聞こえる(120分:「臨死」「遠雷」「公衆電話」)
遠くから音が聞こえる。
どうしてだろうか、水の中で聞いているような音だった。輪郭が曖昧で、音と空間との区別がつかないような。いろいろなものが溶けて混ざってしまっているような。自分自身の体もどこまでが自分のもので、どこからが自分のものでないか分からなかった。
うっすら目を開けてみて、何が起きているのかを確かめる。少しばかりの光だけでも目が痛くてたまらなくて、周りを改めるどころではなかった。顔の向きを変えたところで目の痛みは変わらずで、まるで四方八方から強烈な光を浴びせかけられているようだった。
多分うつ伏せになって、それでようやく目を光に慣らすことができた。多分というのは、上も下も分からなかったから。
自分自身の感覚、何もかもが信じられない。そんな感じだった。立ち上がってみるれば、なんとなく足元が下だという感触があって、そうしてから世界がゆっくりと形になってゆくのである。ぼんやりとした雰囲気が徐々に収束してゆき、ある程度の形が判別できるほどになった。まだくっきりしていないが、形を見分けるには十分な程度、それでもなお輪郭はぼんやりとしていた。
遠くの昔に見た覚えのある電話ボックス。自分の前数メートルのところに佇んでいる。リリリン、と音が響いてきた。目で見える世界と同じように、耳で見える世界もまた輪郭を獲得したのである。自分が聞いていた音は、どうやら公衆電話への着信音らしかった。
電話ボックスにたどり着くには、自分が見ているよりも時間がかかった。自分が近づけば離れていってしまうようだった。あるいは、自分が思っているほど歩けていないらしかった。
とにかく、自分が到着するまで公衆電話はなり続けていたし、受話器を取ればしんと静まり返ったのである。
「ようやく出てくれたわね」
「ええと、どちら様ですか」
聞いた覚えはあった。でもどうしてだろう、思い出せない。明らかに聞いたことのある声だ。でも分からなかった。
「まーくん、今どうなっているか分かっているのか分かっているの?」
「えっと、何のことですか」
「私と連絡が取れていること事態がまずいのよ。早くおうちに帰りなさい」
電話の向こう側で、雷が呻く音が聞こえる。
「ああもう、気づかれてしまったわ。ほら早く、あなたはまだこっちに来るにはまだ五十年は早いよ。ああもう、あんたは黙ってなさい! ああまーくん、早く戻るのよいいね」
雷の音がどんどん近づいてきた。するとどうしてか、目の前にある緑色の電話がとろけてゆくではないか。輪郭も当初の曖昧さを取り戻して来た。手にある受話器も握っている感覚がなくて、しまいには握りこぶしになっていた。緑色はガスのように広がってしまった。
気がついたら天井の白いのがあった。視界の外からぬっと現れる顔は家族だった。どうしてみんな泣きそうな顔をしているのだろうと不思議に思って、声を出そうと思ったら喉がからからになっているような感じがあって言葉が出せなかった。
自分はその時になって思い出した。
聞き覚えがあると思ったあの声、去年なくなったおばあちゃんの声だ。
プチ習作シリーズ 衣谷一 @ITANIhajime
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