龍哭 肆

     肆.


 幸先通り商店街の店では、燐太郎の顔はかなりの率で割れている。だが駅前のチェーン店では学校関係者に発見される可能性が高い。両者を天秤にかけ、燐太郎は前者のほうがましだろうという結論に達した。

 都電に近い地下の喫茶店『サライ』は、幸いなことにほかの客がいなかった。

 タブラやシタールの異国の音楽が流れる、薄暗い照明の下。

 燐太郎の向かいには、小野寺理沙と古賀遥が神妙な顔をして座っていた。

 場所に慣れないのか遥がときおり視線をふらつかせ、そのたび理沙につつかれている。少女たちはお互いタイミングを計っているかのように、なにも言わない。テーブルの上の一杯の珈琲と二杯のアイスティーは手をつけられないままだ。

 燐太郎は業を煮やし、尋ねた。

「そろそろ話してくれんかな。こんな脅迫まがいのことをして、俺になんの用だね?」

 教職員用通用口で燐太郎を捕えたのは、東洋文化研究会の理沙と遥だった。彼女たちは「一緒に来てくれなければ、先生のあることないことを学校で言いふらす」という、なんとも曖昧な脅しをかけてきたのであった。「あることないこと」の詳細が気にならなくもないのだが、どちらかというとふたりの鬼気迫る表情に押し切られたというほうが正しい。

 燐太郎の問いからさらに少しの沈黙があって、理沙が口火を切る

「――新木悠乃さんのことです」

 予想の範囲内だ。悠乃の数少ない友人であるこのふたりが揃ってやってくるとなれば、ほかに考えにくい。だが用件の内容となると見当がつかない。

 軽く片眉を上げただけの燐太郎を、理沙が眼鏡越しにきっと睨んだ。


「新木さんの居場所を、先生はご存知ではないんですか?」


「……は?」

 完全に虚をつかれた。

 悠乃は三日前から学校を休んでいる。が、居場所とはどういうことなのか。

 それを考える前に、理沙がテーブルに両手をついて立ち上がった。テーブルと椅子がぶつかって大きな音を立てる。

「しらばっくれてたら承知しないわよ!」

「理沙ちゃん、だめ!」

 遥が理沙の腕に手をかけて座らせた。

(どういうことだ?)

 小野寺理沙といえば高校から入学した『外部生』でありながら一年生、二年生と続けてクラス委員をつとめ、成績も学年十位に入る才媛として知られる。こんなに感情的になった姿は初めて見た。

 その理沙はいまだ燐太郎をねめつけ、遥は理沙の腕を撫でながら、硬い表情で理沙と燐太郎を交互に見ている。

(こりゃあ……)

 依然状況は理解できない。

 しかし、なんらかの異常なことが起きているような気がした。

「……たぶん、誤解があるように思う。申し訳ないが、俺はなにも知らんのだよ」

 無性に煙草が吸いたくなったが、生徒の前だ。燐太郎はかわりに少しぬるくなった珈琲で喉を潤す。

「教えてもらってもいいかな。新木の居場所とは、どういうことだね?」




 窓の外はすでに暗い。まもなく十時になるはずだ。

 シャワーを浴びて新品の足袋を履き、白衣はくえと浅葱袴に着替えた。

 今日はさらに上から狩衣をまとい、烏帽子をつける。夕食は抜いた。潔斎のためである。

「ウズメさん、すまんが今晩は境内へ出るんじゃあないぞ」

 不満げな猫を置いて雪駄を履き、自宅玄関に鍵をかけた。

 手には、クリアファイルに挟んだ数枚の紙。夜風に飛ばされそうなそれをしっかりと脇に抱える。

 先に二の鳥居へまわり、チェーンを渡して閉鎖した。ふだんの水秦神社は二十四時間誰でも入れるのだが、今夜は人を近づけるわけにはいかない。

 手水舎で手と口をきよめ、拝殿へ上がる。

 なかは暗く、本殿へつながる短い階段の左右にだけ灯火がついていた。板張りの床に灯火が反射する。

 広間の中央からやや右にずれた位置に、四足の台と銀の盆が置かれていた。帰ってすぐに宝物庫から出して据えたのだ。盆には水が張られ、右手側に榊の枝、手前に白木の短刀『鳴神ナルカミ』が寝かせてある。

 一直線上を歩く独特の歩き方で、盆の前に立つ。中央は神の通り道である。人が通ってはならない。

 一礼し、正座して、さらに両手をついて礼。

 脇に置いたクリアファイルにちらりと視線を向ける。

 悠乃が書いた東洋文化研究会会報の原稿だ。さっき、時間をかけて読んだ。


 ――『雨降りの巫女』の由来は、かつて干ばつの際に、地元の娘が雨を願って飲まず食わずで三月みつき祈り続けたところ、雨が降ったという言い伝えによります。娘は龍神の妻となり、その子孫が水秦神社の宮司家となったそうです。以来、宮司家にはときおり、龍神のお告げが聞こえる娘が生まれるようになったということです。

 彼女たちは『雨降りの巫女』と呼ばれ、占いや失せ物探しなどに力を発揮して、大切にされるようになりました。現在は伝統は途絶えてしまっていますが、身近な場所にこんな言い伝えがあるなんて、なんだか素敵ですね。みなさんも、たまには学校からすぐの水秦神社へお参りしてみませんか?――


     ◇


 夕方、古賀遥から聞いた話。

『あのー、悠乃ちゃん、三日前から家に帰ってないんです。昨日、あたしたちに悠乃ちゃんのお母さんから電話があって、どこに行ったか知らないかってー』

 なぜ学校に知らせないのか尋ねると、落ち着きを取り戻した小野寺理沙が答えた。

『白黎はいろいろうるさいから、騒ぎにしたくないんだと思います。悠乃のところ、お母さんしかいないし』

『ちょっと難しいおうちだもんね……』

『遥!』

 口を滑らせたものらしい。燐太郎はそこだけ聞かなかったことにした。


     ◇


 拝殿に高く低く、抑揚をつけた燐太郎の声が這っていく。

「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ、つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに、みぞぎはらえたまひしときに、なりませるはらえどのおおかみたち……」

 盆の水に浸けた榊の枝を振る。水滴が飛び散る。


     ◇


『あたしたち、曲直瀬先生がなにか知ってるんじゃないかって思っちゃってー……悠乃ちゃん、夏休み中に神社に行ったって言ってたし、その……』

『お騒がせして、すみませんでした』

 気まずそうに言った遥のあとに、理沙がぺこりと頭を下げる。

『実は悠乃がいなくなった日、わたし、ちょっと喧嘩っぽくなっちゃって……そのせいじゃないかって、ずっと不安で』

 構わんよと言うと、もうひとつお願いが、と理沙が続けた。

『悠乃のお母さんが連絡するまでは、このこと、学校に黙っていてもらえませんか。今日帰ってこなかったら、警察に届けるそうです。だから、それまでは』


     ◇


 燐太郎は鳴神を取り上げ、鞘を払う。

 暗闇を圧するがごとき刃の光。遥か昔にヒトの打った鋼の輝きが、混沌の闇に灯を点す。

「幸先の地におわけまくもかしこ美那波多貴与良大神みなはたきよらのおおかみいにしえ盟約さだめに拠りて、ここに巫覡かんなぎたる曲直瀬燐太郎、かしこみ恐みてこいねがう――」

 だん、と片足を踏み出す。

が身にが身を、汝がたまに吾が魂を捧げ奉らんと、もうすことを聞食きこしめせと、恐み恐みて白す……!」

 裂帛。左手を腰に当て、右手で構えた鳴神を虚空に突き出した。

 耳元でごうと風が鳴った。

 瞬時に視界が変わる。

 赤外線カメラに似たあの視界、けれども一時的に耳や目を切り替えるのとは違う浮遊感がともなっている。

 下をた。

 鳴神を構えた姿勢のままの燐太郎が、そこにいる。

(……一発で成功するたぁ思わなかったな)

 かつて『雨降りの巫女』が行っていた『失せ物探し』の種明かしがこれだ。

 雫や祖母の妙子は「龍神さまと魂を共有する」と言っていたが、真実は知らない。燐太郎も実行したのは数えるほどだ。

 ことばに導かれ、一定の手順を踏むことによって意識を現世うつしよの肉体から切り離し、常世とこよとの狭間に漂わせる。身体ごと楔座くさびざへ踏み込む楔渡くさびわたりとは別種の危険を伴う行為である。これを行って身体に戻れなくなった巫女の話を、何度も聞かされた。

(対象は人間とはいえ、失せ物には違いあるまい)

 慣れない感覚のなかで自分の居場所を確認するより前に、燐太郎の意識はどんどんと上へのぼっていく。まわりに強い水流を感じた。

 鳥居。

 車のエンジン音。

 ひだまりの匂い。

 石段。

 雪の降り積もる音。

 学校。

 躑躅つつじの花。

 コンビニのレジ。

 鈴を振る巫女。

 金木犀の香り。

 夏空。

 大名行列。

 川の流れ。

 神輿。

 赤ん坊が泣いている。

 桜吹雪。

 視覚と聴覚を物質化したような奔流ストリームが、猛烈な勢いで流れすぎる。気を抜けばさらわれてしまいそうだ。

 ふと、頭をよぎる。

 この流れに身を任せてしまえば、己の罪を忘れることもできるのだろうか。

 そう考えたとたん、渾然一体となった奔流のうちに懐かしい声を聴き取った。

 ――まっかせなさい。

(……雫)

 そのときの自信満々の笑顔が脳裏に浮かぶ。

 ――燐のお願いを、わたしが聞かないことなんてあった?

(あった。山ほどあったとも。なのにどうして、あのときだけ)

 ――平気平気! このくらい、何度もやったもの。

(知っていた。だけど、雫の身体が弱っていることだって知っていた)

 すすり泣く声がする。

 ――ごめんなさい。ごめんなさい、曲直瀬くん。あれ、嘘だったの。

(ああ、もう、名前も顔も忘れちまったなぁ……)

 だけではない。自分のうちに蓄積した記憶、積み上げてきた経験が、過去と現在とをめぐる流れのなかに白く塗りつぶされていく。

(忘れるなんて、こんなに簡単だ)

 その思いすら。

 だからかすかな声を聴き取ったのは、ほんとうに偶然だったのだろう。


 ――せん、せ。


 それはうたた寝の最中、ちょうどいい具合で微睡んでいたところを呼ばれた感覚に似ていた。目覚めるのがひどく億劫に思う。

(もう、俺を呼ぶな)


 ――たすけて、せんせ。


(勘弁してくれ。俺になにができる。姉ひとり助けられなかったんだぞ)


 ――たすけて、まなせせんせ。


(……どうして)


 ――燐は成績はいいくせに、馬鹿だよねぇ。そんなこともわかんないなんて。


(――……)

 ふたたび風が鳴った。

 唐突に自分のありかを認識した。眼下にどこまでも続く家並み。真上に重たい都会の空。

 それが視えたのも一瞬のこと。いくつかの風景が切り替わる。

 円形のホール。ステンドグラス。階段。暗い部屋。片隅に膝を抱えて座り込んだ、小さな人影。

 視界の端をよぎる、円と直線の記号――


「あいてっ!」

 気づいたら燐太郎は、薄暗い拝殿で肩で息をしていた。鳴神を突き出し、一歩踏み出した姿勢のまま。顎先から汗がこぼれ、床に落ちる。

「……」

 震えのおさまらない手で短刀を鞘に納め、白木の柄から一本ずつ指を引き剥がした。

「……視えた」

 視たものを頭のなかで検証する。

(いささか、まずい気配がしたような……いや、まずいのか?)

 最後、弾き出されたような感覚があった。その意味するところは。

「――まずいな」

 燐太郎は駆け出した。

 走りながら烏帽子と狩衣をはずし、拝殿の入り口に投げ出す。かわりにキーケースをつかみとって懐へ放り込んだ。

 彼は雪駄をつっかけると、石段を一気に駆け下りた。

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