龍哭 伍
伍.
夜の学校というものは、多かれ少なかれ不気味なものである。
生徒たちで賑わう昼間の様子を知っているために、灯りが消えて静けさに沈む様子が異様に思えるのかもしれない。
さっき、真夜中をまわった。教職員用駐車場にも車は一台も残っていない。
燐太郎はその端に、白いバンを停めた。
車で来たのは着替える時間が惜しかったからだ。彼は車から降りると、白衣に浅葱袴姿のまま通用口へ向かう。ぽつぽつと雨が落ちはじめていた。
「……あ」
通用口は施錠されていた。
考えてみれば当たり前だ。どうも頭に血が昇っているらしい。乱暴に髪をかきまわして深く息をついてから、煉瓦塀に沿って校庭を回り込む。
(見つかったらかなり怪しいかもな)
白黎学苑の周辺は住宅街である。このくらいの時間に帰宅してくる人は東京では珍しくもない。いまの燐太郎は特異な格好をしているうえ、発見されるとまずい物品を所持している。鳴神をそのまま帯にたばさんできてしまったのだ。
幸いにして誰とすれ違うこともなく、校舎の向かい側にたどりついた。
濃い灰色の夜空を背に、学苑内でもっとも古い建物が現れる。戦争を耐え、苦難と狂乱の世紀を東京の片隅から眺めてきた白黎学苑の図書館は、その身に年月を刻み込んで静かにうずくまっていた。
図書館の裏手は短いコンクリートの階段を通じて路面に接している。校庭に面した側の壮麗な様子と異なり、こちらはそっけないほどなにもない。
燐太郎は階段をのぼった。記憶をたどりながら、裏口脇の地面を懐中電灯で照らす。
目的のものはじきに見つかった。
錆びついた金属板が、雑草に覆われて地面に埋まっている。よく見れば周囲の土は一部が掘り返されており、金属板が動かされた形跡があった。
(こいつか)
鉄の輪に手をかけて引き上げると、思いの外かるがると持ち上がった。
「……ほう」
金属板をどけた下から現れたのは、ほぼ正方形の穴。
コンクリート製の階段が、穴の奥へ続いている。
こんなものが学校内に存在するとは驚きだが、戦前からある建物だ。そういうこともあるのかもしれない。
(灯台下暗し、ってやつか?)
ひとつため息をついて、燐太郎は階段を下り始めた。
早々に暗闇に包まれ、懐中電灯を灯す。
階段は意外とすぐ平らな床に至り、四方をむき出しのコンクリートに囲まれた廊下が続いている。壁や床は古びて水が壁に滲み、部分的に崩落した箇所もあった。人の気配はない。
(新木……ここにいるのか?)
常世と現世のはざまで視た風景をたよりに、ここへたどり着いた。
視覚に一瞬だけ映った悠乃は、地下室のような場所に座り込んでいた。無事だったことには心底安心したが、あの様子からして家出や事故は考えにくい。
なにより悠乃の『声』は、「助けて」と言っていたのだ。
(さっき、弾き出された感じがしたしな)
この場所を視たとき、唐突に感覚を断ち切られたように感じた。呪術は詳しくないが、霊的な侵入を防ぐ結界のたぐいのように思う。
さらに気になるのは、感覚が断たれる寸前に幻視した記号。
(あれは……幽霊屋敷の神代文字?)
嫌な気配が腹の底からのぼってくる。
もし神代文字の呪術陣を発見したことと、いまの事態になんらかの関係があるのなら。
呪術陣を設置した人間、または人間だったものが、露呈を嫌って悠乃を拉致したのだとしたら。
(俺が新木を屋敷探索に同行させたから? ……俺の、せいか?)
燐太郎は鳴神を握りしめる。
やがて廊下は十メートルばかり続いて終わった。
つきあたりの壁には鉄の扉がついていた。赤錆が扉の表面を覆い尽くし、もとの色がわからなくなっている。五年や十年の経年ではなさそうだ。
横に渡された鉄製の閂は壁側の金具から抜けている。開いているらしい。
「……」
かすかに、人の話し声がする。内容は聞き取れないが、誰かいるようだ。
燐太郎は鳴神を手元へ引き寄せた。
自分の呼吸を意識しながら、鉄扉に背を押しつけるようにして端に手をかけ、手前に引く。
重たい扉が、重たい音を立てて開いた。扉の端から細く淡い光が廊下へ差し込み、幅を広げていく。
燐太郎は扉に肩を当てたまま、隙間から覗き込み――
「新……」
汚れた制服、ほどけかけたふたつ結びの髪。
新木悠乃がこちらを向いて椅子に座っていた。力なく目を閉じ、顎を上げた首元になにかが光る。
そして、彼女の背後に立つ男は。
「こんばんは、曲直瀬先生」
三十路に見えない童顔に、人懐っこい笑みをたたえて。
白黎学苑高校化学教師、東城伊織が、いた。
「あはは、わけがわからないって顔してますね。いいなぁ。メインの目的じゃなかったんだけど、曲直瀬先生のそんな顔が見られるなら得した気分だなぁ」
昼休みの化学準備室で見せるのと同じ笑顔で、東城は笑う。
悠乃の身体にうしろから腕を回し、左手で顎を持ち上げて、逆の手で喉元へサバイバルナイフを押し当てながら。
「ほら、曲直瀬先生。そんなところにいないで、入ってきたらどうですか? そっち、暗くてじめじめしてるじゃないですか。こっちは快適……とは、ちょっと言えないんですけど。やっぱり古いせいか通気性が悪いんですよねぇ」
茫然と、促されるまま部屋へ踏み込む。
なかは学校の教室くらいの広さだった。燐太郎は思考を停止させたまま、殺風景な部屋を眺めた。
壁も床もコンクリート製だった。天井は高く、上部に明り取りの小窓らしきものが開いている。天井と壁のあいだは三ヶ所までが崩れ、内部の鉄骨が覗いていた。
近くの床に、扇風機とキャンプ用らしきランタン型のライトが置いてあった。脇にはいくつかの段ボール箱。その向こう側の床に、ペンキのようなもので円と直線で構成された奇妙な記号が描かれている。摩穂呂文字だ。
それから部屋の中央に、椅子がひとつ。
「せん……せ……?」
両手を縛られて椅子に座らされていた悠乃が身じろぎし、うっすらと目を開く。
それで燐太郎は我に返った。
「新木!」
「ストーップ」
東城の声が飛ぶ。燐太郎は駆け出しかけた足をとめた。
「駄目駄目、それ以上近寄っちゃ駄目ですよー。そうだ、その手に持ってるもの床に置いてくださいね。危ないので」
東城はナイフを握り直す。
「――でないと、この喉、掻っ切っちゃいます」
人好きのする笑みは変わらず、ナイフの切っ先が悠乃のむき出しの首にわずかに食い込む。
燐太郎は悠乃の白い喉から目を離せないまま、ゆっくりと鳴神を床に下ろした。
「そうそう。やっぱり曲直瀬先生は賢い人だなぁ。僕、フラスコより重いもの持ったことないですけど、さすがにこの距離だったら大怪我させちゃうかもです」
東城はナイフを少しだけ悠乃の首から離す。
燐太郎にも状況は認識できてきた。だが、理解が追いつかない。
事態の陰に人為があることはわかっていた。専門外ではあるが、燐太郎とて異界のわざを利用し良からぬことをする人間が存在することは知っている。何者が出てきても驚かないつもりでいた。
しかし。
「どうして……東城先生、なんで、なんであんたが……」
問いはほとんど自動的に発された。それから燐太郎は首を数度横に振り、自分の頬を両手で張る。呆けている場合ではない。
「そうじゃない、いやそれもそうだが、新木になにをしてるんです!」
「質問はひとつずつでお願いしたいなぁ。でも、そうですね、新木さんにはまだなにもしてません」
しれっとした返答に、燐太郎は頭がかっと熱くなるのを感じた。
「――ふざけるな! 三日も家に帰さずにおいて、どこがなにもしてないだって!?」
「まあまあ、細かいことはいいじゃないですか」
「細かかない! こんな場所に監禁するなんざ、あんたがやってることは犯罪だぞ! 早く新木を離せ!」
東城の腕のなかで悠乃が身動ぎする。頬は恐怖に歪んでいるが、薄く開けた目がこちらを見ている。目尻に涙がたまっていた。
「まなせ……せんせ……」
「新木。いま、助けてやる。大丈夫だ」
方法はさっぱり思いついていないが、どうにかしなければならない。
自分はそのためにここへ来た。祖父から禁じられていた魂の遊離を行ったのだって悠乃を助けるためだ。
困った生徒である。まだ半年にも満たないつきあいだが、手を焼かされていると思う。
それでも悠乃は燐太郎の怪我を手当てしてくれた。友人の遥の危機に動転し、必死で彼女を呼び戻した。この世界のことをもっと知りたいと真摯に言った。
(いや、そういう問題じゃあない)
「――生徒を守るのは、教師の義務だからな」
燐太郎の声が届いたらしく頷きかけた悠乃の喉に、ふたたびナイフが触れる。
「うーん、美しいなぁ。羨ましいなぁ。やっぱり曲直瀬先生は見てて飽きないなぁ」
東城の声はひどく軽い。
「あんた……」
「それで、僕がどうしてこんなことをしているかというとですねえ。まぁ曲直瀬先生は賢いので、とっくに気づいてるとは思うんですけども」
東城は燐太郎の激昂を無視し、にこりと笑った。
「雫ちゃんのためです」
「雫の……?」
燐太郎の頭が瞬時に冷える。
薔薇屋敷の件を考え合わせればなんらかの形で雫に関係しているはずだ、が。
(なにが、どうつながっている?)
東城は鷹揚に頷いて先を続けた。
「前に話しましたよね。学生のころ幸先町に住んでいて、雫ちゃんと話したこともあるって。あれね、一度や二度のことじゃないんです。僕は、雫ちゃんに悩み相談をしていたんですよ」
曲直瀬雫。
燐太郎の姉として記録される彼女は、彼のひとつ歳上だ。
祖母のあとを継いで『雨降りの巫女』になった雫が町の人々の相談を受けるようになったのは、十二歳のころ。失せ物探しや占いを中心に、放課後は社務所で毎日希望者の話を聞いていた。
「まあ僕のは、不思議なことはなにも関係なかったんですけどね。二十歳前後っていろいろ悩むじゃないですか、自分はなんのために生きてるんだろうとか。とはいえ人に相談する気も別になくて、境内を散歩してたらたまたま声をかけられたんです」
――お悩みですか?
当時中学生だった雫は、そう尋ねてきたという。
巫女装束の少女にいきなり話しかけられて当時の東城は警戒したが、何度か言葉を交わすうちに、雫の気さくさに次第に気を許すようになった。
「僕、昔から、適当につきあう知り合いはいっぱいいるけど友達はいないタイプなんです。でも雫ちゃんはなんか違ったんですよねぇ。歳下なのにちゃんと受け止めてくれる気がして、だんだん話すのが楽しみになっちゃいました」
雫は自分の役目に誇りを持っていた。
祖父母からよく躾けられたこともあり、人前でも物怖じせず年齢に似合わぬ貫禄をそなえていた。経験がともなっていないから寄せられる相談のすべてを理解していたわけではないだろうが、親身になって話を聞き、人に落ち着きを与えることは彼女の得意技だ。
東城の話とともに、雫の姿が鮮やかに脳裏に蘇ってくる。
燐太郎はいっとき、現在地を忘れた。
「卒業して引っ越したあともときどき来て、遠くから見るだけで満足したりしてね。でも、しばらく忙しくて来れない時期があって。だから驚きました」
一拍の間。
「――失踪した、って聞いて」
「……」
俯くまいと唇を噛み、燐太郎は東城の顔を見返した。
東城は依然として口元に笑みをたたえているが、目は冷え切っている。
「すごくショックで東京じゅう探し回ったし、人に話を聞いたりもしました。でも、変なんですよね。このへんに昔から住んでいる人たち、『あのうちは、そういうこともある』って言うんですよ。もっと噂になってもおかしくないのに、あんまり触れようとしないし。そのうち僕、気づいたんです。これはふつうの失踪事件じゃないんだって」
東城の目が細められる。
「だから調べる対象と場所を変えました。……ほんと、褒めてほしいなぁ。僕、ただの理系だったのに、この七年で呪術やら
「……どこまで知っている」
相手のペースに乗ることだとわかっていた。それでも訊かずにはいられない。
東城が悠乃の顎を左手で上へ向け直す。悠乃が小さくうめいたが、咎める余裕は燐太郎にはなかった。
「んー、推測もいっぱい入ってますよ。でもこれは確信してるんです――雫ちゃんは、失踪したんじゃない。なにかしらの超自然的な事故によって、常世に取り込まれた。違いますか?」
沈黙は肯定になることは理解していたから、燐太郎は言った。
「その、とおりだ」
雫が消えた日。抜けるような青い空。
あの日から燐太郎は、決して治らない疵を
東城は安堵したように微笑んだ。
「ああ、よかった。それなら僕がやってきたことは無駄じゃなかった」
「……雑司が谷の屋敷のあれは、雫を呼び戻すためかね」
「そうです。あの『文字』と出会ったのはラッキーでした。僕みたいな素人でも、文字なら扱える。ちょうどいい実験場所もありましたし。あのお屋敷は『機関』について調べてて見つけたんですけどね」
東城は残念そうにため息をつく。
「実験が成功する前に見つかっちゃいましたけど。触媒も取り返されちゃったし」
それで思い出した。
「雫のペンダントをどうやって手に入れた?」
問いに軽く目を見開いたあと、東城は笑いだした。
「あはは、曲直瀬先生、男のひとり暮らしだからって不用心すぎですよ。しょっちゅう鍵かけ忘れてるでしょ? 社務所にいつもいる人も家のほうは気にしてないみたいだから、簡単でしたよ」
燐太郎は舌打ちした。心当たりはある。かなり。
東城は悠乃につきつけたナイフはぶらさず、器用に肩をすくめる。
「そんなわけで僕、ちょっと困っちゃいまして。ほかの方法を探さざるを得なくなってしまったというわけです。しかたないので、新木さんにも協力してもらおうと思って」
「や……」
悠乃が細い声をあげてまた身動ぎした。東城が顎を掴むと静かになる。
「……新木をどうする気だ」
想像はついていたが、あえて尋ねたのはそうであってほしくないという願いの表れでもあったろうか。
東城は笑いを収めた。
「古典的なやり方ですよ。これから常世への路を開いて、雫ちゃんを呼び出します。新木さんには、
異界から霊魂を召喚し、憑坐に依り憑かせる。たしかに古典的だ。東北のイタコや沖縄のユタなど、それを専門に行う呪術師は古くからいる。神を下ろす種々の儀式も、基本的に同じ考え方である。
燐太郎は眉をひそめた。
「……常世は混沌そのものだぞ。確立されとらん方法でむやみに路を繋げば、現世と常世の境目が曖昧になってなにが起きるかわからん。最悪、東京がまるごと楔座になる可能性だってある。憑坐が無事でいられる保証もない」
「どうでもいいじゃないですか」
東城はさらりと言い捨てる。
「それより曲直瀬先生にお願いがあるんですよ。この方法で常世の路を開くには、摩穂呂文字を読み上げなければいけないんです。でも、僕、ちょっと読み方に自信がないんですよね。やっぱり専門家に頼んだほうがいいかなって」
「断る」
即答した。
燐太郎は東城を睨みつける。胸中にふつふつと怒りが湧いていた。
雫を呼び戻すなど、雫自身が望むわけがない。
「――
「わぁ、すっごいプライド」
気圧されたように目を丸くしてつぶやいた東城は、嬉しそうにすら見える。
「しょうがないなぁ。じゃ、新木さんを殺しちゃいますね」
東城が腕を引き寄せると、悠乃の喉がのけぞって
「よせ!」
「嫌ですか? 僕のお願いを聞いてくれたら、曲直瀬先生のお願いも聞いてあげます。ギブアンドテイクですよ」
「この、っ!」
燐太郎の罵詈雑言を押しとどめたのは、少女のか細い声。
「だめ……」
ナイフの先端が喉に当たった姿勢で、悠乃が唇を動かしている。
「曲直瀬、先生……わたしなんかの、ために、言いなりになったらだめ……水秦神社は、幸先鎮守。先生は、そのお役目を、とっても大事にしてるんだから……」
悠乃はかすかに口角を上げた。
笑っているのか。この状況にもかかわらず。
「へぇ。理解されてるんだー」
東城の声のトーンが一段低くなった。
見れば、ここまで終始消えなかった東城の笑みがいつの間にか消滅している。
「――ああ、やっぱり許せないな、曲直瀬燐太郎は」
東城はかすかな笑みを浮かべる悠乃の口元を顎ごと掴んだ。悠乃がくぐもった声をあげる。白い喉をナイフの腹で繰り返し撫でながらも視線は悠乃ではなく、燐太郎に向けられているのが危なっかしい。
その目の
「僕、きみがずっと許せなかったんだよ。雫ちゃんだけじゃない、きみのことだって知ってた。見てたから」
東城の声には底知れぬ憎悪がこもっていた。
「嫉妬してたよ。当然でしょう? 弟だからっていつもそばにいる。だけど、それだけじゃない。雫ちゃんと一緒にいるきみの態度、きみの笑いかた、きみの目を見て、僕にはすぐわかったんだ。こいつは僕の敵だな、って」
「なにを……」
言っている。そう続けようとして、燐太郎は不意に口をつぐむ。
――まさか、そんなはずがない。
雫と過ごした短い十数年、喪ってからの永い七年。
誰にも言ったことはない。知られるまいと、決して態度にも出すまいと固く誓い、自分を律してきた。
なのに、まさか――
燐太郎の視線が泳ぎ、悠乃の目とぶつかった。眼前に迫る死の恐怖に怯えながらも、燐太郎への信頼を揺るがせぬ瞳。
「……やめろ」
懇願がこぼれた。
東城はふたたび、口元にだけ笑みを浮かべる。
「大変だったでしょう? ひとつ屋根の下で、思春期のまっさかりに、ずっと一緒に過ごすなんてさ」
「やめろ!」
東城が笑う。それはたしかに嘲笑であった。
「――実の姉、なのにね」
足元で奈落がぱくりと口を開けている。燐太郎は自分が、闇のなかへ真っ逆さまに落ちていく気がした。
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