齎される

辞めます

たった一言だけの書き置きを残し、俺はあの場所から逃げ出した。

合わぬ仕事と慣れぬ人間関係に僅か一ヶ月で音を上げた俺は、明け方と呼ぶに相応しい、夜と朝とが共存する空の下、社員寮から遁走したのだ。

あれから二週間が過ぎた。

俺は今、人生最大の危機に直面している。


幸福感、解放感に浸れたのは逃げ出して直ぐの二日間だけだった。三日目の朝を迎えた頃には、そんな虚飾に満ちた幸せは微塵の残り香も嗅ぎ取ることが出来ない程に跡形もなく霧散してしまっていた。それから今に至るまでの間は、代わって胸中に現れた、日々確実に目減りしていく所持金への懸念が好き放題、増殖、増幅、増大を繰り返し、俺の心を常に暗色に染め続けた。思えば三日目以降、安らかな心境になったことなど一瞬足りとてなかったような気がする。

逃げ込む先に宛てがあるわけではなかった。縁を切る形で飛び出した実家に頼る訳にもいかず、かといって身を寄せる事のできる友人知人がいるわけでもない。つまりは身銭を切って夜露を凌ぐ場所を確保しなくてはならないということだった。

最初の何日間かは一泊二千円の簡易宿泊所に泊まった。しかし、潤沢とはいえない所持金を鑑みれば、畳三畳分のスペースに、テレビと寝具一式だけが付いた、狭小で貧相な生活空間でさえ贅沢に思え、その後は閉館ギリギリまで図書館で時間を潰し、格安の料金パックが適応される夜遅い時間になって漸く、ネットカフェのベタつく合成皮革のマットの上に身体を横たえる、そんな日々を過ごした。値引きされた食パンを一日一袋、朝昼晩、二枚ずつ食べる事で空腹を紛らわし、喉の渇きは図書館の冷水機とネットカフェのドリンクバーで潤す。とにかく考え付くだけのあらゆる方法で日々節約に努めた。それでも所持金は日毎確実に減っていく。その速度を緩めることに力を注いだところで焼け石に水、増やす努力をしていないのだから当たり前と言えば当たり前だった。

仕事に就くことを考えない訳ではなかった。そして住所不定な人間でも採用されるアルバイトがあることも知っていた。しかし、劣悪な環境の下での過酷な肉体労働であることを求人広告から窺い知った上で、そんな厳しい条件下に身を投じてまで日銭を稼ごうとする程、勤勉ではなかった。幾度か以前の職場に給料の支払いをお願いしようとはした。しかし不当な辞め方をした、しかも支給が現金手渡しである会社に連絡出来る程、面の皮は厚くなかった。日毎財布の中身は軽くなっていき、それに反比例するかのように心の中の屈託は、その重量を増していく。そして煩悶とする時間だけが流れた毎日を重ね、逃げ出してから二週間が経った今日、ネットカフェの支払いを済ませた俺の財布の中は、とうとう一枚の千円札と数百円分の硬貨だけになってしまった。


箱の中の階数表示が「1」になり扉が開くと、いきなり肌に突き刺さるような冷たい風が舞い込んできた。俺は思わず身震いし、ダウンジャケットのファスナーを首もとまで引き上げる。予想以上の寒さを感じたことで更に膨れ上がった、後ろ髪を引かれる思いを抱きながら、重い足取りでエレベーターを降りると、ネットカフェの入る雑居ビルから、前を走る道路へと歩み出た。

飲食店の入った低層ビル建ち並ぶそこは、駅前へと続くアーケード街から一歩中に入った裏路地で、人の姿は殆どなく閑散としていた。ふと立ち止まり空を見上げると、今にも雪を降らせそうな鈍色の雲が広がっている。まるで俺の心の中の空模様みたいだな、などと文学的な思いが湧き上がってきたが、直ぐ様、その比喩表現を否定した。そんな甘い状況ではないのだ。この窮地に陥った心境は曇天などという生易しいものではなく、喩えるなら正に土砂降り、台風直撃の荒天という表現こそが相応しい。俺は重い溜め息を一つ吐くと、取り敢えず値引きされた食パンを買うために、二十四時間営業のスーパーに向かって歩きだした。たった数分間立ち止まっていたただけなのに、もう身体は芯から冷えきっている。


何とかしなくてはならない。いつもの公園のベンチに座り、パサついた食パンを齧りながら改めて思った。雪はまだ降りだしてはいないが、この寒空の下、週末の朝早い時間から公園にたむろするような物好きや暇人はいないらしく、ベンチどころか敷地全てが貸し切り状態だ。俺は二枚目のパンを食べ終えると、図書館の開館時間までの間、自分の置かれている現状の正確な把握に考えを巡らせることにした。整理が必要な程、込み入った状況ではないが、そうすることで何か画期的な打開策を思い付くのでは、そんな淡い期待を抱いたからだった。

パン購入後の所持金の残りは千百二十七円。開設している全ての銀行口座には一円の残高もなく、契約しているカードキャッシングは既に限度額一杯借入している。僅かな所持品の中で換金出来そうな物は、中年男性の使用済み下着を愛でる性的嗜好者がマイノリティ中のマイノリティである現状では何一つとして有りはしない。つまり現有の財産は、手持ちの残金が全てとなる。これはとうに分かりきっていたことではあるが。

じゃあ使い道をどうするか。

さっきから今夜一晩限りの刹那的な贅沢に費やしてしまいたい誘惑が、頭の中に頻繁に顔を覗かせている。いつものネットカフェに、支払い可能な九百円の三時間パックで入店し、寒さから逃れ、人目を気にせず身体を横たえる。ドリンクバーのホットコーヒーで暖まり、コカ・コーラで潤って、持参した空のペットボトルにお気に入りのジュースを充填し、数日分の甘味溢れる飲料を確保する。携帯をフル充電し、あの漫画の気になる続きを時間一杯まで読み更ける。そんな甘美な誘惑だ。それはこの上なく魅力的で、抗らい難い程に惹かれてしまう。が、しかし。

充分に分かってもいた。そこに有益なものなどほんの少ししか存在していないことを。今までの生活に束の間浸ったところで、携帯のバッテリーや飲料といった、早々に払底してしまう物の確保以外、何ら得るものなどないことを。

欲望を抑え込み、もっと有効に使わなくてはならないのだ。これからの毎日に役立つ何かに。

それが何なのか。

全額食費に当てたとしても、大した日数分にはならないだろう。それよりも路上でのサバイバル生活に備えて寒さから身を守る為のアイテムを手に入れるべきでは。そう思った。が、しかし、だ。

俺は空を見上げた。相変わらず今にも地上に雪を撒き散らしそうな厚く濁った雲が一面に広がっている。植栽に植えられた木々を見つめた。枝は、冷たい風になぶられるように上下左右と大きな振れ幅で揺れている。寒い。凍えてしまいそうなほど寒い。きっと夜はもっともっと寒いのだろう。

物音のする公園の奥の方に視線を移した。そこにはゴミ箱が設置されていて、数羽のカラスが糧を求めて群がっている。食料をめぐるあいつらとのライバル関係を想像してみる。まるで勝てる気が湧いてこなかった。きっと連戦連敗の憂き目に遭うのだろう。

無理だ。野外で夜を明かすことを前提に思考を巡らせているが、心身共に甘ったれな俺が、そんなタフな毎日に耐えられる訳がなかった。

やはり所持金を増すしかない。そして自然現象に直接晒されることのない寝床を、真っ当な食料を獲得しなければ、間違いなく俺に明日はないのだ。

日雇い派遣の仕事に就いたところで得られる金はたかが知れているし、そもそも今日明日の切迫した危機を回避出来る手段ではない。更には、少し前までよく頭を掠めた、何処かの篤志家が偶然知った俺の窮状を憂い、知らぬ間に銀行口座へ多額な寄付金を振り込んでくれている、なんていうアホな想像に淡い期待を寄せている場合でもない。

もうこれ以上、現状の認識に脳味噌を費やしたところで画期的な打開策を思い付くことなどありはしないだろう。

やっぱり、あの方法に賭けてみるしかないー。

ついに腹は決まった。いや決めるしかなかった。公園の時計を見ると針は九時二十分を指し示している。開館まであと十分、丁度良い時間だ。俺は脇に置いていた大きめのスポーツバックを持つと、重い腰を上げた。そして一つ大きく深呼吸をした後、図書館に向かってゆっくりと歩きだした。


開館したばかりの図書館はまだ空いていて、五、六人が本を選んだり、雑誌を読んだりしているだけだった。暖房のきいた室内に入り、寒さで強張った身体が少しだけ解れ人心地ついた俺は、今日付けの新聞が置かれた一角へと足を向けた。そして迷わずスポーツ新聞を手に取ると、誰も座っていないソファに腰を下ろした。胸中では、こうして競争率の高いスポーツ新聞を少しも待たずに手に出来た幸運を餌にして、最終手段の実行に二の足を踏もうとする俺の怖じ気を一掃させようと、決心が懸命な駆除作業を行っている。

ギャンブル、競馬で一発逆転、起死回生を狙う。それが俺の選択した最終手段だった。

斬新さの欠片もないことは分かっているが、それは己の創造力、企画力の貧困さを嘆くしかなかったし、リスクが高いことも充分に認識してはいるが、そこは迎える未来がどうせ地獄なら、座して死を待つより果敢に攻めて討ち死にした方がよっぽどマシだと開き直るしかなかった。そしてその諦観の心境は、もしも賭けに敗れ絶体絶命な状況に陥ってしまったとしたら、深夜のコンビニなり牛丼屋なりを襲撃し、敷居が高いというより囲っている塀が高い、あの公共施設に住み込みさせて貰えばいいとさえ思える程に昇華していた。そこにも、要らぬ同情をかって、お勤め期間が極端に短くなってしまったり、どんなに辛くても今度は逃げ出せないという不安はつきまとっているが。

とにかく情報を集めなくては。俺は新聞中程に綴られた競馬面を開いた。中央競馬が開催される土曜日の今日、紙面にはの二つの競馬場で行われる合計二十四のレースについての情報が掲載されている。出走各馬の競馬場別戦績、脚質、連対時馬体重に追い切りの結果等々だ。過去一度だけ中穴程度の馬券を的中させたことがあるだけの、何とも心許ない博才を全開にして、それらのデータを吟味する。穴を開ける馬を、今の体たらくな状況に風穴を開けてくれる馬券を探しだす為に、それこそ穴が開くほどの視線を新聞に送りながら。

しかし、しわぶきや衣擦れの音が頻繁に聞こえてくるようになり、ふと顔を上げ、辺りのソファーの大半が人で埋まっていることに気が付いた十一時を少し回った頃になっても、これは、という予想を探り当てるには至らなかった。一時間以上もの時間を費やしたのだから、勿論幾つか的中の予感を孕む予想を考え付きはした。だが、それらは本命馬を絡めた、至極順当で、高額な配当など微塵も期待出来ぬものばかりだった。やはり俺が持つ、僅少で低度なギャンブルセンスだけでは自信ある大穴予想など難しいらしい。恐らくは何かしらの見えざる力の後押しが必要不可欠なのだろう。しかし、そんな支援を得るのは限りなく不可能に近い気がしてならない。何故なら自業自得で招いたこの難局を、額に汗するような努力もせず、頑なに労苦を厭い、只々僥幸によって打開されることを待っているだけの人間に、救いの神が手を差しのべてくれるはずなどないと思うからだ。だからといって一攫千金を諦め、本命サイドの馬券購入を繰り返し、少しずつ所持金を増やしていく、そんな戦法も採りたくはなかった。負うリスクを軽減させるために、そんな消極的な戦術を選択したにも拘わらず、もしも初っぱなの賭けに敗れ、いきなり全財産を喪失し、尚且つそのレースが万馬券が飛び出す程の大荒れな結果だったとしたら。想像するだけで気が狂ってしまいそうな後悔の念が募ってくる。

所詮はギャンブルなのだ。どんなに手堅い戦略の下に馬券を買おうとも外れる確率の方が確実に高い。ならば大勝負の末に華々しく散る事を選びたい。その方が諦めが付くというものだ。

一旦頭を冷やそう。そして何とかして、それなりに納得のいく大穴予想を捻りだそう。至近距離で小さな文字を凝視し続けたことで蓄積した疲労を取る為に、俺は両眼を閉じようとした。正にその時だった。暗くなりかけた視界の隅に、書き記された天啓を見付け出したのは。


3番 メテオオンヒュウマ

5番 コスモスルージョブ

7番 フクノブーケガール


中山第10レース、芝1800メートル。出走馬全十五頭の中で、この三頭の馬名の一部分が、俺には浮き上がって見えた。そしてそれらの文字が形成しているのは、競馬に命運を賭けようとしている俺が、正に今この時、現出して欲しいと願う現象を言い表した言葉だった。

今の今まで、信仰にあつかったことも霊感や第六感の存在を身近に感じたことも人生の中で一度だってなかった。間違いなく従前の俺なら鼻で笑って看過している類のことだ。しかしこの暗示は、偶然やこじつけ等ではなく、神憑り的なメッセージに思えてならなかった。この馬券を買え、さすれば道は拓かれるというメッセージに。二時間近くの間、血眼になって見続けても気付かなかったものを、弱気の虫が心の奥からゾロゾロと這い出してきそうなこのタイミングで突然見つけ出せるとは。これを神の啓示と言わずして何と言おうか。

いやそう思うのは些か早計なのか。肝心な各馬の人気はどうだ。俺は競馬記者が付けた印を確認した。結果は3番と7番に、それぞれ白三角が一つずつ付いているだけ。三頭とも予想単勝オッズでは二桁人気の超伏兵馬だ。

この事実が、頭の底に少しだけこびりついていた猜疑心を拭いさった。

この三頭の三連単馬券。高額配当が約束された馬券。チェックアウトの時間を気にせず過ごせる棲み家、暖かい布団に包まれて眠る毎夜、塩気と脂気がたっぷりの食事に三度ありつく毎日、それら全てを実現させても有り余る巨額の金を手にすることが出来る夢のような馬券。俺が求めていた大穴予想。俺が望んでいた生活。

最早疑いようがなかった。この"気づき"が、地獄に落ちる寸前の俺に齎された、寛容で慈悲深い神からの蜘蛛の糸であることを。

俺は立ち上がると、入り口付近に置かれた記入台に向かった。そして辿り着く否や、台上に置かれた図書リクエストカードを一枚抜き取り、何も印刷されていない裏面に、三頭の馬番と馬名を書き写した。時計を見やると、時刻は十三時を過ぎている。発走まで二時間余り。

変わらず寒風が吹き荒れている様子の外へ、すっかり変わった心境を携えた俺は、力強く足を踏み出した。


二時間後、歩き着いたWINS内の、レース中継が放映されるモニターを囲む人垣の中に俺は立っていた。手には全財産を賭した馬券が握られている。この紙片が天国行きのプラチナチケットか、はたまた地獄への強制連行を告げる赤紙か、もう間もなく結果を知ることとなる。二分後に見る景色が薔薇色であることを祈りながら、出走全馬が収まった発走ゲートが映るモニター画面に熱い視線を送る。

「態勢完了」

アナウンサーの声が流れた数秒後、いよいよ運命のゲートが開かれた。

そしてー。


俺は今、やや殺風景ではあるが心地良い室温に設定された部屋の中で、温かな布団に包まれながらベッドに身体を横たえている。一日三度供される食事は、多少の物足りなさは感じるものの、ただの食パンと比べれば充分過ぎる程の塩気と脂気を備えていて、得られる満足感は雲泥の差だ。そんな恵まれた環境の中で、惰眠を貪ることに倦んできた、などという少し前の頃から思えば贅沢過ぎる悩みを抱えながら送る毎日。その直中に今俺はいる。そこには経済的な屈託など微塵も存在していない。

俺はゆっくりと上半身を起こし、傍らにあるサイドボードの上に置かれた紙片を手に取った。あの時、あの図書館で賜った、神からの御託宣を書き取った図書リクエストカードだ。その裏面にはこう記されている。

 三連単 3-7-5

3番 メテオオンヒュウマ

7番 フクノブーケガール

5番 コスモスルージョブ

あの時浮き上がって見えた、それぞれの馬名の一部分ずつ。

3番 メテオオンヒュ"ウマ "

7番 "フク"ノブーケガール

5番 コスモスルージ"ョブ"

それらを繋げると出来る言葉。

"ウマフクヨブ"

「馬福呼ぶ」

競馬に、己の未来の全てを託した俺が、この身に起こって欲しいと願った唯一無二の事象。

それは確かに現実となった。あの瞬間、確かに。


右手を開くと、握っていた馬券がいつの間にかクチャクチャになっていた。見れば辺りの床には、同じ様にしわくちゃになった馬券が散乱している。ついさっきまで周りで、声高に騎手の名前や馬番を連呼していた人々の、夢の残骸だ。

再び視線をモニターに向けた。画面には電光掲示板が映し出されていて、そこには「確」の文字と共に一着から五着までの馬番が示されている。俺は目を細めたり、逆に見開いたり、左右片方ずつを交互に閉じたりしてみた。しかし、どんな方法で画面を見詰めてみても、電光掲示板に示されている数字は変化しなかった。右手にある、馬券に記された数字には決して。

大波乱とは真逆のガチガチの銀行レース。それが、俺が運命を賭したレースの結果だった。

信じた俺が馬鹿だったのか。やはり神の啓示など有りはしなかったのだ。俺は暫く茫然自失とし、その場に立ち尽くした。そして次のレースに向けて辺りの喧騒が少しだけ増してきた頃、ゆっくりと出口へと歩き出した。全財産僅か二十七円。一攫千金を狙う権利すらない今、ここにいても意味はなかった。

覚悟していたとはいえ、実際にこの状況を向かえてみると、思考回路がショートし、これからのことに考えを巡らすことが出来なかった。もしかしたら、あの三頭の進路を妨害した責で、他の馬全てが降着になっているかもしれない。もしかしたら、床に散乱していた外れ馬券の中に的中したものが紛れ込んでいるかもしれない。凡そ建設的でない、そんな夢想を繰り返し、俯きながら歩いている内に、気が付くと出入口付近に辿り着いていた。発しているだろう負のオーラが結界でも作っているのか、混雑している最中にも拘わらず、俺の半径五メートル以内には誰もいない。

未練がましいとは思いながらも、何かしらの奇跡が起こっていることを期待して、今一度俺は館内の方を振り返った。すると突然、背後から悲鳴と共に、ガチャーンという大きな衝撃音が聞こえてきた。甲高い耳障りな音も混じっている。

固い何かを思い切り金属バットで殴り付けた音?黒板を爪で引っ掻いた時の音?そんなことを刹那考え、音のする方へと身体を向けた、次の瞬間ー。

振り向き様に視線が捉えたのは信じられない光景だった。そして、そんな異常な状況を作り出している最大の要因であるは、物凄い勢いでこちらに向かって来ている。

衝撃音に混じる、周りからの悲鳴。聴覚が鋭敏になった。

近付いてくる、の前面にある凹凸や傷。視覚が研ぎ澄まされた。

気が付くと、全てがスローモーションに見えていた。

避けなければ。はもう目の前にある。しかし、まるで金縛りにあったかのように自在に身体を動かすことが出来ない。

俺は目を閉じた。音量を増した、甲高く

鳥肌が立つような不快な音は変わらず鳴り響いている。

耳を塞ごうか、そう思った時、下半身に強烈な衝撃を受けた。確かではないが、身体がふっ飛んでいるような気がする。と思った矢先だ。俺が何も感じなくなったのは。


「本日午後二時頃、東京都○○区○○にある場外勝馬投票券発売所WINS○○の一階部分に、荷物を配送中のトラックが突っ込むという事故がありました。この事故で一階入り口付近にいた四十代の男性が両足骨折の大怪我を負うなどの被害が発生しましたが、幸いにも死者は出ませんでした。警察は何かしらの運転ミスがなかったか、運転手への事情聴取を行うと共に、構造的な欠陥の有無を確認する為の車体検分と、トラックの所有者である大手運送会社『馬力便株式会社』の整備担当者への聞き取り調査を実施し、事故原因の究明を進めているところ・・・」


俺は紙片をサイドボードの上に戻した。そのついでに飲み掛けのペットボトルを手に取ると、ぎこちない動作で何とかキャップを開け、水を一口だけ飲んだ。一部分が不具合を起こしただけで、こんな日常の何気無い動作にさえ四苦八苦してしまう身体の脆弱さを、今更ながらに痛感した。

両足骨折、全治六ヶ月。それが、ぶつかる寸前、ドライバーが急ハンドルを切ったことで何とか正面衝突を免れた俺に下された診断結果だった。

俺はギブスをはめられ、吊られた状態の両足を眺めた。不便だ。痛みもまだある。しかし心の中には、久しぶりに実感する安寧が確実に齎されていて、穏やかな生活が間違いなく此処にはあった。

少なくとも完治に至るまでの間は、己の懐を少しも痛めることのない上での、この上げ膳据え膳的な毎日が保証されている。いやそればかりではない。結局ドライバーの運転ミスと車両の構造的な欠陥とが重なって起きた事故であると判明したことで、運送会社と自動車メーカー両者から多額の賠償金を受け取った俺は、退院後も、あの時望んでいた生活を余裕で実現出来るだけの資力を獲得していた。

やはり、あの時、あの場所で俺に齎されたのは、救いの神から授けられた啓示に間違いなかった。

あの瞬間、あの図書館で目の前に垂らされた蜘蛛の糸は、確かな強度をもって、俺を地獄の底から救い上げてくれた。

馬は福を呼んだのだ。その馬はターフを駆け抜けるサラブレッドではなく、トラックのコンテナ側面に描かれた、運送会社のイメージキャラクターである、飛脚に扮したイラストの馬ではあったが。

とにかく、ほんの少し前まで胸中を染め続けていた暗色とは真逆の、薔薇色で輝かしい未来が俺を待っている。

数日前、この幸福過ぎる状況を迎えた時、当然俺の心は喜色で満たされた。ただそれと同時に、ある懸念が頭に浮び上がってもいた。それは、人に齎される、幸運、不運が常に同量になるようバランスが保たれているとしたら、この僥幸に匹敵する程の災いが、近くこの身に降りかかってくるのではないか、という不安だ。

しかし、それが全くの杞憂であると、直ぐに思い至った。

何故ならば、この幸運は決して無償で手に入れた訳ではないからだ。額に汗したことへの然るべき対価として、俺に与えられたものであるからだ。額に流れたのが、労働の汗でなく、怪我の痛みによって滲み出た脂汗ではあったが。

俺は、ペットボトルを戻すと、枕元に置かれたコントローラーで、起き上がっていたベッドの上半身側を倒し、完全に仰向けになった。自然と目線は天井を捉える。一匹の蜘蛛が蛍光灯の周りを徘徊していた。

ふと思った。あの蜘蛛の糸にこの身を委ねようと決めた時。あの天啓に従い、競馬に命運を託そうと決心した時。もしも、僥幸に与るには、大怪我を負うという代償を払わなければならないと予め分かっていたとしたら、俺は賭けに踏み切る決断が出来ていただろうか。激烈な痛み、決死の手術、過酷なリハビリ、そんな辛苦しか想像出来ぬ義務が課せられることを前以て知り得ていたとしたら、決意を固める事が出来ただろうか。

逡巡はしただろう。しかし最終的にはきっと断念したに違いない。なにせあの時の俺は、切迫した状況に追い込まれているにも拘わらず、少しの労苦も負わぬ幸運が齎されることに、頑なにしがみついていたのだから。仕事とという手段を選択しなかった事と同じた。最初から辛くて苦しい環境だと分かっているものの中に、活路を見いだそうとする気など微塵も存在していなかったのだから。

天井の蜘蛛は相変わらず一点に留まらず、あちこちと徘徊を続けている。まるで俺を観察するかのように。

もしかしたら、あの時の糸は、神の化身であるこの蜘蛛から垂らされたものだったのか。自分が救った人間のその後が気になり、こうして俺に会いに来ているのか。

ふと、そんな空想めいた事を考えてみた。そして俺は一人ほくそ笑んだ。

とにかく事態は好転した。望んでいた以上に。

浸ろう、今の幸せに。

謳歌しよう、これからの人生を。

俺は瞼を閉じた。



サイドボードの上の紙片は、流れ出ている暖かな風に、少しだけ揺れている。そこにはこう書かれている。


三連単 3ー7ー5


3番 メテオオンヒュウマ

7番 フクノブーケガール

5番 コスモスルージョブ


さっきまで天井を徘徊していた蜘蛛が、今度は紙の上をウロウロしている。一見、その動きには何の規則性もなさそうだ。しかし、よく見てみると、ずっと同じ道筋をぐるぐると回っていることに気付く。

が辿った道順を追うと、浮かび上がってくるある一つの言葉。


3番 メテ"オオ"ンヒュウマ

7番 フクノブー"ケガ"ール

5番 コス"モスル"ージョブ


「オオケガモスル」

「大怪我もする」


いつの間にか蜘蛛は消えていた。


































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