第十章:望まざる遭遇

「は~い、着きました~」

 この日もオレは、無邪気なたまに手を引かれ、駆け足で下駄箱にやってきた。

「いい加減、朝から疲れるから、走るのやめようぜ? 別にオレたち、寝坊して遅刻の危機に瀕しているわけじゃないんだから」


「何事も一刻一秒でも素早く行動することが大切だって、お父さんが言ってたのよ。警察は犯人を見つけたら、とにかく一刻一秒でも早く逮捕しなきゃって仕事だし」

「オレ、別に警察官になろうとしてないよ」

「関係ないわよ。お父さんの言っていることは、人生にも大切なことなんだから」

 堂々と指を立てながら語るたまに戸惑いながらも、オレは下駄箱の扉を開く。中にはまたも、上履きの中に手紙が入っていたので、取り出してみると、こう書いてあった。


「一年C組 神城真平くんへ。放課後に裏庭に来てください。たまは来ないでください。大丈夫です。真平くんを悪いようにはしません。一年A組 佐野浦愛美より」


「裏庭? 屋上じゃないのか?」

「来ないでって言われて素直に行かなきゃ仇になりそう。呼び出す場所を変えるって、絶対何かあるのよ」

 たまがどこか心配そうな目をオレに向けた。


「そうか? 場所はただの気まぐれなだけじゃないの?」

「ホント鈍感。人が何か踏み込んだことをする時には、どこかヒントを残すものよ」

「ええ……?」

 オレは今いちたまの言うことを理解できずに、手紙を再び確かめた。


「こうするわ。裏庭に通じる扉のところで、私、こっそりと様子を伺っているから」

「愛海のことだよ。ほら、デートしたばかりだし」

「エーガカンであんなの見せられたでしょ」


 そう、あの女の霊は正直思い出したくないものだ。でも、そのエーガとやらがたまたま怖かっただけで、きっと愛海は本当はいい奴なんだよ。たまにオレの手首を掴んで突っ走っちゃうことはあるけど、それはたまだってやってることだし、まあ許容範囲とできる。


 教室に入り、定位置である窓際の席に座る。

「それで」

 急にたまが耳元に囁いてくるので、オレはドキッとさせられた。

「『サナエ』ってエーガ、どうだったの?」

 エーガの内容をちゃっかり聞いてくるたまに、どうリアクションすればいいのかオレには分からなかった。


「あれ、本当にムチャクチャ怖いから」

 オレは目をつむり、うつむきながら語った。

「ニッポンじゃあんな怖い見世物があるのか?」

「時々ね。ああいう怖いエーガのマニアだっているわよ?」


「怖いエーガのマニア?」

「マニアって言うのは、あるものがもの凄く好きな人って意味で」

「それは分かってるよ。でも、怖いエーガのマニアって、何かドMじゃね?」

「多分そうじゃない?」


 たまは素っ気なく答えると、自分の席へ戻った。彼女がイスに収まりきると同時に、オレが何気なく教室の外に目を向けた時だった。


 グラウンドのド真ん中に、またもあの怪しい輝きに満ち溢れた、誘い(いざない)の穴が出来上がっていた。一体この穴は何なんだ? グロウファード国にしばしば神出鬼没的に現れるのは子供の頃から充分に知ってはいたが、この未知の国にまで、それもオレの目の前にしつこく現れるとは一体どういうことだ。いっそあの穴の中から誰か飛び出してきて、説明して欲しいとさえ思った。


「はい、到着~」

 オレはいつもの如くたまに手首をロックされ、裏庭への出口まで強制的に走らされて来た。

「お前もたまも、マジで廊下走るな! 危ないから!」

 オレは肩で息をしつつ、精一杯に不満を表明した。


「愛海のお相手って言うのは確かにちょっと引っかかるけど、それでも目的地には一国一秒でも早く着くのが人間としての筋だから」

「オレたち今週、教室の掃除当番だったし、確かに愛海を待たせちゃってるかもしれないけど」


「そこも織り込んで急いだのよ」

「せめて早歩き程度にしてくれよ。マッハとかリアルにヤバいから。お前も愛海も今まで誰にもぶつからずに済んでいること自体が不思議だから」

「はいはい、分かりました」


 たまはそう答えながら、先に扉を開き、外を覗き込む。

「やっぱり愛海はこっちを見ているわ」

 たまが引き締まった表情でオレに告げ、扉を大開きにしてオレを迎え入れる態勢を取った。オレは意を決して裏庭へ踏み出すと、やはり離れた正面から、愛海は相変わらず、何を考えているか分からないような目でこちらを一点に見つめていた。その後ろでたまがゆっくりと扉を閉める。


「じゃあ行ってらっしゃい」

 たまが手を振ってオレを送り出す。オレは不安を感じながら、愛海のもとへ歩み寄った。


「手紙、見たよ。どうした?」

「デートに付き合ってくれて、ありがとうございます」

 愛海は紙に書かれたものを読んでいる状態に近い調子で感謝を述べた。

「こちらこそ、どうもありがとう。でも今度エーガを見る時は、『サナエ』よりももっと楽しい物語がいいな」

 そう言いながらオレははにかんで見せる。


「分かりました。それじゃあ次は『ハンマー・ウーマン』を見ましょう」

「それって楽しいの?」

「はい。ハンマーを持った女の人が色んな人を追いかけ回して滅多打ちにするのです」

「確実に怖い奴だね、多分、サナエよりも怖いね、その女の人」

 オレは微笑みは崩さぬまま、毅然と愛海を窘(たしな)めた。


「オレが言っているのはほら、何か、それこそ勇者が主役で、悪をこらしめる物語なんだよ。それこそ、たまがいつも本で読んでいるような、かっこいい勇者が活躍するもの。怖い人たちが活躍するものじゃなくて」

「分かりました。考えておきましょう。それで、本題なんですが……」

「何?」


 オレはどこか空気を重苦しく感じ始めた。もうすぐ愛海がオレを呼び出した目的が明らかになる。それをその場で受け止めるのは、ある意味ドラゴンと戦う時に負けないくらいの緊張感を伴う。愛海が一歩こちらへ寄り、両手を胸元に優しく添える。

「あなたのその整った顔立ち、こんな私を受け入れてくれる優しさ、正に外面と内面の絶妙なバランスに、心を惹かれました。きっとあなたが素敵な人間であるという証です。私、はっきりと言います」


 まさか、愛海がオレに対し、そのパターンを展開するのか? まさかオレ、未知の国で彼女申請を受けることになるのか。そう思うと、たまり込んだ唾を呑まずにはいられなかった。

「私は、私は、あなたに言いたい」

「な、何を?」

 オレは気が気じゃなかった。一体彼女は、オレをわざわざここまで呼び出して、何を告げるつもりなのだろうか。


「後ろに誰かがいます」

 突如愛海がオレの向こう側を指差した。

「それはたま……!」

オレから離れた後ろにいたのはたまだけじゃない。彼女のさらなる背後に、アイツが立っていた。オレをあの穴に突き落とした時の格好のままのアイツが立っていたのだ。


「ダミアン!」

 オレは衝動のままに奴の名を叫んだ。キョトンとした顔のたまが、ダミアンの方を向く。次の瞬間、奴はあの槍状の杖を振るい、たまの腹へぶち当てた。突然の一撃に、たまは声も出せぬままにうずくまる。ダミアンは、杖をこちらにも向けて威嚇すると、彼女が着ている上着のポケットをまさぐり、財布を抜き取った。

「この国の人たちは、ここに入っている紙幣やら硬貨やら何やらで物を買って生活しているんだな」


「ダミアン、お前何でここに来た! て言うかお前、自分のしていることが分かっているのか?」

「じゃあ言ってやろうか。あのクソ鏡がよ、オレをこの世界にぶち込みやがったんだよ!」

「クソ鏡? 希望の鏡だろ?」

「アイツはオレに、本当の意味での希望などくれなかった。お前を穴に送ったおかげで優勢になりきったオレは、めでたくスクエアテーブル剣士団を壊滅に追いやることができたのは事実だ」


「クッ、騎士団たちに申し訳ないな。オレの力不足でこうなったばかりに」

 オレは悔しさの余り、制服の胸元を掴んだ。

「感情的になるのはまだ早いぞ。オレの説明は続くんだ。お前のチーム潰したのはいいけどよ、いざ近くの洞窟の奥に潜む希望の鏡と対面したら、アイツ何言ったか分かるか?」

「何なんだよ。お前の口から説明してみろよ」

 オレは意地でダミアン言い返した。


「あの鏡は、『お前はただの野蛮人です。お前のような人物が権力を持つ姿を拝むことに、私は耐えられません』とか女々しいこと言いやがって。奴はオレが牢屋でむせび泣くなんて言うくだらねえビジョンを見せてきやがった!」

「ちょっと待て、希望の鏡は、最初に映った者に明るい未来を映す。それが役目じゃなかったのか?」

「アイツが言ったのは、オレが牢屋でむせび泣くのが、明るい未来だってことだ。そう言い放つと、オレの足下に、いきなりあの穴が広がってきた」


「穴、まさか、オレが落ちた穴か?」

「ああ、あの時と同じくらい妖しく輝いた穴に落とされ、この世界に堕ちたんだよ。この世界じゃいくら呪文を唱えても利きやしねえ。この世界じゃ帰る場所もねえ。それでも生き続けなきゃいけねえ。だからオレは、店から食べ物を盗んではダッシュしまくったよ」

「それって、万引きじゃないのよ」

 たまが腹を押さえて立ち上がりながらダミアンを糾弾する。


「ああ、万引きした。店の人に捕まってこっぴどく怒られた。物を買うにはお金を払わなきゃいけないらしい。でもオレは魔法を使った戦に明け暮れた人生だからお金の稼ぎ方なんてわからねえ。だから通りがかりの人を脅してお金を引き出しまくったってワケだ」


「それって、カツアゲですよ? 万引きもカツアゲも犯罪ですよ」

 愛海はこんな状況でも変わらぬ調子で正論を説いた。

「うるせえ! 全部あの鏡のせいなんだよ! あの鏡がオレをこんなクソみたいな世界に堕としたからいけねえんだよ! それでもオレは生きなきゃと思って、仕方なくお金パクッてるわけだよ!」


「警察に目をつけられてるんじゃないか? そうなりゃ希望の鏡の通り、お前は牢屋でむせび泣くことになるだろうよ」

 オレの方からも至極全うなことを言ってやった。

「黙れ、クソ剣士!」

 ダミアンはそう吠えた後、何かに気付いたようにオレの全身をチラチラ見回った。


「お前、剣はどうしたんだ」

 ダミアンが放った疑問文は、奴の言うことだからこそ、オレの核心を奥の奥まで抉るものだった。

「嘘はつけねえ。この世界じゃ、剣を持っていたら、警察に捕まって没収されちまうらしいんだ。例えオレの聖剣エクシーダーであってもな」


「ほお、じゃあここでもオレの優勢は決まったものだ。最もこの世界じゃどんな呪文を唱えても、最初から魔法は働かねえようだ。だが、八歳の頃からお前みたいな剣士とは何度も戦を交えてきた身だ。細長いものを捌く技術もある程度、盗ませてもらっている身だからね」

 ダミアンはそう言い放ちながら、たまの財布をマントの内側に潜むズボンのポケットにしまい込んだ。

「おい、剣の技は盗んでも、人のお金は盗むんじゃねえ! たまの財布を返せ!」


 オレはダミアンのもとへ向かって行ったが、槍状の杖の先で思いっきり腹を突かれてしまった。槍状の杖と言っても先が完全に尖っているわけではないため、腹袋を破って腸とかが傷つくなんて事態はなかったが、それでも痛みだけは背中へ突き出んばかりの鋭さで、オレは後ろにのめって倒れてしまった。


 しかしオレは、こんな悪には屈していられぬとばかりに立ち上がる。しかし次の瞬間、ダミアンはたまにも見舞った、杖によるドテッ腹へのフルスイングをまともに受けてしまい、今度は前のめりに崩れ落ちるハメになった。

「真平!」

「真平くん、大丈夫ですか」

 たまと愛海が口々にオレを心配する声が聞こえる。オレはうずくまったまま、愛海の方を見る。そのとき、ダミアンが不敵に愛海に近づいた。


「おい、お前もお金出せよ」

「何を言っているんですか。彼だって言っているでしょう。人からお金を奪うのは泥棒ですと」

 愛海は怯むことなくダミアンに逆らってみせた。

「ならば、お前からも実力行使で奪うのみだな」


 この言葉を聞いた途端、オレは愛海を守らねばという思いが、痛みに勝るのを感じた。その時にはオレは素早く立ち上がっていた。ダミアンが無慈悲にも愛海に杖を振り上げる。オレはその杖を背後から両手で握った。

「何だコラア!」


 ダミアンも鬼の形相で杖を握ったままオレの方を振り返る。お互いに杖の引っ張り合いとなった。オレは槍状の杖を通し、ダミアンの握力を感じていた。少しでも気を抜けば、この身を杖とともに持っていかれそうな気配が、杖を伝ってオレの心を焦らせる。オレは必死に、ダミアンの手から杖を引っこ抜いてやろうと必死だった。


 その時、ダミアンが突如、引いていた杖をこちらに向かって押し出してきた。突然の力の向きの変化にオレは姿勢を乱され、後ろにもんどりうって倒れてしまった。それでも意地で杖は、尖った先端の近くで握りしめたままだった。

「邪魔だ、引っ込んでろ、小僧!」


 ダミアンは吠えるとともに、槍を力任せにぶん回した。オレは槍につられる形で奴の手玉に取られ、遠心力で杖に振り切られるや否や、向こう側にそびえ立つ、城塞のような壁に向かいながらオレの体はきりもみ状に宙を舞い、空中で背中から激突し、草の混じる砂地に堕ちた。背骨全体が重々しい痛みに疼き、息が苦しくなる。呼吸を整えるのに必死なオレの前に、非情なるダミアンが歩み寄ってきた。奴の表情は、正に人を喰らうことにしか興味のない巨人のように憎く見えた。


 怪物のようなアイツは、大きく見える両手でオレの襟首を掴み、強制的に立たせる。目線が同じほどになったとき、オレの目の前に存在する男が、同い年ぐらいの少年であると改めて気づき、オレは歯を食いしばって全力で奴をにらみ返した。


「こんな所でもお前の姿を見ることになるなんて、一億年に一度ぐらいの奇跡だろうからな。この際、お前を徹底的にボコボコにしてやるよ。グロウファード国での抗争は、この見知らぬ国で終わる。お前はあの国の誰にも知られることなく朽ち果てる運命なんだよ、サイラス・アルトリウス」


「あの、サイラス・アルトリウスとは何ですか?」

 愛海が無感動な顔立ちのまま、素朴な調子で質問を呈した。

「彼は、神城真平くんです。そこにいるたまのいとこですよ?」

 彼女は至極当然のように自分の認識を述べた。そのことが、オレを余計にいたたまれなくした。ニッポンでの生活で隠していたオレの秘密が、白日の下に晒され、そのことが愛海を混乱させることになる。そう思うと、オレは彼女に、たまに申し訳ないと思った。


「お前、そんな設定で、こんな所で生活しようとしていたのかよ?」

 ダミアンが馬鹿にするようにオレを嗤う。オレはますます恥ずかしくなった。

「もしかして、真平くん、チューニビョーなんですか?」

「チューニビョーって何だ?」

 そう言ったのはダミアンだった。


「チューニビョーの意味が何なのか分からないけど、恐らく違えよ。コイツの名前はサイラス・アルトリウス。オレと同じく、グロウファード国からここに迷い込んだ。スクエアテーブル騎士団と名乗って剣を振り回すクソどもの集団で一番目立っているお山の大将だよ」


「それで、アンタがグロウファード国で、その杖を使って悪い魔法を振るってたわけね」

 たまがケンカ腰でダミアンに言葉を投げかけた。

「ああ、その通りだよ。この杖から放たれし究極の闇魔法、デオルク・マジックでグロウファード国を支配してやろうとした。それはスクエアテーブル剣士団を撃破することで叶えられると思ったのだが、あのクソ鏡がそれをぶち壊しやがった。しょうがねえからオレは代わりにこの国を支配してやろうかな」


「アンタなんか、本で見る悪者よりもとんだ卑怯者よ。私のお金、さっさと返しなさいよ」

「女の癖に生意気だなあ!」

 ダミアンはオレを放し、再びたまに詰め寄る。

「まさか、サイラスに惚れてんのか?」

「そんなんじゃないわよ!」


「彼に惚れているのは、私です」

 愛海がここでも冷静に事実を口にする。

「おっと、間違えて済まなかったな。でもどっちだっていい。オレは一国を支配する一歩手前まで行った闇魔法の貴公子。お前ら三人は所詮ただの凡人だ。そうだ、ブチのめされたくないなら、三人とも一列に並んでオレにひざまづき、頭を下げるんだなあ。『この国の未来の支配者であるあなたに、敬服の意を表します』って感じにな」


「いよいよチューニビョーよりも果てしなくタチの悪い男! さっさとお金返しなさいよ! それなかったら、私が生きていけないの! て言うかアンタ、人からお金巻き上げまくってどれだけの人を困らせてるの!? 私のお金だけでも返しなさいよ!」


 たまはそうまくし立てると、強気にもダミアンの頭に回し蹴りを放った。しかし、ダミアンはひょいと屈んでかわすと、再びたまのアバラに杖をフルスイングした。先ほどよりも強烈に、たまのボディーへと杖がめり込んだように見えた。たまは声を失い、魂が抜けたかのようにその場に倒れ込んだ。


「女子に対して何と非道なマネを行うのですか!」

 愛海の目が怒っていた。

「オレに反逆する奴は老若男女誰だろうが苦痛に嘆く運命だ。お前も大人しくしないと、どうなるか分かってるだろうな?」


 ダミアンが一歩ずつ愛海に迫ると、愛海は後ずさりする。その時、愛海の背後の近いところに、あの不気味な煌きを放つ穴が広がった。

「愛海、危ない!」

 オレは思わず警告の声を上げ、愛海が足を止める。彼女は後ろの地面を見ることで、穴の存在を認識した。


「これは、一体何ですか?」

 愛海が穴を見つめたまま、疑問を口にした。オレは痛む背中を庇いつつ、愛海とダミアンの方へ歩み寄った。


「その穴に落ちた者は、別世界へ転移してしまうんだ。愛海、お前もここに落ちれば、きっとグロウファード国へ行くことになるだろう」

「グロウファード国?」


「お前には説明してなかったな。オレはグロウファード国で、そこにいるダミアンと戦闘をしていた。お互いの仲間も激しくやり合っていた。オレたちは剣を、コイツらは闇の魔法をぶつけ合っていた。国を賭けた深刻な戦闘だった。そんな時にこの穴が現れ、オレは奴に落とされた。オレはその穴を通って、このニッポンにやって来たんだ」


「この穴を、通って……?」

 愛海はオレが語っている最中も、今も、ずっとその穴を見つめていた。その時、ダミアンが背後から愛海の首根っこを掴んだ。


「落ちてみるか?」

 ダミアンの口から、おふざけと呼ぶには到底邪悪な言葉が静かに放たれた。それを聞いた瞬間、オレの体が条件反射的に動き出した。

「やめろ!」

 オレは愛海ごとダミアンを抱え、押し倒す形に持ち込んだ。オレはダミアンの襟首を両手で掴んだ。


「愛海、逃げるんだ!」

 彼女は立ち上がり、うずくまりながらこちらを見つめるたまの方へと逃げた。オレはそれを確かめた時だった。


 突如ダミアンが下からオレの襟首を掴み返し、オレは無理矢理体位を入れ替えさせられた。オレの視界には、奴の憑りつかれたような形相が上から覆い被さっていたのだ。オレは問答無用でダミアンに引き起こされ、穴の間近まで引きずられて行く。


「さあ、ここからまた落としてやるよ。お前みたいな邪魔者がいなくなりゃ、オレは改めてみんなからお金を奪い放題。集めたお金で、この国を乗っ取るとしよう」

 ダミアンがオレの体を穴へと傾けんとした。オレは踏ん張りながら、ダミアンの服になおもしがみついた。


「どうした? 元の世界へオレが帰そうとしてやってるんだぞ?」

「確かにオレはグロウファード国に帰りたい。だが、今の状況では帰れねえ」

「何でだよ! さっさとその手を放せ!」


「放さねえ! 今この穴に落ちれば、ここにいる愛海とたまは置き去りだ。オレはこの世界に迷い込んで、正直右も左も分からなかった。その時、たまはいつもオレを助けてくれた。オレがこの世界になじむように、手伝ってくれた。愛海は、戦いに明け暮れてばかりの人生だったオレに、戦いだけが人生じゃないと教えてくれた。アイツとサンドイッチをかじり合っているときは、ちょっと恥ずかしかったけど、同時に心の奥底では、穏やかな気持ちになれたよ。静かな学校の屋上で、一緒に三人でご飯を食べるのって、どんなに平和で美しいことか、オレはそれを学んだ。アイツらは、オレが今まで知らなかった人生の素敵な一面を教えてくれたんだ。そんな二人を、お前みたいな悪者と一緒に置いてけねえだろ!」


「どうせお前はこれからグロウファード国に帰るんだ。こんな奴らなんか、所詮お前にとっても元の世界へ戻るためのつなぎの関係でしかないだろう」

「お前に勝手に人の関係について語られたくねえ!」


「うるせえ! 大人しく穴に入れ!」

 ダミアンがオレを穴へ送り込もうと、更なる力を傾けた。オレの左足が浮き上がり、バランスが崩れ始めた。だがオレは、浮いた左足をダミアンの右足に絡め、奴の思い通りにはさせない。


「護身術! 護身術を使って!」

 たまが声を上げた。

「そうか、お前が教えてくれたんだよな」

 オレはダミアンを突き飛ばし、距離を取った。


「オラアアアアア!」

 再び向かってきたダミアンが杖を振りかざすが、オレは腕を自分の顔をかざしてガードした。その瞬間、腕が砕けたかのような激痛が走った。それでもオレはダミアンにできた隙を逃すまいと、左手を奴の腹のど真ん中に打ち込んでやった。奴が前のめりに倒れ込むと、オレは奴が持っていた杖を取り上げた。


「この忌まわしい武器は、没収だ!」

 オレはそう宣言すると、ダミアンの魔法の杖を穴へと投げ込んだ。

「おい!」

 ダミアンが慌てて穴の中を覗くが、時すでに遅しだった。直後に穴の範囲が一気に狭まって行き、跡形もなく消え去った。ダミアンは怒りに震えながら立ち上がる。

「この野郎!」


 ダミアンがオレの首根っこを露骨に掴んできた。しかしオレは、すぐさまその腕をひねってやった。ダミアンが「あたたたたた……」とうろたえる様を拝むや否や、ドテッ腹に膝蹴りをぶちかましてやった。

「たまから学んだ護身術だ。そこにオレの怒りを込めてやったぜ。彼女の財布は返してもらう」


 オレはうずくまるダミアンのポケットから財布を取り出し、たまの方へ返した。

「ありがとう」

「どういたしまして」

「しっかりと護身術を学んで良かったでしょ」

「おかげで剣がなくても戦えたよ」

 たまがはにかみながら親指を立て、オレを称えてくれたので、オレも親指を立て返して感謝の意を示した。


「ここだな!」

 三人の警察官が、ハイエナのようにダミアンのように駆け寄った。

「午後四時三分、窃盗の罪で逮捕する!」

 警察官たちは、ダミアンを中庭の奥の方へと連れていった。そこはオレとたまがここに来るのに利用した扉とは反対方向だが、向こうへも通り抜けられるということだろう。

 警察官とダミアンが去った瞬間、中庭は元の、味気ないような静寂を取り戻した。


「二人とも、大丈夫だった?」

「何とかね。それにしても悪者の攻撃ってこんなに痛かったのね。アンタだけじゃなくて、この世の全ての勇者がいつもこんな痛い思いに耐えながら戦っているってことなのね。すごい尊敬しちゃう。もちろんアンタも含めて」


「私も大丈夫です。穴に落ちそうになった時は怖かったですが」

「悪かったな、いらぬ迷惑をかけてしまった」

「ううん、ライトノベルで読んでいたような、正義と悪の戦いが見れて、むしろ満足してる」

 たまは上機嫌だった。


「気になったことを言わせてください」

 愛海の方は、表情通りのシリアスな口調で切り出した。

「あなたの本当の名前は何なんですか? 神城真平ではなかったんですか?」

「オレの名前はサイラス・アルトリウス。突然のことで混乱させてしまって悪いが、それがオレの本当の名前だ」


「じゃあ、たまのいとこだと言うのは、何だったのですか?」

「ごめん、嘘なんだ。たまがサイラス・アルトリウスなんてここで名乗ったらチューニビョーと呼ばれて危ない的なことを言うから、この国に馴染みのある名前をもらった。それに、オレは女子の家に住まわせてもらっている。たまはオレを自分の彼氏と誤解されないように、いとこだと言うことにしておいた。それでオレは神城真平という仮の名前を授かって、ここで一週間余り暮らしていたわけだ」


「なるほど、よく分かりました。ご苦労はお察しします。つまりあなたは、グロウファード国からこの世界へ迷い込んできた、サイラス・アルトリウスという名の少年。決してチューニビョーではなく、ホンモノだったんですね」


「ああ、オレはホンモノの剣の勇者なんだよ。あの穴がなけりゃ、この世界じゃ本当のことを言っても理解されづらかったけどね」

 そのとき、愛海が何かを決め込んだかのように、深呼吸をする。

「先ほどあなたに伝えようとしていたことを、伝えていいですか」

「いいよ」


「私、佐野浦愛海は、あなたを心から好きです」

 愛海の言葉が、オレの心の奥底へじっくりと沁み込んでいく。

「あなたがまさか、異世界の剣の勇者だとは思いませんでした。ましてや、私自身が本当にそのような方と出会うことになるとも思いませんでした。しかし、それでも私は、男らしいあなたが好きです。私の『あ~ん』もしっかりと受け入れてくれますし、何よりも、私やたまを守ろうと必死になってくれました。そんな男らしいあなたが好きです。あなたの答えを待っています」


オレは思わずうつむき、彼女の言葉にどう答えようか考え込んだ。言葉を決めると、改めて愛海を正面から見据えた。

「ごめん」

 この一言に、愛海は驚きを表情に隠さなかった。正直その顔を見るのは、忍びなかった。


「確かに、君の、不器用ながらもオレを思う必死さは伝わってくるよ。一昨日のデートも楽しかったし」

「それならば、どうして私の申し出を断ったのですか?」

 愛海の顔は、表向き平易であることに変わりはなかったが、どこか悲壮感めいたものが覗き出して見えた。


「オレ、やっぱりグロウファード国の勇者として、あの国に帰ろうかなと思っている。その気持ちに嘘はつけない」

「ちょっと待って、アンタ、本気で帰る気?」

 たまもどこか寂し気な様子でオレを尋ねた。


「君たちと過ごした一週間余りは楽しかったよ。このまま、ここに留まるのも悪くないかな、と思っている自分もいた。でもやっぱり、オレは戦いに生きる剣の勇者だ。相棒の聖剣エクシーダーは失ってしまったが、それでもオレは剣があってこその男だ。戦いがあってこそ、サイラス・アルトリウスの一生だと思っている」


「どうか、行かないでください」

 愛海の訴えかける様が悲痛だった。オレは情に流されそうになったが、そうなってはいけまいと自分に言い聞かせるように首を振った。

「ごめんよ、愛海。オレにはこうすることしかできないんだ」

 その場に流れる空気まで悲しげに感じられた。そのとき、愛海が一歩踏み出した。


「友達としてなら、共にいてくれますか?」

「友達としてなら、いいよ」

「本当ですか?」

 愛海の顔が、どこか明るくなったように見えた。


「君がたまに見せる笑顔は本当に可愛いし、そんな君ともっと心が通じ合えたらいいなと思う。もっと君とお互いに楽しく一緒にいられるようにできたら、と思う。だが、やっぱりオレは、簡単にあの国を捨てられない。そんなオレを、許してくれないか?」

 愛海はしばし俯いたのちに、顔を上げた。


「はい」

「あの輝く穴は、いつ、どこに現れるか分からない。でもオレはあの穴をこの間から何度か見ている。あの穴を探して、見つけ次第そこに飛び込むよ」


「じゃあ、もうさよならは近いってことね」

 そう語るたまの表情からも、切なさが読み取れた。

「ダミアンも逮捕されて、しばらくこの国も安泰だ。アイツが別世界で逮捕された件も剣士団長に正直に言うつもり。君たちには、今のうちに伝えるべきことを伝えておこう。今まで楽しい日々をありがとう。そして、さようなら」


「こちらからも、今までありがとうございます。また、遊びに来て欲しいです」

「楽しみにしているよ、愛海」

「はい」

 愛海の顔が、ほんのかすかに綻んだように見えたので、オレもつられてありったけの笑みを返した。


「私たちのこと、忘れないでくれるわよね? 私、神城たまと、この女のこと」

「この女とは何ですか」

 雑な呼ばれ方に、愛海が相変わらずのクールさで抗議した。

「二人とも忘れないよ。神城たまと、佐野浦愛海だろ。さあ、帰ろうか」


 オレたち三人は、横一列のまま校舎へ近づいていく。

「私の帰る方向は、左側です」

 愛海の言葉を聞いた瞬間、オレは立ち止まった。たまと愛海も同じタイミングで止まった。


「オレたちとは、違うんだ」

「はい。さようなら。穴が見つからなければ、また明日学校に来るんですね」

「そうだろうな。その時は、また一緒に、お昼食べる?」

「念のため私も一緒にいさせて」


 たまがオレに囁いた。

「しょうがねえな」

 オレは思わず苦笑いした。

「じゃあ、また明日三人で会おう。条件付きだけど」

「分かりました。それでは、さようなら」

「さようなら」


 たまは黙々と校門を通り過ぎ、左側へ向かって歩いて行った。その時、たまがまたもオレの手首を掴んだ。

「おい、また走らされるのか?」

 オレは焦った気持ちでたまを問うた。

「今は急いでないわよ。それに、この体勢で走りながら、突然現れた穴に突っ込んだら、私も道連れになるし」

「そうだな」

 オレは大人しくたまに手を引かれて、帰り道を歩み始めた。


「結局、今日の帰り道に穴は見つからなかったね」

 たまの事実確認の言葉を聞きながら、オレは彼女の家の中庭に入った、そのときだった。


「ちょっと待ってくれ」

 漠然とした音が左側に聞こえたので、オレはたまを止めた。そこを見ると、やはり裏庭へ通じる道に、あのオーロラのようでありながら、どこか妖しさを帯びた形で輝く穴があった。


「ここでお別れ?」

「ああ、今までありがとう」

「どういたしまして、さようなら」

 オレは一目散に穴へ走り、飛び込んだ。

あの重力に弄ばれるような感覚が蘇る。色という色が神々しく入り乱れる空間の奥のさらに奥へと呑み込まれる感覚を味わいながら、俺の視界はぼやけ、やがて真っ暗になった。


 目が覚めれば夜だった。満点の星空が、まるで盛大な宴でも行っているかのように集結していた。身を起こすと、目の前には、鬱蒼とした木々が立ち並ぶ。自分の服を確かめてみたが、流山高校の制服であることに変わりはなかった。


 しかし、ゆっくりと立ち上がり、振り返ってみれば、そこには、「スクエアテーブル剣士団寮」と大々的に手書きされた看板が入口の上の部分の外壁に堂々と貼り付けられているのを見つけた。この寮は二階建てだが、時間帯のせいか窓の奥はみんな真っ暗だった。それでも、元の世界に戻れたことで、オレの心は晴れ晴れだった。

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勇者、ニッポンに飛ばされる STキャナル @stakarenga

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