薔薇宿 伍

     伍.


沖津鏡おきつかがみ辺津鏡へつかがみ八握剣やつかのつるぎ生玉いくたま足玉たるたま死返玉まかるがえしのたま道返玉ちがえしのたま蛇比礼おろちのひれ蜂比礼はちのひれ品物之比礼くさぐさもののひれ!」

 燐太郎は顔の前に鳴神をかざし、詞を奏でる。

 かつての住人の姿を模した異神未満のものどもは、彼らを常世へと送る詞の前に、動こうともしなかった。

一二三四五六七八九十ひふみよいむなやここのたり布留部ふるべ由良由良止ゆらゆらと布留部ふるべ!」

 変化は、すぐに現れた。

 軍服の青年が持っていたサーベルが、ぼろりと崩れて風に飛ばされる。夫人の和服に描かれた花が、裾から薄くなって散る。

 何十年かのあいだ家がためこんでいた記憶は、あるいは空間に溶け、あるいは崩れ去っていく。

 同時に、薔薇が散り始めた。

 庭を所狭しと埋め尽くした蔓、そこに咲いた大きな花が、散る。

 紅、桃、黄。わずかに腐臭の混じった芳香とともに花びらがほどけ、花の形を失わせる。

 色とりどりの花びらが夜風にさらわれると同時、最後に残った少年の姿がぼやけ、薄れて、消えた。

 そして、荒れ放題の庭と、燐太郎だけが残された。

「――先生!」

 なんとなく全体のかさまで減ったように見える植物の向こう側から、悠乃が駆け寄ってきた。なにか手に持っているようだ。

「ああ、先生、よかった! 無事だったんですね……」

 悠乃は燐太郎の顔を見るなり小さく悲鳴をあげた。「ひえぇぇ! 無事じゃない! 無事じゃなかった!」

「なにを言ってるんだね。この通り元気だぞ」

「目! 目! たいへんです! 手当てしなきゃ!」

「目……ああ」

 紳士のステッキで眉の上を切ったのだった。血はほとんど止まりかけていたが、言われてはじめて痛みを感じる。

 悠乃はハンカチを取り出して背伸びした。

 が、届かない。ハンカチを持ったまま、ぴょこぴょこ跳ねている。

「なにをやってるんだね」

「先生、ちょっとかがんでください」

「ハンカチ汚しちまうぞ」

「いいから、かがんでください!」

 目元に当ててくれたハンカチを、自分の手で押さえた。それでようやく安心したらしい悠乃が、声をひそめる。

「あの、先生。見てほしいものがあるんですけど」

 連れて行かれた先は、庭のはずれだった。

 同心円として描かれたふたつの円。奇妙な記号。中央に崩れた盛り土。

「ここに、これが刺さってました」

 悠乃が薔薇の枝を示す。

「なんだと思います?」「……ふむ」

 燐太郎は顎を撫でた。懐中電灯で照らし、しゃがみこんで覗き込む。

「この記号。どっかで見憶えがあるな……」

 基本的には円と直線の組み合わせで、ところどころに短い曲線や点が混ざっている。

「ここに来たとき、あの目が現れたんです。もう消えちゃいましたけど」

 悠乃は手のひらの目と、目に導かれるようにして薔薇の枝を抜いた流れを説明したうえで首をかしげた。

「どういうことなんでしょう?」

「推測しかできんが……これがなんらかの儀式やのろいのたぐいで、屋敷に影響を及ぼしていた、と考えると筋は通るなぁ」

「呪いなんて、実在するんですか?」

「するともいえるし、しないともいえる」

「どっちなんですかっ」

「悪意の有無はともかく、詞を介して現実を変更するという意味では、ごく一般的な人の営みのひとつだ。願掛けや誓約とたいして変わらん」

 悠乃はわかったようなわからないような顔をしていたが、「あ、そうだ」となにか思い出した様子で手を差し出す。

「これが、盛り土のなかに埋まってたんです……この家の人のものでしょうか」

 悠乃の手の上に乗っているのは、ごく小さなもののようだった。

 装飾品のように見える。銀の鎖が、悠乃の手から垂れ下がっている。よく見ようと、燐太郎は顔を近づける。


 透明な――しずく型の、石。


 呼吸が、止まった。

 少し土で汚れていたけれど、燐太郎はそれに、たしかに見憶えがあった。忘れるはずもない。

 まばたきすらできずに、その石を見つめた。

「先、生?」

 そうだ。忘れるはずがない。だってそれを贖ったのは、自分なのだ。

 俺はいまどんな顔をしているんだろうと、他人ごとのように思う。


 ――りん


 耳元で聞こえたのは、きっと幻聴であろう。

 けれど。甘く、苦く、懐かしい痛みが胸を満たすのを、止められなかった。

しずく……」

 こぼれおちた声は、からからに乾いていた。



     ◆◇◆



 三日後、香椎はふたたび水秦神社にやってきた。

 社務所の座敷である。今日も窓の外の空は晴れていた。香椎は燐太郎の眉の上の絆創膏をちらりと見て、睨むように問う。

「これで噂は消えると思っていいんだな?」

 燐太郎はいなすように扇子を振る。

「おそらくは、ですけどね。もうなにも出ないはずですから、目撃情報がなくなれば噂も消えるという寸法で」

「……やっぱり、なにかいたってことなのか?」

 香椎はうそ寒そうな顔をした。信じないというわりに素直な反応だが、こういう人はよくいる。燐太郎は微笑で返す。

「いたような、いないような……いうなれば、過去の抜け殻のようなものでしょうか」

「あんたの言うことはさっぱりわからん」

 香椎は不機嫌そうに麦茶をぐびりと飲んだ。燐太郎の説明は不親切極まりないので、当たり前の反応だろう。

 薔薇の庭の屋敷には、長年蓄積した『家の記憶』が残っていた。それ自体は無害なものだったが、なんらかの理由で『家の記憶』が変質し、侵入者――つまり燐太郎と悠乃だ――を襲ったというのが、燐太郎の見立てである。

 その『なんらかの理由』が、庭の隅で見つけた儀式の痕跡であろう。しかし誰が、なにを目的としてそんなことを企んだのかは、いまのところ不明だ。

 たしかなのは、燐太郎がはらえをおこなったために、変質していなかったものも含めて、『家の記憶』が一掃されてしまったということである。依頼人にとっては、それで充分のはずだ。

「まぁ、しばらくすりゃ結果が出るんなら待つさ。ここは伯父の顔を立てておく」

 結論としては、そういうことらしかった。

 座敷の隅では真新しいエアコンが冷気を吐いている。そのおかげで、麦茶の氷も瞬時に溶けることはない。

「まだ気になるようでしたら、もう一度、今度は大々的にお祓いをやるのもありですけどね」

「いらん。これ以上目立つのは困るんだ。人の噂も七十五日というし、それくらいで消えてくれりゃ文句はない」

 そう言って香椎は伸びをした。彼も不安だったのであろう。なにかしらの手は打ったという事実が、気分の安定をもたらしたのかもしれない。

「もうひとつ、提案がないではないのですが」

「提案?」

「ええ。これを実行なされば、幽霊の噂などに悩まされることは完全になくなると思うのですがね」

 燐太郎は扇子をぱちりと鳴らした。

「あの家に、お住みになったらよろしい。家は住まねば朽ちるのみ。建て直す手もありましょうが、あれほどの建物です。有効活用の手をお考えになるのが前向きかと思いますよ」

 香椎は、虚をつかれたような顔で目を丸くした。

 それから腕組みをして唸り始める。

「住む……住む、ねぇ。考えなくもないんだが、掃除の手間がなぁ……仕事の都合上、帰れない日もあるし」

「そんなにお忙しいんですか?」

 香椎の職業は、燐太郎も気になっていたところだ。

「事件があると帰れなくなる」

「事件、ですか?」

 しばらく香椎は迷っていたようだったが、グラスに残った氷を噛み砕くと、言葉を継いだ。

「――警視庁だ」

「ほぉ。刑事さんですか、なるほど」

 いろいろと合点がいった。香椎ほどの強面であれば、犯罪者や筋者を相手にしてもはったりがききそうである。威圧的な雰囲気は職業上身についてしまったのかもしれない。

「……死んだ伯父も、刑事だった」

 香椎は燐太郎に聞かせるでもなく言った。ほんとうに独り言なのかもしれない。

「俺と違って人当たりがよくて、たいそう切れる人だった。あの域に達するには、何十年かかるんだろうな」

 香椎が見つめる窓の外、空は青く、夏雲がむくむくと立ち上がっている。

「さて。目指さねば届かないものですのでね」

「ちがいねぇ」

 しゃちほこに似た刑事は、ここへ来てはじめて笑った。やはり、燐太郎とたいして歳は違わないようだ。

「しかし、それほど立派なかたとうちの祖父が知り合いだったとは」

「なんだっけな。どこかの集会で会ったって言ってたぜ。なんとか機関とかいう……」

 燐太郎は片眉を上げる。

「……オモイカネ」

「ん?」

「オモイカネ機関。違いますか」

「ああ、そんな名前だった気がするなぁ。オモイカネ機関……うん、そうだ、たぶんそれだよ」

 燐太郎の声色が硬くなったことに気づいた様子はなく、香椎は何度も頷いた。



     ◆◇◆



 日がやや傾き始めたころ。

 降り注ぐ蝉の声を浴びながら、悠乃は石段を上った。ふたつの鳥居をくぐり、龍が水を吐く手水舎へ向かう。

 右手、左手、口をすすいで、最後に柄杓の柄を洗う。燐太郎に教えてもらったとおりの作法で身を清め、拝殿で手を合わせた。

 拝殿の屋根の日陰に巨大な猫が寝ていた。腹を撫でてから、授与所にいた高木に声をかける。

「こんにちは。先生、いますか?」

「おや、悠乃ちゃん。若先生ならなかにいるよ」

 悠乃は社務所の引き戸を開け、玄関へあがった。

(あれ……?)

 やけに静かだ。

 昼寝でもしてるのだろうかと思いながら座敷の襖を引くと、燐太郎は部屋の隅にいた。

 いつもの白衣に浅葱袴だが、片膝を立てた行儀の悪い座り方をしている。膝の上に頬杖をつき、窓の外、どこか遠くを眺めているようだ。

 こうしていると、頬から顎にかけてのしっかりした線がよくわかる。下がり気味の目は鈍い光を放ち、なにを考えているのか読み取れない。

「せーんせ」

「おおっ!?」

 燐太郎はやけに驚いて、勢いよくこちらを見た。

 悠乃の姿に気づいて目をしばたたかせ、咥えていた煙草を灰皿でもみ消す。そのあわてぶりに、悠乃は思わず吹き出した。

「別にわたし、気にしませんよ? はじめて会った日も、先生、吸ってたし」

「……あの日はまだ、お前さんは俺の生徒じゃあなかったからだ」

 燐太郎はがしがしと頭をかいている。彼のなかではそういう決まりなのだろう。

 悠乃はいそいそとバッグからノートを取り出し、大机の前に座る。

「さぁ! お話を聞かせてもらいますよ!」

 鼻息荒く言うと、ふたり分の麦茶を持って反対側に座った燐太郎は、呆れ半分の笑みをこぼした。

「いいだろう。なにから訊きたい? 水秦神社の縁起からかね?」

「お願いします!」


 夏空のもと、しおれた花が揺れる。

 太陽は容赦なく地を照らし、地上の営みなど気にも留めていないようだった。

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