第2話 セイフ
美駒は、本当に目を回した。見るもの全てが過剰だった。電車は三分に一本やってきて、多くの人を吐き出して、すぐに飲み込んでいく。ビルは高く高くそびえたっていて、さらにその上を飛行機が飛んで行く。
小さなときに一度来たことがあるらしいが、まったく記憶にはない。
「どうした美駒、何か見つけたのか」
「何かどころじゃないよ! いろいろありすぎる!」
山間部ののんびりとした村で、美駒は育ってきた。三階建て以上の家はなく、バスも二時間に一本ほどしか走っていない。ただ、母の部屋だけはピカピカとしていて、様々な機械が動いていて、美駒にとっては都会っぽかった。
都市高速の影を進み、一回だけ角を曲がった。見えてきたのは、天高くそびえるマンションだった。入口はホテルのように豪華で、銀次郎はいくつもの数字を押して鍵を開けた。
「ここに、住むの?」
「そうだ。今日から私たちの家はここだ」
「すごーい! でも、なんで?」
「まあ、立場というものがあってな」
エレベーターは、ぐんぐんと上昇していく。36階で、扉は開いた。長い廊下を歩いていくが、ドアはない。
「あれ、お隣さんは?」
「この階全部、私たちの家だ」
銀次郎は少しだけ微笑んだ。
「おじいちゃん、やっぱりお金持ちだ」
「そうなんだよ」
突き当りの柵を開き、さらに重たい扉を開け、ようやく二人は新居へと入ることができた。
「わあ、キレイ!」
「そうだろう。景色もいいぞ」
大理石の玄関を抜け、両手を広げてもまだまだ余裕のある廊下を抜け、バスケットボールができそうなリビングの向こう、バーベキューにうってつけのベランダがあった。そして目の前には東京の街が広がり、少し遠くには建設中の新しい塔を確認することもできた。
「スペースツリーだ!」
「来年には完成だぞ」
月面基地との通信に向け新たに建てられているスペースツリーは、スカイツリーよりもさらに高くなる予定である。
「お部屋もいっぱいある!」
「ああ、荷物も後から来るからな」
「見てくるー!」
美駒は勢いよく部屋から部屋へと駆け回った。どの部屋も美しく、そしていい香りがした。そして最後の部屋を開けたとき、そこにはすでに大きな物が置かれていた。丸い土台の上に縮こまったアームがくっついており、その横には直方体の箱が置かれていた。
「わっ、なにこれ」
近付いてみるが、反応はない。ただ、よく見るとアームの先には吸盤とレンズが付いているのがわかった。
「変なの」
「DOTと呼ばれるマシンだ」
「どっと?」
いつの間にか部屋に入ってきていた銀次郎は、分厚い将棋盤を抱えていた。
「ドット単位で正確に将棋を指すことができる機械という意味、らしい。私もメカのことはよくわからないんだが。さ、美駒も手伝ってくれ」
二人は、DOTの前に盤や駒台、駒を並べる作業にいそしんだ。普段なかなか盤駒に触る機会がないため、美駒はそれだけで少しはしゃいでいた。
「ね、ね、この子が相手になってくれるの?」
「まあ、そうとも言えるし、そうでないとも言える。まあ、見てなさい」
銀次郎が箱についていたボタンを押すと、ウィィンと音を立ててアームが伸び始めた。そしてレンズの横から光を発すると、駒台の前でぴたりと止まった。
「動いた!」
「今はここまでだ。まだ、つながってないから」
「つながってないって?」
「この子はね、あくまで代理なんだ。将棋を指す子は、遠くにいる」
「遠くにいる子と指せるの?」
「ああ」
「じゃあ、お母さんとも指せる?」
「まあ、やろうと思えば。でも、いつもパソコンで指しているだろう」
「うん……」
「あの子には、これで指す練習が必要なんだ。美駒には、ぜひ手助けしてやってほしい」
「わかった! でも、あの子って?」
「竜弥。いずれ名人……じゃなくて、チャンピオンになれる器の子だよ」
銀次郎はほとんど家に居なかった。全日本将棋会の初代代表として、多忙な毎日を過ごしていたのである。
脳に機械を埋め込んだ棋士、通称「電脳棋士」の存在が明るみになり、将棋界は揺れに揺れた。その結果自ら脳だけで勝負することを規則とした全日本将棋会と、電脳の助けを受けながらでも強さを追求するNew Japan Shougiの二つの団体にプロ棋界は分裂したのである。銀次郎は全日本側の代表となり、また絶対王者であった南牟婁名人はNJS側に付きチャンピオンとなった。
二つの団体はそれぞれに支持層を得て、今のところは何とか順調に運営できている。しかし今後もうまくいくとは限らない。とくに全日本の方は強さでは劣ると考えられており、その点を伝統などでカバーしきれるかが問題となっている。
美駒は祖父からそのような話を聞かされても、全てを理解しきることはできなかった。ただし、電脳棋士という存在が自らにとって大きな意味を持つことはわかっていた。なぜならば世界で最初の電脳棋士は、彼女の母親の生駒なのである。
生駒は病気に抗うために、仕方なしに脳に機械を入れた。その結果プロをもしのぐ将棋の実力を手に入れた。しかし結局、プロになることはなかった。そして現在は、ほとんどの時間を眠って過ごしている。
生駒は、南牟婁名人に勝つことができなかった。だから美駒は、自分こそは勝つのだと意気込んで上京してきた。けれども、そのためには師匠である祖父とは違う団体に入らなければならない。
父の綜馬は、「美駒の好きなようにするといい」と言っている。どこに入ろうが、勝ち続ければいずれ最強の人と戦うことになるだろう。それが父の考えだった。
銀次郎が不在でも、銀次郎の集めてきた書籍が美駒の師匠となった。実戦で強くなってきた美駒にとって、祖父の所有する大昔の資料には驚くべきことが数多く書かれていた。もちろん後に否定されてしまうような変化もあるのだが、今でも通用する「考え方」がそこには詰まっているのである。変色してしまったページを、食い入るように美駒は見つめた。
料理も洗濯も、美駒はうまかった。幼い頃から父と使用人の風岡にしっかり教え込まれていたのである。母親が動けない分、美駒に与えられた役割は大きかった。美駒は夕食を終え食器を洗った後に、DOTが置かれた部屋に向かうのが日課だった。いつかはわからないが、そろそろ通信ができるようになるはずだ、と言われていたのである。
ノートパソコンと小さなテーブルを持ち込み、ネット対局をしながら美駒は待った。目の前のアームが動き始めるところも見てみたいし、何より竜弥と将棋を指してみたい。美駒のワクワクはどんどん膨らんでいった。
ウ、ウウ。
聞いたことのない種類の音が鳴った。アームの先端が、わずかに動いていた。美駒はノートパソコンのふたを閉め、DOTを凝視した。
奥のモニターの電源がつく。よくわからないアルファベットの羅列が続いた後、美駒にもわかる言葉が表示された。「システム セイフ」
DOTはレンズを光らせ、そしてゆっくりと大きく、二の腕を曲げてそのまま静止した。それはあたかも、お辞儀をしているようだった。
美駒は慌てて正座し、自らもお辞儀をした。数秒後、DOTが腕を戻す。美駒も、頭をあげた。
「リュウヤ デス」再びモニターに文字が表示される。
「美駒だよ。あっ、声は届かないのかな」
彼女は、マイクがあるのかどうかを確認していなかった。しかしあると信じて喋り続けた。
「竜弥君、待ってたよ。どうなの、将棋指せるの?」
モニターに示されたのは、「フリゴマ カイシ」という文字だった。
「指すんだ! わかった!」
しばらくして、「ワタシ センテ」
すでに半分の駒は、DOT横の台に配置されていた。残りの駒を、美駒は並べていく。そしてDOTも、アームの先に取り付けられた吸盤で駒をつかみ、大橋流で自陣に駒を並べていった。
四十枚の駒が、盤の上にきれいに整列されている。美駒が今まで見た中で最も綺麗に並べられていた。
「ヨロシク オネガイ シマス」
「お願いします!」
それ以降、言葉は止んだ。DOTの機械音と、美駒の駒を指す音が交互に響き渡る。局面は、美駒の全く知らない方向へと進んでいった。
竜弥という名前しか知らないその人は、ひょっとしたら実在しないのかもしれない、美駒はふとそんなことを思った。祖父が面白がって、何かのプログラムを仕込んでいるのではないか。それほどまでに、竜弥の指し手には人間味が感じられなかった。
よどみがない。震えがない。艶もない。隙がない。
「負けちゃった……負けました」
「アリガトウ ゴザイマシタ」
最後は大差になった。美駒が頭を下げると、アームも再びくの字になった。
「強いね。ねえ、ひょっとしてプロ?」
「チガイマス」
「聞こえてるんだ!」
「ハイ デモ マダ コトバ ニガテ」
美駒は少しだけ首をかしげ、そして、タイピングが苦手なんじゃないかと思った。ネット対局のチャットでもたまにそういう人がいる。
「ねえねえ、竜弥君はどこにいるの? ずっと遠く?」
「トオクハ ナイデス」
「そうなんだ。じゃあ、いつか会って対局できるね!」
「ソレハ ワカリマセン」
「なんで?」
「ボクハ ヘンダカラ」
美駒は、口をとがらせてディスプレイをにらみつけた。一度口を開きかけて、言葉を飲み込んで、ゆっくりと、しっかりと息を吐き出した。
「変でもいいじゃない。たぶんね、将棋する人は皆変!」
ディスプレイも、しばらく沈黙した。一分ほどたって、文字が紡がれる。
「ソウデスカ デモ タブン ボクガ イチバン ヘン トテモ カナシイ」
「ごめん……私、言い過ぎた」
美駒は母のことを思い出していた。起き上がることもできなくなり、頭の中だけで将棋を指している人。誰かが会いたいと言っても、それは叶わないのだ。竜弥にも、そういう特殊な事情があるのかもしれない。
「イイエ ウレシイ キモチモ アリマス ハナセタ カラ」
「一人なの?」
「ヒトリ クロヤマサン ダケ シッテマス」
「おじいちゃんとは会ったの?」
「ウン チョット」
「そっか。ねえ、また対局できる?」
「ハイ マイニチ」
「やった! 次は勝つから!」
「ワカリマシタ」
美駒は、DOTに手を伸ばして、その先端を握った。
「約束!」
機械は動かなかったが、美駒はにっこりと笑っていた。
銀次郎と美駒は、全日本将棋会本部のビルに来ていた。一階は道場とレストランが入っており、多くの人でにぎわっていた。そして二人の目的地は二階、大広間であった。
ここで月に一回行われるのが、「審技会」と呼ばれる入会テストである。アマ四段以上の実力が認められた者はこの会に参加することができ、上位一割に入ると「審技点」を得ることができる。審技点が三点に達すると、プロとして活動することができるようになる。この制度は、新団体設立時に決められた。
対して、New Japan Shougiは完全レーティング制であり、公認ネット道場でレーティングが一定点数に達すると棋戦に参加することができる。「完全実力性」をうたい、成績が悪くなるとすぐにアマからやり直しをすることになる。
二団体はお互いを意識しながら、独自色を出そうと必死なのである。
ただし、二団体とも共通して新しくした点もあった。それは、年齢制限の撤廃である。プロを目指す人ならば誰でも、実力さえあればなることができるのである。
そのため、審技会にもさまざまな人が参加している。子供の姿が一番多かったが、大人も数人いた。一人だけ、白いひげの老人も気難しい顔をして座っていた。
「わあ、すごいすごい。全部すごい」
「ここが私たちの職場だ。そして美駒、お前もここで頂点を目指すんだな」
「うん。あ、竜弥はいる?」
「……あいつはここには来ない。資格がないからな」
美駒は、祖父の目を食い入るように見つめた。
「お母さんと一緒なの?」
「少し違う。ほら、始まるぞ」
今日一日で六回戦までしなければならないため、対局はどんどん進められていく。スイス式トーナメントと呼ばれる、同じ成績の者同士が対戦し、わかりやすく順位を決めて行く方式が審技会では採用されていた。
銀次郎は代表であるため、孫の様子をずっと見守っているような暇はなかった。会いたくもない偉い人たちと会い、見たくもない大事な書類に目を通さなければならないのである。
残された美駒には、誰一人知る顔がなかった。それでも対局が始まってしまえば、いつもと同じように盤面に集中することができた。そして強豪しかいないはずのこの場で、美駒は次々と勝利を収めていった。
周囲は突然現れたとんでもない少女に驚いていたのだが、しかし、単に驚いていたわけではない。これだけプロを目指す者がいる場所で、首位争いを繰り広げるのが少女同士となったことに驚愕していたのである。
登録名は、ミーナだった。ジーパンに白いTシャツという出で立ちだけでも浮いていたが、彼女の顔が完全に外国人であることが決定的に目立たせる原因となっていた。彼女が審技会に出るのはこれが二回目であり、多くの人は彼女がインド人であることをすでに知っていたが、美駒は当然知らなかった。
田舎育ちの美駒にとって、ミーナはただ座っているだけで見とれてしまうような存在だった。まだ幼いが、目鼻立ちはくっきりとしていて、すでに美人と呼ばれる権利を有していた。
「あなた、天才なの?」
流れるような日本語に、美駒は面食らった。そして、問いの中身も把握してさらに戸惑った。
「え、えっと」
「私は天才が嫌いなの。だから、勝つ」
美駒はミーナから目をそらした。とても、悲しくなったからだ。
担当棋士からの合図があり、対局が始まった。
美駒は、駒音を立てない方である。静かに、駒を進める。それに対して、ミーナは力強く駒を打ち付ける。熱い感情が、放出されている。
美駒は、眉をしかめて強く息を吐き出した。部屋の熱気が、肺を圧迫しているように感じた。生まれ育った家にも、祖父との間にも、何一つ存在しない空気。
敵意だ。美駒は気付いた。誰もが盤を挟むと、美駒に対して優しくない。
美駒は、この場にいない人のことを思った。いつも目の前にいる白い機械は、感情を伝えてこない。けれども、竜弥はどうなのだろう。実際に対峙したときは、鋭い目つきで睨みつけてくるのだろうか。
心の揺れは、盤面に反映される。美駒の駒は縮こまってしまって、陣形はぺしゃんこになっていた。
美駒には、頑張りきるだけの気持ちは備わっていなかった。
「負けました……」
美駒がうなだれながら負けを認めたその時、ミーナは背筋をぴんと伸ばしてその姿を見ていた。まったく表情を変えず、声も発せず。
こうして、本日の審技会は終わった。優勝はミーナ、美駒は三位だった。二人ともに、審技点を獲得することができた。
これで、プロに一歩近づいた。しかし、美駒に笑顔はなかった。そんな彼女のもとに歩み寄ってきたのは、ミーナだった。
「次までに、もっと強くなっていてね」
美駒は、目を合わせることができなかった。
銀次郎は、帰宅してすぐに出かけてしまった。いつものようにひとり家に残された美駒は、いつもとは違い元気に動き回ることはなかった。
時計を手にして父に連絡しようとしたが、電話アプリを起動させることはなかった。立ち上がりふらふらと歩き始めた美駒は、いつもの部屋に入っていった。そして、DOTのアームを抱きしめた。硬くて冷たいアームだったが、美駒にとっては決して拒むことのない温かい身体だった。
涙があふれて、止まらなかった。
「ドウシタノ」
アームが少しだけ傾き、モニターに文字が表示された。
「竜弥……見えてるの?」
「カンジル」
「私、ちょっと怖いの」
「メカラ ミズガ ナミダ トイウ モノデスネ」
「うん、泣いちゃった。ねえ、竜弥。あなたも将棋してるときは、怖い顔?」
「カオ ハ カワリマセン タブン」
美駒はアームから離れ、モニターに向かって言った。
「私、竜弥に会いたい」
「ヤメタ ホウガ イイ」
「なんで。竜弥、プロになるんでしょ。そしたらいつか会うよ」
「ボクハ ニュージャパンニ ハイッテ ツウシンデ タイキョク シマス」
「私とは対局しないの」
「ミコマ トハ コウシテ マイニチ タイキョク デキテル」
「私……私、さびしい……」
美駒は、アームでもモニターでもなく、駒台を見つめた。整列された四十枚の駒。いつもきっちりと、そろっている。
「ミコマ ニハ カゾクガ イマス」
「竜弥にはいないの」
「ココニハ イマセン トオイ トオイ トコロニ」
「ねえ、私たち、友達じゃないのかな」
美駒は、二枚の駒、二枚の歩を取り上げた。よく見ると、少しだけ字の形が違う。
「ミコマ」
モニターはしばらく更新されなかった。しばらくしてアームが動き出し、駒台から桂馬をつまみ上げた。
「ボクヲ ミテモ キライニ ナラナイカ シンパイダ」
「嫌いになんてならないよ」
「ボクハ オカシイ」
「そんなことない」
「ヤクソク」
「うん、できる」
「アシタ ナラ イイヨ」
「やった! それも約束だよ!」
美駒は涙をぬぐって、もう一度アームを抱きしめた。
ベンチでソフトクリームを食べている美駒の前に、一つの影が現れた。美駒がそちらに視線を動かすと、ぺこりとその影が一礼をした。
「竜弥?」
「ウン」
その声は、微かに震える男性の機械音だった。最近では人工声帯に代わって、このような人工発音機も普及している。美駒も、そういう可能性は予想していたのでさして驚きはしなかった。
ただ、その格好には少し戸惑った。頭部は黒いヴェールに覆われていて、体も全て黒いマントに包まれており一切肌の露出がない。
「オドロイタカイ。ゴメンネ、コウシテイナイトイケナインダ」
「びっくりしたけど、問題ないよ! それに、かっこいいかも」
「ミコマハヤサシイ」
「ねえ、竜弥もアイス食べる?」
「ボクハムリナンダ」
「そっか」
なんとなく、いろいろな約束がある何かの人なんだろうなあ、と美駒は思った。
「じゃあ、あそこ行こうよ、水族館!」
「スイゾクカン? サカナガイルトコロ?」
「そう、くらげも!」
美駒がずんずんと歩き出したので、竜弥もその後を追った。
「竜弥、来てる?」
「ウン」
足音が聞こえなかったので、不安になって美駒は振り返った。竜弥はちゃんとついてきていた。マントが揺れているものの、頭はほとんど上下せず、車輪で動いているかのようだと美駒は思った。
「私は山で育ったから、海の魚すっごい見たいの。竜弥はどこで育ったの?」
「ボクハ、モットクライトコロ」
二人がやってきたのは、都心にできた円柱型の水族館だった。らせん状に水槽があり、その周囲はプールになっている。内側からは歩いて、外側からは泳ぎながら魚を楽しむことができるのだ。
「竜弥は泳がない?」
「ウン、ムリカナ」
「じゃあ、歩いていこ」
美駒は竜弥の手を引っ張ろうとしたが、伸ばした手にはマントのふわふわとした感触しか感じられなかった。
「竜弥?」
「ダイジョウブ。イコウ」
美駒は水槽の前で目を爛々と輝かせ、竜弥はゆらゆらと全体を眺めていた。そして時折、「トオイネ」とつぶやいた。
「みてみてー、すごいおっきい」
「フカイトコロカラキタンダロウネ」
「うん、そうだろうね」
二人は一時間ほどかけて、最上部にたどり着いた。そこは吹き抜けになった空間で、浅いプールの中にはヒトデやナマコなどが触れるように展示されていた。
「わあ、ちょっと怖い」
恐る恐る水の中に手を入れようとしていた美駒だったが、竜弥がそばにいないのに気がついた、
そこには、空白があった。少しだけ、銀色の光が見えた。
美駒は混乱したが、声を発するのも我慢して、見なかったふりをした。そうしなければならないと思ったのだ。
「トオイネ」
その声は、空とともに、自分にも向けられているように美駒には感じられた。
対局室を出た美駒は、大きな息を吐き出した。勝敗にかかわらず、このときはいつでもさえない顔をしていた。
プロデビュー以来高い勝率で活躍しつつも、美駒はそれほど世間から注目されずにいた。女性棋士が珍しくなくなったこと、電脳棋士の活躍により世間の強さに対する期待値が上がってしまっていることなどが影響しているが、それだけではない。美駒は会長の孫娘であり、審技会をストレートで抜けたエリートである。しかしながら、同時期にそれ以上の存在が現れていたのだ。
それは、ミーナだった。初のインド人棋士であるばかりでなく、美人でストイック、さらにデビュー以来破竹の勢いで勝ち進み、新人対象の棋戦でいきなり二つ優勝してしまった。
分裂後の将棋界では多くの改革が進み、棋士から基本給というものがなくなった。勝利のみが収入に結び付き、常に獲得金額で順位がわかる仕組みになっていた。新しい一年が始まって半年、並み居る強豪に混ざって、新人でただ一人ミーナはベスト10に入っていた。
そしてもう一つの組織、NJSにも新星が現れていた。登録名、RYUYA。病気により、DOTを使用した対局をする「実在棋士」の一人である。デビュー戦で強豪ソフトに完勝して注目を集めた後、電脳棋士たちにも勝ち、最短でレイティングによるシード権を獲得した。NJSの棋戦はエントリー制で、参加するのに料金がかかる。ただし優秀な成績を収めた者は参加料が免除され、賞金の発生しないレイティング戦を戦う必要もなくなる。
ミーナとRYUYA。二人のスター候補が、将棋界を盛り上げていた。
美駒は、どちらとも相性が悪かった。ミーナとは公式戦で二戦二敗。そして竜弥とは毎日指してだいたい勝率二割。
初めて味わう挫折だった。いや、正確には二度目だ。美駒は母親にも勝てない。彼女にとって母親は別格の存在だったが、いつかは乗り越えることが目標だった。けれども、全く近付けている実感がなかった。かつて南牟婁チャンピオンも認めたという母親、生駒の実力は、プロになったぐらいで把握しきれるものではなかった。ミーナと竜弥、二人に勝てないことを意識する度に、美駒は母親のことも思い出さずにはいられなかった。
帰宅すると、美駒はまっすぐにDOTのいる部屋へと向かう。多忙になったため、機械の向こう側に竜弥がいることは少ない。それでも美駒は、DOTのアームを抱きしめるのだった。
うぃぃん、とアームが動き始めた。美駒はあわてて体を離す。いつもと様子が違い、アームはしばらくふらふらと宙をさまよった後、美駒の頭を撫でたのであった。
「竜弥……じゃない?」
「久しぶり、美駒」
モニターに表示されたのは、いつものカタカナではなかった。
「誰?」
「あなたのお母さんよ」
「えっ、本当に」
「なんか、来ちゃった」
美駒の母、生駒は病気のためほとんど寝ているが、意識がないわけではない。頭に埋め込まれた機械の中で、意識はしっかりと動いている。
「すごい」
「そちらの様子はどう」
「何とか頑張ってる」
「プロの世界は厳しいでしょ」
「うん。でも、楽しい時もあるよ」
「そう。それはよかった」
美駒はDOTから手を離して、モニターに向かって微笑んだ。
「ねえ、お母さんでも、これを使えば誰とでも対戦できるよ」
「そのようね。でも、いいの」
「なんで。私より強いのに、もったいない」
「お母さんは名人と指した時に思ったの。全力以上を出しても勝てない人がいるのなら、それを受け入れて生きていこうって。私はこれ以上強くなることはないわ。そして、あの南牟婁さんは頭の機械なしで誰よりも強いの。でも美駒、あなたにはまたまだ可能性がある」
「そんなことないよ……わたし、全然強くない」
「始めたばかりじゃない。可能性は開けてるわ」
「でも、感じる。全然違うって」
「美駒なりのやり方で、近づきなさい。あなたにはいっぱいいいところがあるんだから」
美駒は、無言で何回もうなずいた。握りしめたこぶしが駒を何枚か弾き飛ばしていることにも気づかずに。
一週間、美駒は竜弥と対局できなかった。竜弥はルーキーながらトップ八人が総当たりで戦い争うリーグ戦、ビッグクラウンリーグに選ばれた。このリーグ中は外部との通信が禁止されるのだ。
竜弥であるRYUYAは、最終日に一敗で、最後勝てばプレーオフというチャンスがあった。しかし相手は全勝の南牟婁チャンピオン。注目の一局を、美駒は居間の大きなモニターに映し出して観戦していた。
相変わらず、竜弥の指し方は美駒には理解しがたいものだった。常識にとらわれず、それでいて決して突飛というわけではなく、自然に不自然な形に飛び込んでいくような将棋だ、美駒はそう感じていた。そしてチャンピオンも、真っ向からその将棋を受け止めていた。
美駒は、局面に見入っていた。次の手を考えたりもするものの、基本的には現れているものだけに注視していた。
終盤になり、どちらが勝っているか全くわからない状況になっていた。電脳棋士全盛の今、生身の脳で戦う二人が頂上決戦をしている。美駒は、その中に自らの可能性も見出そうとしていた。
そして、竜弥に失着が出た。美駒も全く気がつかなかった筋で、要の駒を取られてしまったのだ。相手陣へのとっかかりを失った竜弥は受けるしかなくなったが、チャンピオンの攻めは正確だった。
終わってみれば、南牟婁チャンピオンの会心譜になっていた。
美駒は口をへの字に曲げていた。
三十分ほどで感想戦が終わり、リーグ戦はすべて終わった。終わってみれば南牟婁、ということが何年も繰り返されている。
美駒は部屋を移動した。DOTと盤の前に正座して、目をつぶった。彼女と竜弥を引き合わせた銀次郎の意図に、美駒は気付いた気がした。
「とんでもないね」
将棋界に長く君臨する絶対王者。銀次郎も、そして生駒もかなわなかった相手。電脳棋士でも越えられない壁。そこで期待を寄せたのが、竜弥だったのではないか。
DOTのアームが動き始めた。深く、お辞儀をする。それは、いつもの、そして少しだけ美駒にとって懐かしい動きだった。
「私が、連れて行ってあげる」
とても小さな声で、美駒はつぶやいた。
「私は認めない」
会場を出るなり、ミーナは言った。美駒は、黙ってその目を見つめ返していた。
今日発表されたのは、団体対抗戦についてだった。二つに分かれた将棋団体が、初めて交流するという記念すべきイベント。
実際には、どちらの団体も苦戦しているのだ。多くの人は、いつかこの日が来ると思っていた。
今回行われるのは、若手による団体勝ち抜き戦だった。五人対五人で、大将が負けるまで行われる。
そして、全日本チームの一人目にミーナ、二人目に美駒が選ばれたのである。
「なんであなたより下なの」
美駒にだって理由はわからない。正解は、最初の一戦が最も注目されるので、それにふさわしい華やかな棋士が選ばれたということだったが、ミーナもそんなことは思いもよらない。
「やめなさい」
間にベテラン棋士が入って、二人を引き離す。異国生まれの天才美少女と、会長の孫娘。関係者にとってどちらもトラブルを起こさせるわけにはいかない人物だった。
ミーナは、いまだに事あるごとに美駒に突っかかってくる。美駒よりずっと先を歩いているにもかかわらず。成績でも勝っているし、世間の注目も浴びている。それでもミーナは、美駒のことが気になって仕方がない。
「また絡まれたようだね」
美駒の傍らに、銀次郎が立っていた。
「うん」
「美駒のことが好きなようだね」
「えっ」
「ライバルがいないと孤独なんだよ。ただでさえ彼女は故郷を捨ててここにきている」
「私がライバル?」
「そうなってほしいんだろう」
美駒は、今日来ていない人のことを思った。NJSの一人目は、竜弥だった。彼は病床にあり会見には出席できないと発表されていた。それが嘘だということは、美駒が一番知っている。そして、なぜそんな嘘をつかなければならないかも。
竜弥は他の誰とも違う、美駒にはそれがわかった。指し手も、その姿も、他の棋士とは全く違うのだ。
ミーナが負ければ、美駒は竜弥と対戦することになる。
団体が異なるため、公式戦で二人が対戦する機会はこれきりかもしれない。これまで何十局と指してきたが、それでも美駒は「竜弥と対局したい」と思った。
「美駒、一応今夜からあれは禁止だ」
「……うん」
美駒も、そのことは気にしていた。これまでだって、あまり良いことではなかったのだ。
会長の孫として、そして若手の代表として。当日まで敵団体の人間と練習するわけにはいかない。
「頑張る」
美駒は、唇をかんだ。プロとして生きることの怖さが、ようやく体に染み込んできたのだった。
「ミーナさん!」
団体戦当日の控室。仲間たちがそわそわする中到着したミーナは、見るからに顔色が悪かった。ふらふらとした足取りで入ってきて、倒れこむように椅子に腰かけた。
「大丈夫なの?」
美駒が聞くが、ミーナはうつむいたまま答えなかった。
「病気?」
「……美駒にだけ話したい」
「え」
「ごめんなさい。でも、美駒だけに関係ある話だから」
他の三人は顔を見合わせたが、うなずきながら部屋を出て行った。
「私だけにって?」
「私の父の話。日本の大学に留学してたの」
「う、うん」
突然語り始めたミーナに対して、美駒はできるだけまじめな顔をしなければと思った。
「そこで将棋に出会って、頑張ったけど強くならなくて、いつしかソフト開発に熱心になった。そしてついに、『アワーゼロ』という最強ソフトを作った」
「聞いたこと……ある」
母親がかつて美駒に聞かせてくれた。ネット道場で最高レーティングを達成しながら、一切大会に出ず消えていったソフトがある、と。
「おそらく名人にも勝てるといわれたそのソフトを、父は恐れた。このままでは人間の価値を貶めてしまうかもしれないと。そこでお世話になっている棋士に相談して……そのソフトを封印することにした」
確かに、「アワーゼロ」というソフトは表舞台には一切出てくることがなかった。一呼吸おいて、ミーナは話を続ける。
「父はすべてを受け入れた。でも……その棋士は突然勝ち始めて、突然姿を消した。おかしいでしょ。父は追求しないままこの世を去ったけれど、私はずっと疑っていた。きっと……きっとその棋士はアワーゼロを利用したんだって」
「利用って……」
「脳に直接埋め込むの」
美駒は目をつぶった。ようやく、ミーナが自分だけに聞かせた意味が分かったのだ。
「その棋士って……」
「乙川洋」
ミーナの視線が、美駒を突き刺す。
乙川はかつての名人で、突如棋界から姿を消した。そして美駒の母、生駒の父である。戸籍上は、生駒の名字は乙川なのだ。
「乙川は脳に機械を埋め込んで、ソフトも仕込んだ。それで、南牟婁に負けないように画策したのよ」
「……」
「復讐したかった。父は許しても、私は許せなかった。ソフトに負けて終わる将棋界なら、終わってしまえばよかったのよ。だから……だから私は、終わらせるために日本に来た」
ミーナの声が震えている。美駒の心も震えている。
「今回の団体戦もいい機会と思った。一人で全部勝って、台無しにしてやろうと。でも……でも会ってしまったの、乙川に。女の人から連絡があって、会ってほしいって。……全く動かない、何も反応できない乙川に会ってほしいって」
美駒は、祖父の姿を見たこともない。両親も、好き好んで彼の話をしたりはしない。
「どうしていいのかわからなくなった。強さを追い求めるって、残酷なことなんだって。私が望んでいたことは、ちっぽけすぎると思った。逃げ出してしまいたくなった」
「でも……ミーナさんは来たよ」
「あなたに負けたくないから」
美駒は、ミーナのことをしっかりと見た。苦しそうな息をしながら、ミーナも見返した。
「二つの血……二人の天才棋士の血を受け継いだ女の子がいるって聞いたの。片方はあの名人。そしてもう一人は会長。そんな人が無邪気にほどほどで満足しているのは許せなかった。私は……私はゼロから出発したの。父には教わることができなかった。一人で。一人で!」
ミーナの視線は、美駒の先を見ていた。そこには壁しかないが、美駒は後頭部で感じていた。ミーナには歴史がある。美駒にはない、重い歴史が。
「私は……私にはわからないことが多いけれど、今ミーナさんが将棋を指したいかどうか、それが大事だと、思う」
「……」
「私も……私も、お母さんが見られなかった景色を、代わりに見たかった。でも、見た後のことが大事だった。迷ってるけど、指したいから、指すよ」
ミーナは視線を落として、こぼれそうな涙をこらえて、声を絞り出した。
「……指すよ。そのために来たんだから」
新しいライバルができた。美駒は確信した。ミーナには絶対に負けたくない、と。
やはりミーナは調子が悪く、いいところがなく竜弥に負けた。
美駒は大きな背伸びをして、天井を見上げた。空のずっと先では、両親が見守ってくれている気がした。
驚くほど心が澄んでいた。
展望台から東京を覗き込み、知らないところばかりだ、美駒はぼんやりとそんなことを思った。先ほどまでフル回転させていた頭は、余韻だけでゆっくりと動いている。
対局会場は渋谷に新しくできた電波塔、「シブヤミラクルタワー」、通称スペースタワー。
高齢者ばかりの町として廃れ行く渋谷を盛り上げようと、世界一高い塔として建設された。そこで行われる最初のイベントが、団体対抗戦なのである。
すでに太陽はかなり傾いている。美駒は結局二連勝し、三局戦った。体力気力ともにへとへとになっていた。
今は四将同士が戦っている。団体の運営にかかわる人たちは盛り上がっているが、美駒はチームの勝敗への興味はそれほどわかなかった。
「ヤラレタヨ、ミコマ」
いつの間にか、すぐ隣に真っ黒なマントが漂っていた。
「竜弥、ここにいたんだ」
「ドコニイテモヨカッタノダケレド。コノトウニノボリタカッタカラ」
「興味持ってたもんね」
「ソラガチカイダロ。ボクハ、アノソラノムコウカラキタカラ」
美駒は竜弥に右手を差し出した。そして口だけで「お願い」とつぶやいた。黒い布は何回かふわふわと揺れた後、美駒を包み込むようにして抱いた。
美駒は、マントの中に入った。そこにはこぶし大の銀色の球体と、そこに吊るされた小さなマイクが見えた。
「コレガボクダ」
「これが……竜弥?」
「モクセイデハックツサレタ。ボクモジブンガナニモノナノカシラナイ。タダショウギヲシテミタラツヨカッタ。ソレダケノソンザイダ」
「それだけじゃないよ」
美駒は球体へと手を伸ばした。少しピリピリとした痛みがあって、触れてみると温かかった。
「ショウジキ、マケルトハオモワナカッタ」
「私、勝てる気がした。勝とうと思った」
「コワインダ。ボクハミンナトハチガウ。イツカキョヒサレテシマウノデハナイカト。ニンゲンガモトメテイルノハ、ボクガボセイノテクノロジーヲサイハッケンスルコトダ。ショウギデトレーニングシタズノウデ、イツカボクハショウギイガイノコトヲシナクテハイケナイ」
「そうなったら……逃げよう」
「ニゲル?」
「どこにいたって将棋は指せるもん」
後ろから、拍手の音が聞こえてきた。美駒はあわててマントから首を出し、振り返った。そこには背の高い、やせ細った男が立っていた。
「すばらしい」
「南牟婁さん……」
プロ棋士ならだれでもその顔は知っている。南牟婁チャンピオンだった。
「君たちこそが、私を倒してくれる世代なのかもしれないね」
チャンピオンは微笑んでいた。美駒は、どんな顔をしていいのかわからなかった。
「ボクモデスカ」
「そう、この前も思ったよ。君の将棋は面白い。もっと指したいよ」
「ワカリマシタ。ガンバリマス」
「私は、全然……」
「美駒さん、あなたのお母さんとの将棋も面白かった。あなたの中にも、可能性は眠っていると信じています」
そう言うと、チャンピオンは振り返ってそのまま立ち去ってしまった。
残された二人は、ずっとその背中を見ていた。いなくなっても、見ていた。
特急電車の座席に座る美駒の膝には、銀色の球が乗っていた。よく見ると少し浮いてる
のだが、誰も気が付かない。
「あっ、海」
そういって美駒は球をこつこつとたたいた。そして、窓の高さまで持ち上げる。
「ホントウダ。オモッテイタヨリモアオイ」
団体対抗戦以降、二人は様々なところを旅した。それは、竜弥が言い出したことだった。
「マダマダシラナイトコロガアル」
二人は、将棋の勉強もおろそかにしなかった。それでも、直接将棋に関係なさそうなところに何かのヒントが隠れているのではないか、そう考えていた。
「そういえば、明日から復帰だ」
「アア、ミーナカ」
あの日以来、ミーナは体調不良を理由に休場していた。実際にどんな状況だったのかについては、二人とも知らない。
「すごく強くなってたりして」
「ソウカモシレナイ」
二人は電車に揺られて遠くまで行き、そしてまた電車に乗って帰ってきた。そこまでは、いつもと変わらないことだった。
けれども、いつもと違うことがあった。改札の向こうで、銀次郎が待っていたのだ。
「おじいちゃん」
「美駒、伝言を頼まれた」
「え」
「ミーナからだ」
「ミーナから?」
銀次郎は何度かためらった後、ゆっくりとその伝言を告げた。
「『NJSで復帰する』と」
「えっ」
「エッ」
美駒はしばらくあいた口がふさがらなかったし、竜弥も体を銀次郎の方に傾けて固まっていた。
「一か月前に引退願いが出されていた。『電脳棋士になったので、もう全日本には出られません』ということだった」
「ミーナが……電脳棋士……」
「彼女なりに出した結論だったようだ。あくまで最強を目指すために、と」
美駒は口をへの字にして、何度か口をパクパクした後思いを声にした。
「逃げられた」
「ミコマ……」
竜弥は美駒の手の中でゆっくりと縦に回転した。美駒を慰めるときによくする動きだった。
「またいつか、交わるときもあるだろう。とはいえ私は記者会見とかいろいろ仕事が増えてかなわん。明後日までは帰れそうにない」
次の電車がきて、多くの人々が三人の横を通りぬけていく。けれども美駒には、誰の足音も聞こえなかった。彼女の頭の中には、最後に会った日のミーナの姿、そして眠り続ける母の姿が浮かんでいた。ライバルだと思った人と、世界で初めて頭に機械を埋めて将棋をした人。
「負けない。私、ミーナさんに負けたくない」
「ボクモダ。ボクハ、スグニアタルキカイガアルカモシレナイ」
「そうだね。竜弥、あなたにも負けないからね」
「ウン。ボクモミコマニハマケナイ」
美駒はこぼれてくる涙をぬぐいながら、歩き出した。それを見て銀次郎は、深くうなずいた。
ミーナ移籍の報を知って、南牟婁は「ククク」と声を出して笑った。ほとんど機械化された体が揺れて、コロンコロンという音がする。
「さて、三人のうちだれが来るのかな」
彼は、それまでの人生で味わったことのない喜びを感じていた。
「ぜひエラーなしで、進んでほしいね」
機械化された絶対王者と、名人と会長を祖父に持つ少女と、電脳化したインド出身の少女と、木星で発掘された少年。そんな四人は、将棋という意図に導かれて、これから複雑に複雑に絡み合っていくのである。
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