ほら、ここにいるよ

望月くらげ

流れ落ちた命と残されたもの


 決して忘れられない別れが、私にはある。


 ――あの頃の私は一人目の出産・育休を終え、復帰した仕事をこなすことに必死だった。保育園に入ったばかりで体調を崩しやすい長男のケア、仕事が忙しくて夜中まで帰って来ない夫、育休前と同じパフォーマンスを求めてくる職場……。

 自分の身体の不調など二の次で、酷い生活をしている自覚はあった。


 そんな時に限って、気付いてしまう。


「あれ、そういえば私――」


 カレンダーを確認すると、やはりおかしい。


「2か月ぐらい……生理がない」


 産後すぐの頃は、身体のホルモンバランスが整っていない為生理が来ない月もあった。けれど、それも一年を過ぎたころにはほぼ元通りとなっていたはずなのに……、


「まさか、ね……」


 思い当たる節がないわけではなかった。けれど、一人目の時に子供が出来にくい体質だと医者から言われていた。だからという訳ではないけれど、そんなに簡単に出来るなんて思っていなかった。





「――ねえ、司君。相談があるんだけど」

「んー?」


 仕事が終わって帰ってきた夫に声をかける。晩御飯を食べながらテレビを見ている彼はどこか上の空だ。少しだけイラッとした気持ちを抑えながら、気を取り直して話しかけた。、


「……あのさ、生理が来ないんだ」

「へー?」

「ねえ、ちょっとちゃんと聞いてよ!」

「なんだよ」


 思わず声を荒げると、慌てて彼はこちらを向いた。


「だから、生理が来ないんだって!」

「え、は? どういうこと?」

「それを相談してるんじゃない……」


 決して家族に対して無関心という訳ではない。けれど、どうしてだろう。彼の発する言葉はどこか他人事なのだ……。


「えーっと……とりあえず、検査してみたら?」

「……そうなんだけどね」

「それから話しよ? 今はまだ分からないんだからさ」

「うん……」

「そっかー。次は女の子だといいなー」


 そう言うと再び晩御飯を食べ始める彼。そんな彼を見つめながら、言いようのない不安に襲われていた。





「――あ」


 次の日、仕事帰りに検査薬を買って帰ると……私は長男が寝静まった後、一人でトイレの中にいた。


「出来てる……」


 検査薬はうっすらとだが、陽性を示すラインが表示されていた。


「赤ちゃん……」


 検査する前は、こんなに早く……という気持ちと、出来てたら嬉しいと思う気持ち、そして……もし出来ていたら――仕事どうしよう、と複雑な感情がグルグルとまわっていた。

 けれど、陽性反応を見た瞬間……不安な気持ちなんて全て吹き飛んでいた。ああ、赤ちゃん。私たちの赤ちゃん。嬉しい。嬉しい。嬉しい。


 そっとお腹に手を当ててみる。もちろんまだ何の反応も膨らみもない。でも……そこには、確かに命がいる。


「幸せに、するからね」


 小さく呟いてみる。ほんの少し、お腹が温かくなったような気がした。





「ただいまー」

「おかえり!」


 日付が変わるころ、夫が帰ってきた。いつもなら遅い!なんて言ってしまうのだけれども、今日は違う。


「あの、さ……!」

「ん?」


 準備しておいたご飯を食べ始める夫に、少しドキドキしながら話しかけた。


「昨日の、さ……話なんだけど」

「あ、うん。どうだった?」

「検査薬したの。――陽性だった」

「…………」


 一瞬の沈黙。きっと、大丈夫。そう思いながらも、どうしてもドキドキしてしまう……。

 けれど、そんな私の不安なんて気付かない夫はパッと表情を明るくした。


「そっか!」

「う、うん。そうなんだ」

「そっかー、二人目かー!楽しみだなー!」


 無条件で喜ぶ夫にどこか気が抜ける。


「また会社に迷惑かけちゃうけどね……」

「それは、それで考えなきゃだけど――でも、やっぱり嬉しいね」


 夫は私のお腹に手を当てると、パパだよーなんて言って笑う。その表情を見て、ああこれでよかったんだと改めて思える。


「でも、これから大変だよー? ちゃんと協力してくれる?」

「う……もうすぐ繁忙期も終わるし、頑張るよ」

「お願いね、パパ」

「はーい」


 私たちは顔を見合わせて笑った。とても、とても幸せだった。



 ――でも、その幸せは長くは続かなかった。





 数日後、私は近所の婦人科に来ていた。以前は産婦人科だったけれど、今では出産は取り扱っていない、なのに何故ここなのか、というと――単純に仕事帰りでも寄れるのと、空いてるからだ。


「田所さーん」

「はい!」


 保育園帰りの長男に、行くよと声をかけて診察室へと向かう。先に行った尿検査の結果妊娠反応が確認できたのだろう、そのまま診察台に上がるように言われた。


(――緊張する)


 椅子の上がるこの瞬間は、何度経験しても緊張する。

 機械の当たる音が聞こえた後、モニターに黒い闇が映される。

 うーん?なんていう医者の声が聞こえた後、椅子はまた元の位置に戻された。


(え……?)


 以前、長男を妊娠した時であればモニターに映る胎嚢や胎芽を見せてくれたのに……。不安に思いながら診察室に戻ると、エコー写真が置かれていた。


「これね、ここにうっすら見えるのが胎嚢かな、と思うんだけど……随分小さいんだよね」

「え……でも、計算ではもう10周ぐらいのはずなんですが……」

「うーん、排卵がずれたかな?見たところまだ4週ってところだね」

「4週……」


 そんなはずはない。それでは計算が合わない……。けれど、医者は淡々と説明を続けていく。


「まあ、よくあることだから。2週間後また来てくれる?その時には赤ちゃんの姿も見えてくると思うし」

「分かりました……」


 腑に落ちない、そう思いながらも頷くしかなかった。

 結局その日は、妊娠反応はあるということしか分からずモヤモヤしながら家に帰った。


 長男を寝かしつけて、いつものように夫の帰りを待つ。いつもならテレビでも見ているのだけれど、どうしてだろう。今日はやけに下半身が気持ち悪い。お腹も痛い気がする……。


「冷えたのかな……。もう一度湯船に浸かろうかな」


 夫が帰ってくるまでもう少し時間があるはずだ。寝室で眠る長男の様子を見てみると、ぐっすり眠っていて起きる気配はない。


「そうしよう」


 少し熱めのお湯で身体を洗うと、どこか気持ちがすっきりするのを感じた。

 しばらくボーっと湯船に浸かっていると、玄関の鍵が開く音が聞こえる。


「ただいまー」

「あ、おかえり!」


 夫の声が聞こえて、慌てて湯船から立ち上がる。

 ――その瞬間だった。


 ぬるっとした感触とともに、下半身を温かいものが流れ落ちるのを感じた。


「……え?」


 足元を見ると――浴槽の中のお湯が真っ赤に染まっていた。


「やっ……!!」

「夏菜子!? ……っ!!」


 私の叫び声を聞きつけた夫が、浴室のドアを開ける。けれど、彼もまた浴槽の中の惨状に、声を失ってしまった。


「な、に……これ……」

「あっ……あああああ!!!!!」


 その間も流れ続ける血液。そして……。


 ズルッという感覚とともに……塊が身体から流れ出るのが分かった。


「あかちゃ、赤ちゃん!!」

「え?」

「赤ちゃんが!! 赤ちゃんが!!!!」


 パニックになりながらも、お湯の中に落ちたそれを必死で拾い上げる。

 何かはわからないその塊、けれども私はその塊を抱きしめたまま動くことが出来なかった。





「田所さんー」


 2週間の日を置かず、私は再び病院を訪れていた。当たり前のように尿検査をして――そして、診察室に呼ばれる。


「――何かあった?」

「あ……」

「や、いいや。とりあえず台に上がろうか」


 そう言うと、医師は診察台のある小部屋へと移動した。なんて言ったらいいのか分からず――はい、と返事をすると私もそちらについて行った。


「――ない、ね」

「……はい」

「出血でもした?」

「……塊が、出ました」

「そっか」


 一通りチェックをした後で、医者は口を開いた。


「初期流産だと思います。ただ、体の中にまだ組織が残っている」

「え……?赤ちゃんは、全部出たんじゃないんですか?だって塊が……」

「うん、まあそうなんだけどね。ただ田所さんの身体の中に残っているものを出来るだけ早く手術で出した方がいいと思う」

「手術……」


 流産の後、みんながみんな手術をするわけではない――そう知ったのは、全てが終わった後からだった。この時の私は医者の言葉に分かりました、と頷くことしか出来なかった。


「明日か――遅くとも明々後日。どちらがいい?」

「あ……じゃあ、明日で……」


 よく分からない、けれど――少しでも早く終わらせてしまいたかった。この喪失感しか残らない体を……少しでも早く元の状態に戻してしまいたかった。


「そしたら詳しいことは看護師から聞いて。それじゃ、また明日」

「はい……よろしくお願いします……」


 診察室を出てから、夫に、そして明日急遽休むことを会社になんて言おう――そんなことばかり考えていた。

 涙は出なかった。

 頭には靄がかかったようで……はっきりしない。ただ、一つだけ。私のお腹にはもう赤ちゃんはいない。その事だけは分かった。





 翌日、午後からお休みをもらって休診時間の病院の扉を開いた。

 通されたのは、かつて使っていたらしい入院病棟だった。

 誰もいないナースステーション、泣き声一つしない新生児室。そして――手術室。

 病室で服を着替えると、歩いて手術室へと向かうように言われた。


「眠っている間にすぐ終わるからね」


 固い手術台の上に寝かされると、点滴を打たれ酸素マスクのようなものを被せられる。そこから出てくる気体を吸い込むと、次第に意識が遠くなっていくのを感じた。


 ああ、これで――全て終わるんだ。


 目を閉じる。カチャカチャと響く機械の音が、薄れゆく意識の中で聞こえた気がした。





 激痛で目が覚める。


「大丈夫、もう少し休んでいて」


 麻酔が切れたのか、私は一人手術室で寝かされていた。


「痛いです!!!」

「さあ、眠って。あと少ししたら病室に移動しましょうね」


 痛みと寒さに震えながら私は、何とか眠ろうと目を瞑る。遠くの方で、看護師が笑っている声が聞こえる。

 眠れない。けれど、この痛みを紛らわすためには眠るしかない。必死に目を瞑り続ける私に「じゃあ、移動しましょうか」と看護師が再び声をかけた。


 1時間ほど病室で休むと、私は歩いて家に帰った。長男のお迎えは実家の母に頼んである。

 布団に横になると、安心したのか――私は知らない間に眠っていた。


 気が付くと私は真っ暗なところにいた。

 どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえる。


「アーンアーン」


 誰……?誰が泣いているの……?


「マ、マ……マ、マ……」


 あなたは、誰……?


「誰……?」


「あら、起きたの?」

「母さん……」


 私の声が聞こえたのか、母が寝室の扉を開けた。


「よく眠ってたから」

「あれ……今誰か泣いてた……?」

「泣いてないわよ?」

「そう、なの?」


 じゃあ、あれは夢だったんだろうか。あの泣き声が、やけに耳に残っている。


「あっつ……」


 気が付けば、汗だくだった。手術室は、あんなに寒かったのに……。


「汗びっしょりじゃない。シャワーは大丈夫なんでしょ?浴びてきたら?」

「そうする……」


 病院からしばらくはシャワーだけにするように、と言われていた。……そうじゃなくても、あの日真っ赤に染まった浴槽には、入る気になれなかった。


 あの日と同じように少し熱いシャワーを浴びる。


「気持ちいい……」


 つい、いつもの癖で汗を流すだけではなく髪の毛も濡らしてしまう。ま、いっかと思いながらシャンプーに手を伸ばした。


「っ……!?」


 誰か、いる。


 慌てて振り向くが、そこには誰の姿もない。


「気の、せい……?」


 気を取り直して頭を洗い流す。けれど、俯いた私の視線の先には――確かに人の足が見えた。小さな、小さな子供の足が。


「~~~~~っ!!!!!」


 ギュッと目を瞑ると、慌てて頭を洗い流す。シャワーを止めて恐る恐る後ろを見ると……やっぱりそこには、誰もいなかった。


「どういうこと……?」


 訳が分からない。さっきまで確かにそこにいたのに……。


「――麻酔の影響? 今日はやっぱり変なのかな……」


 全身麻酔の影響で、幻覚を見ているのかもしれない……。今日は早めに休んだ方がいいな。そう思いながら私は浴室をあとにした。

 浴室の鏡に映る子供の足に気付かないまま。





 あれが気のせいでも麻酔の影響でもないと理解したのは――翌日もまたその次の日もシャワーをするたびにあの足が見えたからだった。

 近寄ってくることもなければ、触れられることもない。けれど――言いようのない気持ち悪さと恐怖が私を襲う。


「もう、やだ……」


 一人でシャワーをするのが怖くて、この数日は夫が帰ってくるのを待って一緒に入っていた。

 半信半疑――と、いうよりは夫はどうも私が流産のせいで病んでしまったとでも思っているようだった。それでも、大丈夫だよ――と一緒に入ってくれる彼の存在は有り難い。


「まだかな……」


 時計を見ると、夫が帰ってくるまでにあと1時間以上はあった。


「っ……あ――」


 気分転換に窓を開けようか、そう思って立ち上がった瞬間――誰かの視線を感じた。

 振り返ってみるけれど、そこには誰もいない。


 ――気のせいか、そう思ってふと廊下の向こうに視線を向けた瞬間……あった。

 真っ白なその足がこちらを伺うかのように、廊下の向こうに立っているのが見えた。


「っ……!!!」


 視線が、外せない。身体は何故か、金縛りにあったかのように動かない。

 ヒタ……ヒタ、と――まるで足音が聞こえるかのように、それは一歩ずつこちらに向かって踏み出してくる。


「あ……あ………!!」


 声にならない声を絞り出そうとするけれど、ヒューヒューと喉から空気が漏れるような音が聞こえるだけ。

 その間にも、それはどんどんどんどん私の方へと向かってくる。

 いつもは背後に見えていたそれが、私の目の前へと歩いてくる。


「や……こな、いで……」


 声にならない声を、必死に投げかける。するとそれは――その声に反応するかのように、立ち止まった。


「…………」


 沈黙。そして――。


「マ、マ……」


 そう、聞こえた気がした。


「え……?」


 その瞬間、バチンという音とともに一瞬、電気が消えた。

 そして――明かりがつくとともに、それは私の前からいなくなった。


「消えた……?どうして……?」


 出なかったはずの声は、スムーズに出るようになっていた。そして。


「ただいまー」


 少し呑気な夫の声が、玄関から聞こえてきた。


 慌てて時計を見ると、窓を開けようとしてからすでに1時間以上が経過していた。ほんの数分しか経っていないと思っていたのに……。


「お、おかえり」

「今日は先にシャワー浴びたいんだけどいいかな?」

「う、うん。じゃあ準備してくるね」


 二人分のシャワーの準備をすると、私は夫が待つ脱衣所へと向かう。

 鼻歌を歌いながら服を脱ぐ夫の隣で、私も静かに洋服を脱いだ。


「そういえばさ――うわっ、!?」

「え……?」


 振り向いた夫は、私の足もとを見ると驚いたような声を上げた。

 視線を下に落としてみる。そこには。小さな小さな子供の手のひらで私の足首を掴んだような、そんな手形が。




 あとあと調べて初めて知ったのだけれども、人が死後三途の川のほとりに到着されるとされるのが7日目――なので、この日に「初七日」と呼ばれる初めての法要を行うそうだ。

 奇しくもあの日は、あの子が流れてしまったあの日から7日目……。もしかしたら、あの子が――流れてしまったあの子が、最後に会いに来ていたのかもしれない……。


 その日から、あの足を見ることはなくなった。けれども、私の足についたあの手形は――何度も洗い流したけれど、一ヶ月が過ぎても消えることはなかった。

 気持ち悪さは残るものの、なんとなく気にならなくなっていたある日――ようやくそれが消えたことに気付いた。


「でも、どうして……」


 カレンダーを見てボーっと考える。そして気付いた。今日は……。


「四十九日……。そっか。成仏、出来たんだ……」


 初七日について調べたときに、偶然書かれていたのが目に入った。七日かけて三途の川にたどり着いた死者は――四十九日をもって成仏すると。だから、きっとあの子も……。


 空っぽになったお腹にはもう誰もいない。けれど、あの子は確かにここにいた。ほら、ここにいるよと教えてくれていた。


「産んであげられなくて、ゴメンね……」


 小さく呟いた言葉に反応するかのように、風もないのにカーテンがそっと揺れたのが見えた。

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