エラー/セイフ/キャンセル/エンター
清水らくは
第1話 エラー
突然、縁談が進んだ。
この家に戻ってきて以来、全てのことは私に関係なく決まっていた。だから、別段今回のことを驚くわけでもない。とはいえ高校を出たらすぐに同居するべし、と言われた時はすぐには首を縦に振ることができなかった。
「
父、黒山銀次郎は、低すぎる声で言った。この威圧感の前では、黙ることはできても拒むことはできない。この人はただ座るだけで、多くの人々を震え上がらせてきた。名人でさえ、「黒山とはできれば対局したくない」と言ったそうである。
「どうした。返事は」
「はい」
「そうか。相手は病弱だが教養もあり器量もいいお嬢さんだ。相手として申し分がない」
「……はい」
ただ、肯定する言葉を繰り返した。僕にはそうするしかすべがなかったのだ。もはやこの世に母はいない。僕が頼りにするのはこの男しかいないのだ。
「それと綜馬、お嬢さんにあったら将棋の話をしっかり聞きなさい。わけあってこちらの世界に来ることはなかったが、実力は決してプロに引けを取らない」
「わかりました」
そんな人がなぜ、という言葉は胸の奥にしまった。会えばわかることだ。
「お嬢さんには専属の世話人がいる。できれば結婚しても今の家に暮らしたいということだった。婿養子のように言われることもあるかもしれないが、我慢できるか」
「大丈夫です」
「そうか。それでこそ我が息子だ」
このようにして、僕の人生は一マス進んでいった。先代名人の隠し子と結婚することになった。
前名人、
目覚ましい活躍をしながらも、私生活は謎に包まれていた、と聞く。仕事以外では一切棋士と会わず、自宅に居ることもまれだったと言う。家族でさえ普段何をしているのか知らない。タイトル戦で赴く先でも単独行動をし、深夜になっても部屋に戻らないことが多かった。「実は彼は妖怪なのではないか」という噂さえ広まったのだそうだ。
そんな乙川に隠し子がいることは、父以外の棋士は知らないことらしい。なぜ父がそれを知ることになったのかはわからない。ただ、執念がそうさせたのではないか、と私は思っている。
緩やかに減速していく車体。バスを乗り継いで訪れた先は、絵に描いたような田舎だった。稲の刈り取られた乾いた田んぼ。ボロボロになったトタン屋根の小屋。今は働いていない、小さなショベルカー。たった一人の乗客であった私をおろして、バスは静かに発車した。
地図を確認するが、迷うような道は見当たらない。ただこの道を進んでいけばいいようだ。そしてしばらく経ったところで、一軒の屋敷が視界に入ってきた。周囲には畑と林しかなく、あれが目指す場所で間違いなさそうである。
玄関にたどり着くまでに五分以上かかった。屋敷はもはや視界に収まりきらないほどの大きさになっている。木造平屋で、相当に古いのだろうが手入れがされている。
「すみません」
ベルも何も見当たらなかった。表札には「風岡」と書かれている。
「はいはいはい」
引き戸がすっと開き、ごま塩の頭が目の前に現れた。口髭がちょこんと乗っており、喜劇役者でもやっていそうな顔立ちの男だった。
「黒山綜馬と言います。こちら、乙川さんのお宅ですか」
「ああ、ああ。聞いていますよ。ささ、こちらへ」
「お邪魔します」
入ると、十畳はあろうかという玄関の広さに圧倒された。天井も高く、ここだけで一つのロッジのようである。
「ああ、申し遅れました。私、ここで
「風岡……では、ここはあなたの家なのですか」
「ええ、まあ……話すと長いのでまずはお入りください」
促されるままに、風岡の後についていく。がらんとした何も置かれていない畳の部屋を二つ抜けると、そこには小さな炬燵がちょこんと置かれていた。
「ここが私の部屋なんですよ、まあお座りください」
「はい」
私が腰掛けると、風岡はお茶を入れ始めた。茶棚もテレビも、小さく古いものだった。大きな屋敷であることを忘れてしまうほどに、全てがこじんまりとした空間だった。
「安いものですが、どうぞ」
「ありがとうございます」
「それで、何から話しましょうかな。ああ、このお屋敷のことでしたな」
「はい」
風岡は私の前に腰かけると、首を傾けて窓の外を眺めた。まるで、そこになにか映像が映っているかのように見入っていた。
「……ご存知かと思いますが生駒お嬢様は乙川名人のお子様です。そして、名人は私の師匠でもあります」
「え」
「お嬢様の母親も立場のあるお方で、名人の子ができたと周囲には打ち明けられず、生駒お嬢様を殺してしまう寸前のところだったのです。師匠はすんでのところでそれを助け、当時奨励会を退会してすることのなかった私にお嬢様を託したのです」
「そういうことでしたか」
「お嬢様が名人の子であるということは隠さねばなりませんでした。私はこの家と養育費を師匠からもらい、私の子として育ててきました」
風岡は目をつぶった。
「ですが、お嬢様は物心ついたらすぐ、私が父でないことに気が付きました。さすが名人の子です。そして私も、実の子として接することをやめました。……解放されたのです」
「……」
私も母のもとで育てられ、まだ見ぬプロ棋士の父を恨んで育った。しかしそれでも、風岡と生駒の苦労の足元にも及ばないのだろう、そう思った。ただ、そんなことは多くの場合気を遣っても仕方がないのである。
「とにかく、一度会ってみなくては始まりませんね」
「はい」
「今は多分寝ているでしょうから……もう少ししたら、お嬢様の部屋に案内します」
「わかりました」
お茶が冷めていく。私はこの家に慣れることができるだろうか。
「ここです」
入口は、ふすまではなかった。セメントの壁に白いペンキが塗られ、ところどころ花の絵が描かれていた。そして扉には、ナンバー式の鍵がかかっていた。まるで、実験室の入り口のようである。
「これは……」
「お嬢様は、決められた方以外とは決して会ってはならないのです。私と定期的に訪れるお医者様。そこに今日から、綜馬様が加わります」
風岡は右手の人差し指で数字を次々と10個ほど押した。するとかちゃり、と錠の外れる音がした。
「いずれ番号はお教えしますので」
「あ……はい」
扉を開くと、まず目に飛び込んできたのは水色の絨毯だった。壁が白いので、部屋全体が雲の中を表わしているかのようだった。
「お嬢様、綜馬様がいらっしゃいましたよ」
「あら。入ってもらって」
琴の音のようだ、と思った。少し高くて、澄んでいるようで粘りもあって、震えた声。
「はい。では綜馬様、どうぞ中へ」
風岡は動かなかった。一人で入れということらしい。
「では、失礼します」
部屋に二歩入ったところで、ガタンという音がした。振り返ると扉が占められていた。
「いらっしゃい」
声は右側から聴こえる。そこには大きなベッドと、そこに寝転ぶ女性の姿があった。青いワンピースに身を包んだ彼女は、まっすぐ天井を見上げていた。大きな瞳はしっかりと見開かれていて、まるで天井の何かを読んでいるかのようにくるくると動いていた。
「……こんにちは」
「綜馬ね。話は聞いてる。ちょっと待ってて」
左手を、まっすぐ上に伸ばす彼女。爪の先が、ピカリと光った。カタ、と機械的な音がした。部屋の隅にある、大きなスピーカーからだ。もしやと思って天井を見上げると、そこには大きな将棋盤があった。いや、正確には将棋盤を映し出すモニターだ。ベッドと同じ大きさぐらいはあるだろうか、それほどのモニターの中で、将棋が指されているのだった。
どうやら左手のなかにあるものが電波を出していて、それがマウスの代わりになっているようだ。
強くないので、盤面についてはよくわからない。ただ、持ち時間は生駒が13分なのに対して、相手は3分しかない、というのは見てわかった。
よく見ると、生駒側には「七段」という表記があった。相手は五段。この道場のシステムはわからないが、七段が相当強いであろうことは容易に推測できる。
「勝ったわ」
数分後、穏やかな声で彼女は言った。相手が投了したのだ。
「それはよかった」
「あなた、将棋は」
「かなり弱いです」
「そう。でも、黒山さんの血を引いているんでしょ」
「でも、一緒に暮らしたのは数か月だから」
「そうみたいね」
生駒は横になり、こちらを向かないままだった。
「君は、いいのかい」
「なにが?」
「結婚」
「仕方ないわ」
「そうかい」
「あなただってそうだったんでしょ。私たちは逆らえない運命なの。あの人たちの子どもとして生まれてしまったのなら」
ずっと、天井を見て過ごしてきたのだろうか。まるでこの部屋が、彼女の全てであるかのようだ。
「そうなのかもしれない」
「こっち来て」
少しだけ首を横にずらして、手招きをする生駒。僕はそれに従い、側まで行ってベッドの隅に腰かけた。
「私は、確実に名人の子。将棋から逃れられない」
「プロになりたかったのかい」
「なれないわ。たとえ体が丈夫で、全てのプロに勝てたとしてもなれない」
「どうして……」
「ここを触って」
生駒は、右手で後頭部を指し示す。僕は身を乗り出して、頭を抱えた。黒髪の奥にある感触は、異様に角ばっていて、硬かった。
「どういうことなんだい」
「頭のなかに、コンピューターが入っているの」
「えっ」
「そうしなければ生きていけなかったから。考えたり、記憶したりする場所は全て自分のもの。でも、呼吸したり、動いたりするためには機械が必要なの。それに、これを入れてから異様に思考の処理が速くなった。確かに私が考えているけれど、その速度はコンピューターが画期的に上げてくれる。これは、不公平よ」
悲しい顔などは見せなかった。それが無ければ生きていけないのならば、プロを諦めるのはしょうがないということか。実際、どれほど棋力に関わっているのだろうか。
名人になれる力があるかもしれないのに、小さな部屋で暮らす少女がいるという現実を、ほとんどの人は知らない。
「やれば、勝てると思うかい?」
「自信はあるわ。でも……」
「でも?」
「それは、私たちの子どもに託しなさい、あの人たちはそう思っているということよね」
初めて、生駒の唇が少し歪んだ。僕らがこうして結婚させられる理由。それは、黒山と乙川の血を引きついだ者を作るため。そんなことは重々承知だ。
でも。すでに名人の子はすごい実力を持っているように見える。ただ、違法な力も加わっているかもしれないだけで。実際には生駒が思い込んでいるだけで、高速処理も本人の実力かもしれない。しかし、だからと言ってそんな理屈は世間には認められないだろう。
運命。
僕は、しばらく生駒の頭に触れたままだった。これから妻となる人の、感触を覚えたかったのである。
僕の部屋は、屋敷の一番端、離れの一室ということになった。どこでもいいと言われたのだが、そう言われれば選ぶ場所は決まっていた。最も東にある部屋である。
荷物はほとんどなかったが、風岡がいろいろと用意してくれた。家具からスーツまで、僕が来ると決まった日に注文したという。申し訳ないと思ったのが顔に出たのか、風岡は「師匠はお金の使い方を知らないんですよ。遊ぶこともなければ、騙されるほどの愚かさもない。だからこの家だけが、浪費できる場所なんです」
前名人は現役時代、勝ちまくっていた。お金も相当稼いだのだろう。父もお金がないわけではなかったが、遊びも知っていたし、騙されるともあった。
強い日差しが、頬を焼いていくのがわかった。朝日だ。
母と二人で暮らしていた部屋は、東向きのとても日当たりのいい部屋だった。朝早くからパートに行くため、母はとても早起きだった。僕はと言えば、朝日が目覚まし代わりだった。起きると既に母はいないが、朝食と弁当が用意してあった。
父に要求すれば、働かなくていいだけの養育費はもらえたのだと思う。けれども、母はそうしなかった。誇りとかなんとか名前は付けられるだろうが、その感情の正体は、僕にはわからない。
母は、もういない。けれどもあの時と同じように、朝日はある。
目が覚めた僕は、この部屋がかつてのあの部屋でないことを知り、少しさびしくなった。しかしもうふり払わなければならない過去だ。僕は母でもなく、また父でもないこと人たちと暮らしている。
離れには洗面所も風呂場もあり、ここだけで一家族が暮らせるだけ設備が整っていた。私は着替えた後顔を洗い、歯を磨いた。和風旅館に泊まりに来たような趣だが、それにしては静かすぎる。この家には僕以外には、風岡と生駒しかいないのだ。
渡り廊下を越え、何も置かれていない八畳間を通り過ぎ、僕は食堂に向かった。入ってみると、小さなテーブルに椅子が二つあるだけ、とても豪邸の中にあるとは思えない質素な部屋だった。
「ああ、綜馬様。お早いのですね」
奥の方から声が聞こえる。引き戸を開けるとそこは台所で、風岡が調理しているところだった。
「朝日と共に起きるようにしているんです」
「それはいい。いや、今作っているところなのでお待ちくださいね。何せ朝食を二人分作るなんて初めてで。お嬢様はお昼しか食べませんから」
風岡は生駒を預かってから、ずっとここで孤独な朝食を採っていたのだろうか。生駒があの部屋にずっといる中、この広い屋敷を一人で支えていくことの苦労は、いかほどのものだっただろうか。
父は孤独な人だった。僕がそばにいても、決して心を開いて何かを口にすることはなかった。風岡と生駒はどうなのだろうか。二人には血のつながりがない。けれども、二人には憎しみ合う必要も、無視をする理由もない。
僕もまた、試されている。これから二人とどのように過ごしていけるのだろうか。
温かく、懐かしい香りが漂ってくる。少なくとも風岡は、父よりも母に近い。
「ここです」
朝食の後風岡につれてこられたのは、地下室だった。そんなものがあることすら驚きだが、何よりびっくりしたのはシェルターのようなその造形である。やたらと白い照明と、クリーム色のつるつるの床。そしてコンピューターとモニターがいくつも並んでいて、押してはいけなさそうな赤く光るボタンもずっしりとあった。
「これは……」
「生駒の部屋の制御室です」
「え、これだけのもので?」
「そうです。もちろん将棋をするためのものもありますが、ごく一部です。除菌や温度調整、湿度の管理から……」
「頭の中の機械、ですか」
「お聞きになりましたか。そうです、そちらの動作も確認できます。非常に繊細な機械ですから、メンテナンスが大変なんです。そしてあれが止まってしまっては、お嬢様の命は絶たれてしまいます」
風岡はいくつかの数値をチェックして回り、そして僕を手招きした。
「綜馬様にも、管理できるようになってもらいます」
「え」
「私はいつも不安でした。私がもしも何らかの事情でいなくなってしまったら、お嬢様も生きていけなくなるのだと。けれどももう、私一人ではありません。綜馬様が、お嬢様を支えていけるのです」
とても、言葉通りには見えなかった。風岡は喜びに引きずられた、悲しみの表情をしていた。
そうだこれは。娘が誰かに盗られてしまう、そういう時の少しだけの達成感を含んだ、悲しみの顔だ。
「わかりました。早く覚えられるよう、頑張ります」
そしてそんな人間を安心させる、つまり諦めさせるには、盗っていく男がしっかりするしかない。
「八段になってしまったわ」
生駒は言った。天井を見ると確かに「I-comet 八段」の表記を見ることができた。
「おめでとう」
「ありがとう。でも、もうすぐ目標がなくなってしまう」
対局が終わり、ネット道場入場者一覧画面に戻る。生駒の名前は一番上にあり、二番目の人と20点以上の開きがあった。
「もう、生駒より強い人がいないってこと?」
「この時間には。夜になったら八段の人が何人か現れるの。きっとプロ」
「その人たちとは対戦しないの?」
「してもいいけれど……もし勝ってしまったら、何のために強くなればいいの」
生駒はプロではない。強くなることはお金のためでも、名誉のためでもない。ただ強さだけが、彼女を将棋へと向かわせている。もし将棋がなくなれば、生駒はこの部屋の中で何をして生きていけばいいのだろうか。もちろん僕がそれを支えなければならないのだけれど、けれど……今の僕はまだ、圧倒的に他人なのだ。生駒のことはほとんど何もわからない。
「じゃあ生駒は……名人に勝てると思うかい」
「名人……父ではなくて、今の?」
「ああ。
「勝てないわ。異常な強さだもの」
乙川名人引退後、連覇しているのが南牟婁名人だった。それ以前にも三冠を保持し続けるなど、将棋界で最も強いのは彼ということで関係者の見解は一致していた。乙川名人が幾度も壁となり名人を渡さなかったが、今はもうその役割を果たす者はいない。現在は五冠だが、いずれ七冠全てを制覇するだろうと言われている。
「じゃあ、勝ちたい?」
「もちろん、そう」
父は、奴とは対局したくない、勝てる気がしないと言っていた。その時点で名人に届く器でないと思う。
もし生駒が病気でなければ。プロになって、活躍して、名人に挑戦できただろうか。しかし病気でなければ、生駒の頭に機械を入れることはなかった。そうすると、今の強さは得られなかっただろうか。
仮定の話は、どこまでも仮定の話だ。
プロの世界では認められないかもしれない。けれども今の生駒がプロと戦えばどうなるのか、それは興味があってもいいではないか。そして生駒も、より強い人と対戦したがっている。
「綜馬は、何かしたいことはある? ずっとここにいたら息が詰まるでしょ」
「いや、楽しいよ」
「そうなの? 変な人」
息が詰まったのは、父との生活だ。親子として振る舞わなければいけないことは、大変な苦痛だった。
生駒との関係は、これから自由に描いていけばいい。随分と楽である。
「でも、私、他人のことなんてあんまり知らないな。風岡と、お医者さんぐらいにしか会わないから」
「そうか。じゃあ告白すると、僕は変な人じゃないよ」
「そうなのね」
ここは、心地いい。
バスを二本乗りついで、電車に乗って、二時間。下りた駅から歩いて十五分。僕は、とある温泉街の旅館にたどり着いた。
旅行に来たのでも、湯治に来たのではない。
中に入っていくと、案内の看板が出ていた。指示通り進むと、受付のテーブルが見えた。受付を済ませ、千円払って部屋に入る。
中に入ると既に多くの人が座布団に腰掛けていた。大きな和室のなかにおじさんたち。そして一番前には、大きなモニターが設置されていた。
今日この旅館では、タイトル戦が行われている。南牟婁五冠が、若手挑戦者を迎え撃つシリーズの開幕戦なのである。そして僕が来ている部屋は、その大盤解説場。プロ棋士たちが、目の前で対局の解説をしてくれるらしい。
十分ほどして、なんとか六段と女流の何とかさんが現れた。正直なところ、将棋界のことは偏った知識しかなく、多くのプロ棋士のことをまったく知らない。ただ、二人の話はとてもうまく、将棋を知らなくても楽しめるほどだった。
対局室の様子が映し出されている。和服を着た二人だったが、圧倒的に名人の方が似合っていた。タイトル戦で何回も着ている南牟婁名人に対し、挑戦者は初めての和服らしい。動きもどこかぎこちない。
部屋に誰かが入ってきた。見覚えがある顔……父だった。なぜ父が、対局者でも解説者でもないのに……
「立会人の黒山九段ですね」
どうやら、立会人と呼ばれる立場らしかった。そんなものがあることすら知らなかった。
父もまた、和服だった。似合っていた。タイトルを獲得したこともあるし、いまだにA級棋士である。家に居る時とは違い、貫録があった。
しばらく聞いていたが、会場の熱気が息苦しくなってきた。ここにいる人たちの視線が、吐息が、熱を放ち続けているのだ。僕は、部屋を出た。
「綜馬」
廊下にあった椅子に腰かけていると、声をかけられた。聞き覚えがある。
「父さん」
「どうしたんだ、こんなところで」
「プロの世界を知りたかったので、見に来ました」
「そうか。乙川の娘とはうまくいっているか」
「はい」
「それはよかった」
顔色一つ変えず、義務のように声を紡ぐ父。表情の作り方を知らないのだ。
「父さん、質問があります」
「なんだ」
「名人は、自分を打ち負かすような相手がいたら、プロでなくとも戦いたくなるでしょうか」
「なんだ、それは。そんな人間がいるとも思えないが。しかし、名人なら対戦を欲することは有り得る」
「そうですか。そういうものですか」
「お前、あの娘がそれをできると思っているのか」
「……はい。ただ、彼女がそれを許される存在かどうかはわかりません。あの力が彼女だけの力と言えるのかどうか」
「綜馬、乙川に会いに行くがいい。答えが見つかるかもしれない」
「え、前名人にですか」
「お前の義父だ。私が話をしておこう。今から解説を代わるので、あとでまた連絡をする」
父は、解説会場の中へと入っていってしまった。
何となくだが、父が仕事をする姿は見たくなかった。父が出てくるまで、ぼうっと椅子に座り続けていた。
「ねえ、綜馬。夫婦って、どうすればいいのかわからないの」
「え」
いつものように、僕は生駒の部屋にいた。毎日二時間ほど訪れるのが、決まりになっていた。
「人と会うこともほとんどないから、恋人とか、友達とか、そういう関係がよくわからないの。知っているのは女の子と世話人の関係だけ」
「僕もよくわからないよ。結婚するのは初めてだもの」
「それはそうね」
実際、これでいいのか、と思うことはある。生駒は起きていられる時間が短いし、僕が部屋にいると余分なメンテナンスが必要になってしまう。父親たちが望むように、子どもを生んだり育てたりといったことが可能なのだろうか。
「生駒……今度、君の父親に会いに行くよ」
「父に……?」
「挨拶さ」
「私もしたことがないのに」
「君の分までしておくよ」
手を伸ばして、頭を撫でてみた。生駒はそれを拒否しなかった。ごつごつとした感触、それは生駒らしさだと思った。
病室のにおいがしなかった。広々とした部屋。
「いらっしゃい」
声の主は、存外に若い。ともすれば私より若い。
「失礼します」
「堅苦しくしなくていいよ」
茶色い髪が、肩より下までウェーブしていた。瞼が薄く、鼻筋がすっと通っていた。美人と呼ばれることが多いだろう。
「そうですか。伝わっていると思いますが、生駒の夫、綜馬です」
「生駒……ああひろちゃんの隠し子ね」
ひろちゃん……と呼ばれたのは乙川洋、前名人。女性の右手が、その人の頬を撫でる。以前テレビで観たことがあるが、その時と同じ凛々しい表情だったので驚いた。病気をして寝ているとは思えない、勝負師の顔をしている。
「あ、名乗ってなかったね。私、
試すような目つきだった。ひろちゃんと京の関係、あなたはどう見るの、と。見たままだとは思うが、もっと複雑なのかもしれない。
「よろしくお願いします」
「しっかりした人なのね。生駒さんも幸せでしょうね」
「だといいのですが」
「ひろちゃんはね……幸せかどうかよくわからないの」
京さんの手が、乙川の後頭部を撫でる。まるで、骨とう品を扱うような、丁寧かつ愛おしむ手つきで。
「まさか……」
「そう。娘と同じものを、入れたの」
「そんな、乙川さんも同じ病気だったのですか」
「違う。生駒さんの強さが欲しかったのよ。一度見て憑りつかれてしまったと言ってたわ。南牟婁に勝つためには何でもするって」
「それで機械を……」
「そう。それで乗っ取られてしまった。常人には、重たすぎたの」
生駒は不足した部分を補うために頭に機械を入れた。それが何とかうまくいったのだ。特効薬は常人には劇薬になりうる。前名人は娘の力に憧れ、その力に飲み込まれてしまったというのか。
「現在は、どんな状態なんですか」
「お医者さんが言うには、機械の中でしっかりと生きているの。……多分、将棋のことばかり考えている」
父といい、生駒といい、そんな人ばかりだ。将棋とは、そんな魅力的なものだろうか。全てを賭けてしまうほどに、大切なものなのだろうか。
そういえば、また約束を果たしていなかった。
「あの……挨拶いいですか」
「ひろちゃんに? いいよ」
「えっと、綜馬と言います。生駒さんと結婚させていただきました。生駒さんからもよろしくとのことです」
瞼が、素早く動いたように見えた。気のせいかもしれない。
「そうちゃんは、将棋指さないのね」
「あ、はい。ほとんど」
「そういう人がそばにいると、幸せなのかもね」
京さんは指すのだ。それがわかった。付き人というのも何割かは本当なのかもしれない。
「では、失礼します。お邪魔しました」
「うん、たまに来てもいいよ。知ってる人も遠慮して来ないの」
「わかりました」
父は、答えが見つかるかもしれないと言った。確かに少しは見つかった。ただ、謎も深まってくる。乙川名人にここまでさせた現名人は、どのような人間なのか。機械を使ってでも勝ちたいと思わせる人なのか。それともそれほどまでに圧倒的強さを誇るのか。
わからないことは、まだまだありそうなのだ。
「会って来たよ、君のお父さんに」
「そう」
夫婦の時間。生駒はただ寝ているだけだし、私はただそばにいるだけだったが、恐らく二人にとって幸福な時間だった。
「眠っていた」
「病気なのね」
「頭に機械を入れて、コントロールできなくなったんだ」
「……なんて愚かなこと」
生駒はしばらく目を伏せていた。父親と会ったこともなくとも、色々と思いを巡らせていたに違いない。
「父は、会えばわかると言った。だから自分なりに考えてみたのは、多分、他にもいるということだと」
「それは、埋め込んだ人がということ」
「そう」
前名人が何を試したか、父は知っていたのだ。それで強くなれるとしたら、やってみたいという棋士はいくらでも現れるだろう。未知の技術ならまだしも、すでに生駒という成功例があるのだから。
「なにか、むずむずするような話。私は、仕方なく入れたのに」
「治療薬は増進薬になる。歴史上繰り返されてきたことだよ。だから、生駒も気に病むことはない」
「気に病む?」
「機械の力で強くなったとしても、生駒の強さであることに変わりはない。だから……プロもぶっとばしていいんだ」
「あら」
時間が来た。生駒の肩を抱き、部屋を出る。
「ありがとう」
扉を閉める時、彼女の小さな声は、確かにそう言った。
「風岡は知っていたのですか」
二人で、窓にガムテープを貼っている。大きな台風が来るというのだ。
「何をですか」
「前名人……あなたの師匠が、機械を埋め込んで失敗したことを」
「もちろん存じています。私の知らない間のことだったので、止めることができませんでした」
「そうですか」
僕の父は、試そうとしただろうか。それともとっくに、諦めていただろうか。南牟婁名人は、圧倒的に強いという。父のレベルではリスクを冒しても、届かないほどに強いのかもしれない。
「しかし、納得はできます。名人にとって、名人であり続けることは何より大事なのです。衰えて負けるのならばともかく、そうでなかったわけですから、つらかったことでしょう」
風岡もプロを目指す組織にいた人間なので、つらさは共感できるのだろう。下唇を噛んでいた。
「生駒は、どこまで強くなれるでしょうか」
「お嬢様は……箱の中で戦っています。プロ棋士はあらゆる場所で戦えます。その違いが、どう出るか」
「そういうものですか」
そういうものなのだろう。いくら頭脳勝負とはいえ、実際に同じ空間で切磋琢磨することが、強さにつながるのかもしれない。私がもっと強ければ、あるいはその溝を埋められたかもしれない。しかし、私は父から将棋の才能、将棋への情熱を受け継がなかった。
「しかしその箱の中で、将棋しかできないのも事実です。誰よりも将棋に熱中できることは、予想外の結果を生み出すかもしれません」
「なるほど」
一生逃れられない箱の中で、生駒は何を実現できるだろうか。そして僕は、何をしてやれるだろうか。
「綜馬様。よろしくお願いします」
「はい」
どうなるかはわからないが、何かが起こる。それは、確実だった。
「勝ったわ」
「おめでとう」
生駒は、夜のネット将棋を解禁した。そのためにできるだけ昼は休み、体力を温存しておいた。何かが起こった時のために、風岡も隣の部屋で起きて待機している。
「でも、プロかはわからない」
「勝てばいつかはたどり着くさ」
僕には、強い人たちの実力差など全く分からなかったが、生駒は以前より苦戦するようになったと言っている。
「香りがする」
「香り?」
「命をかけている香り」
生駒はそう言って、息を大きく吸った。彼女の嗅覚はほとんど機能していない。だからこそ、情報の中に香りを感じることができるのかもしれない。
「まだ指すかい」
「うん。指せるときに指す」
天井に映し出された盤が消え、メンバー一覧の表示へと切り替わる。生駒の脳と画面は直結している。おそらくこのような対局方式を採用しているのは彼女だけだ。機械を埋め込んだとしても、普通の人間にはマウスを動かす体力がある。
生駒は結局、三連勝した。少し、息が荒くなっていた。
「大丈夫かい」
「平気。それに将棋って、きついものだと思うから」
そうは言っても、生駒の体は常人とはあまりに違うのだ。もし機械が止まりでもすれば、必ず死んでしまう。
「とにかく、今日はもう休もう」
「はい」
こんな日が、四日続いた。毎日三局、生駒は十二連勝した。
ひょっとしたら、妻は世界で一番強いのではないかと思わされるほどだった。苦しそうな局面も、結局は乗り切って勝ってみせる。レーティングも上がっていき、上位二十人に与えられるという「聖人」の称号を獲得した。ここまでくれば、相手はプロだらけなのではないだろうか。
「お嬢様、今日は休みましょう」
しかし、五日目、風岡が生駒を止めた。
「なんで」
「疲れているようです。自覚はないかもしれませんが、数値に出ています」
「……そう」
生駒は少し口をゆがめていたが、反抗することはなかった。風岡は以前、いざとなったらインターネットを遮断すればいい、と言っていた。彼はきっと、いくつもの「いざというとき」を想定している。
「つまらないかい」
「いいえ。将棋が楽しいわけじゃないから」
「そうなんだ」
「将棋しかできないから、将棋をするの」
わからなかった。将棋のことも、生駒の世界も。それでも、努力はしようと思った。将棋界のこと、将棋の勉強法、そして生駒の病気のこと。
その中で、気になる発見があった。インターネットの中で、生駒が南牟婁名人ではないかという噂が立ち始めているのだ。強豪に次々と勝っていることも原因だが、「指し手が似ている」という指摘が多かった。彼女の父親が誰であるかを考えれば、苦笑せざるを得ない話だ。
けれども、何か引っかかるところがあった。私には棋風とか、指し手の質感というものはわからない。それでも、似ているとしたら何らかの理由があるのではないか。
どちらにせよ、もう後戻りはできない。生駒は、舞台に立ってしまったのである。
分厚い雲が、空を覆い始めた。これは、降る。
毎日畑に出ているうちに、空気に敏感になった。こんな生活をするようになるとは想像したこともなかったけれど、悪くない。
空気は、人の行き来も知らせてくれる。特に土地になれない人が訪れた場合、ざわざわと震えるのである。
一台のワゴン車が、こちらに向かってくる。この土地では見たことのない車種だった。畑の側まで来て、止まった。
「綜馬さん、ですね」
「はい。あなたは」
「南牟婁と言います」
車から降りてきたのは、やたらと背が高くて、やせ細った男だった。写真では見たことがある、現名人だ。
「名人……がなんでこんなところに」
「ここに、挑戦者候補がいると聞きまして」
「どこからそんなことを」
「将棋界は狭いんですよ」
名人の目が、まっすぐにこちらを向いている。それは、銃口を突き付けているようだった。
「残念ですが、そのような人はいません」
「ほう、では別のことを聞いてもいいですか。あなたの奥さまは、将棋が得意ではないですかな」
「得意ではありますね」
「とてもお強いはず」
「そうですね」
「では、間違っていませんね」
「彼女は、プロになれない。ほとんど寝たきりなんです」
名人はしばらく目をつぶり、それから「クックック」と笑った。
「確かに世界中で私以外には通用する理屈です。でもね、世界中で名人だけは、こう思うんですよ。『強い挑戦者がいればなあ』と。相手がプロとかアマとか、正座して待ってるかどうとか、関係なくね」
名人は、僕の後ろにある屋敷を見ている。 興味の対象は僕ではないのだ。
いずれこの日が来ればとは思っていたが、予想よりもずっと早かった。
「わかりました。とりあえずここではなんですから、家にどうぞ」
「それはどうも」
駐車場まで車を誘導し、名人を家へと招き入れる。
「あ、綜馬様もう戻ってこられ……」
「久しぶりですね、風岡さん」
「南牟婁君……いや、名人」
風岡もプロを目指していたのだ。二人が顔見知りでも全く不思議ではない。
「そう、名人なんですよ。そして風岡さんのところにも、名人候補がいると聞いて」
「そんなことをどこから……」
「本気になればね、簡単に探すことができるものですよ」
「……妻のところに案内します。いいね、風岡」
「はい」
おそらく、まどろっこしいことはしたくないだろうと思った。名人も生駒も、強い対戦相手を望んでいる。二人の利害は一致しているのだ。
僕、名人、風岡の順に並んで廊下を歩く。そして、生駒の部屋の前に。
「ちょっと待ってくださいね」
いつものように、番号を打ち込んでいく。この儀式にも随分と慣れたが、今日は特別な思いだった。この部屋に、生駒にとっての他人が入るのである。
扉を開け、僕だけ先に中に入る。生駒はいつものようにベッドに寝ており、天井には何も映っていない。
眠っているようだ。
「入ってください」
「すごいところですね」
「妻……生駒は、ここでしか生きられないのです」
「そういう病気ということですか」
「そうです」
「しばらく起きませんか」
「そうですね。これが理由の一つです。それと彼女は……頭に機械が埋め込まれています。彼女が生きるために必要なものですが、彼女の思考を加速させることもできます」
「つまり、それが不公平だと考えるのですね。わかりました……会えてよかったです。そ
れと……」
名人は、着ていたワイシャツをめくり上げた。突然のことに驚いたが、そこから現れたものを見て、さらに驚かされた。風岡も、目を丸くしている。
そこには、本来あるべきものがいろいろとなかった。のっぺりとした胸、へそのない腹部。そして肌にいくつもの継ぎ目があった。
「それは……」
「生駒さんと逆ですね。私は、体のほとんどが人工なのです」
「そんなことが可能なんですか」
「賭けでした。けれども生きるには……私の能力を全て発揮するには、病気を乗り越えるしかなかった。名人になり、名人でいるためには」
生駒と名人は、確かに似ていた。脳と体、補う場所は異なるが、どちらも誰もしたことのなかった賭けに勝って生き長らえているのだ。
「南牟婁君、それを隠し続けてきたのですか」
風岡が、一歩前に出た。
「誰にも言いませんよ。でも、生駒さんには敬意を払って教えなければ、と思ったのです。ハンデを乗り越えて名人になった人間がいることを」
生駒も、機械の体を手に入れれば普通に将棋を指せるようになるだろうか。けれどもそうなると、元々の生駒は残っていると言えるだろうか。そもそも、私はそんなことはさせたくない。今の生駒が愛おしいのだ。
「生駒はおそらく、ずっとこのままです」
「そうですか……まあ、待つのは自由ですからね。それと、対局はできるわけですよね。毎週土曜日夜七時、対局室で待っていますよ」
そう言うと、名人は踵を返して部屋を出て行った。全ての用事は済んだ、ということだろうか。
「安心して、私にはあれをする体力はないから」
いつの間に目覚めていたのだろうか。生駒は私を見て微笑んでいた。
「勧めたりはしないよ」
「あの人が一番強いなら、あの人に勝てばいいのね。それで、生きている意味を実感してみたいの」
僕は、生駒の頭を撫でた。私はこうしてしか、彼女を補ってやることはできないのだ。
土曜日の夜、ネット道場で確かにその人は待っていた。「TheMeijin」というハンドルネームは、ウソ偽りないのだが、ほとんどの人は本物の名人であるとは信じていないだろう。総対局数は5局で、ここ三か月では1局も指していない。点数もそれほど高くなっていないのだが、一目で本物だとわかった。なぜなら居住地域が「Android」となっていたからである。
実際、TheMeijinはすぐに生駒に挑戦してきた。もちろんこちらも受諾する。ついに、生駒は名人との対局までこぎつけたのである。
生駒の方は注目される存在になっているので、すぐに観戦者が何人も集まってきた。彼らはまだ、名人が相手であることを知らない。ずっと知らないままかもしれない。
対局の中身については、よくわからない。私などでは全く分からないレベルなのだ。ただ、生駒がいつもよりも大きく息を吸っているのはわかる。瞬きの回数も多い。当たり前の手を指すのにも、余分な力がいるようだった。
生駒の脳の中で、どれだけのことが起こっているのだろうか。僕には想像することも難しい。生駒の脳と、機械。二つが絡まり合って導き出す、一つの指し手。
中盤に差し掛かり、いよいよ生駒の息が荒くなってきた。
「大丈夫?」
「うん。なんとかなる」
私は生駒の手を握った。いつもより熱かった。
観戦者はどんどん増えていく。そして、お互いの囲いが崩れていく。終盤へと入っていく。
「水を飲もう」
「うん」
冷やさなければならなかった。かつてない強敵相手に、生駒の体、脳、そしてそれを補助する機械が熱を発していた。
そして、遠い都会の空の下では、名人の体もそうなっているのだろうか。彼は、生駒との対局を望んだ。名人候補とまで言った。あの作られた身体もまた、強敵相手にはきしんだりしないのだろうか。
「一筋……」
生駒の唇から、その言葉はもれた。何が見えたのかはわからない。ただ、生駒の体から力が抜けていくのがわかった。ベッドへと吸い込まれていく彼女を、僕は必死で抱き寄せた。
「どうしたんだ」
「見えた。私、負ける」
どれほどの差が付いた局面かはわからなかった。けれども、その後の指し手は淡々と、お互いに五秒ずつかけて指された。終局までの儀式を行っているようだった。
そして、生駒は投了した。
「強かった。さすが名人ね」
「そうか。けれど、また挑めるさ」
「そうね。でも、本当に疲れる」
私の腕の中で、彼女はうっすらとほほ笑み、そして眠りについていった。
「お疲れ様」
勝てない相手がいることが、生駒にとっての生きる力になるのではないか。そうなればいいのだが。私はいつもより長く、その寝顔を眺め続けた。
「さあ、出かけるぞ」
「お母さんは?」
「まだ眠ってる。今日は起きないかな」
「風岡さんは?」
「そこだよ」
僕が指差す先には、白い軽自動車が。娘が生まれた年に買ったので、もう10年使っていることになる。
「良かったー、お父さんの運転恐いもの」
「ははは、スリルがあると言ってくれ。ちなみにここまで持ってきてもらっただけで、運転はお父さんだ」
「えー」
「お二人とも、忘れ物はないですか」
「ないー、何度も確かめたもん」
「本当かなあ」
風岡が車を降り、僕は運転席に、娘は助手席に座った。
「ねえ、将棋会館までは何分? 十五分ぐらい?」
「いやいや、二時間ぐらいかかるよ。それに会館に行くのは明日だ」
「えー、今日は行かないの」
「今日はおじいちゃんのところに行くぞ。
「おじいちゃんこわいからやだー」
「そんなことを言わないで。さあ、行くぞ。じゃあ、風岡、留守を頼んだよ」
「はい、お任せください。お気をつけて」
「うん、名人倒してくる!」
「まずは同年代の子たちを倒さないと」
「でもネットではプロにも勝ってるもーん」
「それは内緒だからな」
「えー」
美駒はぐんぐんと棋力を上げてきた。プロ棋士である二人の祖父が望んだように、娘は名人に勝とうと願っている。そして南牟婁名人は、それを待っているかのように今まで勝ち続けてきた。
「じゃあ、行くぞ」
「うん」
窓から顔を出して手を振る美駒に、風岡も小さく手を振る。車が発進し、風岡や屋敷が小さくなっていく。娘の物語が、始まったのである。
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