰宅しているので、もう一人からの連絡だ。

「至急、戻れたし。報告をせい」

 非常に短い文面だけで、差し出し人が分かる。

「もっと凝った文面もいいんじゃないですか?」

「伝われば十分だろう」

 事務所に入ると、その人がいた。長身痩躯。真っ直ぐな髪が印象的だ。この事務所の持ち主にして、僕の雇い主。

吊院さんは窓から差し込む夕暮れの日差しを背に、アンティークチェアに座って僕を出迎えた。

「それで、今回どうだったの?」

 吊院さんは端的に問う。どうだった?どんな答えを求めているか分からない。

「万事つつがなく任務完了しました」

「石郷岡を怒らせて?」

 僕の行動は吊院さんに筒抜けなのだろう。石郷岡さんには怒るというか全く別種の感情を持たれたと思ったが、吊院さんにしてみれば怒ったのと変わらないのか。

「確かにちょっと、僕が勝手をしましたからね。怒られても仕方がありませんよ」

「ちょっとね。確かに依頼を途中で放り投げて、自分の性欲を満たすために、どこの誰とも知らない奴に依頼人を襲わせたくらい、ちょっとってところね」

 吊院さんはどこまで本当に思っているのか、彼女にとっては本当に僕の行動など些細なことなのかも知れない。

 そして僕は、初めから気になっていたことを尋ねる。

「吊院さん。僕と石郷岡さんが衝突するように依頼を受けさせましたね」

 僕が受けた依頼、そして石郷岡さんが受けた依頼。これらは『青い一日』を出版させる、出版を妨害するという、相反する依頼だった。

そしてこれらの依頼を誰に割り振るか決めたのは、この眼の前にいる吊院さんだ。そこに何か、狙いが合ったような気がしている。

「石郷岡と能村のどちらが優秀なのか、気になっていただけ。結果は予想外だったけどな」

 僕も石郷岡さんも依頼を完遂したとは言い難い。石郷岡さんは早々に依頼内容の妥協案を提示した。僕は依頼を途中で放棄して私欲に走った。

試験であればどちらも赤点だろう。

「二人とも、依頼人を満足させた。私はどちらが失敗すると思ってたから、期待以上の成果よ」

 予想外のお言葉だ。

「でも、石郷岡との仲は決定的になったみたいだな」

「それは、遅かれ早かれってやつですよ。僕の性根なんて、吊院さんが何かしなくてもそのうちバレていましたよ」

 それはそうかもね、と吊院さんは笑った。

「あとこれは、今回の報酬」

 そして吊院さんは手元から封筒を取り出す。黙って受け取ると、金銭ではなく折りたたまれた紙が入っていた。

紙を広げると、報告書と先頭に書かれている。

「これは?」

「能村に関しての報告書。欲しいかと思って」

 僕に関して?何が書かれているのだろう。僕には想像もつかない。

「あなたが何で首絞めに拘るのか。これで少しは分かるんじゃない?」

 報告書には、能村綾香死亡状況報告書と書かれている。能村綾香。あまりに久しぶり過ぎて、思い出せない名前だ。

声に出して呼んだことはない。おねえちゃん、と呼んでいたから。

「お前の姉が死んだ時のこと、お前は覚えてないだろ。石郷岡から報告を聞いた時にピンと来たから、用意しておいたよ」

 石郷岡さんが僕のことを報告してから、半日も経っていない。短時間で用意するのは不可能なはずだから、吊院さんは予め用意していたのだろう。

「ゆっくり読むなら、家に持って帰れよ」

「ええ、少しだけ」

 おねえちゃんが何で死んだのか。それは僕の朧気な記憶ではもう思い出せない。いや、思い出したくない。

「知らなかったよ。第一発見者はお前だったんだな。能村綾香の殺害現場」

 だが、書面でつきつけられると、認めざるを得ない。僕の記憶。どうやって死んだのか。

 少しだけ斜め読みすると、段々と思い出してくる。いつも二人で何をしていたのか。僕がその二人を見て、どうなったのか。

 達晃くんがおねえちゃんの首を締めて、その命を絶命させたとき、僕は初めて精通したのだ。いつも、おねえちゃんと達晃くんは、お互いに愛し合っていた。

それを知っていたけれど、僕は勇気が無くて、見ちゃいけないものだと自分の心を誤魔化していた。けれど、思い切って、子ども部屋の扉から、二人を覗いたあの日。あの日が決定的な日だったのだ。

二人の姿を見て、それが一番愛しい人の姿だって、僕の心の一番深い部分に刻まれてしまった。

「始まり方を間違えた奴ってのは、何時までも間違え続けるんだよな」

 吊院さんは僕のことを分かっているのだろう。そう、簡単なこと。一番初めに一番愛しいと思ったことを、ただ、追い求めた。

「ありがとうございます。僕はこれで、僕について理解出来た気がします」

「そりゃ良かった。じゃあ、話はこれだけだ」

 そう言って吊院さんは僕との話を切り上げる。だが、僕には一つ、どうしても確かめたいことが、いや、お願いがあった。

「吊院さん」

「あ?」

「僕に首を締められてくれませんか?」

 吊院さんは一瞬、僕を見る目が厳しくなった。ああ、やっぱり断られる。

「いいよ。来なよ」

 意外なことに、承諾を得ることが出来た。僕は吊院さんと僕の間にあるテーブルを回りこみ、目の前に行く。

椅子に座る吊院さんの切れ長の目が、僕の目と交わる。意を決し、吊院さんの細い首を包み込む様に手を伸ばした。

ひやりとした彼女の体温が、僕の掌に伝わる。だが、身体には橘深雪のときのような興奮は宿らない。力を込めると、どうなるのだろうか。

 期待のままに力を込めようとしたところ、吊院さんの両腕が僕に伸びた。吊院さんの首を握る僕の両手は外れ、逆に吊院さんの両手が僕の首を掴んだ。

「誰がお前に締められてやるか!このド変態が!!」

 そして僕の首に力が込められる。瞬間、意識が遠のき、視界が暗やみに覆われる。気絶するのだ、そう思った矢先、自分の身体に、下腹部に熱が篭っていることに気が付いた。

僕はこれでも、興奮するのか。これは予想外だ。

 薄らいでいく意識の中、僕は決意を新たにする。やはり僕は、僕の探求を続けなければならない。すべてが分かったら、君の元へ帰るよ。

どうすれば愛せるか分かったら、胸を張って恋人になろう、文緒。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遅効性エゴイスティック @waritomu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る