タナトフォビア

   1.夜に思う


 子供時分に死を怯えることは珍しいことではないらしい。私もそのような子供だった。昼間は大人のそぶりを真似て、しだいに自分のキャラクターが硬い殻を形成し、身動きできない状態に知らず知らず自ら向かってはいたが、夜、一人部屋でもの思う時間は、私の自由な時間だった。

 どうして死を思うということをしはじめたのか。寝付きが悪い子供だったから、家族のだれもが寝息を立てはじめた時間に、布団のなかで、身体を動かして物音を立てるわけにもいかず、じっとしているよりなかったからかもしれないし、あるいは、いくつの頃か記憶は不鮮明だが、一人部屋を与えられたことが、夜のなかで、自分ひとり目覚めているような気分へと誘ったのかもしれない。いや、ときどきは遠い道路で、自動車が走り去っていく音もあり、誰かも目覚めていることは知っていたろうと思う。ただ、ひっきりなしに走っているということはなく、思い出したように一台、さあっと乾いた音でやってきて、夜闇のなかへ滅していくばかりで、音を届けるきり、私とは無縁の存在だった。あの車はどこへ向かうのか。また、両親とともに寝ていた時分には、隣から聞こえた呼吸が、一人部屋ではコチコチと時計が耳をくすぐる。呼吸も秒針の進行も、こんなふうに昼間に気になることはなかっただろうが、ほかに音を立てる者のない夜半では、なんともいえない心細い音として、耳に侵入して異界に入ったと気づかせた。ひょっとすると、夜ごと耳に両手を押し当てていたかもしれない。豆電球の乏しい光の中で、目を閉じたり開いたりしながら。耳を塞ぐと、自分の血流が聴覚に響いた。胸では私の意思ならず心臓がとくんとくんと打っていた。……

 こうした諸々の者が、死を意識させたのかもしれない。秒針は時間の有限性を思わせただろうし、寝息はどことはなし生きていることが切ないことのように思わせた。遠くで現れたかと思うと絶えていく車の音は、私には目の前の現実としてある腹を膨らませたりへこませたりしているこの家族のことなど、知るはずもない瑣末なものだと気づかせた。休んでいても、動いていても動いている心臓と、送り出される血液が、私も一つの物に過ぎない、いつかは音の止まる日の来ることを実感させた。

 私たちはなぜここにあって、免れる者なく死によって、いずれはいなくなってしまうのか。

 思案はそのような経過を辿って死に行き着き、死ぬとはどういうなることかと流路を切っていったのに違いない。

 

   2.死後を思う


 死の恐怖とは私の場合、死後のあり方の知り得ないことに由来していた。死ぬとこの私という意識はどこへ行くのか、地獄や天国だろうか、また新しい生として、この世に生まれるのだろうか。

 仮に天国や地獄のようなあの世というのがあったとしよう。そこはどんな世界なのか。まず、人は天国へ行くか地獄へ行くかが選ばれる。これは生あるうちの所業を資料に、何者かによって裁かれる。これがすでに胡散臭いと思いつつ、空想を進めた。

 仮に天国へ生まれたとせよ。天国とは、どんな世界か。良いことをした者が行くとこであるし、苦しみのない世界に違いないと考えてみる。

 私には好きな友達がいる、家族がいる。彼らもまた裁かれるものに違いない。一緒に天国に行けるとは限らない。しかし、彼らなくして苦しみがないということがあるだろうか。彼らが欠けて辛い気持ちを抱くとすれば、天国にあって、楽を得られはしないのではないか。すると、彼らではない複製された彼らが、天国で迎えてくれるのかもしれない。地獄の業火に焼かれる本人も知らず。それはまるで地獄のような事態ではないか。箱庭の天国でなにも知らず、独り偽りの彼らと過ごす楽しい時間は、永遠にその事実を私に明かさない。こんなのが天国なら天国に行きたいとは思わない。

 では仮に新しい生を得て、ふたたびこの世に還ってくるとせよ。いままさに私は生をうけている。前世を知らない。私が私として生まれる以前から、何度も転生して、その記憶を失って、いま私をしているのが私なのか。それでも、前世の私と今生の私とが同じ私であるといえるのか。今生の知識や経験を捨てて、別の生へと移行した私は、私のようには考えないに違いない。これも気持ちの悪い話だ。

 ここまできて、釈然としないもののあることに気づく。あの世にしろ、転生にしろ、誰も体験も記憶もしたものがないのに、誰がこうした死後を語ったのか。結局これらは死の恐怖を和らげる方便でしかないのなら、私はそれに安心していることができなかった。私にとって、もっとも恐ろしい死後について対策しなくてはいけない。

 いずれにせよ、上記の死後観は生をうけていることにかわりはない。では、なにが死んだのか。結局は生の延長の物語に、まやかしの救いを与えられているのではないか。どうしてもうまい話で誤魔化されているようにしか思えない。ほんとうに死ぬとき、私たちはどこへ行くのか。安易な救いではなく、最悪の死後のなかで、ほんとうの救いを探さなくてはいけない。

 そうして行き着いたのは無だった。この発想に恐怖心が働き始めたのを見てとり、ここに求めている望まれないものがあると確信する。

 無になるといってみても、無は日常に見当たらない。無とはなにか。まずいま目に映る物をすべて消してみる。星のない宇宙空間のようなものをイメージする。そこを漂ってみる。どこまで行っても出口はない。そこで漂うということは有ることだと気づき、漂う体を失ってみる。あらゆる感覚器が失われ、闇ともない闇を、漂うともなく漂い、なにに触れることもなく触れるという事態からなく、これが永遠に続くものだとしてみると、恐怖は最高潮を迎えた。この無を抜け出そうにも、無には何を組み立てることもできない。そもそも出口がないから、その足掻きは徒労に終わる。それでもここを抜け出る方法があるなら、それが救いだ。無を渡って産道を潜り、新しい生が始まるのか。いや、それは転生で、無は無、終わりある無は不完全な無だ。抜け出る方法がないまま永遠に無である。私自身も。

 ――私自身も? そこで気づく。無のなかでまだ、意識を残していると。無は無、無でないもののある無は相対化され有るものとなる。無になるということは、この意識さえも途絶えることでなくてはいけない。意識さえも消して――

 一瞬だけその状態がみえ、最大限に膨らんだかと思われた恐怖は破れて、底無しの恐怖が広がった。出口のない無にあっても、意識を有し足掻くことはそれ自体が救いとして働いていたようだ。足掻くこともなくなる、足掻く意識がなくなる。無のなかで、無となって、時間すらなく、始まりも終わりもなく無であり続ける。そこに苦しみはなく、そこに喜びもない。そこに思念はなく、平然と無であることだけがある。


   3.神に祈る


 そして私は現実にかえってくる。心臓の鼓動。一人部屋のベッドのなかで、聞こえるはずのない家族の寝息、その聞こえなさのなかで、いずれそのどの息も止まるときがくるのだと思った。あの一瞬だけ観じた無へと、息を止めるのだ。昼間の友達と遊んだ光景がよみがえる。家族との時間がよみがえる。そこにいた誰もが無に入って、足掻く意識すらなくして無になる。恐怖とともに憐れみが湧き上がり、救済の方法もなく、あるかもしれない神に懇願して泣いた。おじいちゃんが死にませんように、おばあちゃんが死にませんように、お父さんが死にませんように、お母さんが死にませんように、お姉ちゃんが死にませんように、妹が死にませんように、友達が死にませんように、だれも死にませんように。

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