龍哭 参

     参.


 夕食後、燐太郎が自室の文机で翌日の授業範囲の付箋を確認していると、突然大きな音が聞こえた。

「なんだなんだ、電話か」

 廊下の途中に電話台が据えてあるのだが、ずいぶん長いこと鳴っていなかったような気がする。神社への用事は社務所の電話があるし、燐太郎個人に対しては携帯にかかってくるからだ。

「はいはい、ただいま」

 煙草を横にくわえ、足元に巨大三毛猫のウズメさんをまつわりつかせたまま廊下へ出た。廊下の時計は九時すぎを指している。

 七コールめで受話器を上げた。

「お待たせしました、曲直瀬です」

『おまいさんの持ってきた文字じゃがの、やっぱり摩穂呂まほろ文字じゃったぞ』

 しわがれた老婆の声が、いきなり本題を言う。

「……ライカさん、電話では名乗ってくれんかね。前に俺の携帯番号も教えた気がするんだが」

『東京にいるくせに〇三から始まらない番号なんざ信用できるもんかい』

 相手は神田神保町の宗教書専門店ひのえ堂の店主、霧崎ライカであった。ライカは先日見せた雑司が谷の屋敷の呪術らしき痕跡について、さらに調べてみると言ってくれていたのだ。

『そんなことよりあの呪術陣、ちーっとばかりまずいもんだったようじゃよ』

「ほう?」

 燐太郎は電話台の下からスツールを引き出して座った。電話機の横の灰皿を確かめる。

『摩穂呂文字が常世への路を開く機能を持っているという話はしたな。あの陣は、なかでも特殊な目的のために用いられるものじゃそうな』

 ウズメさんが伸び上がって、ジャージの膝に爪を立ててきた。燐太郎はクリームパンに似た前足をつまんでどける。

「こーら、穴が空くだろ。……失敬、もったいぶらんで教えてくれ。あの地面の痕跡は、なにを目的にしてるんだね?」


『――死者の復活じゃよ』


 唇から煙草がこぼれ落ち、いち早く危機を察知したウズメさんが飛び退く。

「お、わわ、危ねっ」

 床に落ちた煙草を拾い上げて灰皿へ押しつけた。

『なんの騒ぎじゃ。落ち着きがないのぉ』

「いやこっちの問題で……しかしな、普通に驚くだろう。死者の復活とはまた、いまどき非現実的な」

 なにが現実的なのかはさておき、である。

『あらゆる呪術が目指す到達点のひとつじゃよ?』

 それが常識であるかのように、ライカは言う。

「しかし、常世が黄泉よみの国とイコールってわけじゃあないんだろう」

 黄泉の国とは、死後の世界だ。

 古くは死んだ妻、伊邪那美命イザナギノミコトを迎えに行くため黄泉に下る伊邪那岐命イザナギノミコトの神話が記紀にある。伊邪那岐命は、決して姿を見てはいけないと伊邪那美命に厳命されたにもかかわらず、彼女の腐り果てた姿を見てしまう。そこからの逃亡劇や黄泉比良坂よもつひらさかの問答など、有名な場面の多い物語だ。だが。

『おそらく違うじゃろうな。死人の魂がどこへ行くのか、あたしらはまだ正確な答えを知らぬ』

「なのに、常世への路を開く文字を使って呪術を行ったら、どうなる?」

『わからぬ』ライカは短く言って、付け加える。『じゃが、よからぬことが起きてもおかしくはないじゃろうな』

 そのとき燐太郎の頭に浮かんでいたのは、呪術陣の盛り土に埋められていたもののことだった。

「……ライカさん。過去の人間の持ち物が、あの呪術陣に組み込まれていたとしたら、なにを意味すると思う?」

『単純に考えて、その人間を復活させようと願っている誰かがいるということじゃろう』

 燐太郎は黙り込む。

『どうにも続きのありそうな件じゃのぉ。瓜生うりゅうも心配しておった』

「『機関』に問い合わせたのかね!?」

 思わず声が裏返ってしまった。しかしライカは落ち着いたものだ。

『専門家に訊いたほうが早かろ。おまいさんは連絡を取りたくなかろうと思ったから、かわりに訊いてやったんじゃよ』

 ライカは得意げだ。おせっかいな、と思ったが、彼女の気遣いもわかる。

「そりゃあ、まぁ……ありがとう、ライカさん」

『なんの。ともあれ面倒そうな話じゃ。おまいさんも、あんまりひとりで抱え込むんじゃない。危ないと思ったら人の手を借りるんじゃよ』

「ああ。憶えておく」

 電話を切って自室へ戻る。

 しかし作業を再開する気になれず、燐太郎は煙草を咥えて燐寸マッチを擦った。紫煙をくゆらせながら、先ほどのライカとの会話を反芻する。

「……」

 文机の端に置いていた小箱を取り上げた。

 蓋を開ける。なかに入っていたのは、透明なしずく型の石のペンダント。雑司が谷の屋敷で悠乃が見つけ、持って帰ってきた品である。

 ――これは、この家に保管されていたはずのものだ。

 同じデザインの別ものという可能性も考えた。けれど幽霊屋敷騒動の直後に確認したところ、あったはずの場所からなくなっていたのだ――雫の部屋の、抽斗ひきだしから。

(いったい、なにが起きている?)

 燐太郎は指先で、水晶のペンダントトップに触れた。




 二年三組の教室に入ったときから、新木悠乃がいないことに燐太郎は気づいた。

「ごきげんよう」の挨拶のあとに教卓で出席簿を広げると、悠乃の欄に『保護者から欠席連絡あり』の付箋がついている。

(……三日目か?)

 このクラスの授業は二日ぶりだが、前回も悠乃はいなかった。出席簿を遡ると、昨日も同じ状況だったことがわかる。

(夏風邪でもひいたかね)

 生気の塊のような悠乃も、体調を崩すことくらいあるだろう。

 悠乃と距離をとる努力は続けている。それが欠席となると、若干気が楽になる面は否定できない。

「それじゃあ、出席をとる」

 燐太郎は薄く浮かんだ不安を押し込めた。




 昼休み、職員室に戻った燐太郎は、白衣に出迎えられた。

「曲直瀬先生! 一緒にお昼食べましょう!」

 化学教師の東城伊織とうじょういおりが人懐こい笑顔を満面に浮かべ、燐太郎のデスクの脇で両手を広げている。

 相変わらず三十路に見えない若々しさ、というか子供っぽさである。やや奇異な言動も見えるが、もっとも年齢の近い同性の同僚のためになんだかんだで話す機会が多い。とくに昼食どきは、頻繁に化学準備室の厄介になっている。

 昼休みの化学準備室は硝子ガラスの窓を通して柔らかな光が差し込み、生徒たちの高い音域の声もほどよい遠さで届く。

「聞きましたよー。こないだ、大変だったらしいですね」

 コンビニおにぎりを頬張って、東城が言った。燐太郎はスパゲッティを吸い込んで聞き返す。

「こないだ?」

「放課後、職員室でお姉さまコンビに絞られたんでしょー?」

 のほほんとして見える東城だが、こういった耳の速さは、やはり燐太郎より長くこの仕事をしているゆえか。

「……ああ。えらい目に遭いました」

「あははは、災難でしたねぇ。曲直瀬先生は若いし、かっこいいし、モテるから目の敵にされちゃうんだろうなぁ」

「かっこよくはないですよ。モテませんし」

 燐太郎からすれば、人懐っこい雰囲気の東城のほうがよほどモテそうだ。今日も白衣の下は爽やかなクレリックシャツで、装いだってしゃれている。長い前髪で目元を隠し、季節お構いなしに暗色スーツの燐太郎とは大違いである。

 東城は吹き出すように笑った。

「自覚がないのも問題かもしれないなぁ。とにかくね、そういうのって嫉妬されてるんですよ。あんまり気にしないほうがいいです」

「嫉妬……ですか」

「ただ、やっぱり若い男性って、ここの職場では面倒くさいところありますし。僕も前に言いましたけど、生徒との距離は気をつけたほうがいいかなーと思ったりですよ?」

 東城はインスタントの珈琲を満たしたマグカップを差し出してきた。礼を言って受け取る。

 気を落ち着かせる珈琲の香りに、燐太郎はため息をついた。

「注意してたつもりだったんですが、少しばかり軽率だったとは思ってます」

「まあまあ。今後ですよ今後」

 東城は燐太郎の肩を軽く叩く。それからなぜかぐぐっと顔を近づけてきた。

「僕はいつでも、曲直瀬先生の味方ですから!」

「……はぁ」

 やはり東城の距離感はおかしい。けれど好意的に接してくれているのはたしかだ。今日だって、清水と和田に絞られた件を耳にしたからわざわざ誘いに来てくれたのかもしれない。ありがたいことなのだろう。




「お先に失礼します」

 早々に職員室を出る。廊下ですれ違う生徒たちに挨拶を返しながら、通用口へ向かった。

 目下、燐太郎の気がかりは雑司が谷の呪術陣のことであった。

(やっぱりここは『機関』に連絡してみるべきか)

 少しばかり世間の常識と異なる世界に長年身をおいてきたが、呪術となると燐太郎も詳しくはない。彼の分野はもっぱら異神アダガミ、常世の影響を受けて変質した存在の対処方法であって、人間の扱う超自然的なわざのことはよくわからない。

(誰かが、ほんとうに雫の復活を望んでいるとしたら……)

 考えがそこへ至ると、毎度のことなのに息がつまるような感覚に陥ってしまう。

(常世は黄泉の国とは違う。たとえ摩穂呂文字の呪法が本物だったとしても、死者の復活が叶うはずはない……だが、だけど、雫は、雫なら)

 顎先の長さの髪から覗くほっそりしたうなじが、まぶたの裏にちらつく。

 目眩をおぼえ、燐太郎はこめかみを押さえた。

(……いかんな。切り替えにゃならん)

 教職員用の通用口は、西棟と本部棟のあいだにある。駐車場につながっていて、生徒は近寄らないエリアだ。燐太郎が帰宅する時間にはまだ大半の教員が残っているから、ここで人に会うことはめったにない。

 しかし、今日は違っていた。

 燐太郎が屋根つきの駐車場へ一歩踏み出したとたん。

「……!?」

 両腕をつかまれた。

 相手はふたり。通用口の左右に分かれて立ち、燐太郎の腕を片方ずつがっちりとホールドしている。

 押し殺した声が耳を打った。

「――曲直瀬先生。一緒に来てもらいます」



     ◆◇◆



 まぶたを上げると薄暗がりだった。

 前に目を開けたときと状況は変わっていない。あれが何分前だったのかはわからない。何時間も前かもしれないし、ひょっとしたら数日前で、それ以来ずっと眠り込んでいたのかもしれない。

 悠乃は自由にまかせない手をついて、身を起こした。

 部屋の一画が明るい。四、五メートルほど上にある明り取りの窓から、光が筋状に差し込んでいる。昼間であることはわかるが、時間帯は想像のしようもない。

 むき出しのコンクリートの床に、水の五百ミリペットボトルとコンビニのカレーパンが放り出してあった。

 悠乃は立ち上がった。両手首が、身体の前で荷造り紐のようなもので縛られている。座り込んでペットボトルを拾い上げ、両腿に挟んでどうにか蓋を開けた。

「……あっ」

 ペットボトルを倒してしまった。不自由な手で慌てて起こしたが、三分の二ほどの水が無為にコンクリートへ吸い込まれていく。

「……」

 残った水を飲み干しかけ、ふと思い当たる。いまはこうして食料を与えられているが、次があるのかどうかもわからない。半分ほど飲んで、注意深く蓋をする。

 カレーパンを手元に引き寄せ、隅で膝を抱えた。

 一辺が二メートルほどの狭い部屋だ。床も壁もコンクリートの打ちっぱなしで、ずいぶんと古そうである。窓にはまった格子は錆びていた。部屋は重そうな鉄の扉で閉ざされている。すでに何度も扉への体当たりを試みたが、結果は肩が痛くなっただけだった。

 悠乃のうえを、光が少しずつ移動する。

 これから、どうなってしまうのだろう。は、悠乃をどうするつもりなのだろうか。

 暴力を振るわれたりはしていない。けれどこのまま放っておかれるだけで、一週間もすれば確実に悠乃は死ぬ。

 床にあった光が橙色に変わり、壁に沿ってのぼってゆく。

 完全に暗くなってしまう前に悠乃はカレーパンを開けた。ひと口、かじる。

 久しぶりに口にした食べ物の味。

 涙がこぼれそうになって、膝へ顔を埋める。乾いた唇が、祈るように言葉を紡ぐ。

「せん、せ……」

 暗闇が少しずつ、地下室を覆っていった。

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