而降り注ぐ事雨の如し《しこうしてふりそそぐことあめのごとし》

 澄んだ秋晴れの日だった。

 曲直瀬まなせ燐太郎りんたろうは、東池袋四丁目から都電に乗ることにした。

 土曜日のグリーン大通りは車も人も多く、夏のあいだ過酷な日差しと排ガスにさらされた街路樹がくすんで見える。

 停留所で待っていると、赤い復刻車両がやってきた。

 かつて、東京には一番から四十一番までの都電が走っていた。唯一現存するのが、早稲田と三ノ輪橋をつないで北部の住宅地をめぐるこの路線である。二両編成の列車は利用者の多さに対して充分な容量とはいえず、常時混み合っている。

 混雑した車内で、燐太郎は己の長身が邪魔にならないよう微妙な角度で上体をひねり、吊革をつかんだ。

 何度か大通りと交差しながら軌道はゆるやかにカーブして、騒音防止パネルのあいだを都電は進む。燐太郎は、流れ過ぎゆく都心の風景を眺めた。

 ――雫がいなくなって、七年が経った。

 さっき区役所で聞いてきた話を、頭のなかで反芻する。

 高木をはじめ周囲からやんわり勧められてきたことだ。ようやくその気が出てきたので、とりあえず説明を聞きに行った。

 燐太郎が申し立てていくつかの手続きを経れば、雫には失踪宣言が出される。

 ――法律上、死亡したことになるのだ。



     ◇



 曲直瀬しずくの最後の依頼者は、燐太郎の高校の同級生だった。


 彼女と燐太郎は三年生で初めて同じクラスになった。一学期に隣の席だったこと、いくつかの選択授業が一緒だったことで、徐々に会話が増えた。

 目立つというほどではなかったが活発なグループに属し、友人は男女問わず多かった。だから彼女が自分のような人間に構う理由が、燐太郎にはまったくわからなかったのだ。

「俺なんかの相手をしてていいのか? もっとおもしろいやつが、まわりにいくらもいるだろう」

 しきりに話しかけてくる彼女に、直接言ったことがある。

 彼女は笑った。その笑顔も、いまはぼんやりとしか思い出せないけれど。

「曲直瀬くんと話すの、楽しいんだもん。ほかの子と全然違うの。なんか、深い」

 褒められたのだと思う。しかし眉間に皺を寄せて「よくわからんな」と言ったのが、そのときの燐太郎の精一杯だった。

 彼女がどこか緊張した面持ちで「相談があるんだけど」と言ってきたのは、夏休み直前、一学期の期末試験最後の日。

「聞いたんだけど、曲直瀬くんちってさ……探しものとか、してくれるの?」

 高校近くのファーストフード店で事情を訊けば、祖母の形見の指輪をなくしてしまったのだという。

 雫はそのころ、月に二、三日は布団から出られない日があるような状況だった。それでも「訊いてみる」と答えたのは、彼女に後ろめたく感じるところがあったからだと、いまは思う。

 自分でやるという選択肢が浮かばなかったのは、燐太郎が『失せ物探し』の儀式を行うことを祖父からきつく禁じられていたためだ。

 雫は快諾した。「燐のお願いを、わたしが聞かないことなんてあった?」と、調子のいいことを言って。

 儀式中、おかしなところはなかった。雫はいつもと同じように拝殿にこもり、決まったことばと所作によって意識を現世うつしよ常世とこよのはざまへ送った。

 だが普段なら十分程度で終わるところを一時間以上も肉体を離れていた雫は、目を開けるなり「ごめんなさい、見つからなかった」とつぶやき、ふたたび意識を失った。

 雫はふた晩のあいだ、起き上がることもできなかった。

 そして三日目に、雫は消えた。

 きれいに晴れた夏の朝だった。部屋も服もなにもかもそのままに、雫だけが消え失せたのだ。

 祖父も燐太郎も、なにが起きたのかすぐに理解した。わかって、しまった。

 曲直瀬家の『雨降りの巫女』が、あたりまえの死を迎えることは稀である。彼女たちは、長年異界との交流を繰り返した果てに――常世に取り込まれるのだと、いう。雫は歴代巫女のなかでも、ずいぶんと早かったが。

 同級生の探しものが実在しなかったと燐太郎が知ったのは、二学期になってからのこと。

 泣きながら謝る彼女を、虚ろな表情で眺めるしかできなかった。失せ物探しを名目に相談を持ちかけるというアイディアは『雨降りさま』を知る友人の発案だそうだが、ささいなことだ。

 燐太郎の煮え切らない態度が原因にあったことは、明白だった。

 彼女から寄せられる好意に、気づいていなかったわけではない。雫への気持ちを消し去れないくせに突っぱねもせず、鈍いふりをして、向けられる想いに甘んじていたのだ。

 燐太郎が思っていたよりもずっと、深く傷つけていたのだと思う。

 早すぎる雫の消失は、祖父の義臣にも深刻なダメージとなったらしい。義臣は水秦神社の祭りや行事の規模を縮小し、地域の活動に顔を出す機会が激減した。

「雨降りさまはもうしまいだ。これからは、ふつうの神社でいい」

 神職の資格を取るため志望大学を変えた燐太郎に、祖父は言った。

 だが、祖父がどれほど水秦神社を大事にしてきたかも、燐太郎は知っている。義臣はいかな天気であろうと朝夕に御饌みけを捧げ、掃除を欠かさず、人が来ても来なくても例祭を守り、毎年宝物庫の目録を更新し続けた。

 一年前にその祖父が死去して宮司を継いだとき、ささやかに、けれどしたたかに水秦神社を守ろうと、燐太郎は決めたのだ。

 彼にできる償いは、ほかになかったから。



     ◆◇◆



 へんてこな富士山の看板が今日も見下ろしてくる。新木悠乃しんきゆのは合服のプリーツスカートをひるがえし、幸先通り商店街のゲートをくぐった。

 煎餅の焼ける匂いが漂い、相変わらず歩きにくいほど商店街は賑わっていて、地蔵寺に参拝客の長い列ができていた。

 書店『森羅万象堂』の前を通るとき、ちらりと四月の日を思い出した。春の夕に視た、薄紅色の幻を。

 そうして薬局の角を曲がれば、一の鳥居と石段が現れる。

 急な石段もそろそろ慣れてきた。上りきって二の鳥居をくぐる。老夫婦が悠乃と行き違いで石段を下りていき、境内の端のベンチで数人の小学生が笑いあっている。

 青銅の龍が水を吐く手水舎へ。右手を洗い、左手をきよめ、口をすすぐ。

(で、最後に柄杓の柄を洗う……と。うん、ばっちり)

 教えてもらった手順を憶えていたことに、悠乃は満足した。

 拝殿の前で手を合わせる。二礼、二拍手、一礼。

 この国におわす神は、願いを叶えない。叶えるのは人である。ただ願いの達成を神前で誓うことで、見守ってもらう。カミとは、そういうものだ。

 悠乃は手を合わせながら、今日もいい日にします、と念じた。

 授与所を覗くと、高木がいた。

「やあ、悠乃ちゃん」

「こんにちは。曲直瀬先生、いますか?」

「さっき帰ってきたけど、まだこっちには来てないねぇ。家のほうを覗いてみたらどうだい?」

 高木に礼を言い、社務所と曲直瀬家のふたつ並んだ玄関を素通りして、建物を回り込んでみる。

 初めて侵入する場所だ。わずかに緊張しつつ覗き込む。

 そこはコンクリート塀と建物に挟まれ、狭い庭になっていた。古めかしい物干し台が大半を占めている。雑草が多いが荒れ放題というわけでもなく、かろうじて手入れされているらしい。日の当たる一角に、紫苑しおんの花が咲いていた。

 庭に面した縁側に、燐太郎がいた。

 高木の言うとおり帰ってきたばかりのようで、ワイシャツとスラックス姿だ。煙草を咥え、両足を外へ投げ出して空を眺めている。

 三毛猫のウズメさんが悠乃に気づき、なぁお、と太い声で鳴いた。

「……新木か」

 悠乃はいつのまにか、ここではないものを見ているような燐太郎の視線を追っていた。声をかけられて我に返る。

「はっ、こ、こんにちは先生!」

 ふたつに結んだ髪がぴょこんと跳ねた。

「なんだね、焦るところじゃああるまいに。俺に用事があって来たんだろう」

 燐太郎は苦笑して傍らの灰皿で煙草を消し、少しだけ迷うそぶりをみせた。

 やがて彼は、悠乃のほうを見ずに「上がるか?」と言った。悠乃は頷く。

「お邪魔、しまぁす」

 開け放しになっていた襖の向こうは茶の間だった。座布団を出しながら、燐太郎が尋ねる。

「新木は、珈琲飲めるか?」

「あんまり飲んだことないですけど、飲めなくはないです」

「じゃあ、つきあってもらうかな。ちょっと待っててくれ」

 悠乃はウズメさんと一緒に茶の間に残された。

 畳敷きの茶の間には卓袱台と木製の箪笥が置いてある。卓袱台の端に大きな封筒と、何枚かの写真が乗っていた。

 悠乃はつい写真に目がいきそうになり、慌てて逸らす。

(勝手に見たらだめ、だよね)

 ウズメさんがすり寄ってくる。悠乃が手をのばすと、ごろんと腹を出して撫でろと命じられた。

 ふかふかした腹を撫でているうちに、盆を片手に燐太郎が戻ってきた。

「豆から挽いてるんで、けっこう旨いと思うぞ」

「ありがとうございます」

 香り高いふたつのカップを挟んで、ふたりは向かい合う。

 悠乃は今日の用件を切り出した。

「ええとですね、取材にご協力いただいた東洋文化研究会の会報ができましたので、持ってきました」

 鞄を探り、薄い冊子を取り出す。

 表紙に鯉のイラストと太いフォントの『東風TONG POO』という文字がある冊子だ。燐太郎はそれを受け取り、ぱらぱらとめくった。

「結構ちゃんとした体裁だなぁ」

 声には素直に感心した響きがある。

「毎年こんな感じで、もう三十周年だそうですよ! 再来週の文化祭で販売する予定ですっ」

「……内容は混沌としてるようだが。タイラーメンと馬頭琴とインド神話と台湾アニメが同じ目次に並んでるというのがすごいな」

 悠乃は、なははと笑って頬をかいた。小野寺理沙と古賀遥を中心に、東洋文化研究会の面々が原稿をまとめあげた。悠乃も多少は編集作業を手伝っている。変な本だから照れくさいけれど、恥じることはなにもない。

 燐太郎も口角を上げた。

「わざわざ持ってきてくれてありがとう。ゆっくり読ませてもらう」

「はい! ……あ、あの、文化祭当日はわたしも販売を手伝う、ので、ですね」

「わかった。覗きに行くよ」

 望んでいた答えを得て、悠乃は胸の奥に温かいものを感じた。

 燐太郎が珈琲のカップに手を伸ばしたので、悠乃もそれにならう。

「ミルクと砂糖もあるぞ」「あっ、はい、いただきます!」

 豊かな香りにしばし、沈黙が落ちた。

 悠乃はたっぷりミルクを入れてカップをかき回しながら、燐太郎の表情を窺った。そして、ここしばらく気になっていたことを言葉にした。

「あの……東城先生の、こと。もう、みんな、忘れちゃってるんですね」

 返事には少し間があった。

 燐太郎はブラックのままの珈琲を口に含み、わずかに眉をひそめて沈痛な表情を浮かべたあと、口を開く。

「――そういうもんだ。異神アダガミや、異界。怪異が関わると、人の記憶は曖昧になる。無理やりにでも辻褄をあわせちまうんだよ。古賀もそうだったろう」

「……はい」

 白黎学苑の科学教師、東城伊織とうじょういおりが悠乃を監禁した事件は、いまから二週間ほど前のことになる。

 東城の行った儀式によって楔座と巨蛇の異神が出現したわけだが、燐太郎が楔座を消滅させ異神を追い返したことで危機は脱した。

 しかし主犯である東城は、そのあといつまでたっても姿を現さなかった。

 監禁され三日間行方不明になっていた悠乃は、崩落した図書館の地下室――かつての防空壕だったようだ――の事故に巻き込まれたことになっていた。時系列が合わないのだが誰も疑問を持っていないようで、悠乃が帰宅したとき母親は心配と安堵で混乱していたものの、顛末については訊かれなかった。

 翌週登校すると、化学担当の新任教師がやってきていた。東城がどうなったのか学校側からの説明はなにもなく、それどころか誰の話にも出なかった。

 ――まるで東城伊織という人間が、最初から存在しなかったかのように。

 ああいう事件をもみ消すのが専門の連中がいるんだよ、とは、燐太郎の弁である。

 燐太郎はあの夜、どこかへ電話をしていた。たぶん彼の手回しなのだと思うが、詳しくは教えてもらっていない。

 悠乃も強く尋ねづらかったのは、あの事件のことを思い出すと顔が熱くなるから、でもある。

(すっごい恥ずかしいところ、見られちゃったなぁ)

 地下室から助け出されたあと、悠乃は声が嗄れるほど大泣きした。

 燐太郎は、悠乃が泣きやむまでずっとそばにいてくれた。

 あのときは感情が昂ぶってめちゃくちゃなことを言っていた気がするし、大雨のなかですがりついた燐太郎の胸の厚みや、背に回された腕の温かさを思い返すと、悠乃は叫び出したいような走り出したいような衝動に胸をきゅっとつかまれて、いても立ってもいられない気分になるのである。こんな感覚は、いままで経験したことがない。

 その影響か、近ごろは授業中やこうして会話しているときまで燐太郎の仕草や声に鼓動が跳ね上がることがあって、これはこれで少々困っているのだった。

(この件はちょっと、置いておこう……)

 珈琲はミルクが大量に入っているおかげで、思ったほど苦くはない。悠乃はこくりとそれを飲んで、別の疑問を口にする。

「でもわたし、いままでの変な経験、全部憶えてますよ?」

「それなんだよなぁ」

 水秦神社の鎮守の森で奇怪な泥に追われたことも、遥が海の怪異に魅入られたことも、薔薇の庭園で屋敷の記憶と遭遇したことも、図書館の地下で巨大な蛇を見たことも、悠乃はすべて記憶している。

 燐太郎は目の上に落ちかかってくる前髪をかきあげ、卓袱台に突っ伏すようにして言った。

「正直、新木が憶えてる理由が俺にはまるでわからん。手のひらの痣のこともな」

 悠乃も理由は気になる。けれどお手上げといった様子の燐太郎の顔が珍しくて、いまはそちらを観察するほうに興味を引かれていた。

「……なにを笑ってるんだね?」

「先生にも、わからないことがあるんだなって思って」

「あるさ。たとえ異界や異神がずっとおとなしくしていたって、この世はわからんことだらけだよ」

 燐太郎は頭を抱えてみせる。彼の肘が、卓袱台の上の封筒をかさりと押した。

「あの、先生……それ、なんですか?」

 燐太郎は悠乃の目線を追い、封筒の上の写真に目をとめた。

 彼は少しのあいだ写真を見つめたあと、取り上げて悠乃に見えるように置く。

 写真にはふたりの人物が写っていた。少年と、少女。年齢は、どちらも悠乃と同じくらいだろう。


「――七年前に死んだ、俺の姉だ」


 はっとして燐太郎を見たが、彼は凪いだ表情をしていた。

(先生の……お姉さん……)

 図書館の地下で話題にのぼっていた燐太郎の姉。

 断片的に聞こえた話を総合すると、悠乃にもなんとなく事情は理解できた。東城があんなことをしでかしたのは、燐太郎の姉を復活させるためだということ――燐太郎が、姉を特別大切に思っていたことも。

 悠乃は写真を見つめた。

 白い着物に赤い袴の少女が、笑っている。顎先でぱつんと切った髪。細面で、目はきりりと涼しげだ。もうひとり、学生服を着た仏頂面の少年はしっかりした顎と下がり気味の目尻が特徴的で、こちらは燐太郎に相違あるまい。

 似ていない、と思った。とはいえ性別が違うし遺伝子の配分は人それぞれだ。珍しいことでもない。ただ、それを指摘するのは憚られる気がした。

 だから悠乃は、別の感想だけを言った。

「きれいな人ですね」と。

 燐太郎は笑った。

 目元に細かな皺を寄せて、嬉しそうに。

 その笑みを見て、悠乃は改めて写真に視線を落とす。少女はシャープな顔立ちをしているが、この上なく優しげに笑っている。

 悠乃は、ついさっき姉弟の姿に対して抱いた印象を改めた。

 ――やっぱりそっくりだ、と。




 曲直瀬家を辞して石段を下りる途中で、悠乃は足をとめた。

(さっきの人。わたし、どこかで会ったんじゃないかなぁ)

 写真で見た燐太郎の姉、雫のことである。

 猫っぽい目元やおかっぱの髪、細面に見憶えがある気がするのだ。

 けれど考えてみても思い出せなかった。

 七年前に亡くなったという。けれどたぶん、そんなに前の話ではない。ここ数ヶ月のあいだのことだろう。おかしな所感だが、姿ような気もする。たとえばもっと、幼い姿だったりとか――

(……ま、いっか。また今度、写真を見せてもらおう)

 また来てもいいですか、と悠乃は尋ねたのだ。燐太郎は低くかすれた声で、こう答えた。


「いつでもどうぞ」



     ◆◇◆



 午前五時三十分。

 ふたつの目覚まし時計とスマートフォンのアラームがいっせいに鳴る。

 布団の足元で寝ていたウズメさんがのそのそと起き出して、アラームを早く止めろとばかりに鳴き始める。

「ぐぬ……もう少し……もう少しだけ……ぐぬぬ……」

 妙なうめき声を上げながらも、曲直瀬燐太郎は布団を這い出した。

 ほんとうは朝はとても弱い。宮司という役割を負ってしまったから、やむを得ずこんな時間に起きているだけだ。

 起き抜けの一服をつけるあいだに、身体を目覚めさせる。歯を磨き、シャワーで潔斎し、顔に剃刀をあてるとようやく頭がはっきりしてくる。

 足袋と白衣を身につけ、浅葱袴の紐をぎゅっと締めた。

 社務所を開けて御饌の準備をする。米、酒、それに海苔と秋刀魚一尾を載せた桐の三方を抱え、雪駄を履いて外へ出る。

 神に捧げる御饌の内容は季節によって変化する。この時期は、秋刀魚が旬のものだ。ウズメさんは御饌に手は出さないが、足元からの物欲しそうな視線がさっきから刺さっている。あとで分けてやる必要があるだろう。

 外はすでに明るかった。これから秋へ向けて、少しずつ日が短くなっていくのだ。

 誰もいない境内にはひやりとした朝の大気がたちこめて、身に残る最後の眠気をさらっていく。

 見上げると、筆でこすったような雲が朝焼けの空にたなびいていた。

(……東城先生は、あれで満足だったんだろうか)

 朝日に目を細め、燐太郎は思う。

 常世への路を開くため、血を吐きながら呪言を唱えた東城。おそらく彼は常世に取り込まれた。雫と同じ場所へ行けたのかどうかは、わからない。

 雫を喪ったという点において、東城と燐太郎は同種だった。その後の七年間、燐太郎は後悔に囚われて己の殻に閉じこもり、東城は雫を取り戻そうとして人の道を外れた。

 ある意味では、東城のほうが前向きだったとも言えるかもしれない、が。

 燐太郎は首を横に振る。

(それでも常世と現世の境界を侵すのは、やっちゃあいかんことなんだ)

 いま、自分のしたことにそれなりに自信が持てているのは、悠乃のおかげだ。

 ありったけの信頼を向けてくれた悠乃の存在がなければ、巨蛇の異神と対決する覚悟ができたかどうか怪しい。

 恩を感じたのもあって、昨日はつい家に上げてしまった。学校にバレたらただではすまないだろうが、先のことは考えないことにする。

 桜とともに現れた小柄な少女は、燐太郎の殻を外から叩き割った。

「――俺も、少しはしゃっきりせんとなぁ」

 声に出してみるとなんとも低い目標のような気がして、燐太郎は自分で小さく笑った。足元でウズメさんが、うな、と呆れたように鳴く。


 八百年続く水秦神社の、いつもと同じ一日が始まる。

 薄い雲をつきぬけて、社殿の屋根に朝日が雨の如く降り注いでいる。斜めに走るひと筋の飛行機雲が、天に昇る龍のように見えた。


(了)

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アダガミ異聞 狸穴醒 @sei_raccoonhall

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