2

 宴は終わり、焚き火はちいさくなった。水のなかに倒れこむ木の端にすわり、沼はゆっくりと流れる川を眺めていた。

 静寂はない。水音、草や虫や木の葉のざわめき、遠く聞こえる獣の遠吠え、夜啼き鳥の、つがいを恋しがるような長い声――……

「ここにいたのか」

 声をかけられる前から、足音でだれが近づいてくるのかはわかっていた。

「緑」

 少年は沼のそばに、背を預けるようにすわった。

「どうして……」

 沼は顔を上げ、木々の切れ目に光る星を見た。

「わたしを探しに?」

「どうして、って」

 少年は自分のひざを抱えた。

「沼と、契ろうと思った」

「なぜ?」

「……沼が、どこにも行かないように」

「わたしはどこにも行かないよ」

「祭の日に、引っ張られたことがあるだろう」

「『動かぬ黒い川』に?」

「そうだ。年にいちど、そこにつづく穴があいたとき、沼は」

「夜明けまで、くらいところにいた」

「魂を喰らわれるかと思った」

「……無事だったよ。もう五年前だ。よく覚えて……」

「脚がきかなくなった。なにを――」

 緑は向き直り、沼の左ひざに触れた。

「あのとき、なにを奪われた?」

 沼は、なにも感じぬ自分の脚に目を落とした。

「……緑のように、なれたかもしれない一生を」

「沼……」

 ほむらのような視線を向けられて、それでも沼はすっと顔を上げ、緑を見つめ返した。

「巫祝には、わたしがなるはずだった。ちからも、うつわも、わたしが持っていたものはぜんぶ、緑のものになった」

「ちがう、おれは旅で」

「わたしは川に左脚を浸した。川は奪って、緑の魂にそそぎ込んだ」

 沼は杖にすがりながら夜の川のなかに立ち上がり、凍えるようなつめたさの水を、てのひらですくうと、緑の顔にあびせかけた。

「緑、わたしは緑がねたましい。わたしがほしいもの、持っていたもの、みんな緑が持っている」

 少女はざばざばと流れをかきわけて、川の深みに行こうとする。

 跳ね起きて駆けると、緑は沼の腕をつかんだ。少女は彼の腕をふりほどこうとはげしくもがく。それを、緑はからだをひろげ、押しつつむように抱き込んだ。

「どこにも行かないと、さっき言っただろう!」

「わたしは左脚がきかない、巫祝にもなれない、村の仕事もできない、神々へのいけにえにもならない、ただの――」

「おれのつまになってくれ」

「わたしも旅に出たかった。村の外に出て、氷原や、翠の海を見たかった」

「沼」

「緑を殺して、わたしが旅に出たかった。わたしなら、動かぬ黒い川から戻ってきたわたしなら――」

 少女は杖で少年のすねを突き込んだ。痛みに身をよじった緑を押しのけて、沼は緑をめちゃくちゃに打ち据えた。

 少年は川床に崩れ落ち、杖をふりかぶった少女は、平衡を崩してその上に倒れ込んだ。

「沼、四年も待っていてくれて、おれはうれしい」

「そんなんじゃない、緑が帰ってきたら、わたしは死ぬつもりだった。婆さまの世話をする人間が、緑になったら――……」

「でも、待っていてくれたんだろう」

「緑がいないあいだなら耐えられた。でももう無理だ」

「毎朝、おれが上るかもしれないと、アテ木を見張っていたんだろう?」

「――」

「婆が言っていた。沼は毎朝アテ木を見上げていると。そして、きょうも一番におれを見つけた」

 緑は少女をぐいと引き寄せて抱き締めた。

「おれの、ちからも、うつわも、――沼のものだ。おれが旅で得たものだが、旅で得たときから、おれのものではない。沼のものだ。だから」

「星を、とってきて」

「え……?」

 沼は、ささやくように小声で、しかし鋭利に言った。

「わたしに星をちょうだい。アテ木に上って、その上の星をとってきて」

「……わかった。ちからと、うつわを使って、沼のために、星をつかんでくる」

 緑は沼を抱き上げると、森に入っていった。


 沼はアテ木を見上げる。老木の太い枝に、少年が脚をかける。

 沼が失ったものを、緑が使い、彼はするすると木に上る。

 上るのだ、上るのだ、あの天辺まで。

 筋肉がしなり、てのひらが樹皮をつかむ。跳ぶように、しかし撫でるようにやわらかに、上ってゆく。

 一番上の枝に上り、少年が立ち上がる。

 手を伸ばす。暗闇に光る、天に満ちる星に、緑の――それから、沼の手が触れる。

 青く燃える星のほむらが、少年と少女のからだに移る。

 枝が、幹が、きしみ、ひびわれ、ゆっくりと折れる。

 緑と沼から移ったほむらが、老木を燃え上がらせ、そのまま、地面に打ち倒れる。

 炎は真緑の王国一面に走りひろがり、夜空の底を燃やした。

 そこでは沼は杖を持たず、炎の草原を駆けていった。

 ひととびに川を越えて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真緑の王国 鹿紙 路 @michishikagami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ