薔薇宿 肆

     肆.


(この重さ……楔座か)

 香りが、さらに強くなった。

 残照の消えた空のもと、棘のある蔓をいたるところへ伸ばし、薔薇が咲き乱れている。

「薔薇ってやつは、手入れしないとまともに咲かないんじゃあなかったかね」

「そうだと思います、けど……」

 あるいはそれも、怪異であったのか。

 朽ちた庭は無人ではなかった。人影が、全部で六人。

 主人らしき背広の紳士。その隣に寄り添う和服の中年女性。昔の軍服を着た青年。小袖と袴の少女。半ズボンの少年。黒いワンピースの若い女性は使用人だろうか。青年を中心にして、家族が談笑しているようだ。

 これまでと同様、薄っぺらく色あせて見える。仕組みはわからないが、どこかから弦楽の調べが聞こえていた。

 家の記憶であることは間違いないだろう。

 しかし、空気が重い。

 悠乃が燐太郎のTシャツの裾をつかんでいる。燐太郎は細長い物体を右手に握った。

 小径を離れて庭園に踏み込み、六人に近づく――と。


 


(馬鹿な……!)

 場の記憶は、人やものの姿を模しただけの残滓である。独立した怪異、たとえば異神アダガミなどとは違う。意思をもって行動することもないし、現世うつしよの存在に興味を示すこともない。

 しかし、いま背広の紳士が、家族へ向けた笑みをそのまま顔にはりつかせ、ぎくしゃくした足取りでこちらへ向かってくるのであった。

 彼――といっていいものか――のうしろに、家族と使用人も付き従っている。

 燐太郎は振り向かずに声をかける。

「新木。逃げろ」

「え、でもっ」

 悠乃は戸惑っているようだ。重ねて言う。

「走って外へ出ろ。この家の敷地から出れば安全だ、たぶん」

「先生はどうするんですか?」

「俺か?」

 燐太郎は半分だけ振り向いた。

「……俺がお前さんを助けるに違いないと、そう言ったのは新木じゃあないか」

 片方の口角を上げ、笑う。


「ご期待に、応えよう」


 六人の『家の記憶』が頭上に両手を掲げた。ふわりと浮き上がったと思えば、燐太郎めがけて空中を滑る。速い。

「行け――!」

 悠乃の背中を押す。よろめきながら悠乃は駆け出した。

 見届けて、燐太郎は襲いかかってくる『家の記憶』どもに向き直る。

 細長い白木の物体を、両手で顔の前に掲げた。手に力をこめ、左右に引く。

 しゃらん。

 鈴鳴すずなりを響かせて、白木の肌が半ばから割れた。

 姿を現したるは白刃はくじん。鞘を払った短刀が、みずから光を発するがごとくさえざえと輝く。

 水秦神社に保管されている宝物のひとつ――鳴神ナルカミである。

 そうするうちにも『家の記憶』が動く。紳士を追い抜いて、軍服の青年が燐太郎の前に立ちふさがった。軍帽の陰の端正な顔は笑顔のまま。

 青年がサーベルを振りおろす。燐太郎は鳴神の刀身で受けた。

 サーベルと短刀の刃が接して火花が散る。向こう側が透けて見えそうな希薄さなのに、重さがずしりと腕に伝わる。

 そのあいだに紳士が回り込み、背後をとられた。

「祓い給い……」

 鳴神の背に左手も添えて青年を押し戻す。

「清め、給え!」

 裂帛。青年の動きが止まった。

 紳士のステッキが振り下ろされる。振り向きざま、鳴神を跳ね上げて防ぐ。

 そのとき、頭がくらりとした。薔薇の香りが感覚を狂わせている。反らしたステッキの先が顔をかすめた。

 鮮血が宵闇に散る。

「ちっ」

 舌打ち。浅い、が、眉の上だ。血で視界に制限がかかるのが鬱陶しい。

 足元に少女と少年がタックルしてきた。

「……守り給い、さきわい給え!」

 どうにか振り払ったところ、和服の夫人が背後から組みついてくる。そこへメイドが盆を横薙ぎにする。

「ぅ、お、らぁっ!」

 力任せに身体をひねって背後から組みつく夫人を振り回す。夫人を盾に盆を避けた。夫人の力が緩んだ隙に身体を低くして腕から逃れる。鳴神を薙げばメイドのスカートと脚を切り裂いて淡い燐光が散った。メイドのつつましい微笑は小動こゆるぎもせず。

 後転して距離を取り、血の混じった唾を吐く。

(埒が明かん)

 一体ずつ常世へ還すすべは心得ているが、こう次々と襲ってこられては祝詞を奏上するための時間を稼ぐのが困難だ。

 は本来、人を襲うようなものではない。この場とてさっきまで楔座には程遠い、せいぜい『異界未満』であった。

(原因があるはずだ。たぶん、屋敷のどこかに)

 それを探さねばならない。

 にじりよってくる『家の記憶』を、燐太郎は睨んだ。幸福な時間を切り取ったような姿。彼はそれを、見るに堪えないと思った。



     ◆◇◆



 悠乃は走った。

 いくら心配でも、燐太郎の近くにいたら邪魔になるだけだ。わかっている。

 小径を抜け、門にたどりつく。

 両開きの門扉は細い鉄を曲げた優雅なデザイン。手をかけ、手前へ引いた。

「……!」

 動かない。

 巻きつけてあった鎖と南京錠は、入るとき燐太郎がはずした。いまも門の内側にまとめて置いてある。

 引くのではなく押してみたが、やはり動かない。渾身の力を込めても同じだった。

 錆びたり引っかかったりしているのとは感触が違うように思う。門扉はに、一枚の鉄の物体と化していた。

 何度か試して、悠乃はとうとう諦めざるを得なかった。

「ぐぬぬぬう」

 悠乃は顔を上げる。塀は三メートルほどの高さで、悠乃ほど小柄でなくとも乗り越えるのは骨が折れそうだ。

(きっと裏口があるはず。そっちを探してみよう!)

 塀に沿って時計回りに走り出す。いつのまにか月がのぼっていた。

 青ざめた月が洋館を見下ろす風景は、まるで外国の映画のようだ。金属を打ち鳴らす音が聞こえてくるのがさらに現実感を失わせる。

 視線を上げれば、乱調に生い茂った植物の向こうに、燐太郎の頭と『家の記憶』の姿が見え隠れする。

(先生、大丈夫かな)

 不安が気持ちの端を侵す。が、悠乃が外に出れば助けを呼ぶことだってできるだろう。悠乃はふたたび前を向く。

 奇妙なものを見つけたのは、角を一度曲がった先。

 さっき探検した建物のすぐ近くで、だった。

(なにこれ?)

 植物で埋まった庭の一画が唐突にぽっかり空いている。

 悠乃は足をとめた。直径一メートルほどの、円形に近い小さな空間だ。

 空間の地面には同心円がふたつ描かれ、直線や円を組み合わせた見たことのない記号が刻まれている。

(数学の問題、みたいな。でもこの記号、なんだろ?)

 同心円の中央は土を盛った小さな山になっており、薔薇の葉がついた小枝が刺してあった。

 空気の重さに悠乃は眉をしかめる。濃密な薔薇の香りが、盛り土に刺さった小枝から匂っている。頭痛がしそうだ。

「……あつっ!」

 右手を押さえた。そろそろ慣れてきてしまった、あの熱さと痛み。

 手を開くと、やはり『目』が出現していた。端の尖った横長の楕円の火傷痕。中央がぷくりと盛り上がっている。最初のころほどの驚きはないが、気味が悪いのはかわりない。

(もう、なんなのかなこれ)

 その右手が、悠乃の意志に反して持ち上がる。

「え、え、なに!?」

 そういえば以前もこんなことがあった。遥が海にまつわる異神に魅入られたとき、危険な事態が出来する前に、右手が自動的に遥を指し示した。はじめて『目』が現れたときだ。

 今度の右手は、ぐんぐんと前へ進んでいく。もちろん悠乃を引き連れてである。

「待った待った、ストップ、それちょっとやばくないかな右手さん!?」

 右手は同心円の中央を目指した。

 引っ張られた悠乃の靴が記号の一部を削りとる。とたんに空気の重みが増したが、右手は止まらない。まっすぐ円の中央へ。

 そして悠乃の右手が、薔薇の枝を抜き取った。



     ◆◇◆



「ぐっ……!」

 紳士と青年がステッキとサーベルを同時に振り下ろす。燐太郎は鳴神で受けきったが、横ざまから襲ってきたメイドの盆に腹をえぐられ吹っ飛ぶ。

 背から突入した先は薔薇の茂みだ。棘を抜く余裕はない。頭を振って立ち上がる。

「いやはや、一対六じゃあ分が悪すぎる」

 少女だけは鳴神で腹を薙いだら追ってこなくなったが、不利な状況に変わりない。

 笑みのままゆらゆらと近づいてくる五体のヒトガタを睨む。

「こんな事態になるなら、もう少し真面目に鍛錬しとくんだったな」

 ぼやきながら鳴神を両手で腰だめに構えた。

 五体が飛びかかってくる。

「――かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ、つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに、みぞぎはらえたまひしときになりませるはらえどのおおかみたち、もろもろのつみけがれあらむをば、はらいたまえきよめたまえと、もうすことをきこしめせと、かしこみかしこみてもうす!」

 鳴神を突き出す。

 燐太郎から数メートルのところで、見えない壁にぶち当たったように五体が足を止めた。その隙に鳴神を目の脇に構え、丹田に力をこめて息を吸い込む。

沖津鏡おきつかがみ辺津鏡へつかがみ八握剣やつかのつるぎ生玉いくたま、たる――くっ!」

 背中の衝撃についことばを止めてしまった。

 詞は音に真価が宿る。ゆえに中断すれば力は発揮されない。

 袴姿の少女の姿をしたものが背後からしがみついている。肘を打ち込んで振り払うが、そのあいだに前方の五体が近づいてきた。

「……ははは、こりゃあまずい、うん、まずいぞ、はははは」

 燐太郎はやけくそ気味な笑いをもらす。

 空気はさらに重く、薔薇の香りが気力を殺いでゆく。それでもどうにか鳴神を構え直したところで。

 六体の動きが、ぴたりと止まった。

 振り上げた腕やステッキ、踏み出す途中の足も、そのまま中空にある。凍りついてしまったかのように。

「どういう、ことだ?」

 事態の理由は、燐太郎にも皆目見当がつかなかった。

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