ただいま。

満月 愛ミ

 しゅんしゅんってなった話。


「しゅんしゅんってなって、身体に入ったんだよ」

「おお、しゅんしゅんってなったのね」


 もう60歳になった父が、その話をした時の表情と言ったら。とても笑って話していたのをよく覚えている。

 しゅんしゅんってなってってという言葉を笑って話すという、この部分だけだと全く状況が分からないと思うのだが、起きた物事については、真実そのもの忠実な表現なのである。


 父は、物心ついた頃から見えないものが解る、時には視える人になっていたと言う。今は見えないらしいが、感じることはできると話す。


 これから話す事柄についての“父”という表記を、吉彦というニックネームに変えて話していこうと思う。


 それは、まだ父が若かりし学生だった頃の話だ。



 40年程前――。

 蝉の声が煩く耳に迫る夏のある日、吉彦は昼間から畳に腹ばいになって、週刊少年誌をのんびりと読んでいた。


「ん……?」


 気配がして、吉彦は部屋の外へと意識を少しだけ向ける。

 規則正しい足音がすることから、母かなと思いまた雑誌へ視線を向けた。


 規則正しい足音は、吉彦のいる部屋を通り過ぎていった。

 なんだ、母さんトイレか。

 吉彦の部屋のすぐ近くにトイレは確かにあった。


 ――が、通り過ぎた足音が、戻ってきた。


「……あれ?」


 おかしいな。そういえば、母さん今家にいるんだっけ?

 買い出し行くって言って帰ってきてから、ウロウロしてる?


 何かに夢中になってると記憶が曖昧になるもので、父はとりあえず、持っていた雑誌のページをめくる手を止めた。


 もし帰ってきてたら声かけてくるしな……。


 しばらく思考と視線を彷徨わせ、一気に気配へと意識を集中させる。

 その気配は廊下に小さな足音をたてながら、吉彦の元へと明らかに近づいてくるのが分かった。


 今まで幾度となく何かの気配がうろうろする感覚は人生において感じてはきていたものの、今回のように、人間と勘違いするくらいのはっきりとした気配がするのは吉彦にとっては珍しかった。


 吉彦は体質が体質のため母が直筆で書いてくれた般若心経をお守りにして常に持ち歩くようにしている。今回のような珍しい出来事にはさすがに驚き、思わずそれをポケットから取り出し、手で握りしめた。


 近づき方が、明らかに人間と変わらない。

 次第に感じる、今までになかったその気配に対する“危険信号”。

 その音は、扉の前ではたと止まった。


「……?」


 扉の前で止まったかと思えば、一息もつき終わらないうちに、扉が年期の入った木製の軋む音だけを立てて開いた。


 吉彦はあえて雑誌に視線を落としたまま静止した。

 やばい――。

 それだけで身体が固まるのが分かった。“アレ”は、どこだ?


 吉彦の額から冷や汗が流れた時だ。


 ドンッ――!!!


 側まで来ていた気配が何者かも分からない状態であるにも関わらず、思い切り吉彦の身体全部にめがけて激しい衝撃を与えたのだ。


 パァン――!!!


 そして、視界が真っ白になった吉彦は、その後すぐに不思議な光景を目にする。

 

 おれの身体――!!?


 そこには、雑誌を開いたままぐったりしていた吉彦の姿が目に入ったのだ。それはたった一瞬の映像。


 おれの身体、乗っ取られた!!?


 その次には壁を突き抜け、混乱したように居間、トイレ、風呂、隣の和室、と、フラッシュカットのようにパパパパパと吉彦の意識が高速で巡った。


 やばい、身体、身体に戻らないと――!!


 吉彦は高速で彷徨う意識に振り回されながら、必死で願った。


 身体、身体に戻るんだ――!!!


 必死に吉彦が自分の身体を意識する。そして。


 あった――!


 再び見つけた身体へ、思い切ってぶつかりに行った。



 ドンッ――!!!


「………………っはぁ!」


 海で溺れた後のような感覚で、息をした。体中、ぐっしょり汗をかいて、シャツが身体に張り付いているのが分かった。額から次々と汗が畳にポタリポタリと落ちていく。


「……戻れ、た」


 息を整えつつ、吉彦は塩をまくために居間へと足を運ぶのだった。



 ・・・


 以上が父の体験である。

 生と死の間だったり、寝起き等に起きる幽体離脱とは違う、起きたままの外部からの衝撃による幽体離脱だったのだろうか。

 だが、もしあの時父がのっとられていたら。そしてもしそれが父だけでなく、他の誰かにもこういった出来事が訪れていたとして。


 追い出されてしまった本物の魂はどうなってしまうのだろうかと思うとぞっとするものがある。

 父によれば、私の祖母が書いた般若心経を持っていたおかげだったのかもしれないと語っている。

 何にせよ、父がきちんと元の身体に帰ってきたので本当によかったと安堵した。


 幸いなのか、そうでないのか、私にはそういった経験は持ち合わせていない。

 ただ、父のような体験をもし、私が同じ歳にしていたらどうなっていたことだろうかとは、想像したくないものだ。

 父へ助けを求めすぎて、父の身体へぶつかってそれこそ私が乗っ取ったりしないか。

 心は私、身体が父だって……!?

 それはそれでぞっとする気がする。とりあえず、自分の心と身体がきちんとつながっていることに感謝である。

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