龍哭 漆
漆.
夕焼けが境内を茜色に染めている。
中学から帰ってきた燐太郎は、拝殿から数人の大人たちが出てくるのを目に止めた。
左右を支えられて老婦人が泣いている。左隣の中年男性が「おふくろ、よかったな」と繰り返していた。
燐太郎は肩の竹刀を下ろして参道の脇へ避け、頭を下げて彼らを見送った。
少しして、巫女装束の人物が拝殿から出てくる。燐太郎を見つけた雫は、手を振って寄ってきた。
「終わったのか?」
尋ねると、雫は「どうにかねー」と言って伸びをする。
「今日のは?」燐太郎はさっきの一団が去っていった鳥居の先へ目をやった。
「お祓い。ずっと夢見が悪かったんだって。家を視てみたら小さい
「そうか」
雫が首をかしげながら燐太郎を覗き込んできた。
「燐は今日も部活?」
「ああ」
距離が近い。目を逸らしながら答える。
近所の老人が鳥居をくぐってやってきて、ふたりは揃ってぺこりと頭を下げた。
「……部活、楽しい?」
拝殿に手を合わせる老人の背中を見たまま、雫が訊く。燐太郎は手元の竹刀に目を落とした。
「別に、まぁ、ふつう」
「そっかぁ。いいね」
剣道は祖父の勧めだった。鳴神を扱う役に立つというのが祖父の主張であったが、そもそも短刀とは構えからなにから異なるので燐太郎は疑っている。内向的なきらいのある燐太郎に部活をやらせることで社会性を習得させたい、というあたりが真相だろう。
「……雫」
「なに?」
振り向くと、おかっぱの髪が夕風に揺れる。
「面倒くさい家に生まれたって思うか?」
雫は部活に入らず、委員会にも参加せず、早く帰ってきては『雨降りの巫女』として大人たちから相談を受ける日々だ。「ふつう」の中学生の生活とはまったく違う。
燐太郎の問いに、数度まばたきしたあと。
「――全然」
逆光に縁取られ、雫は笑った。
怪訝な表情をしてしまったのかもしれない。燐太郎の顔を見て、雫は続ける。
「だってわたし、この町、好きだし」
思わず目を細めてしまったのは、夕日が眩しかったからだと思う。
「……生。先生!」
震える声が急速に近づいてくる。
「う……」
無理やりまぶたを押し上げた。まばたきを繰り返すと、ぼやけた視界が次第にはっきりと像を結ぶ。
ごく近くで悠乃が覗き込んでいる。目が赤い。
「先生! よかった……!」
燐太郎は瓦礫の山になってしまった床に肘をついて身を起こし、頭を振る。
「……すまん。俺はどのくらい落ちてた?」
「え、と、三十秒くらいです」
「そうか。――デカいのは?」
尋ねながら視線を移すと、崩れた壁の向こうに有角の巨蛇の頭が見えた。うまいこと壁が遮蔽になってくれているようで、さっきまで降り注いでいた石礫はここまでは飛んでこない。
「観察してないで早く逃げないと! ここにいたら怪物が来ちゃいますよ!」
悠乃が燐太郎の腕をとって言う。逃げるといっても地下室の残骸以外は上下四方すべてが闇で、どこへ行けばいいのかもわからないが。
また大地が揺れた。
「ひゃっ!」
巨蛇が動くたび、背後の真っ黒な空に
中途半端な呪術で形成されたこの楔座は、ひどく不安定であるらしい。
(いかんなぁ。あんなもん放置してたら、楔座を喰い破って
異神の強大さと、これからすべきことを考えるとうんざりする。それでも。
「先生、早く!」
燐太郎は手元をたしかめた。
鞘は見当たらないが、鳴神がある。
肩を回す。動く。膝を曲げてみる。こちらも同じく。
袴を払って立ち上がる。問題なし。
「先生ってば……」
「新木は、ここにいろ。大丈夫だ、すぐ終わる」
なにかを感じ取ったか。
ふっと黙った悠乃の頭に、燐太郎は手を置く。
「俺は逃げられん。その、なんだ。使命がある。いや、使命なんていうと大袈裟か」
燐太郎は微笑んだ。
「大人には、やらにゃあならんことってのが、あるんだよ」
燐太郎は駆け出した。
「や、やだっ! 先生、待って! 待ってよ!」
悲鳴じみた悠乃の声を置き去りに。
瓦礫を越え、壁を回り込む。巨蛇の姿が視界いっぱいに広がる。
角を生やした頭部は、よく見れば人のそれに酷似していた。白い細い顔と、顎先でぱつんと切った髪は雫を思い出さなくもない。
東城の怨念じみた想いが、巨蛇の外観に影響を与えたというのはありうる気がする、が。
「話にならんな。これがあれだけもったいぶった呪術の成果なら、実にお粗末だ」
声が聞こえたわけでもあるまいが、巨蛇の頭がこちらを向いた。
現実の生物にはありえない角。闇に爛々と燃え立つ瞳。半開きの口からは鳴神の刀身ほどもありそうな牙が覗き、透明の液が滴っている。
びょうと風を切る音。長い尾が襲ってくる。
燐太郎は避けなかった。
「――蛇風情が、龍に楯突くか」
笑う。
(うん、まあ、いまならいけるだろう。たぶん)
根拠はない。確信だけがある。
目が熱い。身体の表面が熱い。声すら自分のものではないように思える。
瓦礫と暴風を引き連れて。
振り上げた鳴神に、巨蛇の尾が激突した。
「祓い給い……」
短刀一本、わずかに一尺あまり。
人の手で鍛えられた鋼が、この世ならざる
「浄め、給え!」
蛇の尾を弾き返した。
紙を破る音を何十倍にも増幅したような異音は、異神の悲鳴であったか。
「
燐太郎の目が銀色に発光する。瞳孔が縦に裂ける。
神といい、魔という。
いずれも人知を超える常世の力の顕現。現世のものが不用意に触れれば災いをなす。両者の違いは、いずくにかあらんや。
(大差なかろうねぇ)
異界と
彼は紡ぐ――神を下ろす、詞を。
「
風を受けたように白衣の袖が浮き上がり、袴の裾がはためく。袖から覗く腕、首、そして顔に、細かな銀色の粒が浮かび上がった。
異神ができそこないの女の口をいっぱいに開き、牙に覆われた虚無の
あるべき境界を冒す人間を噛み殺さんとして。
「
燐太郎は目の前に鳴神を構え、切っ先を少し下げて、手首に左手首を交差させる。
「
虚空の一点を突いた。
空間が、裂ける。
さらに一言。太古の詞を、継ぐ。
意味に先んじて音がある。韻律が世界を規定する。
「と、お、か、み、え、み、た、め!」
雷光が一切を覆い隠した。
◆◇◆
初めて会った日、彼の目を蛇に似ていると思った。けれど今日、その認識が間違っていたことがわかった。
あれは、龍だ。
彼の目は、龍の眼なのだ。
果てを知らぬ闇のなか、短刀がきらめく。淡く輝く銀色の鱗に覆われた燐太郎を、悠乃はとても――きれいだと、思った。
◆◇◆
気づけばもとの地下室だった。
椅子は倒れ、段ボール箱が吹き飛んで、呪術陣のあった場所が黒く焼け焦げている。東城が流した血溜まりはかろうじて赤黒い染みとなって残っていたが、彼自身の姿は、どこにもなかった。
(楔座からは抜けたの、か……?)
燐太郎の座り込んでいたすぐ脇で、小さなうめき声が聞こえた。
「新木!」
身体を丸めるようにして横たわっていた悠乃が、ゆっくり目を開ける。
「あ……せん、せ……?」
そのとき地下室全体が大きく揺れた。
「こ、今度はなんでしょう!?」
「おっと、本物の地震か?」
もとからあった天井の罅が広がり、コンクリートの破片が落ちてくる。
そうしているうちにも揺れはさらに大きくなった。
「まずいな」燐太郎は悠乃の手を引いて地下室から抜け出した。途中で鳴神の鞘を発見して拾い上げる。廊下を駆け抜けたところで背後でがらがらと大きな音がしたが、たしかめる余裕はない。短い階段を上りきる。
外に出たとたん、新鮮な空気と大量の水しぶきがふたりを出迎えた。
「雨!?」
「……いやはや。踏んだり蹴ったりだ」
またたく間に頭から足袋の先まで濡れ、燐太郎はつぶやいた。
揺れは収まっていた。ゲリラ豪雨めいた雨を落とす空は真っ黒で、唸るような音をともなって厚い雲のあいまに稲光がひらめく。
(
昔の人は、空を駆ける稲妻を見て龍になぞらえたのだったか――
半分現実逃避的にそんなことを考えていたら、唐突に悠乃が飛びついてきた。
「先生!」
「ぐえ」
「先生、先生、先生……っ!!」
細い両腕で、悠乃は燐太郎の首をぎゅうぎゅう絞めてくる。
「よ、よかっ、よかった! さっき、先生が、ぜっ、絶対死んじゃったと思っ……」
「このとおり無事だ。新木こそ、怪我してないか? それとだね、少しばかり離れてくれるとありがたい」
身長差があるのに無理やりしがみつかれているので、悠乃が首にぶら下がる格好になってたいへん苦しい。
悠乃は腕をゆるめて少し身体を離し、燐太郎の顔を正面から見た。頬は汚れて長い髪が絡まりあっているうえ、頭から雨をかぶったひどい有様だが、顔色は悪くない。
燐太郎が安心したのもつかの間、大きな目にみるみる涙がたまっていく。
見知った人物から監禁され、生命の危機に晒され、あまつさえ異神と遭遇までして、悠乃の精神は限界に近かったのだろう。
「うっ……うえぇぇぇぇぇぇぇ!」
燐太郎にすがりつき、大きな声を上げて悠乃は泣き出した。
「っ、落ち着け、新木。大丈夫だから、な?」
自分でも呆れるくらいに燐太郎は狼狽した。
(いやいや、まず俺が落ち着け)
今回のことは、燐太郎のしでかしたことの後始末みたいなものだった。だから筋としては、たぶん、こうだ。
「すまん。巻き込んで悪かった。怖い思いをさせた。申し訳ない」
一瞬だけ悠乃は泣き止んで、燐太郎を見上げる。が。
「……うわぁぁぁん!」
燐太郎はなにかを間違えたらしい。
「頼む、泣くな……ああもうどうしたらいいんだこりゃあ」
「ぢっ、ぢがうの……ぞんあんじゃ……うええぇぇ」
「なにを言ってるんだかわからん」
「ぜっ、ぜんぜいが……い、いだぐなっちゃうんじゃないが、って」
顔じゅうを涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、白衣の襟をつかんで悠乃は訴える。言葉の体裁をほとんどなしていないが、意味は通じた。
「せ、せんせ……いっ、いだく、ならないで……」
どきりとした。
この春から、曲直瀬の家に伝わる技に手を染める機会が増えた。おまえはやるな、ときつく言い聞かされていたものも含め。
このまま繰り返せばあちら側に近づいていってしまう――その可能性は、ある。
けれど。
「……おいて、うぐっ、いかない、で」
薄い夏服越しに体温が伝わってくる。悠乃の身体は折れそうなほど細く、見た目の印象よりもずっと柔らかくて、温かかった。
(まいったなぁ)
燐太郎は水滴を落とす天を仰ぐ。
今回はいささか大ごとになりすぎた。東城のこと。悠乃が行方不明になっていた言い訳。たぶん、崩れた地下室もだ。怪異が絡めば人の記憶は曖昧になるにせよ、丸く収めるには手がかかりそうである。燐太郎ひとりの手には余るだろう。
けれど、いまは。
燐太郎は悠乃の身体に腕を回した。
「……大丈夫だ。ここにいる」
泣きじゃくる背を、そっと叩く。悠乃の鼓動のリズムに、合わせるように。
「守るって、言っただろう?」
いつの間にか雨脚は収まりつつある。
深夜にわずかの時間だけ暴威をふるった天の龍は、遠雷を子守唄のように響かせて、空の彼方へ飛び去っていった。
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