この物語は、仮想の小説「炊飯器の恋とイワシの頭」のあとがきである。
多くのあとがきがそうであるように、物語のあらすじとファクターの分解に重きを置き、難解にしてナンセンスな本書の読解を試みている。
私は「炊飯器の恋とイワシの頭」を読んだことはないが、本あとがきから感じたことから、本書の読解に挑んでみようと思う。
まずは主人公。花柄のついた炊飯器という時代めいたモノだ。これは電気炊飯器が家庭における普遍的地位を獲得した70年代の特徴だ。当時は男性と女性の家庭的役割は分離され、台所仕事と言えば主婦の領分であった。花柄は、そのような奥様たちのお気に召すように施されたマーケティングの結果である(同じく当時の電気ポットも花柄模様が多かった)。この花柄が消された理由は、その後の男女雇用機会均等法の制定、そしてフェミニズムの躍進という事柄があったからだ。すなわち「男子も厨房に立て」というパラダイムシフトにより、炊飯器の花柄は消えていったのである(同時にこの運動は、亭主関白という言葉を死語へと追い落とした)。
このような時代背景を整理すると、他の登場人物である無機的なオブジェクトにも記号的意味が感じ取れる。ほつれ取れたカーディガンのボタンは裁縫をしなくなった女性の家庭的堕落を忌む男性のイメージであり、炊飯器と惰性的に肉体関係を続けるしゃもじは性的な堕落を意味する。
対して積み重ねられた夕刊は社会変革の象徴で、ウミネコから吐かれたオタマジャクシは幼児性からの脱却を意味するものであろう。
そして本作のヒロインである「頭の縁から飛び出た中骨が床を擦り、顔を顰めるイワシの頭」は高度消費社会となりつつある現社会への警告、もしくは皮肉ともとらえられる。
こう考えると、なぜカーディガンのボタンがイワシに恋い焦がれ、花柄の炊飯器の恋路を邪魔しようとしたのかが分かる。すなわちカーディガンは人間からの愛を求めているのだ。
花柄炊飯器が台所の主役であったころは、服がほつれたり、ボタンがとれかかっていれば裁縫道具を持ち出して修繕したものである。だがファストファッションが主流となった現在では、服飾品はその機能や外見が欠損すれば捨てられる運命にある。ボタンに人格があれば、「まだまだやれる」と言うかもしれない。だが人はボタンの気持ちなど分からない。ゆえにカーディガンのボタンは、捨てられたイワシの頭にシンパシーを感じ、それはやがて恋へと変わっていったのであろう。
もしかしたら花柄の炊飯器がイワシの頭に恋したのも、同様の心理が働いていたかもしれない。
すなわち「炊飯器の恋とイワシの頭」とは、消費社会への皮肉と、花柄家電があこがれであった時代へのノスタルジーを、無機的な登場人物たちにのせて描いた作品であろうと思われる。その難解な作品に的確なあとがきを添えた氏の思索に敬意を表したい。