非日常における脱力のススメ

第1話

「ちょっとは別れを惜しみなさいよ? ちっとも可愛げがなくて慰め甲斐がないわ」

バックミラーごしに運転席から目線を少しあげた母親が拗ねたように言った。高校二年の夏というたいへん中途半端な季節に自身の仕事の都合で転校させられる娘に対して随分な言い草である。見慣れた街を窓からぼんやり眺めながら、しかし娘のほうは気にした様子もなく「うん」と返事をした。ついさっき高校へ別れの挨拶に行き、一年半共に過ごした同級生たちに見送られ、本来なら友達との別れに名残惜しさや寂しさを感じてもよい時である。たしかに後部座席で外を眺める娘の手には友達から送られたのであろうメッセージカードやキーホルダーがいくつかある。が、本人には感傷に浸っている様子もないし、これから転校先で仲良くできるだろうかという不安も見られない。表情筋はほとんど仕事をしないし、感情の起伏もほぼない。それは幼い頃からのものであって、そんなものだと母親も理解しているし、本音を言えば気にもしていない。話したことにたいして十分の一でも反応があれば良いほうだ。そんなだから母親のほうも娘に対してそれ以上の興味を失ったらしく、演歌を口ずさみながら運転に戻った。娘ならきっとうまくやるのだろう。


これから行く街は、母親の故郷だ。何十年ぶりかの帰省に懐古的な楽しみがあるのだろう。テンションが上がって娘に絡んでみたがおもしろい反応が返ってこなかったので飽きた。娘は母親の心の動きをそう解釈した。高校で渡された友達からのメッセージカードの文字は小さくて丸くて読みづらい。内容だってとても薄い。《ゆゆへ 突然転校なんてびっくりして、毎日会ってたのに明日から会えないなんて寂しいよ。気が向いたらメールとか電話とかしてきてね! まーこ》という二文だけである。しかし残念ながらこちらはまーこのメールアドレスも電話番号も知らない。ゆゆの携帯には誰の連絡先も登録されていなかった。SNSの類もやらないので、携帯は未だに折りたたみ式のものだった。きっとこのまま疎遠になって、いつか再会してもお互い気づかない、気づいたとしても声をかけることすらためらわれる希薄な関係になっていくのだと彼女は理解していた。親密な関係を望んでいないし、まったくそれでよかった。そして、転校先でもそれは同じだと思っていた。退屈な日常、同じことの繰り返し。高校生なんて、深く関われば大抵人間関係のトラブルに巻き込まれる。それを避けるには無関心を貫くことだ。知り合いの多い友達のいない環境。それこそが軋轢から解放された過ごしやすい理想的なスクールライフ。ゆゆはそう信じている。

高層ビルばかりの見慣れた景色がだんだん遠のき、いくつかトンネルを抜けると、育ち盛りの若苗色が一面に広がる田舎の風景になってきた。

「わー久しぶりだわーまったく変わってない」

そんなことを言いながら母親は四つの窓をすべて全開にした。夏にしては涼しい風が流れ込んでくる。コンクリートと人混みしかない都会とは空気の構成要素が明らかに違っていた。

「呼吸が楽……」

独り言のつもりだったが、母親は目ざとく反応した。

「そうでしょーわたしもここの空気好きだわー生きてるって感じがする」

そうかもね、というゆゆの返事が聞こえたのか聞こえていないのか、ともかく母親は上機嫌だった。

しばらく田園風景を走っていると、畦道を歩くセーラー服の人影を見つけた。この町に高校は一つしかないから、きっと彼女らと同じ高校に通うのだろう。ゆゆはそう推測した。期待も不安もなかった。

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