落し物

横谷 タクミ

第1話 信じられない、一日

 今朝、僕の父は亡くなった。


 特別仲が良かったわけではない。一般的な、男子高校生とその父親という、微妙な雰囲気の関係ではあった。だからと言って、辛くないはずがなかった。


 父は二週間ほど前に、末期ガンであると診断されていた。なんとなくテレビを見て不安になった母が検査させたところ、もう手遅れの状態で発見されたのだ。


 診察室でそれを聞いたとき、一瞬呼吸が止まった気がした。胸がセメントで固められたかのように凍りついた。僕の脳に真っ先に浮かんだ「医者なら直せよ」なんて、くだらないドラマに出てきそうな言葉は、いうことを聞かない体に妨げられて出てこなかった。


 今思えば、家族三人で並んで歩いたのはいつ以来だったのだろう。病院の駐車場に向かう途中の、無言で歩いた気まずささえ少し愛おしく感じられる。遠くに見える国道沿いに並んだ桜の木は、たくさんの蕾でほんのりピンクがかっていた。


 もうすぐ消えようとしている父を横に、もうすぐ咲くのであろう花々が、少し嫌になったのを思い出す。

 せめて、一週間後の僕の誕生日を、家族みんなで迎えられたらよかったのに。


ゆう!本当に今日学校行くの?」


 一階から母が自分の名前を呼んだ。


 憂鬱ゆううつではあった。誰とも会いたくなかったし、母も休んでいいよと何度も言ってくれていた。


ただ、どんなに辛くとも学校には行くんだぞと昔から父が口癖のように言っていたのを、今まで何もしてこなかったくせに、今まで何もしてこなかったからこそ、今更の親孝行のつもりというか、意地になって登校する気でいるのだ。


 確かに母を一人で放っておくのも申し訳ないと思ったが、母と二人きりでいるのも辛かった。


 行くよと叫び返すと、制服に着替えた僕は洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の目は少し腫れていて、クマもできていた。


 両頬をペチリと叩いて気合いを入れると、一階に駆け下りた。リビングのテーブルにあった、ロールパンが二、三個入った袋を掴み取る。ちらっと母の顔が目に映った。母の目は僕以上に赤く腫れていて、各所への連絡に追われていた疲れがどんよりと漂っていた。


 罪悪感を押しつぶしながら、逃げるようにいってきますと玄関を飛び出した。


 何か物を考えると、嫌なことばかり頭を巡ってしまいそうで、ただただ無心で学校に向かって歩いた。

 

教室に着いたが、いつものように仲の良い友人と会話を楽しむこともなく、自分の席で頬杖をついて目を閉じていた。誰かと話す気もしないが、一人で何もしないでいると、やはり嫌なことばかり頭に浮かんでしまう。


 母の疲れ切った顔が頭によぎる。大丈夫だろうか。あのまま倒れてしまっていないだろうか。もしも、家に帰ったとき、母まで...


 ぶんぶんと頭を振り、馬鹿な考えを脳裏から消し去る。早く授業よ始まれ!そうすればきっと、そんなこと忘れられるはずだ。


 しかし、一限が終わったとき、僕の体はずっしりとした疲労感に襲われていた。勉強で頭の中を埋め尽くそうとしたところで、そんな願いが叶うことすらなく、黒いもやを生み出しては消す、苦しい作業を繰り返してばかりだった。


「おい、祐、大丈夫か」


 友人の高田がぐったりとしていた僕を見かねたのか声をかけてきた。


「ああ、なんとか」


「俺もいろいろお世話になってたからさ。残念だよ。なんかあったら、すぐに言ってくれよ、なんでも手伝うからさ」


 彼は小さい頃からの友人であり、親同士も仲が良い。今回の件も母越しに聞いているのだろう。高田は自分の顔だってくたびれて土色になっているというのに、僕の心配をしてくれている。人に心配ばかりかけていられないなと、改めて思った。僕が、母を支えなければならないんだから。


「じゃあ、焼きそばパン買ってきて」


「へ?」


 間の抜けた声を出した高田は、ふふっと吹き出した後、仕方ねえなあと本当に買いに行った。


 彼の背を見送りながら改めて思う。父の代わりに何をすれば良いのだろう。父は何をしてくれていたんだろう。そもそも、自分にできることは、あるのだろうか。


 父のことを考えていると、授業はあっという間に終わっていった。考えてみれば、僕は父のことを、全然知らなかった。そして気づいた。父との記憶が、決して多くはなかったことに。


 学校が終わり、家に着いたのは丁度四時ごろだった。


「ただいま」


 返事がない。僕の声はすっと吸収され、怖いくらいの静けさと焦りが襲いかかる。


「ただいま」


 少し声を荒げて言い直し、靴を脱ぎ捨てリビングへ駆ける。


 そこには誰もいなかったが、テーブルの上に一枚の付箋が貼ってあった。


 「祐へ お母さんはお寺に行ってきます。遅くなるので、晩御飯は適当に済ませておいてください。お風呂も洗ってくれていると助かります」


 なんだよ…と安心感と罪悪感とともに少しの怒りすら湧いてくる。ふう、と息を吐き出すと、気分転換のためにも先にお風呂を済ませてしまうことにした。


 熱い湯のおかげでスッキリとした僕は、キッチンに立ち晩御飯を考える。とはいえ元から決まっていた。これくらいしか作れないからだ。引き出しのカップラーメンを一つおもむろに取り出し、電気ケトルに水を入れる。


 テレビを点けると、料理番組がやっていた。高級料理店で、設定された金額に一番近く食事ができた人が勝ち、一番ずれてしまった人が全員分の代金を支払うという番組だった。


 僕がカップにお湯を注ぐのに対し、テレビの中ではシェフがおこげに餡をかけていた。いかにもパリパリサクサクしそうなおこげに、つやつやとしたとろみのある海鮮餡が絡まっていく。立ち上る湯気に空腹を誘われる。


 美味しそうに食べるタレントに、羨ましいなあなんて思いながら見入っていると、ピピピピと3分を知らせるタイマーが鳴った。

向こうの世界とは比べ物にならない貧相な中華料理に、お腹を鳴らす。なんだか悔しくなって一気に麺をすすりあげると、口いっぱいに広がる濃い独特の味が、なんともいえない幸福感を味あわせてくれた。


 これだってうまいんだぜと心の中で呟くと、僕はチャンネルを変えた。


変更先のチャンネルでは、有名人の幼少期を紹介していた。この番組のためにアルバムを引っ張り出してきましたなんて笑っているアイドルを見て、ふと自分の小さい頃の写真が気になりだす。


前見たのはいつだったか、確か鳩を追いかける写真かなんかを見たはずだった。記憶が正しければ、テレビの横の棚に入っているはずなのだが。しかしどこを探しても見つからない、躍起やっきになってリビング中を引っ掻き回す。しかし見つからない。どこにあるのだろうか。

 

冷静になろうとして食べかけだったカップラーメンを啜る。少し冷めたスープに油が浮いていた。


 はてさて、本当にどこにやったのだろう。こういうものは欲しい時ほど出てきにくいものだから、諦めるしかないのだろうか。まあ今必ず見なければならないものでもあるまいし、母が帰ってきたら聞いてみることにしよう。


 そういうことにしてまた冷えてしまったカップラーメンを啜っていると、スマホが光ったのが見えた。高田からのメッセージだ。


「おう、祐。俺だ。父さんだ」

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