ショートショート
@tsuka-kentouch
1 上と下
「今日も一日、こうして君と長い間寄り添い、触れ合いながら過ごす事が出来て本当に幸せだったなぁ」
「えっ?!どうしたの急に?」
「いや、別にどうもしないよ。ただ思った事を素直に言っただけさ。えっ、じゃあ何、君は幸せだと思わないの?僕とこうして一日過ごせた事を」
「そんな事ないよ。勿論私も幸せだと思ってる。でもそれは今日に始まった事じゃないし。だからどうして今になって、急にそんな事言ったのかなぁって思って」
「あぁ、そうかそうか。いやね、今日知った事なんだけど、何か関西の方からやって来たカップルの話でね、その二人は僕達と同じ様に固い絆で結ばれている関係なのに、一日の内のほんの短い時間しか寄り添って触れ合いながら過ごす事が出来ないらしいんだよ。何でも彼らの雇い主ってのが、とにかく二人を酷使しまくるみたいでね。ほぼ一日中仕事仕事の連続で、離れている時間の方が圧倒的に長いんだって」
「えぇ~かわいそう」
「そう。だからさぁ、僕たちの雇い主はそんなんじゃなくて良かったなぁって思って。その二人に比べたら僕達は本当に幸せだなぁって、今日改めて思ったんだよ」
「そうかぁ。うん、確かにそうだよね。なんか当たり前みたいに思ってたけど、私達がこうしてのんびりした幸せな毎日を過ごせるのも、私達の雇い主が一日の内の本当に短い時間、しかも大体同じ時間に同じ仕事しかしなくていいようにしてくれているお陰だもんね。感謝しなくっちゃね」
「そうだよ。でもさ、今ふと思ったんだけど、僕達の雇い主も昔からずっと今みたいな感じって訳じゃなかったよね」
「そう言えばそうだよね。確か私達が出会ったばかりの頃は、殆ど一日中働きづめで、昼も夜も関係無く急に仕事させられたりしたよね」
「そうそう、そうだったね」
「その後も、最初の頃みたいに夜中に急に仕事ってのは無くなったけど、日中かなり長い時間働かされて。時々はそれが夜中まで続く事もあったりして。とにかく昔は今と違ってよく仕事させられてたよね」
「確かにね」
「でもいつからだったっけ?今みたいな感じになったのって」
「う~ん、十年位前からじゃなかったかなぁ。その前から少しずつ仕事量は減ってきてたけど、極端に少なくなったのは確かそれ位の頃からじゃなかったっけ」
「そうかぁ。そうだったよね」
「うん、確かその位の頃に変わったんだと思うよ」
「この先は今のまま、ずっと変わらないといいなぁ。ずっとずっとこうしてあなたといっぱい寄り添って触れ合える時間が過ごせたらいいなぁ」
「本当にね。君に沢山触れていたいからってのも勿論だけど、僕達も歳を取って、だいぶ身体が重たくなってきたから、今更昔みたいに仕事するなんて億劫だしね」
「うん、そうだよね。もしそんな事になったら、私思い切り荒れちゃうんだから」
「ははは、そうしよ、そうしちゃおう」
今日一日、誰かとまともな会話を交わしただろうか?
日常を過ごし抱いた雑感を、湧き上がってきた心情を、躊躇い、衒うことなく誰かに吐露出来ていたのは、いつの頃までだっただろうか?
僕の上下の唇がくっつき、真一文字に結ばれていた時間の圧倒的な分量に、一日が終わり眠りに落ちようとするその時、驚き、嘆くのが習慣になったのは、いつの頃からだっただろうか?
ずっとそんな疑問を抱きながら生きてきた日々。僕は本当に孤独だったんだと、十年ぶりに彼女が出来て過ごす毎日の中、改めてそう思う。
生まれたばかりの頃は、とにかく昼夜問わずよく泣いていたらしい。その後小中学生になると、授業中以外、いや授業中でさえも絶えず口を動かし、通知表の通信欄には「授業中の態度にもう少し落ち着きがほしい」などとコメントされることもしばしばで、教師目線で見れば多少の問題傾向は有ったのだろうけれど、とにかく明るく活発で、クラスの中心人物だった僕。高校時代を経て社会に出ると、さすがに落ち着き、それまでの目立つような溌剌さは影を潜めたものの、これまでと同じ様に、それなりの数の友人達と、何より愛し合う彼女に囲まれて、全ての季節の中、色々な場所で、数多な愉悦の有る日々を過ごしていた。
だけど、ちょうど三十歳になった時、それまで自分をあれほど愛してくれていた彼女に、相当な嫌悪感を抱かれた末にフラれて以来、僕は人と接する事に臆病になり、自作した硬く分厚い殻の中に閉じ籠って過ごすようになった。仕事上必要な最低限の会話と食事、そして歯磨きと心の許容量を超え溢れ返った憂いが溜め息となって身体から漏れ出す時以外、口を閉ざしている、そんな一日が当たり前になっていた。人は歳を重ねる毎に口が重くなっていく、そんな言説に従えば、この性質の変化は当然の帰結だと言えなくもないけれど、テレビの中で、還暦を過ぎても尚若手に負けじと機関銃の如く喋り捲る大物関西芸人を観れば、四十歳を迎えたばかりの僕の口元は、余りに鈍重で、沈滞し過ぎていると自覚せずにはいられなかった。
ーこのまま一生を終えるのかー。そんな諦めを携えながらの毎日が続いたある日、僕の堅牢な心の外壁を穿ち、脆く敏感な内面を優しく包み込む女性と偶然出会い、恋に落ちた。そして彼女の、その献身的な愛情が揺るぎの無い確かなものだと感じ取る事が出来た時、僕の心の中に、分厚い殻から這い出て真正面から人と向き合う勇気が十年ぶりに湧き上がり、それまでしっかりと根付いていた内向性は一掃された。そしてそれ以来、本来の自分を取り戻した僕は、昔のように彼女と、友人達と、身近にいる全ての人達と、よく喋り、笑い、時には声を上げて泣いたりしながら毎日を過ごすようになった。そして今日も僕は、そうして過ごせた一日を幸せだなぁと感じている。
そんな屈託のない日々。強いて悩みを挙げるなら、久しぶりに口をよく動かすようになったからなのか、上と下、二つの唇が最近とにかくよく荒れる。
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