龍哭 陸

     陸.


 部屋の中央から少しはずれたほうに、雑司が谷の屋敷の庭にあった呪術陣とよく似たものが描かれていた。ただしサイズはずっと大きい。こちらのものは直径三メートルほどありそうである。

 燐太郎は陣の脇に腕組みして立ち、目を眇めてそれを眺めた。同心円がいくつも重なっており、円のあいだに丸と直線を組み合わせた摩穂呂文字が並んでいる。

「……改めて見るとこの陣、いろいろ混ざりすぎじゃあないかね。曼荼羅まんだらのようでもあるし、西洋魔術っぽくもある」

「ふーん、そういうもの?」

 悠乃にナイフをつきつけた格好のまま、気のない様子で東城が答える。燐太郎は呆れ混じりに言う。

「あんたが描いたんだろう」

「本にあったとおりにしただけだよ。機能しさえすれば、謂れは僕にとってはどうでもいいんだ。それより、早くしゅを読んでほしいんだけど」

 指示されるがまま、燐太郎はダンボール箱の上に積んであった紙束を手に取る。

 数枚のコピー用紙をクリップで留めたものだ。二段に組まれた明朝体の文字はややかすれ、端には『秘録 摩穂呂婆』と記載がある。書籍の複写のようだ。この題は、ライカの店で見かけたような気もする。

「三枚目の、付箋がついてるところ。摩穂呂文字が書いてあるでしょ?」

 目的の箇所はすぐに見つかった。

「しかしな、読めと言われても俺に神代文字の知識なんざないぞ」

「仮名が振ってあるから。文節は怪しいけど、だいたい合ってると思う。頑張って調べたんだよ?」

 円と直線と、短い曲線で構成された記号。文字の右に添えられた仮名がなければ読み方がさっぱりわからない。一文字に仮名がひとつだから、表音文字なのだろう。

 燐太郎は無感動に文字の列を眺めた。

 思考は働いているが、感情のどこかが凍りついてしまったような感覚がある。さっきまで感じていた憤怒も焦燥も、硝子ガラスケースにでも入っているかのようだ。

(新木……)

 この位置からでは東城の身体が邪魔で、悠乃の顔は見えない。

 来る途中、薔薇屋敷の探索に伴ったせいで悠乃を巻き込んでしまったのではないかと思っていた。だが現実は、それどころではなかった。

 東城が悠乃を憑坐にして雫を呼び戻そうなどと考えたのは、そもそもが雫が消えたからだ。

(……なにもかも、俺の、せいだ)

 雫に対し、抱いてはいけない想いを抱いてしまったことを自覚したのは、いつからだろうか。

 思慕は物心ついたころからあった。花びらのような唇や白いうなじに触れたいという願いが生まれたのも、それほどあとではなかったと思う。

 必死で隠してきたのに、東城にあっさり暴かれてしまった。

 ――悠乃はどこまで理解しただろうか。

 それが気がかりで、でも、もはやどうでもいいような気もした。

「そろそろ、始めよっか」

 先ほど露わにした憎悪を引っ込め、東城は軽い調子に戻っている。

「ほら、新木さん、自分で歩いてくださいね。僕、非力なんで。あ、もちろん余計なこと考えたら刺しちゃいますよ」

 腕を掴んで立ち上がらされ、悠乃が咳き込む。燐太郎は眉をしかめた。

「乱暴に扱う必要はないだろう」

「まだそんなこと言えるんだ? やっぱりおもしろいなぁ、曲直瀬先生って」

 楽しげに東城は笑い、燐太郎の脇を悠乃を連れて通りすぎる。

 遠い感覚のまま、燐太郎は悠乃を見るとはなしに眺めた。

 東城に二の腕をとられてナイフを向けられた悠乃は、おぼつかない足取りで歩いている。革靴は一方がなくなっており、濃紺のソックスでコンクリートの床を踏んでいた。

 痛々しい足元から視線を動かす。乱れた長い髪の隙間に覗く、白い横顔。

 悠乃の目が、こちらを見た。

(……?)

 三日間の監禁で憔悴した顔はあちこち汚れている。

 だが、悠乃の目は。長い睫毛に縁取られた大きな目には。


 ――一片ひとひらの絶望も浮かんではいなかった。


(……なぜ?)

 悠乃のあの表情を、燐太郎は見たことがあると思った。いつのことだ?

 記憶を探るうちにふたりは通りすぎ、東城は悠乃を摩穂呂文字で彩られた同心円の中央へ導く。正座させた悠乃の背後に膝立ちになり、東城はナイフを悠乃の首に押し当てた。

「さ、読んで」

 促されて燐太郎は紙束に目を落とした。見知らぬ文字と手書きの振り仮名。五十文字足らずの文字が並んでいる。

 燐太郎は詞を読み上げるべく息を吸い込んだが、そこでふと思いついたように、視線を上げた。

「……こんなことをして、ほんとに雫が戻ってくると思ってるのかね?」

 東城は問いを拒絶しなかった。彼は考えをまとめるように首をかしげる。

「うーん、思ってるといえば思ってるけど……さっき曲直瀬先生は、常世は混沌だって言ったよね。僕も、同じように感じてる。ところで曲直瀬先生は、確率の雲って知ってる?」

「いや」

「そっか、文系だもんね。物質を形作っているものを分解していくと、最後には原子になる。これは憶えてるかな?」

「それくらいなら」

 燐太郎とて高校までは理系の授業も受けていたが、記憶はだいぶあやふやである。

「原子の構造は、原子核のまわりを電子が取り巻いている。でもこの電子って、原子核のまわりに集まって雲みたいになっているんだけど、実体はひとつなんだ。雲は物質の集合じゃなくて、『存在する確率の集合』なんだよ」

 滔々と東城は語る。彼の授業を見たことはないが、こんな調子なのかもしれない。

「これ、概念上の話じゃないんだ。ほんとうに物質として『存在する可能性』だけが実在してるんだよ。おもしろいでしょう? 事象は観測されるまで、どこにあるのかわからない。それを定めるのは観測者だ。……なら、常世の存在を呼び出すことさえできれば、それを雫ちゃんと見做すことだってできるはずだ」

 口調が次第に熱を帯びていく。

「そうやって雫ちゃんは、もう一度この世に現れる。観測者、つまり僕によって」

 嬉しさをこらえきれないように、東城は笑う。

「……つまりあんたは、自分がそうだと言えばそれは雫になるんだと言っているわけだ。理解できんな」

 なかば、燐太郎の正直な感想であった。

 東城は表情を変えない。

「わかってないなぁ。ものごとは、それくらいあやふやなものなんだ。だから……」

「他人が外から見ている顔は、その人のすべてじゃあない。あんたが知ってた雫は雫の一面でしかない。自分を観測者だというなら、できる限り精度を上げるべきじゃあないのかね。外で数回会ったくらいで、なにがわかる?」

 かぶせるように言う。

 胸の奥に、うごめいているものがある。さっきまで眠りかけていた、感情が。

 燐太郎は片頬をつりあげ、思いきり不敵で鼻持ちならない笑いをつくった。

(雫……)

 気まぐれで、頑固で、我儘で、味にうるさくて。

 でも、燐太郎の初めてのバイト代で買った誕生日プレゼントを喜んで、いつも身につけていた。安い水晶だったけれど、名になぞらえたしずく型の石が気に入ったのだと言ってくれた。

 姿を、声を、しぐさを、ともに過ごしたいくつものできごとを。

 忘れるなど、できない。


「――俺は、あんたよりも雫のことを知ってるぞ」


 ありったけの自信を込めて言い放つ。

「……!」

 東城の頬に朱が差した。頬が歪み、嫉妬と憎悪の濃い影が瞳を塗りつぶす。

 彼の注意はいま、すべて燐太郎に向いていた。

 次の瞬間。

 硬いもの同士がぶつかる澄んだ音。

「あっ、ぅっ!」

 東城がナイフを取り落としていた。

 噛みついた東城の手を放り出し、悠乃が前転の要領で呪術陣の環から逃れ出る。

 鳴神の位置はすでに視界の端で確認している。つかみ上げて鞘を払う。しゃらん、と鈴の音が響いた。

 悠乃と東城のあいだに割り込む。

「先生……っ!」

 白衣越しの背に温かい感触。悠乃がしがみついてきている。

 燐太郎は背後は見ずに、鳴神を構えた。

「……困っちゃったなぁ」

 東城が苦笑をもらす。

 ふたたびナイフを手にしていたが、右手を左手でさすっていた。右手の甲にはくっきり歯型が残っている。

「うーん、油断しちゃいましたねぇ。新木さんがこんなにお転婆だとは思わなかった」

 さっき、脇を通る悠乃と目が合ってから。

 燐太郎は彼女の表情の意味を考えていた。同じ表情をいつ見たのだったかと考えて、薔薇屋敷に行った日だと気づいた。

 ――先生が、助けてくれるでしょう?

 悠乃はそう言って笑ったのだ。圧倒的な信頼を込めて、燐太郎を見つめながら。

 あんな無条件の信頼、寄せられるほうは重たくて、正直なところ勘弁してほしかったりもするのだけれど。

(ま、義務だからな)

 だが悠乃のすぐそばに東城がいる状態では、おいそれと手出しもできない。だから燐太郎は、悠乃を信じることにしたのだ。悠乃が、燐太郎を信じたのと同じように。

 彼女の、折れない目を。

 燐太郎は姿勢を落とし、手首同士を交差させるように左手を添え、目の前で傾けた鳴神の切っ先を東城へ向ける。

「こいつは儀礼用じゃあない。あんたのナイフとくらべて刃渡りは倍だ。ついでに言えばみっちり仕込まれたんでね、まともに武器として扱えるぞ」

 このまま悠乃を連れて逃げてしまってもいいのかもしれない。けれど燐太郎は、東城がいまだ笑みを浮かべたままなのが気になっていた。

 東城が肩をすくめる。

「失敗かぁ。憑坐も得られて曲直瀬先生にも手伝ってもらえる、いい方法だと思ったんだけどなぁ。こうなっちゃったらしょうがないなぁ」

「動くな」

 一歩踏み出した東城が、散らばっていた紙の一枚を拾い上げる。燐太郎が読むはずだった摩穂呂文字の呪だ。

「あんまりやりたくなかったんだけどなぁ。ま、いいか。これはこれで、僕の目的に近い気もするし」

 東城はいまも呪術陣のなかにいる。

「……あんたの計画はおしまいだ。諦めろ」

 燐太郎は、得体の知れない不安が床から立ち昇ってくるような気がしていた。

 東城は呪を掲げると、いつもの人好きのする笑顔で、言った。

「まだだよ。それじゃあ、またね」

 右手のサバイバルナイフがくるりと回転する。

 逆手に持ったそれは、一切の迷いなく持ち主の――東城の喉に、突き立った。




 悠乃の悲鳴が響く。

「しまっ……」

 燐太郎はくずおれた東城に駆け寄った。

 東城は呪術陣の中央でうつ伏せに倒れている。鮮血が彼の首の位置を中心に広がっていた。

 助け起こそうとして、燐太郎は奇妙な音を捉えた。

「……のませ、さちよに…………」

 呪のコピーを握りしめ、東城がなにごとかをつぶやいているのだ。彼の吐いた血がコンクリートの床に吸われ、陣と一体化する。

「よせ、喋るな!」

 燐太郎は仰向けにしてしまっていいものか迷った。

 そのあいだも東城はことばをとめない。摩穂呂文字の呪は五十文字もなかったはずだ。あっという間に言い終えてしまう。

「ひがき、みしる…………よもつ、ひとやを……」

 ――遠雷に似た音が、燐太郎の耳の奥に聴こえた。

 ごろごろと。がらがらと。なにかが、来る。

 地下室の壁が唸りをあげはじめた。

「新木! 逃げろ!」

 振り向いて叫んだ直後。

 ぐにゃりと空間が反転する感覚がきた。

(まずい……!)

 壁が、床が歪み、圧倒的な質量の闇が流れ込んでくる。虚無と無限が交錯する。

 ついで、落雷のような閃光。

「――ッ!」

 閃光が収まると、呪術陣のあった場所に巨大な物体がそびえたっていた。

 東城の姿は見えない。

 小山のような塊から、上へ向かって長細いものが伸びている。その先端はぷくりと膨れ、さらに二本の突起が突き出す。

「な……んですか、あれ……!」

 震える悠乃の声。

 楔座と化した地下室は天井も壁もなくなり、上も四方も見通せぬ暗黒へ消えている。その中心に。


 一対の角をそなえた巨大な蛇が、鎌首をもたげてとぐろを巻いていた。


「……どう見ても、うちの姉じゃあないな」

 常世と現世のはざまに生きる、この世ならざる存在――異神アダガミ

 どうやら、摩穂呂文字が常世への路を開くというのは少なくとも事実であったらしい。

(陣と呪だけの効果なのかは、わからんが)

 考えたくはないが、血を捧げたことにも意味があったのかもしれない。ともあれ結果として地下室は楔座に変質し、異神が現れた。

 何度も異神と遭遇してきた燐太郎にとっても、この蛇はかつて見たことがないほどの大きさである。

 その巨蛇が、尾を振る。

「ひゃあっ」「新木!」

 地震のように床が揺れてどこかから瓦礫が降ってくる。

 へたり込んでいた悠乃の手を、鳴神を持っていない左手で引いて立たせた。抱きかかえるようにして蛇から離れようとするが、無数の瓦礫がふたりを追う。悠乃をかばった燐太郎の背に野球ボール程度の破片がいくつもぶつかった。

(あんなもん、どうやって追い返せってんだ!)

 さらに蛇の尾が振られる。

 人の手のひらほどもある鱗で覆われた尾が、地面すれすれに風を切って襲いかかる。

 床を転がって避けた。悠乃を押し倒す格好になる。

「あわわっ」

「っ、と、すまん!」

「平気です、それより先生は!?」

「いまのところ無事だ。新木は早くこの場所を――」

 最後まで言えなかった。

 背中に猛烈な衝撃がぶつかり、悠乃を抱えたまま地面を転がる。巨蛇が引き戻した尾に吹っ飛ばされたのだろう。

 呼吸がつまり、視界が暗くなる。

「先生……先生!」

 悠乃の呼ぶ声が遠くなっていった。

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