龍哭 弐

     弐.


 授業終了のチャイムが鳴った。燐太郎はチョークを持つ手をとめる。

「おっと、ここまでか。それじゃあ、続きはまた次回。次回は小テストやるから、ここまでの意味と文法は確認しておくこと」

「ごきげんよう」の挨拶と同時に、教室をざわめきが満たした。白い夏のセーラー服を着た少女たちが三々五々集って会話を交わし、次の授業の準備をする。

 ふたつに分けた髪を揺らして、新木悠乃が寄ってきた。

「ま、な、せ、せ、ん、せ」

 両手を背に回し、上目遣いで燐太郎を窺っている。

「なんだね、質問かね?」

「ふっふっふ。このあいだ取材に協力してもらった原稿を提出してきました!」

 悠乃は左肩をクリップでとめた数枚の紙を差し出した。ワープロの文字がびっしりと打ち出してある。

「取材というと、あれか。東洋文化研究会の」

「そうでーす! 締め切りに間に合ったので、文化祭で会報に載る予定です!」

 東洋文化研究会は白黎学苑の部活のひとつだ。悠乃の友人の小野寺理沙と古賀遥が所属しているが、悠乃自身は部員ではないらしい。なぜ部外者の悠乃が原稿を書くことになったのか不明だが、そもそも東洋文化研究会自体が、会報を発行していること以外よくわからない部活なのでさもありなんである。

「会報もできあがったら持ってきますけど、先生に先に見てほしくてっ」

「そうか」

 燐太郎は笑みを浮かべた。

 悠乃から取材を求めて追いかけ回されていたころは閉口したが、実際のインタビューはいたってまともなものだったし、自力でよく調べていると感心した。その成果物が自分が関わって完成したというのは、やはり嬉しい。

「そりゃ光栄だね。あとで読ませていただくよ」

 紙束を受け取ると、悠乃はえへへと嬉しそうに笑う。

 教室のなかばで話していた生徒たちが、ちらりとこちらを見たような気がした。




 少々困った事態が起きたのは、その日の放課後。

 燐太郎はいつもどおり、さっさと帰るべく職員室で荷物をまとめていた。悠乃の原稿をクリアファイルに挟んで鞄にしまいつつ、つい先日に神田神保町へ行ったときのことが頭をよぎる。

 年齢不詳のひのえ堂店主、霧崎ライカは、別れ際に燐太郎に言ったものである。

 ――おまいさん、雰囲気が変わったのぉ。

 意外に感じた。ライカは他人をあまり気にしない性質である。そうかね、と返すと、店主は続けた。

 ――去年まではふらっとに漂い出て、戻ってこなくても不思議はない感じじゃったがの。いまは自分が人間であることを思い出したようじゃ。

 結構結構、とライカは笑った。

 そのとき燐太郎は、実は少しぎくりとした。楔座くさびざに出入りしていたことを指摘されたような気がしたからだ。

 楔座とは、常世とこよの痕跡の残る場所。山野にも街中にも存在するが、通常の手段ではたどり着けない。しかしなにかの拍子でみちが開いてしまうこともあり、人や獣が迷い込むこともある。迷い込んだものは常世の楔の影響を受け、異神アダガミと化して、やがて常世の一部となるのだ。

(……いささか、しょうもない趣味だったな)

 水秦神社の鎮守の森は、楔座をひとつ内包している。

 燐太郎はときおりそこへ入り込み、目的なく時間を過ごすことがあった。

 亡くなった先代に知られたら間違いなく殴られたであろう。楔座に長くとどまれば徐々に常世に侵食され、人の姿を保てなくなる。それゆえ燐太郎は、楔渡くさびわたりをしすぎるなと、幼いころから繰り返し言い聞かされた。

 そういえば、最後に『趣味』に興じたのは四月であった。その後は白黎学苑の紹介を受けたりして忙しかったこともあり、まったくやっていない。

 新木悠乃と出会った日だったな、と思いながら席を立ちかけたところ、呼び止められた。

「曲直瀬先生」

 燐太郎の席を囲むように背後に立っていたのは、白黎学苑でもベテランに属するふたりの女性教師だった。

「……なんでしょうか?」

 女性教師たちは、友好的とは言いがたい空気を放っている。奇妙な空気に周囲も気づいているようで、いつの間にか職員室には緊張感が漂っていた。

 かすかに眉をひそめた燐太郎をなだめようとするかのように、女性教師の一方、家庭科担当の清水がふくよかな顔に微笑みを浮かべる。

「いえね、曲直瀬先生は、お若いのにとても頑張っていらっしゃいますでしょう? わたくしたちも感心して、いつも話題にさせていただいておりますのよ」

「はぁ、それはどうも。ありがとうございます」

 燐太郎は警戒の度合いを強めた。薄っぺらい褒め言葉から入る相手は信用ならない。ついでに言うと、燐太郎はこの白黎学苑で頑張った憶えはない。

 清水は笑顔のまま器用に眉尻を下げた。

「あら、お世辞だと思ってらっしゃるかしら。ほんとうのことですよ。でもね、ただ、ちょっと……」

「曲直瀬先生について、よからぬお話を耳にしましたの」

 割り込んだのは英語担当の和田である。隣の清水と対象的に、鶴のように痩せている。清水は小声で「ちょっと、和田先生ってば」と言い、燐太郎にホホホと笑ってみせた。

「ただの噂のようなものですのよ。でも、噂って放っておくとおおごとになることもありますでしょ。曲直瀬先生はお若いから、失礼ですけどそういうことにあんまり慣れていらっしゃらないかな、とも思いまして。それで、事実がどうなのか確認したいと思っただけですの」

 清水のものいいは要領を得ない。和田が眼鏡のフレームをくいと上げた。


「ある生徒を特別扱いしているという話を、最近聞くのですけども?」


 片頬がぴくりと動いてしまったのを、燐太郎は自覚した。前のふたりに気づかれていないことを祈る。

 清水が言いたくなさそうなそぶりをしながら、和田に続ける。

「なんでも、学校で親しくしているだけではなくて、自宅に出入りさせてるとか……あ、気分を悪くされたかしら? もちろん、そんな非常識なことを曲直瀬先生がするわけがないと思っておりましてよ。あくまで、噂ですわ」

「でも仮に、仮にですけれど、事実だとしたら、白黎学苑創立以来の大問題ですわ」

 軽く三十は歳上のふたりの女性は、燐太郎を挟んで口々に言った。

(……くそ。アンズの言ったとおりか)

 清水と和田が新木悠乃のことを指しているのは明白だ。夏前、悠乃が燐太郎を追いかけ回していたのを誰もが見ている。そも、水秦神社は白黎学苑のすぐそばだ。推測やら目撃やらをされた可能性は、充分にある。

 和田が重ねて尋ねる。

「どうなんですの?」

 沈黙は肯定と取られるだろう。

「――事実では、ありません」

 燐太郎はできるだけ平静な声を装った。

「どんな噂が出回ってるんだか知りませんが、特定の生徒を特別扱いしているつもりはありませんし、生徒を自宅に上げたこともありません」

 社務所は自宅とは隣だが別の建物である。嘘ではない。

 初老の女性ふたりは顔を見合わせ、それから黙って燐太郎へ視線を戻す。

 そのしぐさの意図を理解しかねたが、やがて思い当たった。要は、彼女たちの忠言に従う態度を見せろということか。

(くだらんな……)

 だが、学校もまた組織なのであった。組織とは理不尽を制度化したものだ、と昔の誰かが言ったような言わなかったような。

「……誤解を招くような言動は、改めたいと、思います」

 どうにか声を荒げずに最後まで言えた。それを聞き、清水と和田はようやく頷き合う。

「ほんとうにお気をつけくださいましね」

「白黎学苑はよき日本女性を育てる学校です。もしもがあってはなりませんのよ。曲直瀬先生は理事長のご友人のお孫さんなんですし、もう少し自覚を持っていただきませんと」

 清水と和田は念を押してから、燐太郎に背を向けた。

 充満していた妙な緊張感がほどける。今度こそ燐太郎は鞄を取り上げ、無表情で「お先に失礼します」と言って、デスクをあとにした。

 職員室を出る前に、ちらりとささやき声が耳をかすめる。

「……生徒のほうに問題あるでしょ」「二年三組の……」「あの生徒は、家がちょっと」「環境がね」「やはり母親だけというのは、白黎としてはあまり」

 かっと頭に血が昇った。

 悠乃に家のことを聞いたことはないが、この流れで家庭環境を話題にするのは不当だろう。けれど燐太郎が割って入れば、あらぬ疑いを再燃させかねない。

 誰が言ったのかはわからないし、たしかめる気にもなれなかった。

 燐太郎は熱を追い出すように頭を振って斜め上の天井を睨み、大股で教職員用の通用口へ向かった。




 考えてみれば夏前に戻っただけだった。

 燐太郎は悠乃の「お話きかせてください攻撃」を避けるため、ひたすら逃げ回っていたのだ。

 その後の事件を経て、悠乃は異神や異界の存在を知ることとなった。いまさら彼女に隠すべきことはない。神社に関する取材にだって応えた。つまり悠乃の用件も済んだはずで、適正な距離に戻すのは筋が通っている。

「曲直瀬先生、あの……」

 授業後、教科書を抱えて生徒がひとり寄ってきた。

「ここの……『あさまし』の、意味が、わからなくて……」

「ふむ。この形容詞は、現代語にも同じのがあるから混乱しやすいね。辞書は引いたかね? 引いた? うん、どの意味なのかは文脈で解釈するしかない。この場合は……」

 答えているあいだ、視界の端でふたつ結びが揺れているのには気づいていた。質問が終わると、すすすとにじり寄ってくる。

「新木。質問かね?」

 先手を打って声をかける。悠乃は少し驚いたようにまばたきした。

「あっ、えっと、質問じゃないんですけど、今度先生の」

「質問じゃあないなら、遠慮していただきたい。俺は次の授業に行かにゃならんのでね、すまんな」

 かぶせ気味に言って燐太郎は笑みをつくり、出席簿と教科書と辞書をまとめて抱えて足早に教室を出た。

 悠乃の表情は、見なかった。



     ◆◇◆



 東棟四階のうなぎの寝床めいた部室の端で、悠乃は校庭を見下ろしていた。衰えぬ日差しの下、運動部がランニングをしているのが見える。

 東洋文化研究会の部室である。普段は、小野寺理沙を中心とした数人の生徒が、漫画を読んだりゲームをしたりしながらお菓子をつまんでだべっているだけの場所であるが、いまは少々空気が違う。

 机の上に数枚ずつクリップやホチキスでとめたワープロ打ち出しの紙が散らばり、ホワイトボードにはやや線のよれた表が引かれていた。一年生のひとりが読み上げる内容を、古賀遥が丸っこい文字でホワイトボードの表へ書き込んでいく。『エスニックラーメンの今/小野寺理沙/十二ページ』といった具合だ。

 十月の終わりに予定されている文化祭へ向けて、会報の編集作業中なのであった。現在は、先週までに集まった原稿を確認し、掲載順序を決めるところである。

 珍しく活気ある雰囲気につつまれた部室のなかで、ただひとり悠乃だけが、中途半端に口をあけてぼんやり外を眺めていた。

 自前のノートPCから目を上げ、見かねたように理沙が言う。

「……あのねぇ。たしかに悠乃は部員じゃないから、編集に参加しろとは言わないけどさ。ここへ来ておいてその態度はどうなのよ」

 しかし悠乃は理沙の声にも、部員たちの注目にも反応しない。理沙は席を立って悠乃の肩をたたく。それでようやく、悠乃は顔を上げた。

 理沙は両腰に手をあててそりかえる。

「見てのとおり、わたしたちは忙しいわけ。ぼーっとしてる人がいると落ち着かないのよ。端的に言うと邪魔よ邪魔」

 いつもの悠乃なら「ひどい! ぼーっとするのは人間の当然の権利だもん! なんぴとたりともそれを侵すことは許されない! 断固抗議する!」などと言うのだが、今日の悠乃は違った。

 悠乃は、生気の足りない目をちろりと理沙へ向け、「ごめん」とつぶやく。

 意外な反応にぽかんとする理沙や遥ら部員たちを尻目に、悠乃は立ち上がった。

「また来るね。編集、がんばって」

 足元に置いていた鞄を持ち上げ、悠乃はするりと部室を出ていった。遥がペンを持ったまま、理沙を見る。

「……理沙ちゃーん?」

 自分に集まった視線に気づき、理沙は両手で机を叩いた。

「もぉ、なんなのよ! 当然のことを言っただけでしょう! これじゃ、わたしが悪者みたいじゃないのー!」




 気づいたら足が図書館へ向いていた。

 最近の放課後は東洋文化研究会の部室に行くことが増えていたが、中学生のころから、図書館は悠乃の貴重な居場所のひとつだった。

 白黎学苑の図書館は学校の敷地のわりに大きい。学校内でも古い時期に建てられたと聞いている。上部にステンドグラスの丸窓がある、レトロな建物である。

 重い扉を開けてなかへ入ると、外気より一段低い室温、紙と印刷の匂いが出迎える。四階まで吹き抜けになったホールを本棚が囲う空間だ。卒業生や関係者が競うように寄贈を行うため、蔵書は多い。

 入り口の脇には貸出カウンターがあり、司書の先生と図書委員の姿がある。一階で雑誌や文学書を探す生徒がちらほら見え、壁際の自習机で勉強する生徒も数人いた。

 悠乃ははじめ、一階を見てまわった。興味のあったイギリスの児童文学が入荷しているのが目にとまる。

 しかし、伸ばしかけた手を、悠乃は途中で引っ込めた。

(なんだか、わくわくしない……)

 数日、こんな気分が続いていた。たいていの悩みなら、本を読んでいるうちに解消できてしまうのだが。

 思い出すのは、先日のこと。

 ――質問じゃあないなら、遠慮していただきたい。

 授業のあと、そう言った燐太郎は笑っていた。下がり気味の目はいつものように柔和で、けれど、ひどくよそよそしく感じた。

 そのあとも同じ状態だった。授業後に声をかけようとしても燐太郎は相手にしてくれないし、昼休みや放課後は姿を見つけることができない。

(取材が終わったから、もういいだろうってことなのかな)

 当たり前ともいえる。夏休みのあいだ悠乃が水秦神社を訪れることを許されていたのは、あくまで東洋文化研究会の取材のためだ。

(いいんだよね、これで。だって、先生に聞きたかったことは聞けたんだし……)

 なのに、もやもやした感覚が胸の底に沈んでいるのは、なぜなのだろう。

 悠乃はホール脇の階段を、二階へ上がった。

 専門書を収めた二階から上は、一階とくらべて利用者の数が減る。というより、ほぼいない。

 しかし悠乃にとってこの二階は、会報の記事を書くために何度か訪れた場所だ。どうしてまた来てしまったのか、悠乃自身にもよくわからない。

 わからないまま、足の向くままに書架のあいだを歩く。

 哲学、心理学などの書架を過ぎた先に、宗教のエリアがある。イスラム、仏教、キリスト教、ユダヤ教など分野別になったうちのひとつに、神道の書架もあった。

(……あれ?)

 先客がいた。

 非常に珍しいことである。しかも、悠乃の知っている人物だ。

「こんにちはっ」

 図書館なので声量を抑えつつ挨拶すると、相手は少し驚いたようだった。

「ここで会うなんて珍しいですね」

 そもそもここあんまり人いないですけど、とつけくわえると、相手は同意して少し笑う。

「こういう本、興味あるんです? ちょっと意外でした。なにを読んでるんですか?」

 相手の手元を勝手に覗き込む。

「かみ、よ……? あ、じんだいって読むんですね。『神代文字』ですか。え、漢字より前にあった文字? へえええ」

 悠乃はそこでぱっと口元を押さえる。

「あっ、ごめんなさい。呼び止めちゃって。おもしろそうですね。わたしも本、探してみようかな」

 数冊の本を携えて立ち去っていく相手を会釈で見送り、悠乃は書架へ向き直る。

(……うん。せっかく取材で手をつけたんだもの。もう少し、神社や神道のこと、勉強してみよう)

 背表紙を眺め、興味を惹かれるものを探す。

(うむむむむ)

 借り出す場合は持って帰ることも考えねばならない。大型本は避けたいところである。悠乃が中学生のころ、図書館から借りた本のためにサブで持っていたトートバッグの底が抜けたことがある。多少は慎重になるべきであろう。

 考え込んでいたために、気配にまったく気づかなかった。

 首筋にひやりとした感触があったと思った次の瞬間、猛烈な衝撃がきた。

「――……っ!」

 痛みではない。純粋な衝撃というべきもの。

 悲鳴すら上げられない。

 手足が突っ張ったあと痙攣し、力が抜けてくずおれる悠乃の身体を、背中から誰かが支えた。

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