追記 エンター

 乙川洋名人は、パソコンの前で放心していた。初めて、将棋ソフトに負けたのである。

 将棋ソフトはどんどん進歩していた。すでに何人かのプロが、敗れている。それでも、まだまだトップ棋士に勝ち越すほどではない、そう思われていた。

 しかし、名人は負けた。ソフトの名は、アワーゼロ。インド人プログラマが開発した、最新のソフトだった。大会に参加せず、売り出されてもいない。インターネット道場に一時期現れて、あっという間に最高レイティングを更新した。しかしそれはまだ簡易版で、乙川が対戦したものよりも一段階弱いという。

「確かに、これはいけません」

 ようやく冷静さを取り戻した乙川は、ぎらついた眼でモニターをにらみつけていた。恐れ、そして羨望。名人の口元には、わずかなゆるもがあった。

「誰かに渡すわけには、いきませんね」



 その日発表されたニュースは、将棋ファンに少なからぬ衝撃を与えた。それは、南牟婁五段が、一か月間公式戦を欠場するというものだった。

 高校生棋士としてデビューし、破竹の勢いで勝ち続けていた南牟婁。十代とは思えぬ落ち着きと、独創的な指し手からすでに大きな期待が寄せられていた。しかし、ときに勝負を急ぎすぎることもあり、見落としからの逆転負けをすることもあった。

 発表では「自宅療養」とされていたが、南牟婁は病院のベッドの上にいた。

「姉さん、俺は決めたよ」

 傍らには、長身の女性が座っていた。目を細めて、唇をかみしめて弟の顔を見つめていた。

「聞きたくない」

「聞いてくれよ。この二年で、自分の実力はわかった。体さえ大丈夫なら、俺は負けない」

「そうね。でも、体が弱いのは仕方がないことだもの」

「仕方なくはないさ。医療は進歩している。この時代に生まれたのは、運命だと思っている」

 姉は、顔を手で覆った。その隙間から、しずくが零れ落ちた。

「ごめんね、ごめんね……わたしがもっと稼げれば、若いうちにちゃんと治してあげられたのに」

「何を言ってるんだ。姉さんのおかげで俺は生きられたんだ。今度は、俺が名人になって、姉さんを楽させてやるよ」

「いいの、そんなこといいから……」

「決めたんだ。俺はサイボーグになる」


 将棋界は、二強時代に突入した。

 その一人は、乙川名人。名人戦以外でも圧倒的な強さを誇り、四冠になっていた。そしてもう一人は、南牟婁三冠。数年前に体調を崩して休場したが、復帰してからは破竹の勢いで勝ちまくった。不戦敗があるにもかかわらず順位戦で昇級し、その後も連続昇級によってA級まで上がってきた。

 二人とも、強さと共に雰囲気も際立っていた。乙川は口数も少なくなり、瞬きの数も減った。そして指し手は独創性を増し、終盤はほとんど間違えることがなかった。ときに飲食を忘れて盤の前に座り続けることもあったし、記者会見で全く反応しないこともあった。

 もう一方の南牟婁は、一見健康的で、表情も柔和になった。ただ、対局時に体を大きく沈めて、大地にへばりついているようになることがあった。細身の体にもかかわらず、自分自身の重みに耐えられないようだった。

「キツネとタヌキに憑りつかれている二人だ」棋士の誰かが言った。二人はそれほどまでに、神がかり的に勝ち、異様なオーラを発していた。

 そしてついに、南牟婁はA級で全勝し、乙川名人に挑戦することになった。



「言っただろう姉さん、大丈夫だって」

「本当に大丈夫なの?」

 六畳一間の部屋。大きな本棚と三台のパソコンだけが目立つ。細長い洋服ケースの上に、ペットボトルとサプリメントの袋が置かれていた。

「いたって。ついに名人に挑戦だよ」

「私、心配してるのは体だけじゃない。最近、とっても変だもの」

「勝負って、狂ってでもするものなんだ。その割には、正気だろ」

 その後姉は追い出されるようにして、しぶしぶ部屋を後にした。姉がちゃんと帰るのを窓から見届け、南牟婁は畳に体を投げ出した。

「大丈夫ではないさ。ずっと、苦しい。手術前より、ずっと。こんなに苦しいのに全く死ぬ心配がないんだ、絶望的だよ」

 南牟婁は、胸を押さえた。とてもかたい胸。

「この苦しみの代償をくれよ、名人。心の方を、追いつかせてくれ」



「ひろちゃん、ねえひろちゃん」

 乙川に呼び掛けているのは、若い女性だった。鼻筋がすっと通っていて、美人と呼ばれなれているであろう容姿だった。名前は京。

「詰将棋飽きちゃった。ちょっと遊ぼ。ねえ」

「エラー」

「えっ」

「エラー」

 乙川の口から、平坦な音が発せられた。

「どうしたのひろちゃん」

「エラー。……セイフ。うっ……エラー」

「ひろちゃん、ひろちゃん!」

 乙川は、口から泡を吹いて倒れた。


 新名人は、仏頂面を隠そうとしなかった。そして誰もそれをとがめることはできなかった。

 名人戦は第六局を終えて三勝三敗の五分。レベルの高い戦いが繰り広げられ、いつになく盛り上がっていた。しかし、決着をつけるはずの第七局は、行われなかった。

 乙川名人、失踪。

 未だにその真相は明らかにされていない。どこを探しても名人がいないのだ。一か月間、第七局は延期された。そしてついに、不戦敗が宣告され、名人位が移ることになった。

「このような形ではありますが、伝統ある名人位を預かる以上、それに恥じぬ成績を残す使命があると思っています」

 南牟婁は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。感情がこもっていない、薄くて冷たい声。

「そして、待っています。乙川さん、いつまででも待っています」


「負けさせてやってくれ」

「えっ」

 京はびっくりして、読んでいた本を落としてしまった。慌てて乙川のほうを見るが、いつもと同じように天井を見上げていた。

 とある地方の病院の、とある個室。ここに前名人がいることは、ごくわずかな人間しか知らない。

「南牟婁を、救ってやってくれ」

 口だけが、動いていた。すぐそばまでやってきた京のことを、一瞥もしない。気づいていないのだ。

「負けさせてあげると、救うことになるんだね。でも、誰もできないよ」

「……生駒」

 京は、笑った。首を振りながら、笑った。

「生駒さんは、部屋から出られないもの。この世に機械の体とかあるなら、できるかもね」

「……生駒……エラー」

 京は、乙川のほほを撫でた。そこには、温もりがあった。

「将棋って残酷。そんな世界に、入らなければよかったのに」

 彼女の言葉もむなしく、何人もの若者が、そこに入ってしまうのであった。



エンター(完)

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エラー/セイフ/キャンセル/エンター 清水らくは @shimizurakuha

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