思春期以降

 責め苦によって母は私を愛しているつもりでいる。私は口も手も遅く、母のそれに遅れをとって、自分で語る機会を失いつづけた。今に至っても、それは変わらない。

 たびたび、家族で買い物に出掛けていった。私へのあたらしい服を選ぶのは母だった。いくつかの服やズボンをもってきて、どれがいいかと尋ねる母は、楽しそうだったが、どちらとも選ぶことは私には難しかった。こういうとき、人形になる私をきまって感じていた。

 私はせめて、私の趣味で服を選ぼうと母から離れて棚に立った。いくつかの品を手にとってみるが、母がやってきてダサいとか、それが趣味かと、私をないがしろにした。せめて母の慰めになるのならと、自分を捨ててみようともした。が、母の矢継ぎ早な、しかも終わりのみえない目移りに、すっかり疲弊しきってしまうのだった。腹のあたりに赤黒く濃く、流動する靄があった。それが献身に振り切ろうとする私を阻害して、いつか、服屋は極まりない陰惨が、雨のように降る場所となっていた。

 こうして、私に殻が形成し、殻はどんどん厚く塗り重ねられていったのだ。外観への興味の喪失は、この服屋の印象が強く残っているためだろう。あそこでは、私は母によって否定され、母によって縛られるのだ。いや、このことは何も服屋ばかりではない。母は私を口下手だからと、街中で会った知り合いに私の近況をその口で語ったし、私が遊びに行こうとすると、行くなとか二次会には出るなとか、家にいて自分といろと言わんばかりにやはり否定してくる。ただ、私は母を憎み切れずにもいた。こんな(ディス)コミュニケーションしか私とできない母を孤独にも思うのだった。私にも、その傾向が受け継がれているのを知っていたから。


 いつか、松山で父とふたりきりの時間を過ごした。父はその日仕事のため、昼間はひとりで過ごした。街を散策すればいいと小さい自転車を出してきてくれた。人と行動をともにしていたら行くことのない、無縁の路地になど入っていき、当時はスマホなどないのだから、知らない街の地図を血液に書き込むようだった。

 父の借家に帰って、畳の上で父を待つあいだにも、物珍しい父の住処を眺め回した。車のミニチュアや、仏像のフィギュア、父が自分で掘った木彫や「南無」という書。また、玄関には、高校のときか私がシャーペンで描いた不動明王の絵が掛けられてなどいる。暗い台所で自分のための料理をつくる父の背中や、寝転んでテレビを点ける姿などが、空想するともなくたってきた。この父の住処から父が引き算された時間に私がいて、その眼には、際限なく父の影がやってくるのだった。無知な私には名の知れない柑橘類の木が窓から見える庭に繁っていて、剪定された枝の断面など見ていた。

 やがて、仕事から父が帰宅すると「何が食べたい」と私にきいた。とりたてて食に興味のない私が悩んでいると「酒飲むか」と居酒屋まで歩いていった。うす暗い道を父と隣り合って歩いた。その間なにか話したか、なにも話さなかったか、もう憶えていない。父はあまり自分から語りだすということがなかったし、私も話題をみつけるのがうまくなかったから、たぶん居酒屋の場所など当たり障りないことを二、三話したら、あとはふたりの足音ばかり聞いていたのではないかと思う。

 居酒屋のテーブルにつくと、私は今日散策した景色のことなど話した。デパートがあるからこれを帰りの目印にしようと思ったら、同じのがいくつもあって目印にはできなかった、とか、書店に立ち寄った、とか、地元の和菓子を買って食べた、とか、そして住宅地に迷いこんでみた、とか、他愛ないのに共有してほしい私の行動を話したのだ。それから大阪での学校生活のことや、美術館に行ったときのこと、散歩してわざわざ道に迷ったら、知らないうちにもと来た道に戻っていたことなど、私が話しているあいだ、父は黙って聞いていてくれた。

 酒もずいぶん回ってきたころ、どんなきっかけだったのか、父が語り始めるのだった。

「おまえは良い子にしすぎるから、父さんはもっとおまえに反抗してほしい。おまえが好きなように生きたらいい。なにかあったら必ず助ける、自分を抑えて人に合わせて生きなくていい」

 そんなことを相談したことは一度もなかったのに、的確に私の苦しみに触れてくれたのだ。私はもう流してしまった涙を隠すため、トイレに立った。喉がつまって感謝を言葉にできなかった。父にその念は伝わっていたに違いないが、それでも言葉にしなければいけなかったと今でも思う。

 服屋に行くにしても、父とふたりなら苦ではなかった。父は父で、自分のための背広を探したりして、すこし離れた場所にいる。私は勝手に服を決め、勝手に買って、父の背中に声を掛ける。振り返ると「買ったか?」とだけ言い、私が頷くとふたりで店を出ていく。その、ポケットに手を突っ込んで、先に歩く手ぶらの父の背中から、控えめに、しかし確かに愛が、私に流れ込んでくるのだった。


 いつか高知の実家の地区にある神社を見て歩きたいと私がいうと、父は車を出してくれた。多くはないひとつひとつの神社を父と一緒にまわる。山の上の金比羅さんへの道は、保育園のころ通った記憶がぼんやりと甦ってくる。けっして立派ではない社に柏手を打って写真におさめ、動画に撮った。

 これがもし、母とであったら、こうも楽しい時間であったか。私の趣味に付き合って、後ろに続いてしのしのと草を踏む父のあし音を、やはり愛だと思うのだ。好きなことをすればいい、したいようにすればいいと、囁いている。その愛を知らなくてもいい、縛られることはないと、ふたりのあいだで沈黙は語っている。だからつい、父を慕わしく思う。たぶん、私が自分本位でいることを、慕われたい気持ちからすこし寂しく思いながら、喜んでいてくれていたのだと思う。そうでなくて、父に報告をしたいという気持ちが私に湧いてくる訳を、説明できはしないだろう。

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思想的自分史 湿原工房 @shizuki

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