第伍帖 龍哭《りゅうこく》

龍哭 壱

 思い出すのはいつも、ほっそりした背中だ。


 白衣はくえ緋袴ひばかま。顎先ですっぱりと切った髪。巫女なのだから髪を伸ばせと祖父に再三言われても、この長さが好きだと聞く耳を持たなかった。快活で気まぐれで、変なところで頑固だった。

 背を追っている記憶ばかりだ、と思う。

 追想する姿は子どものこともあれば十代後半のこともある。最初の記憶では見上げているのが年齢が進むにつれ見下ろすようになっていくが、見えるのはいつも、彼女の背中だ。

 自分は影のようなものだった。男子は巫女にはなれぬ。お前の役目はしずくを支えることだと、幼いころから言い聞かされていた。

 それでいいと、思っていた。

 先代巫女だった祖母を支え続けた祖父のように、いつか雫の夫になる人が現れるまでは彼女をできるかぎり護ろうと。その思いに、偽りはなかった。


 だから、どうしてあんなことをしてしまったのか、曲直瀬まなせ燐太郎りんたろうは、いまでもよくわからないのだ。




     壱.


 昨今では九月の真夏日も珍しくなくなった。新学期最初の土曜日、白黎学苑はくれいがくえんで担当する午前の授業を終えた燐太郎は、ワイシャツを汗みずくにしながら水秦みなはた神社に帰ってきた。ジャケットなどとうてい着ていられるものではない。ネクタイすらとっくに鞄のなかだ。

 一の鳥居の脇に自転車を停める。こんな日は石段が恨めしいが、上らねば自宅にすら帰りつけない。

 決意して上り始めると、鎮守の森の日陰になって風が汗を冷やす。夏が終わることに気づかない蝉が、大声で叫んでいた。

 途中で、石段を下りてくる人物と行きあった。

「あ、燐太郎」

 今日の辻杏子つじきょうこは、ホットパンツで長い脚を惜しげもなくさらしている。木もれ陽が、むき出しの肩にまだら模様をつくった。

「アンズか。うちになにかご用かね?」

 石段の途中で立ち止まり、杏子を見上げるかっこうで燐太郎は尋ねた。杏子は日差しに目を細め、いつもどおりの少し不機嫌そうな顔で答える。

「別に、ちょっと覗きにきただけ。燐太郎、お昼食べた?」

「いや、まだだが」

「高木さんにカツサンド預けといたから」

「そいつはありがたいな」

 杏子は燐太郎から目を逸らし、なにやら難しげな顔で黙った。

「……あのさ。今日は、あの子来るの?」

「あの子?」

 考えて、燐太郎の教え子の新木悠乃しんきゆのを指していることに気づく。

「特に聞いてないが。今日はこれから予定があるから、来ても相手できんしな」

 東洋文化研究会の原稿を書くための取材という名目で、悠乃は夏休み中、数度に渡って水秦神社を訪れた。燐太郎は悠乃に水秦神社の由来や伝承、しきたりを話してやり、悠乃は質問をはさみながら熱心にメモをとっていた。

「そう」短く答え、杏子は続けた。「あんたさ、ほどほどにしときなさいよ」

「なにがだね?」

 燐太郎は眉根を寄せた。杏子は彼のものわかりの悪さに呆れたように、大きなため息をつく。

「教え子でしょ。あんまりここに出入りさせるの、よくないんじゃないの。公私混同っていわれるわよ」

「公私混同? 俺は別に……いや、そうかもしれんな」

 燐太郎にとっては学校も神社も『公』なのだが、そう見ない人がいることも理解はできる。

「いやはや、うん、軽率だったかもしれん。今後は気をつけることにするよ。ま、取材はとりあえず完了したと言っていたし、大丈夫じゃあないかな」

「だといいわね」

 杏子は下目遣いで燐太郎をじとりと見た。どこか含みのある口調に、燐太郎は首をかしげる。

「まだなにか気になるかね?」

「……いま、ここであんたを押したらどうなるのか考えてたのよ」

 杏子は低い声で物騒なことを言った。

「勘弁してくれ。落ちたらわりとマジで死ぬ」

 石段は三十段ほどあり、現在地は下から二十段目あたりである。振り向くとぞくっとする程度には急だ。杏子は肩をすくめる。

「燐太郎なんかのせいで殺人罪ってのも割に合わないわね。やめとくわ」

「そうしてもらえると助かる」

「じゃあね。あたしは忠告したわよ」

 杏子はひらりと手を振り、燐太郎の脇をすり抜けていった。

「……なんだったんだ?」

 燐太郎は石段を下っていく杏子のポニーテールをしばらく眺めていたが、それで彼女の真意がわかるわけもない。彼はふたたび視線を石段の上へ戻し、残りの数段を一段飛ばしで上がった。




 杏子の土産のカツサンドは、燐太郎の予想どおり幸先通り商店街のパン屋のものだった。自身の家も商店街の一角を担っている杏子は、できるだけ地元の個人経営の店で買い物をしているらしい。食パンに甘いウスターソースが染みている。

 社務所の座敷で高木とふたりしてきれいにたいらげてから、燐太郎は「申し訳ないんですが、午後も少し出ます」と告げた。

「もちろんかまわないよ。今日も夕方までいるつもりだったしね」

 先代のころから水秦神社を手伝ってくれている高木は、快く言った。兼業宮司でろくに神社にいない燐太郎にとって実にありがたい存在である。

「お出かけかい。若先生は忙しいんだからね、土曜日くらいゆっくりしてくればいいよ」

「外出には違いないんですが、ちょっと調べ物をしたくて」

「へー、若先生は、真面目なのか怠けものなのかよくわからないねぇ」

 そんなやりとりのあと、石段を下りて商店街を抜け、駅へ向かった。

 地下鉄で十分足らず。神保町駅で下り、大型のスポーツ用品店が並ぶ靖国通りを一本入れば、年代物のビルがひしめいている。

 目的地は、古書店街の一角にあった。

 燐太郎は迷わず路地を入り、一軒の店の前で足を止めた。

 路面に向かうワゴンに背表紙を上にしてみっしり文庫本が詰められ、『どれでも一冊三十円』の札がついている。本棚に挟まれた細い通路が、店の奥へ導く。このあたりの古書店としてはごく普通のしつらえだ。雨除けの庇の上には、金文字で『ひのえ堂』とあった。

 神田神保町の古書店は専門分野が決まっていることが多い。この『ひのえ堂』は、宗教書を専門としていた。

 燐太郎は、般若心経の掛け軸やらコーラン全訳やらが見下ろしてくる通路を、奥へ進んだ。

 埃と日に灼けた紙の匂いが鼻をつく。店内に燐太郎以外の姿はない。つきあたりには机が据えてあった。レジというより、番台というほうがふさわしい風情だ。

 燐太郎は、番台の隅に置かれた呼び鈴を押した。涼しげな音が響く。

 二分ほど待ったが、なにも起きない。燐太郎はもう一度、呼び鈴を押す。

「ライカさん。いらっしゃるかね」

 さらに三分待って、ようやく番台の奥の暖簾が動く。

「あいあい、いらっしゃいよ。そうくでない。あたしに用たぁ、どちらさんじゃね」

 珍妙な口調としわがれた声を先触れに現れたのは、しかし、せいぜいが十代半ばにしか見えない少女であった。

 長い黒髪を背に流し、桔梗の柄の和服をまとっている。切れ上がったつり目と小さな唇が特徴的な、かなりの美少女だ。

 少女は燐太郎をひとめ見ると、細い眉をきゅっと寄せた。

「……誰かと思えば、幸先鎮守のドラ孫じゃあないかえ」

 聞きなれない言葉に燐太郎は首をかしげる。

「なんだね、ドラ孫って」

「おまいさんは先代の孫じゃろうが。ドラ息子ならぬドラ孫じゃよ。……久しいの、曲直瀬の」

「ご無沙汰だね、ライカさん。お元気かな」

 少女は老人のように腰をさすって顔をしかめる。

「近ごろ腰が痛くてねぇ。歳かいの」

「あんたのはただの運動不足だろう」

「ぬかせ。まったく、ひよっこがいっちょ前の口を利くようになりおって、いやだいやだ」

 見た目と乖離した少女の口ぶりにも燐太郎は驚かない。

 ひのえ堂の店主、霧崎きりさきライカは、燐太郎がかつて祖父の義臣に初めて連れてこられたときと変わらぬ姿でここにいる。それから十年以上経っているのだが。

 だから燐太郎は、そのあたりについて深く考えることをだいぶ前にやめた。世の中にはそういうこともある。

 ライカは机の前のスツールにちょこんと座った。

「それで、今日はなにをお探しかえ? 三蔵法師の経典からコンスタンティヌスの寄進状まで、古今東西、カミとホトケに関わる書ならばなんでもござれじゃよ」

「まだその売り文句を使ってるのかね……」

 呆れてつぶやきつつ、燐太郎は両肘を机について身を乗り出す。

「今日は本探しじゃあないんだ。少しばかり、ライカさんに調べてほしいことがある」

「つまり客じゃないということかいな。先代から余計なことばかり学びおって」

 ライカは不満げに紅い唇をとがらせながらも言った。

「そこの椅子。そうじゃ、そいつに座れ。どうせ長話になるのじゃろ。茶でも淹れるかの」




 燐太郎がスマートフォンの画面を見せると、ライカはふうむ、と唸った。

 表示されているのは写真だ。土に描かれた奇妙な図形を撮影したものである。二重になった円、丸と直線で構成される記号。円の中央には崩れた盛り土がある。先日、雑司が谷の幽霊屋敷――旧安原邸の庭で撮ったものだ。

「おまいさん、これをどこで見つけたね?」

 ライカの目には興味の色が見て取れた。燐太郎は、雑司が谷の屋敷でのできごとを簡単に説明する。

「なるほどのう。……呪術じゃろうなあ」

 番台の上では、ふたつの湯呑みがほんのり湯気を立てている。ひのえ堂の開け放した入り口からは車の音や人の話し声が聞こえているのだが、薄暗い店内にいるとそれらがひどく遠い。

 ライカの所感に燐太郎は頷く。

「俺もそう思う。こいつに見憶えは?」

「そんな一瞬でわかるもんかいな。じゃが、心当たりはないでもないぞよ」

「さすがだな。なんだと思う?」

「急くな急くな。待つがよい……そりゃおそらく、神代じんだい文字じゃ」

 ライカはスツールからぴょんと飛び降りた。番台を離れて書棚へ向かう。

 彼女を目で追いながら、燐太郎は眉をひそめた。

「神代文字だって? あんなもん、眉唾だろう?」

「そう言われておるな……むむむ」

 ライカは背伸びして書棚に手を伸ばしている。燐太郎が立ち上がると、ライカは指で上のほうを指した。

「そこの、それ。違う、その三つ左。そう、それじゃ」

 燐太郎が手渡した本を眺めて満足げにひとつ頷き、ライカは番台へ戻っていく。

「神代文字とは漢字伝来以前に存在したとされる文字の総称。阿比留草あびるくさ文字や出雲文字などが有名じゃな。じゃが、ほんとうに古代にあったと証明されているものはひとつもない。逆に、古代ではなく近世につくられたと証明されてしまったものならある」

「やっぱり偽物じゃあないかね」

「考古学的には、そう言って差し支えないじゃろうな」

 燐太郎が書棚から取ってやった本を、ライカは箱から出して番台に置いた。茶色く変色した表紙の文字は『摩穂呂文字綺録まほろもじきろく』と読める。

「――さて、言霊の操り手たるおまいさんに尋ねよう」

 ライカは燐太郎の顔をひたりと見た。


「ことばの本質を、なんと心得る?」


 唐突な質問だ。

 燐太郎は面食らったが、この相手ならそういうこともある。彼は少し考え、答えた。

「意味の伝達だろう」

「さよう。意味は伝達されてはじめて、現実に作用するだけの力を得る。このあたり、おまいさんの専門分野じゃろ」

「まぁ、そうかもしれん」

 言葉は――ことばは、口にすることで現実を規定し、ときに現実を変革する。燐太郎は幼いころからそう教えられ、ふつうとは異なる『現実の変革のしかた』も訓練してきた。

「なんじゃ、頼りないのぉ。まあいい、要は意味が伝達できさえすれば、ことばの機能は果たされるっちゅうことじゃよ。そこに本物も偽物もありゃせんじゃろ」

「つまり」燐太郎はスマートフォンの写真をふたたび示す。「これらの文字は、なんらかの意味を伝達できている、ってことかね?」

 ライカはつり目を細め、番台の本を取り上げる。

「察しがいいのぉ。その文字はじゃな……そうそう、これじゃ。摩穂呂文字という」

 示されたページにはたしかに、燐太郎の撮影した写真とよく似た記号が記されていた。

「摩穂呂文字もまた、江戸時代につくられたものと言われている。本居宣長もとおりのりながの門下生が幻視によって古代神から教えられたとか……こら、そんな顔をするでない」

 幻視という言葉に、つい目と口が半開きになってしまった。己が奇怪な技を使うくせ、燐太郎は幻視やらお告げやらの神秘主義的な体験談を信用していない。

 ライカは続ける。

「ま、気持ちはわかるがな。出自が胡散くさいのは間違いない。じゃがの、この文字にはひとつ、特異な機能があるそうじゃ」

「特異な機能、とは?」

 なんとなく乗せられている気はするが、訊かないわけにはいかない。ライカは唇の両端をつりあげ、妖艶な笑みを浮かべた。


常世とこよへのみちを、開くのだそうじゃよ」

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