薔薇宿 参

     参.


「帰んなさい」

「いやです」

 もはや押し問答と呼ぶにも不毛であった。

 さっきから燐太郎と悠乃は道の端に寄り、互いに一歩も譲らない要求を口にしている。ときおり通行人に不審げな目を向けられるのが、心に痛い。

「さっきも言っただろう。これは仕事なんだ」

「見学くらい、いいじゃないですか。邪魔しませんから」

 悠乃は頬をふくらませている。燐太郎はため息をつき、片手で自分の髪をかきまわした。

「いいかね、この手の相談ごとってのは人の触れられたくないような情報を含む場合がある。依頼人の秘密を守る義務というやつが」

「でも、契約書とか申込書とか交わしてませんよね?」

 意外と冷静なつっこみに思わず口をつぐむ。

 燐太郎の「仕事だ」という主張は、実のところ非常に根拠薄弱だ。

 かつて『雨降りの巫女』が相談を受けていた時代から、そうだった。なにしろ料金表などないのだ。表向きは宗教施設として一般的に受けつけている人生相談の一環であり、対価も初穂料という名目で双方の「いい塩梅」の金額を受けとることになる。

「だいたい、依頼人さんの話、わたしと高木さんにも聞こえてましたし」

「……」

 事実である。香椎がろくに前置きせず話を始めてしまったからだ。

 通りかかったふたり組の老婦人が、明らかに眉をしかめてこちらを見た。十代前半に見える小柄な女の子と、二十代の長身の男。道端のブロック塀に手をついた燐太郎の姿は、悠乃を追い詰めているように見えなくもない、かもしれない。

「……あのな。どうしてそんなについてきたいんだ」

 ブロック塀から手をはずして腕組みしつつ、本質的な問いを発する。

「知りたいからです」

 悠乃の答えもまた端的だった。

 対話にならん、と呆れかけた燐太郎だが、悠乃は続けた。

「先生。わたしが妖怪みたいなもの――異神アダガミのことを知りたがってたの、憶えてますよね」

「ああ」

 最近は「神社について教えてほしい」と題目が変わっているが、もともと悠乃が燐太郎を追いかけ回していたのは、彼女が異神について知りたがったからだ。

「わたし、四月に、へんなものに遭った日……先生に、会った日。すごく怖かったのは、ほんとうですけど」

 悠乃の大きな目が夕日できらめく。

「なんだか、ほっとしたんです」

「ほっとした?」

 意図がわからず、燐太郎は眉根を寄せた。

 悠乃は大切な思いを語るように、ゆっくりと言葉を継ぐ。

「わたしの知ってる世界は、全部じゃないんだって思えたので。学校も家も、世界のほんの一部。ほんとうは世界はずっと広くて、わたしの知らないことがいっぱい起こっている」

 悠乃は燐太郎を見上げ、微笑みを浮かべた。

「だから、大丈夫なんだって。そう思ったんです」

 小柄で子どもっぽい外見の悠乃だが、その瞬間だけやけに大人びてうつったのは、なぜだったのか。

 燐太郎が黙ってしまったのは、悠乃の雰囲気に気圧されたからだけではない。

 彼女の言ったことが、理解できる気がしたからだ。

 自分の知る世界は、世界のすべてではない。それはとても恐ろしくて――けれど、希望に満ちた見解だ。人はたぶん、その思いにかきたてられて書物を読み、教室に学び、語り合い、旅をする。

「わたし、いろいろなことが知りたいです。見て、感じて、考えて、知りたいんです」

 悠乃の表情は澄んでいた。大きな目に燐太郎が映っている。瞳の中の彼は困り果てた顔をして、くしゃくしゃと頭をかいた。

「……危ないかもしれんぞ」

 いまさらなことを口にすると、悠乃はほころぶように笑った。

「先生が、助けてくれるでしょう?」

 燐太郎は空を仰いだ。

 茜色の空に、薄い雲が影のようにたなびいている。

 おそらく危険は少ないと判断はしていた。集まった情報からしても屋敷の様子からしても、楔座の可能性は低い。

 彼は上を向いたままため息をついた。深く。深く。

「……なかに入ったら俺の言うことを聞くこと。静かにすること。出ろと言ったら出ること。反論は受けつけない。いいな?」

 悠乃は元気よく敬礼の真似をして「はい!」と言った。




 鉄製の門扉には鎖が巻きつけてあったが、香椎から鍵は預かっている。南京錠をはずして門扉を押し開く。

 一歩踏み込んだとたん、馥郁ふくいくとした香りが鼻孔をくすぐった。

「わ、お花の匂い。薔薇でしょうか」

「ふむ。あれかな」

 門の正面から小径こみちが建物まで続き、左右は庭になっている。植物が伸び放題で庭というより元庭といった有様だが、濃い色の大きな花が葉のあいだにいくつも見てとれた。

「お庭で大勢の人が集まってるように見えたという噂がありましたね」

「建物を見てから確認してみよう。あの庭へ踏み込むのは、いささか骨が折れそうだしな」

 燐太郎は母屋へ歩を向けた。

 母屋は二階建てで、外から見る限りひとつのフロアにある部屋はせいぜい六つか七つだろう。それでもいまの基準からすれば立派なものだ。

 玄関の鍵も開け、ボディバッグから懐中電灯を取り出すと悠乃が目を輝かせている。冒険気分が盛り上がっているのだろうか。放っておいて、罅の入ったドアを押し開ける。

 出迎えたのは静寂と、埃の匂いだ。

「……わぁ」

 ドアの矩形で切り取られた夕日が差し込む。

 玄関は吹き抜けのホールになっているようだ。小さめの教室程度の広さである。

 懐中電灯で照らすと、厚くつもった埃の中央だけが獣道のように掃除されていた。夏前に来たという香椎の仕事だろう。

 入ってすぐの場所が小上がりになっていたが、少し考え、土足のまま失礼することにした。

(やはり、変わったところはない気がするな)

 人の住まなくなった家は異界に近づいていく。この家でも、ご多分に漏れずなにかが走り回っている気配がしていた。とはいえ、曲直瀬家と同じ程度である。

「新木。お前さん、手はなんともないのかね?」

「大丈夫ですよ?」

 悠乃の友人、古賀遥を襲った奇怪な事件。その前兆を感じ取ったかのように、悠乃の右手には火傷痕が現れた。燐太郎はそのとき常世の気配に反応している可能性を考えたのだが、あるいは別の要因なのだろうか。

「まぁ、奥へ行ってみるか」

「はい!」

 悠乃が駆け寄ってきて、埃がぶわりと舞い上がった。

「走るんじゃあない、静かに歩きたまえ」

「ひゃっ、ごめんなさい!」

 玄関ホールからは上階への階段と、奥へ続く廊下が伸びていた。

「先に一階を回ろう」

 香椎のものらしき足跡が残る廊下へ、足を踏み入れた。手前の扉は浴室とトイレのようである。浴室を覗いてみたが、猫脚のバスタブが埃をかぶっているだけだった。トイレも同様だ。

 つきあたりの扉を半分ほど開ける。

「……!」

 息を呑んだ。


 ドアの向こうに、大勢の人影があった。


 燐太郎は悠乃のほうを向いて人差し指を唇に押し当てた。静かに、のジェスチャー。深呼吸してボディバッグを前へまわし、細長い白木の物体を引き出す。

 長さ四十センチほどのそれを握りしめ、ドアに半身を押し込んだ。

 そこは広々とした部屋で、おそらくは食堂のようだった。長テーブルが部屋の中央に置いてある。

 テーブルを囲んで、談笑する人々。

 華やかな着物の女性と少女。羽織袴の男性。ワイシャツにスラックス姿の男性もいるが、シャツの襟の形などがどこかレトロだ。

 十人弱はいるだろうか。その全員が――希薄な存在感を放っていた。燐太郎と悠乃に注意を向ける様子もない。

 それに気づき、燐太郎は肩から力を抜く。

「あれ……あれっ……な、なんですか!? 幽霊!?」

 一方、悠乃は震え出している。後ずさって背中が壁にぶつかった。

「落ち着け。ありゃあ幽霊じゃあない」

「でっ、でも、いまの時代の人じゃないですし! ってか存在感おかしいですし!」

 の正体に、燐太郎は思い当たっていた。おそらく、害のあるものではない。

 燐太郎はできるだけ穏やかな声音をつくって言う。

「ありゃあ『家の記憶』だ」

「家の……記憶……?」

「簡単に言えば、幻だよ。この家は大事にされてたんだろう。それで過去のいい時期の記憶が、場に残っている。たぶん、そういうことだ」

 場に記憶が残ることは、ときたまある。大事件が起きた場所などで頻発するが、どうというわけでもない場所で発生することもないではない。

「すると、ここで目撃された怪異はそれか。安原氏の話とも一致するな」

 この家には幽霊が出るんだと語る伯父と母親は楽しげだった、と香椎は言った。それは彼らに恐怖を与えるものではなかったのだろう。

 無害な経験であれば、現世のことわりからはずれるものを忘れようとする記憶の自浄作用から漏れることもある。

「だいたいわかった。上もいちおう見てくるか」

 燐太郎の予想どおり、二階も平穏なものであった。

 家族の寝室だったのだろう部屋は家具が取り払われてがらんとし、埃がつもるばかりで、なにもなかった。

 一番奥の大きな部屋で、ふたりは家の記憶にふたたび遭遇した。

 着物を着た上品な女性が、バルコニーにたたずんでいる。襟足で三つ編みにした髪、リボンの髪飾りまで見てとれるのに、やはり存在感が希薄だ。

「……なんか、怖く、ないですね」

「当然だ」

 燐太郎は悠乃に言う。

「あれに害意はない。それどころか意志も、思考も、感情もない。ただの残滓だよ」

 希薄な女性は近づいてもこちらを見ることもなく、夕空を背景にバルコニーの手摺に肘をつき、物憂げに庭を見下ろしている。

 ただの、残滓。

(それでもこうして姿を残すほど、家にとってはいい記憶だったのか……いや)

 人以外のものに人のような心の動きを映し見るのは無意味だし、危険だ。それでもその女性を眺めていると、甘いような苦いような感情が沸き起こってくる。

(……感傷だな)

「きれいな人、ですね」

 悠乃がぽつりと言った。

「顔が見えんじゃあないか」

「そうですけど。たたずまいがきれい、というか。きっともうこの世にいない人なのでしょうけど、こうして姿を見ることができるのは、なんだか素敵です」

 少し目を細めた悠乃は、燐太郎と同じ感傷を抱いたようだった。しかも彼とは違う受け止め方をしている。

 燐太郎は、悠乃からそっと目をそらした。




「しかし、依頼人にどう言ったもんかな」

 階段を下りて玄関ホールへ戻ってきたとき、燐太郎の頭に浮かんでいたことはそれだった。

「悪いものじゃなかったと報告すればいいんではないですか?」

「忘れたかね。香椎氏は、『噂が消えればなんでもいい』と言ったんだ。幽霊屋敷の真偽は、彼にとってはどうでもいいのさ」

「あ、そうでした! でも、人の噂なんて意図して消せるものではないですよね」

「そうなんだよなぁ。ここは近隣から見てわかりやすいように、ちと派手に祈祷でもするか。そうすりゃ祓われたと思って、誰も気に留めなくなるんじゃあないかね」

 悠乃がじとりと見上げてきた。

「……それって、インチキでは?」

「なにを言う。人心に安定をもたらすのは宗教の重要な役目だぞ。むしろそれがすべてと言ってもいい」

「そうなんでしょうか……」

 なんだか微妙な顔をしている悠乃をひきつれ、燐太郎は庭へ出た。

 外は暗くなっていた。薔薇の芳香が、むわっと鼻をつく。

「なんだ……?」

 燐太郎は眉をしかめた。

 耳の奥。ゴロゴロと遠雷に似た音が聴こえる。彼は耳元に手を当て、その音が現世のものではないことを確かめた。

 来たときは、こんな音は聴こえなかったのに。

「どうしたんですか……あ、あつっ!」

 悠乃が小さく悲鳴をあげて右手を抱え込む。

「どうした!?」

「あ……これ、こないだの!?」

 悠乃がおそるおそる右手を開く。

 そこには火傷のような痕が現れていた。端の尖った楕円で中央にぷくりと盛り上がった半球形、それはやはり目に似ている。

 悠乃が右手を胸元で握り込み、不安そうに左右を見渡す。

「先生。なんだか、ここ……」

「……ああ。いいか、新木。俺から離れるんじゃなあいぞ」

 悠乃はこくりとうなずいた。

 なにが変わったかと問われれば、空気としか言いようがない。

 さきほどまでは懐古に沈むのみだった屋敷が、禍々しい気配に包まれている。

「――あっちか」

 気配の出処は彼らの右手側。蔦と茎と葉と花がめちゃくちゃに絡まりあった、庭の残骸から漂ってきているようであった。

 薔薇が強く香り、息苦しく感じる。

 燐太郎の耳のなかで、遠雷の音が警告のように鳴り続けていた。

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