4.4

 夏の暑さが少しだけ穏やかになった午後五時頃、大学病院近くの大きな公園まで来た。

時刻は夕方だが公園には人が多く、芝生でバドミントンに興じるカップルや弦楽器を引く男性などが目に付く。

 僕は彼らを視界に納めながら、大きな木の影になっているベンチに座って、人を待っていた。どうしても確認しておきたいことがある。

僕の唐突なお願いに答えてくれたのは、彼女の優しさか。

「お待たせ」

「ええ、お待ちしていました」

 橘深雪は柔らかに笑って、僕の隣に座った。

「もう、入院はいいの?」

「もっと居ろって医者には言われましたけどね。僕は医者と病院ってのがどうも嫌いで」

 そうなの、と答えた切り、橘深雪は口を開かなかった。僕の口から話題が出るのを待っているという風でもない。

視線の先を追うと、バドミントンをしていたカップルが居た。動くのに疲れたのか、芝生に座って話をしている。

「ねえ、事件のこと?」

 橘深雪はしばらくの間の後、口を開いた。

「はい。そうです。どうしても確認したくて」

 僕も彼女に合わせて、ゆっくりとした口調になる。だから、次の言葉もゆっくりと、しっかり彼女に届くように口にした。

「あの夜、橘さんは起きていましたね」

「うん、起きてた」

「怖かったから?」

「そうね。怖くて、気絶したふりをしてた」

「じゃあ、知ってたんですね?」

 僕の問に、橘深雪は頷く。確かめたかったことはこれだけだ。

 あの夜、フード男が橘深雪の首を締めているのを見つけた時、フード男は始め、僕をから逃げようとした。だが、僕は彼を引き止め、彼の目的を聞き出した。

『青い一日』の出版をなかったことにしたい。書いている人間を襲う。次は、岩永あかねを、襲う。

 この言葉を聞いた後、僕はフード男にユニットバスに隠れるよう指示し、殴られた振りをするために、床で寝た。その際、一応ではあるが、橘深雪の容態を見た。

素人目ではあるが、彼女はただ眠っているように見えた。だから、安心して眠ることが出来たのだ。だが思い返してみれば、あの状況で眠ることなどあるのだろうか?

「何時、気が付いたの?」

「確信したのは、あなたの病室から僕と岩永さん達が出て行くときです。橘さんは、確かこう言いましたよね。光昭に、怪我をさせないでね」

「うん、合ってるよ」

 この言葉が、僕に確信させた。彼女と岩永あかねと、作木光昭の関係を考えると、自然と思い至った。

「橘さん、あなたは、僕とフード男が岩永さんを襲うと知っていて黙っていましたね?」

 橘深雪は頷き、笑う。バレてたか、そう言わんばかりの照れ笑いだ。

「だから、光昭は、と言った。あなたにとって岩永さんは怪我をしても良かった。いや、いっそ」

「うん、そうだね」

 橘深雪は僕の言葉を遮って、肯定した。

「わたしは、あかねに居なくなって欲しかった。光昭を返して欲しかった」

 そうやってはっきり口にする橘深雪は、なにか憑き物が落ちたような、どこか爽やかな印象を受けた。

「あの、岩永さんたちは?」

「付き合うって。本が出たら、本格的に。昨日、報告されたんだ」

 彼女の憑き物が落ちた理由はこれか。

「勝ち誇るでもなく、同情の想いを向けるでもなく。二人から、淡々と言われた」

 失恋の現実に、心が追いついていない。僕もそうだった。精神に、身体は追随する。精神が追いつかなければ、身体は反応しない。

「泣きたいはずなのに、泣けないのよね」

「また、二人で飲みに行きますか?」

 僕は、僕らしくない気を遣った。今の彼女がそれを望んでいるとは思えなかったが、そんな言葉しか、慰めのために出てこなかった。

「ええ、今度ね」

 夏の夕方の木々を背に、橘深雪は柔らかく笑った。その笑顔に、僕はあの光景が重なった。

そして僕は懲りずに、彼女にお願いをする。慰めるとか、気遣うとかじゃない、僕のための願いだ。

「嫌よ。もうあんなの、二度とごめんよ」

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