真緑の王国

鹿紙 路

1

 少年は星空のなかにいた。

 巨木の天辺に座る。黒々として視界の果てまでつづく山脈やまなみではなく、頭上に満ちた星々を仰いでいた。

 少年の背後の地平線に、一瞬緋色の線が走った、と思う間もなく、太陽が暗闇を突き破って空を金色に染めた。

 少年は振り返った。

 そこには彼の故郷がある。


 その少女の名は沼。黒い髪と目、黄土色の肌、植物の繊維を編んだ貫頭衣に、胸には虎の歯を一本通した首飾り。そして右手には使い込んだ杖。

 朝食あさけの支度に追われるひとびとのなか、沼はぼんやりと川向こうの森を眺めていた。

「なにかおるか」

 まっしろな髪に同じ色の毛皮をまとい、虎の歯を十数個連ねた紐を首にさげた老婆が、沼に近づく。

ばあさま、緑が帰ってきます」

「なんと」

 老婆は驚きの声を上げる。そして、にわかにけっけっと笑い始めた。

「……婆さま?」

 訝しんで沼は訊き、老婆はにやにやと答える。

「おぬし、なにゆえそれがわかった?」

「あ、いえ……」沼はうつむいた。「さっき、アテの天辺に上っているひとかげが、ちらりと見えたので……」

「はっ、あやつめ、あれほどアテ木には上るなと言うたのに」

 このあたり一の高さの木は尊ばれ、近づくことすら禁じられている。第一に危険だ。もうかなりの老木なのだ。

「沼、ぐずぐずいたすな、祝いの準備をせねば!」

 トン、と老婆は杖で地面を叩き、揚々と村の中心に戻っていった。


 その川に名はない。他の川と区別するときは、「大いなる川」とか「長い川」と呼ばれる。一帯でもっともおおきく、長い川だ。だから川ということばはここで生まれた。始まりは氷原、終わりは翠の海。間には夏、真緑の森が広がる。



 夕方になって婆の家から出てきた緑を初めて見たとき、沼の胸の中心がずきりとひとつ鳴った。そしていっとき、その場を動けなかった。

 新しく入れ墨を施され、耳環をさげて、目尻と頬に赤く化粧をした彼は、四年前に送り出したときとは、まるで別人だった。背が伸びた。声が変わった。からだつきがたくましくなった。そしてなにより、まなざしがきびしくなっていた。――大人の、顔だ。

(当たり前だ)

 彼は自分より早く、成人して巫祝となったのだから。

(わたしはなにも変わっていない)

 杖を握る手に力を込める。

(役立たずの、ままだ――……)

「沼!」

 緑は顔を明るくすると、沼に駆け寄った。

「久しぶりだな! 元気だったか?」

 日の光を遮る彼の背の高さ、近づくと感じ取れる分厚い体躯。沼は彼の顔を見ようとして、顎を持ち上げる必要があることに、胸が痛んだ。

「緑……」

 少年は首をかしげた。

「なんだ、元気がないな。おれが帰ってきてもうれしくないのか?」

 にこにこと笑う彼の瞳は、幼いころ毎日遊んだころのままで、沼は顔を歪めた。

「……ううん。おめでとう、緑」

 沼は目を伏せた。緑に顔を見られたくなかったが、彼は沼の顔を覗き込むように身を屈めた。

「……沼?」

「また会えて、とてもうれしい」

 少女は片手で顔を覆う。そのすきまから、涙がほろほろと落ちてゆく。

 巫祝になるには、村を出て旅をしなければならない。緑の母親は巫祝だったが、彼が成人する直前に死んだ。緑は狩りの巧者だったが、ほかになる者がいなかったため、婆に命じられて巫祝となるべく村を出た。

 それから四回冬を越して、緑は帰ってきた。

「……泣くな、沼」

「……だ……っ、だって……」

 肩に緑の手が触れる。沼はびくりと震えた。緑がそれに驚いて、手を浮かせる。数瞬迷うようにその手はさまよったが、ふたたび緑は沼の肩をつかみ、そのまま抱き寄せ、自分の胸に沼の額を押し当てた。

 沼は胸にこみ上げるはげしい感情に突き動かされて、からだを支えていた杖を放り出すと、両手で緑に抱きついた。

「……緑……っ、無事で、よかった……!!」

 黙ったまま、緑は沼を抱き締め返し、背をさする。

 日は落ち、宴が始まろうとしていた。


「おぬしが帰ってくれば、この婆の荷も下りる」

 婆は、皺に目をうずめるように微笑み、緑を見やる。

 かがり火を囲んで始まっている宴の喧騒のなか、すぐそばに座る緑は返した。

「困るな、それは。なにもかもおれが仕切らねばならないということか?」

 婆は黄ばんだ歯を見せてけっけっと笑った。

「たわけ、この小僧。まつりごとのことではない。沼じゃ」

「え?」

 持った肉にかぶりつきかけた緑の手が止まる。

「あの子を頼んだぞ。頼めるのは緑だけじゃで」

 肉を地面の葉の上に置き、緑は婆を見つめ返した。

「……沼は……」

「おぬしが引き留めねば、『向こう』に行ってしまう」

「……おれが、巫祝だからか」

「ちがう。沼はおぬしに惹かれておる。ずっと昔から」

「……」

 少年は押し黙ったあと、首を横に振った。

「沼は、引かれれば、行ってしまう」

「ひと山向こうの鹿の足音を聞き分ける者が、身近な者のこころのを聞き分けられぬとはの」

「婆……」

 老婆はひとさし指で緑の胸の中心を突いた。

「その虎の歯は飾りか?」

 婆よりもすくないが、緑は五本の虎の歯を首からさげている。

「神々に魂を喰らわれず、この村に帰ってきた。おぬしは」

 婆はまなざしをするどくした。

「『動かぬ黒い川』へつづく穴の番人になった」

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