第3話 キャンセル
美駒は、美しい空中庭園のベンチで詰将棋を解いていた。タブレットの駒を次々と動かして、毎分5問のペースて10分間、これを3セットやるのが日課だった。2セット目を終えて息を吐き出した時、メッセージが届いた。「分刊将棋」からのものだった。
【アッキビテル、ついにサポート棋士を発表】
美駒は、つばを飲み込んだ。
将棋界に、新しい動きが起こっていた。電脳棋士も参加可能な団体New Japan Shougiに、「チーム アッキビテル」が参加することになったのである。アッキビテルは数々のゲームでトッププレイヤーをサポートしてきた集団で、これまでかかわったプレイヤーを必ずその競技において一番にしてきた。ついにそのアッキビテルが、将棋への参戦を表明したのだ。
アッキビテルにはプレイヤーは誰ひとりいない。その代り、メンタルトレーナーやフードアドバイザー、医師にマッサージ師、美容師までもが複数人所属している。プレイヤーがゲームにおいて最も良いパフォーマンスをするにはどうしたらいいか、そのことを徹底的に考えている集団なのである。
とはいえ、誰でもトップになれるわけではない。アッキビテルの代表は常々マスメディアに対してこのように言っている。「トップになれるのは、選ばれた天才だけである。ただ、選ばれた天才の中には非効率的なやり方しか知らない者もいる。そういう天才は、普通の天才によく負ける」
そして、美駒は息をのんでから、タブレットをタップした。ページが変わり、最も重要な情報が現れる。
【サポート棋士は、New Japan Shougi所属の女性棋士、ミーナに決まった】
美駒は、のんだ息をゆっくりと吐き出した。
何となく、予想できていたのだ。ミーナは、特別な存在だから。
だだっ広い会場の中に、いくつものアーム型ロボットが将棋盤を挟んで並べられていた。美駒は、その間を歩きながらモニターに映る顔に頭を下げていた。
アマチュア閃王戦、DOT予選。これは、将棋用ロボットであるDOTを使用する、病気や居住地などの問題で地区予選に参加できない人向けに用意された大会である。一昨年まではインターネット上で開催されていたが、DOTの廉価版が発売されたのを機に、誰でも「盤駒を使って」指せる大会へと変わったのだった。
モニターにはカメラも取り付けられており、お互いの顔や盤面だけでなく、会場の様子も見ることができた。美駒がそばを通ると、ぺこりと頭を下げたり、小さく微笑む人もいた。
昨年から変わったのは、彩りである。家庭にDOTが普及するにつれ、デザインに対する要望が増えてきた。それにこたえて、様々な色や模様のDOTが発売されるようになった。今回は参加者の希望のDOTを事前に聞き、それを用意して対局することになった。
一番人気は、シンプルなメタリックブラックだった。中年男性に特に多い。続いて、和服を意識した和柄各種。三十年ぐらい前まではプロのタイトル戦では和服を着るのが通例で、その雰囲気を少しでも味わいたいという年配の人が多いのである。
また、チェリーピンクも人気だった。ほとんどが、若者からの要望だ。大会に出たくても、両親などが付き添う余裕のない子供たちも多い。中には両親が許可してくれず、こっそり参加している少女もいる。美駒の眼には、ピンクのDOTは動きが軽快に見えた。
会場にはプロ棋士の他にメカニック、報道陣、そしてアッキビテルのメンバーがいた。今回は三人のメンバーが訪れていた。
アッキビテルには、将棋に精通したメンバーがいるわけではない。彼らは将棋界のことを今から学び、そして適切な人間をスカウトするつもりなのである。
アッキビテルのメンバーは、白衣を着ていた。マスクに赤いサングラス、白い帽子をかぶっていて、その中に髪をまとめている。それが、彼らの制服だった。サポートメンバーはできるだけ個性を見せない、それがアッキビテルの方針だった。
美駒は、どうしてもその姿に慣れなかった。彼女は、DOTには表情を、感情を感じることができた。けれどもアッキビテルのメンバーは、衣装だけが宙に浮いて、ランダムに動いているように見えた。
「美駒ちゃん、こっち」
先輩棋士に促されて、美駒は盤の前に着席した。天井から吊るされたクレーンがDOTを運び、彼女の前に下ろしていく。空き番になった人たちとの、指導対局の準備である。
三体のDOTが、美駒の前に鎮座する。モニターと無線で接続され、それぞれの対局者の顔が映し出された。そして、カメラが美駒の顔をとらえ、それぞれの家庭のパソコンに映し出した。
「振り駒、してみます?」
美駒は、首をスライドさせながら尋ねた。三人とも、頷く。美駒は微笑んで、「振り駒、オン」とつぶやいた。モニターから駒の映像が消え、宙に五枚の歩が浮かび上がる。両手を合わせて手首を振ると、「しゃかしゃか」という音が、スピーカから流れた。
「先手、後手、後手ですね」
駒は宙に舞い、盤上に落ちた。表と裏が確認されると、仮想の駒は消え、現実の駒が戻ってくる。
「では、よろしくお願いします」
四人が、頭を下げる。対局が、始まった。
そんな美駒の後ろに、一人のアッキビテルメンバーが立っていた。対局の様子を、じっと見守っていた。
「黒山美駒さんですね」
対局を全て終えた美駒にかけられたのは、のっぺりとした声だった。
「はい」
「私、アッキビテルの7549です。番号はランダムなので、メンバーが7千人いるわけではありません」
「は、はあ」
「いろいろと見さしていただきましたが、あなたが一番バーチャル対局に慣れていますね」
「え、えーとそうかな」
「幼い頃から慣れ親しんできた世代ということでしょうか。データによると成績もいいようですね」
「それほどでも」
「ミーナと団体戦をしたこともあるのですね」
美駒の眼が、細くなった。口元に、ぎこちない笑みを浮かべる。
「はい」
「私たちのメンバーになりませんか」
美駒は、目を見開いた後に、小さく息を吐いた。
「それは、できない」
「そうですか。でも、私たちと共になら頂上の景色を見ることができます。自力では、おそらく無理です」
「私は、私が登れるところから景色を見るから」
「わかりました」
7549は、頭を下げた後静かにその場を去っていった。美駒は、口をへの字にしてその姿を眺めていた。
「やはりそうか」
銀次郎は、低い声でつぶやいた。パソコンのモニターには、頭がい骨が映っていた。
「どうしたの」
「一応秘密の資料だから、他の人に言っちゃいけないぞ。これは、南牟婁の頭部だ」
「チャンピオンの頭?」
「そうだ。いたるとこに、影がある」
「うん」
「働き過ぎ、らしい」
銀次郎は、黒い影の一つを指差した。
「どういうこと」
「奴は体を機械化して、体力的な問題をクリアした。チャンピオンを連覇し、勝率は九割を超えている。一見すべて順調だが、機械による補強は、脳に想定以上の要求をするらしい。限界以上の動きをするために、あまり使わない脳の部位が働き出してしまう」
「でも、効率がよさそう」
「一瞬ならな。ただでさえ棋士は頭を使う仕事だ。脳は大量のエネルギーを必要とする。リミッターが常に外れた状態になり、脳細胞はどんどん酷使され、老いていく」
美駒は、たまに見る南牟婁の姿を思い出してみた。驚くほどに外見は変わらないが、どんどん顔つきが鋭くなってきていた。そして、にじみ出るオーラが、淀んでいると感じていた。
「どうなるの」
「死ぬ」
銀次郎は、写真を閉じた。
「いつ」
「もう長くないだろう。だから、私のところにリークが来た」
「NJSの人から?」
「そうだ」
NJS、New Japan Shougiは二つあるプロ組織の一つで、電脳棋士など機械化が許容されている点が特徴だった。そして設立以来、常に南牟婁がトップにいた。
「奴がいなくなっては、組織の存続自体が危うい。全日だってライバルを失って少なからず影響を受けるだろう」
「将棋界が、困るんだ」
「ああ。だから、模索しているのさ。ゲーム集団とやらと組んだのも、そういうことだろう」
「そうだったんだ」
「こちらも、何か用意しなくてはならない時期だ。人間の将棋から、絶対的な強さの指標が何十年ぶりかに消えてしまうかもしれないんだから」
銀次郎は深いため息をついた。美駒はその理由をよく知っていた。これまでいろいろな試みがすでになされていて、効果が表れなかったのだ。将棋界はすでに、ずっと斜陽の時期にあった。
「私にも、何かできるかな」
「美駒は、とにかく強くなりなさい。とにかく、強さは魅力だ」
「うん。わかった」
美駒は自分の部屋に走り、DOTの電源をつけた。彼女の勉強は、いつもこうして始まるのである。
午後十時。いつもならば眠る時間だったが、美駒はそのことに気づいていなかった。
美駒の首元には、丸いパッドが付けられていた。そこから出た電波の情報は、インターネットを通じて田舎の生駒、母親まで届いていた。
生駒はすでに、ほとんど体を動かすことができなかった。夫の世話により命は繋がれているものの、目が開くこともなかった。それでも、頭の中には限りのない宇宙が広がっていた。生駒は今や、全てを将棋にささげることができた。頭の中にはいくつもの盤が並び、多くの局面が同時に進行していた。無数の引き出しに何万という棋譜が収められていた。
そこに、二人の訪問者がやってきた。生駒のイメージでは、青い光と黒い光だった。
「お母さん、こんばんは」
それは、美駒の声だった。
「コンバンハ」
黒い光から発せられたのは、少し機械的な平坦な声だった。宇宙人棋士、竜弥だった。
「じゃあ、始めましょうか」
美駒の声に、青い球が揺れた。
空中に浮かぶ盤上で、駒が次々に動いていく。青い球の向かいには、誰もいない。この空間自体が生駒なのだ。そして、黒い球はふらふらと漂いながら対局を眺めていた。
一時間のうちに三局が行われ、全て生駒の勝ちだった。
「やっぱり、強い」
「美駒も強くなりましたよ」
二人が対局するようになったのは、三か月前からだった。美駒がどうしてもと頼み込んで、生駒が折れたのだ。ただ、生駒は頑なにDOTでの対局には反対した。
「イコマサンハ、トンデモナクツヨイデスネ」
そして二人の対局を竜弥が観戦するようになったのは、二週間前。試してみたら、二人の空間に簡単に接続できたのであった。
「竜弥君も頑張ってるじゃない」
「マダマダデス」
竜弥はNJSにおいて、好成績をあげていた。ただし、チャンピオン挑戦リーグに入ることはできておらず、他棋戦においてもまだ優勝経験はない。
「あ、ちょっと、面白いものが見れそう」
盤上の駒が一瞬で初期配置に戻り、その横に文字情報が浮かび上がった。
「初めて見る名前……あ」
生駒が映し出したのは、インターネット道場の対局だった。片方はまだ棋力不明だったが、そのハンドルネームは明らかに誰かを想像させるものだった。
「ナンデスカ アア NEOMEENA」
「ちょっと、刺激の強い感じがしたの」
長年ネットに潜り込んできた生駒は、情報を五感で感じることができた。常にネット道場にアンテナは貼られていて、違和感があればすぐに音や香りで感じることができるのだった。
「ミーナ……」
「まだ、観戦者は少ないみたい」
その対局への来場者を示す欄には、「3」という数字があった。そのうち一人は生駒なので、他には二人だけ。
「ハジマッタ」
対局設定は一手20秒。さくさくと対局が進んでいく。ただ、生駒は少し違和感を感じていた。指し手の質は生駒が知っているミーナそのものだったが、時間の使い方、そのリズムが違う気がしたのだ。
「少し、テンポが遅い」
「多分、許可ね」
生駒は、指し手の向こう側からミーナ以外の声を聴いていた。はっきりと伝わるわけではない。しかしノイズのようなものが感じられるのだ。
「アッキビテルが、もうついてるのかも」
「ソウカ サシテノタイミングヲサポートシテイルンダ」
当たり前のようにNEOMEENAが優勢になったが、指し手のリズムはゆっくりなままだった。ミーナはいつも、情熱的に駒を打ちつける。その姿を思い浮かべると、どうしても美駒は今現在指している人物と同じとは思えなかった。
NEOMEENAは危なげなく勝ち切った。次の対局では、10人ほどの観戦者が付いた。中身に気づいた人が出てきたようだった。
対戦相手も、レイティングがかなり高かった。アマ強豪かプロと考えられる水準だった。
「あれ、今度はまた違う」
NEOMEENAはあるときはノータイムで、あるときは時間ぎりぎりに指した。
「ランダムダ」
「らんだむ?」
「タブン ドクリツシタシステムデ サシテノジカンヲキメテイル」
中盤の指し手にさしかかっても、NEOMEENAのむちゃくちゃなリズムはそのままだった。そして、局面はとても複雑で、三人は検討にのめり込んでいった。
言葉では間に合わない。三人は頭の中のイメージを提示し合った。映像やその動きが、生駒の脳の中で次々と流れていった。次第に三人は、まとめて一つの動きについて考えるようになった。誰がどこを考えているのかは、わからなくなっていった。
対局が終わった時、三人の前から忽然と世界は消えた。そしてそれを理解する主体も、しばらくはなくなっていた。
「今の……」
言葉を発したのが、どれぐらい時間がたってからかも美駒は理解できなかった。
「混線かしら」
「サカイメガ、ナクナッタ」
数分間、三人はこの世から消えていた。混ざり合って、溶けあって、一つになっていた。
「カラダヲ……コエタヨウナキガシタ」
竜弥は、ふわふわと回転しながら自分の内面を見つめた。彼の体は、丸く黒い鉄球に見える。ただ実際には、ガス状の粒子が電気を取り囲んでいるのだった。決して人間が、彼に直接触れることはできない。誰かの手に触れられているように見えるとき、竜弥はその手に少し弾かれているのだ。そもそもどこからどこまでが竜弥と呼べるのか、研究者の見解も別れるほどだった。
地球の暮らしも長くなり、竜弥は自分が人間とはずいぶんと違うことをはっきりと理解できるようになった。人間は、特定の物質を固定させて、複雑な形の「自分」を形成させている。竜弥は常々、その感覚を味わってみたいと思っていたのだ。
美駒と生駒が体を捨てた瞬間、竜弥は二人を通じて体を感じた。それは遠くにある二人の肉体なのか、それとも二人の頭の中にある体という概念なのか、それは竜弥にもわからなかった。ただ確かなのは、彼は全く新しい感覚を記憶に刻みこむことができたのだ。
「私も、竜弥君を感じた。魂の、形を」
「私も……ぼんやりとしているけど、何か見たことのないものが見えた」
そして生駒と美駒も、新しいものに触れたのだった。三人は、電子空間の中で頷き合った。
スポーツ新聞の一面を将棋の話題が飾ったのは、実に三十年ぶりのことだった。
「南牟婁チャンピオン、次負ければ引退!」
それは一般のニュースとしても全国に流れ、少なからず人々の興味の対象となった。
史上初の五十連勝。それが、現在の成績だった。ちなみに前回四十九連勝まで達成したのも、同一人物である。
記事にはもう一つのことが書かれていた。「人間である限り、どんな相手、どんな形式でも勝負を受ける」
「ついに来ましたね」
そう言ったのは、赤いサングラスの男。ここでの呼び名は、2354である。
「当然私たちを意識してのことですね」
その言葉も、赤いサングラスの者から。そちらは女性、呼び名は8112である。
「ミーナ様、これは私たちへの挑戦状ですよ」
それもまた、赤いサングラス。マスクから白い髭がもれている。6727だった。
「そう」
そして部屋の中でただ一人、目も口も隠していない人間。くっきりとした目鼻立ちに褐色の肌、長い髪は青いシュシュで纏められていた。
ミーナは、うつむいたまま瞬きを繰り返していた。そして、ヘッドフォンを当てて、目をつぶる。
彼女の耳に届くのは、心音だった。最も精神を落ち着かせるリズムの鼓動が、最も心を落ち着かせる音量で流れている。
食事の時間とメニュー、風呂の温度と時間、そして見るべきインターネット動画まで、すべてがアッキビテルによって決められていた。
ミーナの意志が受け入れた作業を、電脳は適切に処理していく。しっかりとメンテナンスが施されているため、肉体に悪影響を与えるほどの稼働はめったにされない。ミーナは電脳との相性が良かった。
多くの人々に囲まれ、あらゆることを強制される生活。普通ならば息苦しさから逃げ出してしまってもおかしくないが、ミーナは一切苦痛を感じていなかった。将棋が強くなるためならば、何でも簡単に受け入れられるのだ。
もちろんアッキビテルも、ミーナの性格などまで調べたうえで、彼女をサポート対象に選んだのである。
ミーナは現在、八連勝中。前回負けたのは、南牟婁チャンピオンだった。
「次は、勝てる」
自分に言い聞かす言葉だった。最近、彼女は何度もそのことを口にしている。
「絶対、勝てる」
そして、アッキビテルの面々は、そのことを問題なしとみなして、誰一人反応はしないのであった。
世界一高い塔の、世界一高い展望台。美駒はそこで、ぼんやりと町を見下ろしていた。
シブヤミラクルタワー。あまりにも名前の評判が悪く、多くの人がスペースタワーと呼んでいる。廃れ行く下町、渋谷の復興を願って建てられたが、タワー以外は未だあまり恩恵を受けていない。
美駒はかつて、団体対抗戦においてここで対局を経験していた。それ以来、時間があって、誰とも対局できない時はよく訪れていた。
彼女の故郷はとても田舎だった。父は畑仕事の合間によく遊んでくれた。母は機械につながれて眠っていたが、いろいろなことを教えてくれた。インターネット空間では、母は元気だったのだ。
東京にやってきてからの生活は、故郷とはあまりにも違った。一番美駒を困惑させるのは、空の狭さだった。いくつものビルがぐんぐんと伸びていて、青空も雲も、窓の奥にあるようだった。
一番高いところならば、空は広いはずだ。美駒はそう思った。
けれども美駒は、気付くと下を向いていた。確かに、広い空は懐かしい。けれども、新しくはない。その一方で、街はどこまでも広がっている。様々な町や道、公園や川。細かく見ていけば、いつまでも飽きることがなかった。
「ひさしぶり」
美駒は最初、自分に向けられた声とは思わなかった。ただ、その声に聞き覚えがある気がして、振り向いた。
「……ミーナ」
そこにいたのは、白いワンピースを着たインド人棋士、ミーナだった。
「よくここに来てるんだって」
「うん」
ミーナは、美駒の隣まで来て、窓の外を眺めた。
「会うのは、あの日以来ね」
「うん」
「多分、もうすぐ終わる」
「え」
「私、将棋界を終わらせに来たから。達成は、もうすぐ」
「……そっか」
ミーナの視線が、横に動いた。
「あなたには熱意というものが見られない」
「ミーナ。将棋界がなくなっても、私は将棋を指すよ。どこでも将棋は指せるから。だから、どこに行ったら楽しいかな、って思った」
「……そう」
ミーナは踵を返した。美駒は、ゆっくりと振り向いて、その背中を眺めた。それは以前よりも、小さく見えた。
「これでいい。計画通り」
そして柱の影から見守っていた赤いサングラスに白い帽子の男が、何度もうなずいていた。
「さて、観てみるとするか」
銀次郎は、タブレットを覗き込む。そこには、将棋の盤駒が描かれていた。そこは、「ピゴラピダ」と呼ばれるサイトだった。
ピゴラピダはインターネット上の将棋道場で、あらゆる指し方が許可され元々はソフトの解析を見ながら指す「ソフト指し」をする人たちが楽しむための場所だったが、ソフト自体も参加可能になり、電脳棋士や将棋を学習させた人工知能なども参加するようになった。
ピゴラピダとは「蛍」を意味する言葉である。様々なハイブリッド生物が生み出される中、特に人気なのは蛍の遺伝子だった。人間は光らせることが好きなのである。ピゴラピダにおいてはまさに、蛍遺伝子を借りるようにして、様々な存在が光り輝くことができた。
ただ、そうは言っても上位を占めるのは純粋な将棋ソフトばかりだった。人類がソフトに太刀打ちできなくなってから随分経ち、ソフト開発もほとんど進まなくなった。しかしソフト同士の対局によって、ソフトは進化し続けていた。もはや、ソフトに挑もうという者すらいなくなっていたし、新しいソフト開発に魅力を感じる者もほとんどいなかった。
「ほほう、こりゃ強い」
そんな中で、「Doppelstern」というアカウントが、一気に上位1パーセント圏内まで駆け上がってきたのである。ほとんど人間が存在しないその領域には、新参者はなかなか立ち入ることができず、定着はほぼ不可能とされていた。その壁を、Doppelsternはあっさりと乗り越えた。
過去の棋譜を確認し終えた銀次郎は、現在行われている対局の観戦へと移動した。すでに多くの観戦者が集まっていた。
相手は、上位5位にも入ったことのある古豪ソフト。二十年以上、生身の人間に負けた記録はない。しかもDoppelsternは先手。後手圧倒的有利が定説となった現代において、先手番を引いたことは大きなハンデと考えられていた。
受けの技術が向上したうえに、ちょっとの隙も見逃さないソフト相手に「先に動く」ことは、「先に咎められてしまう」ことを意味していた。だから多くの人間は、先手では千日手になることを狙った。『必引き分け! 千日手定跡』という本が将棋部門でベストセラーになったほどである。
Doppelsternは、淡々と仕掛けから攻めをつないでいった。すぐに良くなるわけではない。それどころか、評価値は横ばいのままだった。現代の受けの技術に対しては、攻めれば攻めるだけ苦しくなっていくことが多い。よって、形勢が悪化しないだけでも大成功なのである。
「やっぱ、ソフトじゃねえか」
観戦者のチャットが流れる。
「けど、どのソフトの読みとも一致してない」
別のコメント。たまに、既存のソフトを使って場を荒らしに来る者がいる。それらは、優秀な観戦者たちによって中身がどのソフトかすぐに暴かれる。
Doppelsternの指し手は、どの強豪ソフトとも完全には一致していなかった。そこから人々が導き出した答えは一つ。
「新しいソフトだ」
「誰だ、この時代に全く新しいの開発するのは」
互角のまま中盤を抜け、お互いに自分から仕掛けようとしない、じりじりとした展開が続いた。そして千日手も視野に入り始めた頃、それまでとは全く違う手、玉を戻る手が指された。相手は動けない。さらに戻る玉。そして反対側に玉が移動しきってから、Doppelsternは猛然と攻め始めた。
驚くべきことに、あっという間にDoppelsternが優勢になっていた。相手が手を出せない間に、有利になるポジションを奪っていたのである。
以下、よどみない手順でDoppelsternは勝ち切った。
「おい、詰みあったぞ」
「31手詰めを逃した」
ただ一点落ち度があるとすれば、途中詰んでいる玉を詰まさなかったことだった。既存の強豪ソフトは全て、その詰みを簡単に読み切っていた。
「まだ開発途中なのか」
「わざと詰ませないのかもしれない」
様々な憶測が飛び交う中、対局を終えたDoppelsternはログアウトしていた。
「ふふん。なるほど」
銀次郎は唇の端を上げて笑い、サイトを閉じた。
美駒はある局面を前に、ぴたりと動きを止めていた。
迷いなく進んできた思考の流れが、一瞬だけ途切れた。三人の想いが乱れて、指すべき手を見失った。
もはや、逆転は考えられない。悪手を指しても、何とかなるほどの局面だった。それでも、逃してはならない手があったような気がするのだ。生駒か竜弥かはわからない。どちらかが確実に、気が付いていた。「逃してはならない何かがある」と。
盤上を見つめる美駒は、実戦でも同じ手を指すだろう、と思っている。
一時間ほどたったころ、美駒は駒を一つ、動かした。そしてその局面を見て、唇をかんだ。二分ほどしてから、すらすらと駒を進めていく。
「詰んで、る」
31手詰め。気が付きにくいが、詰みがあるとわかっていればそれほど難しい手順ではない。
美駒は、何度もその手順を繰り返し動かせた。
「やっぱり、わからない」
何度でも、詰みを逃すのだと思った。世界には、簡単に詰みを見つける存在がある。美駒は今、見上げるべきかを迷っていた。
初めて女流棋士が男性プロに勝った時。初めて全冠制覇する棋士が出た時。初めてプロが将棋ソフトに負けた時。初めて外国人棋士が誕生した時。初めて女性がプロになった時。
将棋界には、様々なターニングポイントがあった。そして、外国人女性棋士が、初めてタイトルに挑戦するときがやってきた。
しかもその人は、初めて電脳化して団体間移籍した棋士であり、初めて公式にプロのサポート集団を付けた棋士でもある。
チャンピオンシップは、総持ち時間三十時間の三番勝負。一局終わると一日間の休みが設けられる。この間、New Japan Shougiは一切他の公式戦を行わない。各地、ネット上で解説会や記念イベントが行われるのである。
そして今回は、画期的なことが起こった。ライバル団体である全日本将棋会も、公式戦の取りやめを決定したのである。それだけ今回の対局が特別な意味を持つものだということでもあったが、銀次郎は別の見解も持っていた。
「棋士全員が、南牟婁の姿を目に焼き付けておくべきだ」
居間の大きなスクリーンに、対局前のセレモニーの様子が映し出されていた。そしてテーブルの上には、黒い球が置かれていた。
「ソレハモウ、ナガクナイトイウコトデスカ?」
機械音が、響く。人工発音機からの声だった。
「そうだ。すでに、生きていることが不思議なくらいだ」
「デモイマモ、トテモツヨイ」
「そうだな。あいつは、全力以外を知らないから」
黒い球が少し回転し、浮き上がった。黒いマントとフードが現れ、人型を形作る。
「チョット、ミテキマス」
「おう」
黒い影、竜弥は居間を出て、隣の部屋に向かった。扉は開いたままだった。テーブルの前に、美駒が座っていた。DOTは、動いていない。
「ミコマ」
「技流」
「え」
「技流30番。昔は、これを解くのがすごく大事だったんだって」
竜弥は、美駒の後ろからテーブルの上にある本を覗き込んだ。そこには、詰将棋が描かれていた。
「ムズカシイ」
「うん。とっても難しいの」
「デモ、ジッセンデハツマサナイ」
「うん……だけど」
美駒は、『技流30番』から目を離さなかった。
「チャンピオンシップが、ハジマルヨ」
「うん。後で見る」
竜弥は、美駒の背中をじっと見つめていた。その背中は、いつまでも動かなかった。
白い服に赤いサングラスの集団が、頭を突き合わせていた。
「どういうことだ。こんなはずではなかった」
「南牟婁の健康データが間違っていたのでは。予想をはるかに超えて思考を続けている」
「これまでとは全く違う行動をしている。どういうことだ」
「……南牟婁が、こちらのことを解析していた」
アッキビテルの面々は、すでに新たな対策を始めていた。ミーナの動揺を最小限に抑えるための言葉や、精神を最も落ち着かせる食事などはすでに準備済みだった。ただ、南牟婁以上の頭脳は、誰も用意することなどできないのだった。
サポートチームがあわただしい中、ターゲットであるチャンピオンは対局場横の空中庭園でお茶を飲んでいた。
「残念だったね、ミーナさん。君が最後の敵なら、強敵になったかもしれない」
南牟婁は、雲に向かって話した。
「僕を倒すのは、君じゃなかったらしいからね。残念だよ。ただ、もう次のことを考えてワクワクしてるんだ」
彼は、自らの左胸をがっしりとつかんだ。
「時間がないらしいからね。完全なる敗北を味わうチャンスは、そうないんだ」
立ち上がり、目をつぶった。
「やはり、最後は彼女だと思ったんだよ」
ピゴラピダの観戦ルームには、かつてない人数が集結していた。それを想定して、すでにサーバは増強済みだった。
人々の目当ては、片方はいつも通り、Doppelsternだった。対局の頻度は減ったものの、順調に勝利を重ね、Doppelsternは上位ベスト5の常連になっていた。多くの将棋ファンが、公式戦以上に「未知のソフト」Doppelsternの対局を楽しみにしていたのだ。
そしてもう片方は、チャンピオンだった。チャンピンオンシップを二連勝で終えた南牟婁は、インタビューで次のように宣言した。「次は私が、Doppelsternに挑戦します」、と。
業界は騒然とした。なぜならいかにチャンピオンと言えども絶対に及ばない領域、それが「将棋ソフト」だと考えられているからである。チャンピオンは人類の中では無敵だった。ただ、将棋が強いのは将棋ソフト、それが世間の常識となっていた。いかに南牟婁と言えども、将棋ソフトに勝とうなどという無謀なことはしない、と思われていた。
南牟婁はもちろん、そのことも承知していた。「Doppelsternはソフトではありません」チャンピオンは断言した。「Doppelsternが誰なのか、完全には確信できないでいます。ただ、Doppelsternはれっきとした人格です」
彼はその理由を説明しなかったが、その必要はなかった。南牟婁が言うならばそうなのだろうと、多くの人が納得してしまうからである。
チャンピオンは、姿の見えない相手に対して、はっきりと語りかけた。
「毎週木曜日の午前十時、ピゴラピダにログインします。もし挑戦を受けてもらえるなら、Doppelsternも、ログインしておいてください」
そして、最初の木曜日が今日だった。もう少しで十時。
「入った」
誰かのコメント。
「きた」
「Doppelsternだ」
約束したわけでもないが、多くの人々が確信していた通りになった。南牟婁の言葉には、力があるのだ。
この日のために用意された特別対局室に、チャンピオンとDoppelsternは入室した。時間設定は、持ち時間三時間。
機械的な挨拶を交わし、Doppelsternが初手を指した。歴史的な非公式戦が、始まった。
序盤は、静かな立ち上がりだった。よくある形。ただ、いつもとDoppelstern のリズムが違った。少しだけ、ゆっくりだった。チャンピオンを前に動揺しているのかと、観戦者たちは騒然とした。技術的な問題だろうとする見解もあった。
それが武者震いのせいだと推測するものは、皆無だった。
淡々と、じっくりと、将棋は進んでいった。波のないプールに浮かんでいる、一枚の葉のようだった。誰かがコメントした。
「ろうそくの灯のようだ」
ろうそくを見たことのあるものは少ない。動画検索してその灯を見た者たちか、「うまいたとえだ」とコメントを返した。
「そうか。そうだったのか」
南牟婁は、つぶやいた。
目の前の局面は、すでに終盤に差し掛かっていた。いたるところで駒がぶつかっている。
「生駒さんだと思っていたよ。まさかね、そんなことがあるなんてね」
左手が、テーブルのふちをつかんでいた。体は前のめりになり、頬は痙攣していた。
「この存在に、出会えてよかったよ」
Doppelsternは長考していた。チャンピオンを前に、苦悶している時間だと観戦者からは考えられていた。
一時間以上がかけられて指されたのは、誰もが予想しない手だった。南牟婁も予想していなかったが、予想しない手が指されることは予想していた。
そして五手後。一部の人だけが気付き始めた。まだ気づけないソフトもあった。
そこから、15手。盤面のあらゆる駒が、チャンピオンの玉に働きかけた。
「この瞬間のために、生きてきた」
何年間も無配だった男の右手が、カーソルを投了ボタンへと導いた。残りは32手。世界中で、自らの脳だけでその詰みを読み切ったのは彼一人だった。
「さようなら、将棋。ありがとう、三人の棋士よ」
投了ボタンが押されると同時に、南牟婁の体は崩れ落ちた。
「ミーナ!」
美駒は、黒い球を抱えて走った。手荷物検査に向かおうとしていた黒い肌の少女が、振り向いた。
「美駒」
「アメリカに行くって本当?」
ミーナは、目を細くして首を振った。
「どこから聞いたんだか」
「本当なんだ」
「将棋は、私に関係なく変わる。私にできることは、もうしたから」
「楽しくないの?」
「苦しかった」
美駒は、黒い球を前に突き出した。
「なに、それ」
「ドウモ。リュウヤデス」
ミーナは目を丸くしていたが、しばらくしてから大きくうなずいた。
「姿を明かさなかったはずね」
「ショウギヲ、ヤメルノカ」
「そうね。でも、悲観してるわけじゃなくて。むこうで、研究に参加するの」
「研究者になるの?」
「一応ね。この脳が生きてるうちに……何か残したいから」
そう言うとミーナは、手を振りながら手荷物検査のゲートへと消えていった。
「モドッテクルサ」
竜弥が、少し回った。
「そうだね。うん、また会える」
美駒も、振り向いた。
「ツイデニジッカニ、カエルンジャナカッタノカ」
「それは、キャンセル。もう少し、頑張る」
二人は、自分たちの場所へと戻っていった。チャンピオンを失った世界。未来の危ぶまれる世界。そして、可能性に満ちた世界。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます