七田の日常

@5689

第1話

「ぬう・・・・・・」


太陽はさんさんと照り付け、湿度も上がり、現代における地獄なのではないかと錯覚することすらあるこの夏。温度も実に30度を優に超えるであろう教室という名のサウナにて、学校一の変人と名高い七田高人ななだたかひとは市立個子ヶ谷中学校にて一人、悩んでいた。

 何に悩んでいるか。この暑さを乗り切る方法ではない。彼は暑さにそう頓着する人間ではないのだ。彼女の作り方でもない。彼は自分についてこれる人間などそうはいないこと自体、解っているからだ。では何に悩んでいるか。至極簡単な話である。そう——————

 今日のおやつは何にするか、である。

 彼にとっておやつとは、在れば食べる無ければ買ってくる程度の、そこまで重要な物事ではない。

 では何故、ここまで悩み、苦しみ、唸っているか。

 それは、気分である。今日はおやつを何にするか悩むべき時間だと彼の脳が突発的に決めたのである。さりとて、彼が考えるにはおやつ、というジャンルは根が深すぎる。底が知れないのだ。だが決めなければならない。彼は一度考え始めたものを考え終わるまで、考えるのをやめないという信念、決意がある。

 さて、何にしようか。おやつ、というぐらいだ。甘いものがいいだろうか。いやしかし今は夏。季節感に合わせたおやつというのも中々よいのではないのだろうか。とすると辛いものか。香辛料をふんだんに含みすぎて赤を超えて黒くなったカレーを食べた時はさすがに天へと昇るような気分を味わうことになったが、あれはもういい。だがあれによって少し辛いものを目にするだけで腹が痛くなるようになったのもまた事実だ。では何にしようか。そういえば夏というのはビタミンCもとったりする季節だと聞いたことがある。ビタミンC、つまりはすっぱいものか。すっぱいものとなるとレモンか?レモンはあの黄色さを裏切らず凄まじい凄まじいすっぱさを残していく果実だ。食べるならそのままなまでかぶりつきたいところだが、今日のおやつは何かしら調理をしたい。果実は全て生が至高最強最高甘美だと思って疑わない俺の脳が今日は果実は止めておけと告げている。それならばそれに従い違うものにしようというのが道理というものではないか。しかしながらやはりおやつだ。酸っぱくもしくは甘くある必要というのはどこにあるのだろうか。そうだ、しょっぱいというのはどうだろうか。某亀の田圃な会社が開発した柿の種かどうか怪しい煎餅菓子とピーナッツを合わせた画期的なお菓子、あれもお菓子だ。ならばなぜしょっぱいものが菓子にならないのか。という話にさえなるだろう。そうなるとどうするか。僕にそれを決めるのは僕のこととはいえ酷なことではないのか。だが全て食べるなどという現代日本において最も許されるべきでない不倫行為を働くなど到底できようもない。さて、それならどうするか——————

 と、その時。彼の机に何か紙が落ちてきた。彼は自分の思考を海のようなものと考え、そこで泳ぐように考えるのでいつもは人の声すら届かないような集中状態になるのだが、今日は不思議なことに、机と紙の擦れる音が妙に耳に響いた。

 わざわざ彼の許に紙を投げ入れてくる者などこの学級、この学校、この世界には今一人しかいない。彼の保育園来の幼馴染であり彼の人生に花と水を注いでくれる親友、実 みのる のぞみである。どちらも名前に、どちらも名字にとれる非常に面倒くさい名をした彼女とは恐らく、前世からの付き合いなのだろう。保育園で彼を一目見たころから彼女とは長い付き合いになる、と予想ができるくらいだったのだから。その時の彼女もそんな気持ちだったのだろう、そういう目をしていた。

 だが、そんな付き合いだからこそ、彼女が今した行動は彼にはすさまじく不審に映った。何故なら彼女は自分が思考の海に身を投げていることをわかっているからだ。彼は思考の海に落ちるとき必ず目を閉じ呼吸が少なくなる。感覚を少なくしたほうが思考が冴えるからだ。そんな癖を彼女は把握している。ならば何故、このような紙を投げてきたのだろうか。彼はアイコンタクトでこう、確認をとる。


「何故、投げた?」


と。すると彼女はこう答えた。


「私も食べたいからさ。」


成程、と彼は思った。だがしかしすぐにまた別の疑問が浮かんでくる。彼女が自分もお菓子を食べたい、というならば別に今でなくても学校が終わってからでよいのではないか。彼女には彼女の事情があるのか。そもそもなぜ紙を投げてきたのか。そこまで考えたところで彼にある閃きが生まれる。

———もしや、彼女が送ってきた紙はリクエスト表なのではないか———

 そうだとしたら見ないわけにはいかない。今さっきの思考も堂々巡りで潮が流れないところだったのだ。これを見ることによって流れるというのなら見ようではないか。と、彼は素早くそのくしゃくしゃに丸められた、恐らくノートの切れ端であろうその紙を開く。そこには———

甘いもの、と書いてあった。

 やはり甘いものなのか、と呆れと同じような感情が浮かんでくる。やはりお前の中ではお菓子というのは甘いものに限られるのか。と詰りたくもなる。そういった内容のことをアイコンタクトで伝えると、彼女は右手の親指と人差し指を宙に突き出し、クルクル、と回し始めた。どういうことか一瞬彼には分らなかった。

 彼には人並外れた洞察力がある。彼の視野は広く、彼にかかればどのようなかけでも解ける、と大人にも言われるほどのものだ。

 だがその洞察力を以てしても一瞬、なんのことだか分らなかった。彼はそのことに、凄まじい屈辱を感じてしまった。

 その時だ。彼の頭に、まさしく電流が流れた。そして意味を完全に理解した。そう、彼女は紙を裏返せというジェスチャーを送っていたのだ。徐に行われたその動作には、自分が持っているノートの切れ端であろうその紙きれを裏返せという意味が含まれていた。

 ならば実行しなければなるまい。自分を屈辱にぬらしてまで書いた裏面の言葉とは何だ?何を所望するんだ?しょっぱいものか、すっぱいものか、辛いものか。どれだ?どれなんだ・・・・・・?


 そして、苦い飲み物を二つ。


———何たる不覚。まるで、思いつきもしなかった。「それ」を可能性の一つとすらしていなかった。苦いもの。・・・・・・苦いものをおやつに加え入れようなどと。それを考えると、先ほど甘いものと書いてあったのも頷ける。そう、苦い飲料を使い、甘いものの甘さというのを引き立たせる。それは、古代からこの国で行われてきたいわば常識とすらいえる行為だ。それを———俺は、見逃していた・・・・・・。

 彼は、とても申し訳ないという気持ちになる。ここが現代であるということに胡坐をかき、忘れていた。記憶の隅に放り出していた。時代とは、人の前に歴史が作るのだと、そうして進んでいくものなのだということを。何もかもできるこの現代で考えることをやめるということが何を意味するのかを。

 申し訳ない先祖さま。俺は今、あるべき姿を忘れていた。俺は怠惰一心で、それ以外を成そうとしなかった。「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。」と上杉鷹山が言っていたように。何も為さぬものは何も成せぬし成れんのだ。そう、そうであることを、忘れていた。

 ・・・・・・だが、今、思い出した。記憶の底から引きずり出せた。救い出せたのだ。

 彼には感謝の念が絶えなかった。先祖様に対する申し訳なさを乗り越え、遂には感謝を叫びたくなる衝動にすら駆られてしまうほどであった。そう、実に。ありがとう、と。そう伝えなければならないと衝動的に、だが緩やかに。そう、想った。

———ふ、仕方がない。今日は、奢るしかないな。こんなことに気づかせてくれたのだ。ありがとうでは、到底足りぬ感謝がある。そう、感じていた。

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